葉隠 (奈良本辰也訳編 三笠書房)
有名な書であり、原書に挑戦したこともありましたが、正確に読み取れていませんでした。「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉で、極端な思想のようなイメージがありますが、実際に読んでみると決してそうではなく、かなり実用的なことも書かれていると感じました。もちろん、その中心には、武士のあり方に対する強い哲学があることも事実です。
『・・・おれ一人でもお家の安泰をはかってみせるとまで心掛けがなければ、すべての修行は中途半端なものになってしまう。また、熱しやすくて冷めやすい三日坊主のように、すぐ心がけを忘れる者がある。それには、冷めぬ方法がある。われら一統の誓願として、1 武士道において絶対におくれをとらないこと 2 主君のお役に立つこと 3 親に孝行すること 4 大慈悲心を起こし、人のためになること の四つの誓願がある。
・・・武士道とは、死ぬことである。生か死かいずれか一つを選ぶとき、まず死をとることである。それ以上の意味はない。覚悟してただ突き進むのみである。・・当てが外れて死ねば犬死である。しかしこれは恥にならない。これが武士道においてもっとも大切なことだ。
・・・死に向かっては役に立つものは一つもない。現実は夢の中で遊んでいるようなものだ。このように思って、決して油断をしてはならない。すぐそこにやってきている問題であるから、一生懸命、早めに準備をしておくことだ。
・・・今日も討死か今日は討死かと、いつ死んでもよい覚悟を決め、もしぶさまな身なりで討死するようなことがあれば、平素からの覚悟のほどが疑われ、敵からも軽蔑され、卑しめられるので、老人も若者も身だしなみをよくしたものだ。いかにも面倒で、時間もかかるようであるが、武士の仕事というものはこのようなことなのだ。
・・・「武士道とは死物狂いそのものである。死物狂いになっている武士は、ただの一人でも、数十人が寄ってたかってもこれを殺すことが難しい」と直茂公が言っておられる。
・・・まさに現在の一瞬に徹する以外にはない。一瞬、一瞬と積み重ねて一生となるのだ。ここに考えが及べば、他にあれこれとうろたえることもなければ、探し回ることもない。この一瞬を大切にして暮らすまでのことだ。・・いまというときが、いざというときである。いざというときは、いまである。そのいまと、いざというときを二つに分けて考えているから、いざというときに間に合わない。
・・・公の場所と寝所、戦場と畳の上、それをまったく別々に考えていて、いざというときになって急に立ち上がるものだから役に立たぬのだ。いつ、どのようなことが起るかもしれない。畳の上にいても武勇の働きが出来る者でなくては、戦場へも送り出すことはできぬ。
・・・不覚の士というのは、その場にいたって、たとえ対処できても、単に運がよかったというだけのものだ。前もって物事を調べておかないのが不覚の士である。
・・・いまのいまを、一心不乱に念じて生きることである。
・・・できないのではない。ふがいないから、それを思い立たないのだ。まったく力を使わないで天地をもゆり動かすというのは、ただ心がけ一つの問題だ。
・・・隆信公は「よい思案も、長くかかっては腐ってしまう」と言われた。直茂公は「何事につけても、手間がかかって遅いのは、十のうち七つはよくないことだ。武士は何事も手っ取り早くするものだ」と言われたそうだ。
・・・古老たちの話では、武士が意地を立てるときには、行き過ぎだと思われるくらいにした方がよい。いい加減なところで妥協しておくと、あとあとの評判が芳しくなくなるものだ。
・・・道というのは、自分の悪いところを知ることである。いつも思いをめぐらして悪いところを反省し、一生かかって努力するのが道というものである。聖の字をヒジリと訓むのは、聖人は非を知っているからである。
・・・しかしながら、武士の生き方はそれとは違う。大いに高慢な心を持ち、自分は日本国中で並ぶものがないほどの勇士だと考えていなければ、武勇を表すことはできないのだ。武勇を表すのにも気力の段階というものがあるのである。武士は、その場での一言が大切である。ただの一言で武勇が人に知られるものだ。平和な時代に勇気を表すのは、言葉一つだ。・・武士は、かりそめにも弱気のことを言うまい、またなすまいと平素から心がけているべきである。
・・・たのもしいというのは、万事調子よくいっているときは来ないで、人が落ち目になって難儀をしているようなときに、こっそりやってきて頼りになるのがたのもしいというのだ。
・・・戦場では、人に先を譲るものかと思い、敵陣を打ち破るのは自分だとのみ心がけておれば、人におくれをとることなく、心も勇猛になり、武勇の働きができると古老たちが申し伝えている。また、討ち死にした場合も、その死骸が敵の方を向いて倒れているように平素から覚悟をもっていなければならぬ。
・・・上杉謙信は「つねに勝つなどとは思っていなかった。ただ機会を逃さないことだけを身につけたのだ」と申されたそうだ。
・・・人の話を聞き、物の本を読みのも、そのときの覚悟を決めるためである。とくに武士道はいつどのようなことが起るか分からぬと覚悟を決めて、朝に晩に箇条を立てて考えを練っておくべきだ。時の運で勝負は決まるものである。恥をかかないような振舞い方はまた別である。死ぬ決心があればそれでよいのだ。・・武士道は軽率なくらい遮二無二に突き進む心意気が大切である。
・・・技芸に優れていると言われる人は、馬鹿と言ってもよいくらいの者だ。これはただ、この道一つにしがみついているという愚かさがあるので、他を省みないから上手になるのだ。何の役にも立たぬ人間だ。・・すべて芸事というものは、平素の役に立つ程度にならったらよいことだ。概して、何でもできる人間は、下劣に見え、大切なところがいい加減になるものである。芸は身を助けるという諺があるが、それは他藩の侍のことだ。鍋島家の侍にあっては、芸は身を亡ぼす。
・・すべての芸能の修行は、武道の奉公のためにしようと心に決めてするならば役に立ってよいものだ。しかしたいていの場合、武芸そのものが好きになってしまう。学問などというものはとりわけその危険がある。学問をするのはよいことだが、またそのためにかえって失敗することもある。・・だいたいにおいて見識が高くなり、理屈を好むようになるからだ。・・お国の政治を上手に運んでゆくという忠義より大切なことがあろうか。たとえ、お側に召し出されなくとも、その覚悟が、お役に立つのである。大事があったようなときは、誰かがこっそりと相談にやってくるものだ。それに教えてやるというのもいっそうの忠義である。・・瞬時の心にも気を緩めず、一段高い道理を見出せばよいのだ。少し頑張れば十分にできるものである。
・・・何のお役にも立たないような融通のきかない男でも、ただひたすらに主君を大切に思い続ける志さえあれば、最も頼りになる家来というべきである。知恵や技芸だけでお役に立つというのは下の方である。
・・・奉公をしようとしていろいろと工夫や修行などを心に入れているとき、多くの場合、他人を見下すようになって、それが鼻につくようになり根本を忘れてしまうことがある。だから、ただ、何の考えもはさまず、普通にしていて主君のことを心配し、方向に精を出せばよいのだ。根本に立ち返って勤めるまでのことである。・・我が身を主君に差し上げ、生きながら幽霊になり、一日じゅう主君のことを大切に思い、務めを果たして怠ることなく、お国の基を固めるというところに眼を付けなければ、本当の御家来衆とは言われない。その心得に上下の区別があるはずはない。
・・・あれこれと考え込むことをやめて、ただお役に立ちたいとばかり思っていたら良いのだ。
・・・その役を命ぜられて不本意にも失敗するのは、戦場における討死同様と考えるべきだ。
・・・奉公の最高は、家老の座について、殿に御意見申し上げるということだ。・・少し魂の入った者があるかと思うと、利欲を離れて奉公をする気が消極的で、世捨て人のように「徒然草」や「撰集抄」などを読みふけっている。兼好や西行などという人は、腰抜けの臆病者だ。武士としての働きができないから、間抜けたふうをして見せているのだ。・・いやしくも侍ならば、名誉や利益の争いの真っただ中はいうにおよばず、地獄の真っただ中でも恐れずに飛び込んで、主君のお役に立たなければなるまい。
・・・平素何のお役にも立たないと思われていた者が、いざというときには、一人で千人をも相手にするような働きを示すのは、平常から命をないものとして、主君と心を一つにしているからだ。
・・・主君にも、家老や年寄衆にも、少し遠慮されるような人間でないと、大仕事はできない。何とも思われないで腰巾着のようになっていては、十分な働きはできないものだ。いつもこの気持ちを持っていなければならない。
・・・武士のあり方を一言で言うならば、まず第一に、自分の身命を惜しみなく主君に差し上げるということが根本である。この上で何をするかというと、身を修めて智・仁・勇の三徳を備えることだ。・・智とは、人と相談するだけのことである。これが計り知れない智なのだ。仁は、人のためになることをすればよい。自分と他人を比較して、いつも他人がよいと思うようにしてやりさえすればそれですむ。勇は、歯を食いしばることだ。前後のことを考えないで、ただ歯を食いしばって突き進んでゆくまでのことである。これ以上立派なことは考えられない。つぎに、外見のことを言うと、風姿・言葉遣い・筆跡が大切だ。しかし、これは日常のことであるから、ふだんよく稽古をすればできることだ。全体として物静かであるが強さが滲み出ているように心得ることである。
・・・五十歳ごろから、ゆっくりと才能を磨き上げたのがよい。そのようにしている間は人々の目には立身が遅いと思われるくらいの人が立派な仕事をしているのである。また、そうした人は失敗して家を傾けるようなことがあっても、自分のために不正を働いたのではないから、すぐに立ち直るものだ。
・・・主君のお側近くに勤めている奉公人にとっては、差し出がましい気持ちが一番よくない。主君はそれをお嫌いになるものだ。
・・・四十にして惑わずという言葉は、孔子に限ったものではない。賢者であると愚者であるとを問わず、四十になれば、それぞれ相応に年功を積んで、こころが惑わぬようになる。
・・・心づくしをして、礼を言われないばかりか、かえって思い違いをし、それを遺憾に思うような人々に出会っても、それを少しも残念に思わないで、さらに親切をつくすというように覚悟を決めてかかるべきである。すべて、人に親切を尽くすのは、自分がやったことだと相手に知られないようにし、主君へは他人の眼にそれとわからないような奉公をするのが本物である。・・仇を恩で返し、つねに陰徳を心掛けて、陽報に心を奪われないようにすることだ。
・・・忍びに忍んで口に出さぬ恋に死ぬのが最高である。・・他人の目のないところで慎むことが、そのまま公の場所の慎みでもある。誰知らず一人でいる時も、卑しい行いはしてはならず、他人では推測できない胸の中でも、卑しいことなど思わないように心がけないならば、公の場所でも卑しさが見えて、急ごしらえではそれが消せないものだ。奉公人は殿を思う心がけ一つあればそれでよい。
・・・金銀は人から借りることもできる。しかし人材はすぐには得られないものだ。あらかじめ立派な人物を丁重に召し抱えておくべきである。人を抱えるということは、自分だけが腹一杯に食っていてはできない。一飯を分けて家来に食べさせるならば、人もついてくるものだということであった。
・・・知恵のある人間は、真実の行いも、真実でない行いも、知恵で組み立てるから、すべて理屈をつけて通用すると思っている。これが知恵の害になるところだ。何事も真実でなければ値打ちがない。勘定高い者は卑怯である。そのわけは、勘定は損得を考えることであるから、いつも損得の心が絶えないものだ。・・役目を選り好みして主君や頭になる人のご機嫌を伺って私利私欲のために立ち働こうとする者は、たとえ十度計画が成功しても、一度計画が失敗すると、すべてが駄目になって、見苦しく崩れるものである。前々から心に決まった忠義の心がなく、私のためにする不正な行動、邪な知恵が染み付いているためにそうなるのだ。
・・・どれほど優れた才能があっても、人に好かれぬ性質の者は役に立たぬものだ。お役に立つこと、奉公することに打ち込み、自分をへりくだらせ、朋輩の下風に立つことを喜ぶような気持ちの人間は、人から嫌われないものである。
・・・生益は怒気を満面に表して、「御主君様さえ、その後少しも口外されないことを、わしの口から言うと思うか、かりにも御奉公を勤める者が、そのような無遠慮の話をするか」とひどく𠮟りつけたということである。
・・・すべて諫言や意見は、和の道であり、じっくり話し合わなければ用をなさないものだ。堅苦しく改まった言葉遣いなどでは、角を突き合わせる形になって、簡単なことでも直せぬことになる。
・・・概して言えば、その地位に達しないで諫言をするのは、かえって不忠である。誠の志があるならば、自分で考えついたことを申し上げるにふさわしい上の人にこっそりと相談し、その人自身が思いついたこととして主張するようにすれば、成功するのである。これが本当の忠節というものだ。
・・・聖君とか賢君とか呼ばれる立派な君主は、よく諫言を聞き入れられるというだけのことである。
・・・理屈ぜめに申し上げるのは、すべて自分の忠義を世間に知らせようとするためで、かえって主君の悪名を世に明らかにすることになり、大不忠というべきだ。・・ひそかに申し上げて、御理解なさらないときは、自分の力が足りないのだと思い、いよいよこれを人に知られないようにして、いろいろと工夫をしては、さらに申し上げるようにすれば、きっとご理解なさると思う。
・・・悪事があれば我が身にかぶるというのが、扶持をいただく侍というものである。
・・・気に入らないことがあるといって、役目を断り、引退するなどということは、お家代々に仕えてきた家来として、主君を二の次に考えていることになり、謀反と同様だ。
・・・武士の行いは、敵を討ち取ることよりも、主君のために討死する方が手柄である。
・・・武士は日頃の心掛けが死後にまで表れるものだから、その心がけを失えば恥ずかしいことになる。
・・・いろいろと工夫して、改めてやろうと思えば、改まらないことはない。できないというのは、やり方が悪いからだ。
・・・たいていの人は、人が嫌う言いにくいことをあえて言うのが親切のように思って、意見しても承知しなければ「もうどうにもならぬ」と投げてしまう。それでは何の役にも立たず、ただ人に恥をかかせただけで、悪口を言ったのと同じことになる。自分の気晴らしに言うに過ぎない。
・・・よいことでも過ぎると悪い。談義・説法・教訓なども言い過ぎると、かえって害になるということである。
・・・他人のことは分かるが、自分のことは分からぬところがあると見える。世の中には教訓をする人は多い。しかし、その教訓を喜んで聞く人は少ない。まして、そうした教訓に従う人はさらに少ない。
・・・年功を経た者の話などを聞くときには、たとえ自分が知っていることでも、十分に尊敬して聞くことだ。同じことを十度も二十度も聞いているうちに、ふと理解できるときがある。そのときは、特に印象が深いものだ。
・・・人より優れた境地を得ようとすれば、自分のすることについて、他人の意見を聞くことである。一般の人は、自分の考えだけで動くから、一段高いところに到達できない。人と相談する分だけが一段高くなるところだ。
・・・正誤を通すことを最上と思って、ただただそのことばかりに打ち込んでゆくと、かえって誤りが多いものである。正義の上にさらに道というものがあるのだ。
・・・書物を読んで覚えるということも、自分一個の考えを捨てて、古人のすぐれた考えを取り入れるためである。
・・・すぐその場で言ってよい相手であるならば、それを傷つけないように言ってやることだ。また、言ってはならない相手ならば、、差しさわりのないような話を交わして、自分の心の中には、はっきりとその道理をつかんでおくのがよかろう。
・・・家来たるものは、一日じゅう気を抜くことなく、いつも主君の御前や公の席に出ている時のように注意することだ。休息している間と思ってうっかりしていると、それがつい公の席でも表れてくる。このように気持ちの持ち方というものがあるものだ。
・・・欠伸というものは見苦しいものだ。欠伸とかくしゃみなどは、しまいと思えば一生でもしないようにすることができる。気が緩んでいるので出て来るのである。思わず欠伸が出たときは、すぐ口を覆うことだ。くしゃみは額をおさえると止まる。
・・・一つのことを会得すれば、いろいろなことがわかるようになる。・・正式の席で話すときとか、あるいは普通に話すような場合などは、相手の人の目をみながら話をするのがよい。・・朝は四時に起きて、毎日行水し、髪を整え、日の出の頃には食事をし、日が暮れたら休まれた。武士は食わねど高楊枝。内側は粗末でも外見は飾らねばならぬ。
・・・気持ちが安定しているということは大切なことである。馴れれば馴れるほど、この心がけを忘れてはならない。
・・・他人が自分のことを悪く言っても、他人の悪口を言うものではない。
・・・つまるところは、気を緩めないで、いつも真剣に考えているところが根本である、とのことである。・・身なりの根本はその時々の礼儀に適うことである。それがあれば立派なものだ。・・姿・形をよくする心がけは、常に鏡に映して直すことだ。これが秘訣である。人々は鏡をよく見ないから姿・形がよくないのだ。・・文章を書くための修行は、一行の手紙を書くときでもそれを練ることである。・・また手紙を書く場合は、送った先で軸物に仕立てられるものと思えと、宗秀和尚が上方にいたと聞かされたそうである。
・・・少し才気走った者は、とかく今の世を批判するものである。それが災いのもとだ。口を慎む者は、善政の御世にはよく用いられ、悪政の御世にも刑罰に処せられるようなことはない。
・・・大難や大変事のあったときも一言が大切である。幸せの時でも一言が大切である。日頃の挨拶話に過ぎないようなときでも一言が大切である。十分に考えて言わなければならない。そうすれば凛として引き締まってくる。・・武士は万事に注意して、少しでも人におくれをとらないようにすべきだ。とくに、ものの言い方に注意しないと、「自分は臆病だ」「そのときは逃げますぞ」「恐ろしい」「痛い」などと言うことがある。冗談にも、戯れにも、寝言にも、でたらめ言にも言ってはならない言葉である。
・・・「過って改むるに憚ることなかれ」という言葉がある。過ちを知ってそれをすぐに改めれば、過ちはたちまち消えてゆくものだ。過ちをごまかそうとすると、いよいよそれが見苦しく、苦痛も出て来る。言ってはならない言葉を口に出したときなど、すぐに釈明すれば、そうした言葉も少しも後を引かないで、そのために引け目を感ずることはなくなる。
・・・人に出会ったときは、その人の気質を早く吞み込んで、その人その人に相応した挨拶をしなければならない。
・・・どこかへお供をした時、お話をしにどこかの家に出かけた時は、まず亭主のことを十分に考えて立ち寄るがよい。これが和の道というものだ。また、身分の高い人などに呼ばれたときは、重い気持ちで行くと、席が落ち着かないものである。さてもありがたいことだ。きっと面白いことがあるぞと思い込んでいくのがよい。・・招待されたときは、「なるほど立派な客ぶりだ」と思わせるようでなければ、客としての資格はない。ともかく、座の持ち方をあらかじめ心得ていくことが大切である。
・・・自分を訪ねてくる人に対しては、たとえ時間がかかることであったとしても無愛想であってはならない。
・・・役所などで特別忙しい時、考えもなしに用事を言い出す人があると、大抵の場合、それに対して取り扱いも悪くなり、腹を立てる者が多い。これは大変よろしくないことだ。そのような時ほど気を鎮めて、よろしいように取り扱ってやるのが侍の作法というものである。
・・・道理が分かった人間なら、たとえ不必要なもの決まっていても、「ごもっともでございます。しかしながらそれは後で検討することにいたしましょう」などと答えてその人の恥にならないようにしておいて、ちゃんと取り計らうのが侍の仕事というものだ。
・・・武士の子どもには一般と違った育て方があるものだ。まず、幼い時から勇気をつけ、かりそめにも、おどしたり、だましたりすることがあってはならない。・・また、幼い時に強く叱ると内気な性格になってしまう。そして悪い癖がつかないようにしなければならない。
・・・酒盛りは、きびしくなければならない。よく気を付けてみると、たいていの連中がただ飲んでいるだけである。酒というものは、仕舞をよくしてこそ酒である。それに気がつかぬと人間が下品に見えるものだ。だいたい、その人の心掛けは、そこに表れるような気がする。ともかくも酒は場所柄を考えて飲むものである。・・また酒宴は公の場所のものであると心得ておくことである。・・大事なのは、その酒の席の最後の扱いである。人間の一生もそのようでなければならない。客人が帰途につかれるときなど、いかにも名残惜しいという気持ちが大切だ。・・すべて他人との交際は、飽きる心が出てこないようにすることが大切だ。いつ会っても、気持ちが新しいというようにすべきである。
・・・大切な御家来を、めったなことで死なせたり、仲たがいさせてはならないことである。
・・・いつもものを言わないのは腰抜けである。言葉の使い方、その場での一言、十分に心に留めておくことだ。
・・・大切なことがある場合は、酒を飲んではならない。大体において、酒は好ましからぬものであるということ。このことも直茂公がご注意になった。
・・・一生懸命に励んで何か自分流の考え方ができるようになると、すぐにそれで満足してしまうから、間違いも出て来る。さらに心をつくして、まず根本になるところをしっかりと握って、それに熟達するようにと修行することを一生やめてはならない。・・修行の道にあっては、これですべてが完了したということはない。完了したと思ったときに、すでに道に背いてしまっているのだ。
・・・大災難・大変事であってもまごつかないというのでは、まだ十分ではない。大変事の出会ったときには喜び勇んで進んでゆくべきである。これが一つの関門を通り抜けた境地だ。
・・・奉公に打ち込む心が湧いてこないのは、自慢があるからである。自分のことはよいと思い、身勝手な理屈をつけ、頑固に凝り固まって、一家をなしたつもりで納まりかえっているためだ。
・・・この上をさらに一段飛び越すと、普通では行けない境地がある。その道に深く分け入ると、最後にはどこまで行っても終わりはないことがわかるので、これでよいなどと思うことができなくなる。自分は不十分だということを深く考えていて、一生これで十分だと思うこともなく、また自慢の心も起こさず、卑下する心もなく進んでゆく道である。
・・・幸せな時は、自慢と驕りに気をつけなければならない。そのような時は、日ごろの倍も敬虔な心を持たないとつい失敗するものだ。・・気力さえ強ければ、言葉遣いでも身の行いでも自然と道理にかなうようになるものである。これを外側から見て人は立派だという。しかし、自分自身の心が問いかけてきたときには、それに対して一句も言えない。「心の問はばいかが答へむ」という下の句は、すべての道の極意とも言うべきものである。心こそよい見張り役である。
・・・物事をなすにあたって、まずそのことを行う前に、心の中に四誓願を念じ、私心を去る工夫をするならば、大失敗をするということはあるまい。
・・・一鼎が「よいことをするというのはどういうことか、それを一言で言うと苦痛をこらえることである。苦痛をこらえないのは、すべて悪いことと言ってよい」と言われた。「奉公人が注しなければならないことは何でありましょうか」と尋ねたところ、「大酒、自慢、奢りであろう。苦労しているときは心配はいらぬ。少し幸運に向かったとき、この三箇条に気をつけなければならぬのだ。周囲を見渡すと、そうした人が目につくだろう。
・・・病気になる前に病気の原因を除くことを医者たちも知らないものとみえる。それについては自分は確かに悟っているように思う。その方法は、飲食を慎み、性欲を断って、いつも灸を据えること、これである。
・・・先代の中野数馬は「茶の湯の本当の心は、人間の欲望を除いて、その根本を清らかにすることである。眼に掛物や生花を見、鼻に香の匂いをかぎ、耳に釜の湯のたぎる音を聞き、口に茶を味わい、手や足の作法を正し、五感の根本が清らかなときは、精神もおのずから清らかになる。つまるところ精神を清くするものだ。私は一日じゅう、茶の湯の心を忘れないが、これはまったく慰みとして言っているのではない。そして、道具類は身分相応にするものである」と話しておられた。
・・・ある人が言っていたことであるが、身分のある人がよく名言を吐かれるのでそれを不思議に思っていたところ、ふとした拍子にそれが分かった。・・身分のある人は、もともと汚れたことが胸の中に浮かんでこないので、おのずから清浄な心になっているためである。
・・・時代とともに、人間の器も下がっていくことであるから、一つ精を出せば、十分にお役に立つこととなる。15年ぐらいは夢のあいだのことである。我が身の修養を怠らなければ、いつかは念願を達し、お役に立つことができる。
・・・浪人も長年になると、退屈して恨みもでき、悪口を言うようにもなる。それで、運が尽きて再び仕官ということにならないのだ。
・・・太閤秀吉公が薩摩に攻めて入られる時、軍奉行の人々から、先陣の龍造寺・鍋島の佐賀勢は軍法に背いた進軍をしているので、けしからぬことだから軍列を正すようにと秀吉公に申し上げた。それを秀吉公が聞かれて、「戦をするのに決まった法というものはない。敵に勝つのが軍法である。龍造寺は九州でも有名な戦上手だ。あのままで自信があるのであろう。なまじ下手なことを言ったら恥をかくぞ」とおしかりになったということである。
・・・物事を律儀や正直にばかり考えて、心が小さくなっていては、男らしい仕事はできない。ときには大ぼらでも吹きまくって、壮大な気持ちを持ってこそ、武士としての役目も果たせるというものだ。』
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