風魔(中) 宮本昌孝著 祥伝社文庫
『・・・家康は、秀吉より5歳下の53歳だが、当時の常識では、40歳を初老という。50歳ともなれば、天から授けられた寿命、すなわち天命を知る年齢である。もはや新しく業を興すのではなく、すべてを後進に譲って、きたるべき死に備えねばならぬ。今川義元42歳。織田信長49歳。上杉謙信49歳。武田信玄53歳。北条氏康57歳。秀吉と家康が関わったひと昔前の名だたる戦国大名は、いずれも60歳までもたなかった。
・・・蒲生氏郷は、戦場では猛将ぶりを発揮するが、殿中での挙措は優雅であった。穏やかな佇まいをみせ、廊下を渡るときなど、ほとんど足音を立てぬ。
・・・「暗愚でも、死に時を自分で選んだあんたは、秀吉より立派だよ」小太郎は、ちょっと頭をさげてから、聚楽第の湯屋を出た。
・・・善悪を表裏一体と心得、腹芸の得意な家康なら、多くの選択肢をもつ。武士という、家の子郎党の生死に責任をもつ人間からすれば、そこに安心感を見いだせる。三成のように正直すぎる男は、逃げ道の用意を拒むので、かえって危ういのである。
・・・琵琶湖南端の大津は、園城寺の門前町として栄えた。と同時に、東国と畿内を結ぶ軍事上の要地としても、陸運・水運両方の交通の要衝としても、大いに発展してきた。関東や北国から京へ上がるとき、逆に逢坂山を越えて東国へ下るとき、いずれも大津を中継する。人も物も、である。織田信長が堺・草津と同じく、この地に奉行を置いたのも、その重要性を認識すればこそであった。
・・・堅田衆は、堅田海賊ともよばれる。地侍層の殿原衆と、漁民・農民・商人らの全人衆とが、互いに強く結びつき、武力を有して、湖上に大いなる力をふるい、山門(比叡山)という巨大な領主権力にも屈しなかった人々である。されだけに、京畿やその周辺でいくさの起る際は、必ず味方につけようとしてきたのが、堅田衆であった。
・・・手練れの厳心に隙をつくらせるため、挑発的な言葉をはいたのである。玄蕃の思いどおりになった。
・・・鷹狩というのは、本来、人間の狩猟本能を充たす遊興のひとつであって、それ以外のなにものでもない。これに、軍事訓練の側面を持たせたのは、徳川八代将軍吉宗であった。惰弱になり過ぎた武士に、尚武の気風を呼び覚まさせようとしたのである。
・・・「武士はいつでも死ねるという覚悟をもっておらねばなり申さぬ。なれど、死ぬことが目的であってはなりますまい。お判りいただけまするな、殿」いつもは義宣を次郎とよぶ義重が、父としてではなく、佐竹氏の家臣を代表するような物言いで、穏やかに主君を諭した。
・・・兵法者の中には、何時なんどき不意を打たれても対応できるよう、常住坐臥、決して油断しないという、己に緊張を強い続けて暮らす者がいる。野宿でもあるまいに、足袋も脛巾も草鞋も解かずに寝るとは、異常というほかない。
・・・楓屋敷で小太郎に助けられたことを、厳心は、ひとりの武士として、恩を受けたと感じたのに違いない。受けた恩には報いるのが、武士の正しい道である。』