しばらく更新を怠っておりました。失礼しました。
心を改める意味で、禅の本を読んで、新しく知ったこと、気付きがあった個所を記録させてもらいます。
『・・・仏教では、「物事の理(ことわり)をはっきりした上で、その理に合わないことを捨てる」という意味があります。
・・・全生庵のある谷中の近くの根津も、今は海からかなり遠いですが、昔は海のすぐ前でした。
・・・肉体の衰えこそが「老い」だと思うわけです。しかしそれは、精神の比重が大きくなること。であるならば、心はおいていないのかもしれません。むしろ、豊かになっていく可能性を秘めているのではないでしょうか。
・・・野鳥の雀は二年くらいしか生きられないそうですが、自由に空を飛んでいます。一方で、大切に室内飼いされている小鳥たちは、限られた空間の中だけで、十年近く生きるものも多いようです。しかし、どちらがいいのでも、悪いのでもありません。
・・・帰復自然に求められるのは、日常的なことに、丁寧に心を尽くすこと。・・帰復自然ができれば、生きるということはとてもシンプルになります。花や動物たちのように、そのときを精一杯、生きられるようになります。それを、自分の心身が欲しているとわかるからです。
・・・お釈迦様は、人間が「昨日にこだわり、明日を夢見て、今日を忘れる」愚かさを指摘しています。私たちは、もう絶対に元に戻ることも、変えることもできない過去を悔やみ、それに縛られて、来てもいない明日のことばかりを考え、一番大切な今日をおろそかにしてしまっているのです。
・・・あらゆることは必ず終わる。すべてのものは変化する―――。ところが、ほとんどの人がその事実を「わかっているようで、わからないまま」過ごしてしまっていました。
・・・「ダニング=クルーガー効果」といって、優秀な人よりも、能力の低い人の方がはるかに自己評価が高いのだそうです。・・能力の低い人は、自分のレベルも他人のことも正しく評価できない・・よくわからないから、理想像に自分を当てはめてしまうのかもしれません。
・・・仏教の教えに「三学」があります。戒学・定学・慧学の三つで、仏道を修行する人間が必ず修めるべき徳目とでも言うべきものです。「戒定慧」とも表現します。戒学は、戒律を守り続けること。定学は、心を定め乱さないこと。慧学は、煩悩を離れ真実を知る智慧を持つこと。戒律を守って規則正しく暮らしていくことで、心の平安が生まれ、心の平安が生まれることで、自ずと人間本来の智慧も出てくるということです。
・・・・・・阿難という弟子が、いよいよお釈迦様の命が終わろうとしているときに、嘆き悲しむのを見て説かれたとされています。「阿難よ、泣くことはない。もうすべて教えたではないか。それを拠り所にして生きていきなさい。そして、最終的には自分の心に火をともし、それを拠り所に生きていけるようになりなさい」と弟子に諭したわけです。
・・・本来の「戒」とは、もっと自律的で自らの心に戒めていくものでなければならないのです。
・・・とにかく教えられたままを毎日やる。毎日やっているうちに、あるとき気づく。そうした境地に達すると、心はどっしりと落ち着きます。それが「〇道」の「道」たるゆえんです。
・・・「少欲・知足・遠離・精進・不忘念・禅定・智慧・不戯論」からなっています。この八つによって、悟りの境地にたどりつけるというものです。
・・・仏教の「精進」とは、「雑念を去り、一心に修行すること」です。大事なのは、「雑念を去り、一心に」であって、なにかすごくつらいことをしろというわけではありません。むしろ、とても地味な行いです。・・大袈裟に頑張ることではありません。日々の生活のひとつひとつを丁寧に、地道に行っていくことです。
・・・「初発心時便成正覚(しょほっしんべんじょうしょうがく)」という言葉があります。最初になにかをやろうと思ったとき、人は最も純真な気持ちになり、そのときに、すでに悟りは開けているという意味です。逆に言うと、その純真さはだんだんなくなっていきます。だからこそ、必要とされる「不忘念」であり、「正念相続」なのです。・・最初の感激を忘れないことが大事。「不忘念」を続けていられたら、邪念が入り込む隙は生まれません。
・・・いくら心を乱したからといって局面が改善されるわけではありません。それどころか、乱れた心が余計な行動をとらせてしまえば、かえって問題は複雑になっていきます。
・・・「門より入るもの、是れ家珍にあらず」という一節があります。外から入ってきたものは、自分の本当の宝にはならない。見たり聞いたりという外から得た学問は、ただ学ぶだけでは自分の宝にはならないという意味です。・・言葉を知っているだけでは不十分で、自分でそれを咀嚼し、使いこなすことではじめて真の学びと言えるのです。
・・・「新到三年皓歯を見せず」としつけられました。皓歯というのは白い歯のこと。入門して三年間はしゃべるなということです。これは、しゃべるとうるさいからというのではなく、若い修行僧に「口は禍の元」を徹底的に教え込むためです。
・・・大事なのは、我慢はするのであって、させられるものではないということ。「我慢させられている」というスタンスでいる限り、まったく修行にはなりません。
・・・いくら坐禅だけをしていても、日常の生活に丁寧な心を向けられなければダメなのです。・・心を整えるには、まず体を整えること。そのために、日常の些細な事柄を丁寧に扱い、生活の在り方を整えることから始めるといいでしょう。
・・・歳をとると、体の状態はもちろん、心の状態も顔に出やすくなるのです。だから、毎日の「顔チェック」は必須。
・・・龍澤寺の師匠は、「健康の秘訣は、粗食、少食、日湯、陀羅尼」とよく言っていました。日湯(にっとう)というのはお風呂に入ること。つまり清潔を保つことです。陀羅尼は呪文みたいな短いお経で、声を出すことがその目的です。
・・・「噛む」という行為は、心にも通じます。・・噛んで噛んで噛んでいると、「ああ、そういうことか」と、その正体が見えてきます。
・・・美味しいお茶のための一連の動作が、あなたの心を落ち着かせてくれるでしょう。
・・・原始仏教において生産活動は禁じられていたのです。なぜ、それをしてはいけないのか。なにかを生産すれば、「それは私のものだ」という所有欲が生まれるからです。
・・・美しいものに触れながら、その美しさが損なわれることがないように調える。それによって自分の心も調います。
・・・一日の終わりの静かな時間に客観的に心の整理をしましょう。・・その一日がそう悪いものではなかったと気づくでしょう。そういう気持ちで一日を終えることはとても大切です。
・・・少しでも受け取った人たちに喜んでもらえるよう、記念切手などを探しては使うようにしています。そうした人手間が、つい忙しなくなりがちな心を調えてくれます。
・・・ある程度の年齢になったら、安くて軽い言葉は手放しましょう。心を落ち着かせ、一語一語を大切に口にしましょう。
・・・法界定印の意味は「静かに慮る」。まさに禅の心です。』