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2020年6月 6日 (土)

死ぬことと見つけたり(下) (隆慶一郎著 新潮社)

未完の著作ですが、登場人物たちの見事な生き方や、はっとさせられる描写にまた心をうたれました。

『・・・〈餓鬼なんだ〉子供の残酷さと無知を今尚保っているのだった。だが主水は二十歳である他の九人はもっと齢がいっている。この齢で餓鬼だということは、一生餓鬼であり続けるということだろう。それはまた一生無智で残忍だということになる。〈殺ろう〉杢之助は迷いを振り切るように首を振った。

・・・美作と求馬たちは深堀の本邸に泊まっていたが、杢之助と萬右衛門だけは市中の旅籠屋にいた。遠慮したわけではない。権力の中枢にいる者のそばにひっついていることが、何となくいやだったからである。

・・・懸命に自分に云いきかせ、ぽるとがる人たちの顔を、姿を思い描いた。忽ち心がしんと静まった。急に、彦右衛門の顔と仕草が道化じみてみえた。はかない権勢を頼みに、思い上がっている下らない男だった。殺す価値もない悪餓鬼の顔だった。

・・・その合戦の中で肚を据えて突っこんでゆく鍋島武士の姿は、二人にとって眩しいばかりに見えた。とてもそんな真似は出来なかった。日頃の覚悟と鍛錬が足りないのだ。それを痛感した。と云ってもそれだけのことだった。合戦が終われば又ぐうたらな日々が戻ってきた。覚悟も鍛錬もよその国のものとなった。

・・・「判りました。死にます」ごく自然に二人ともそう云った。顔付が変わっていた。なんとか鍋島武士らしい「いくさ人」の顔になっていた。高浜も喜多も多比良も、泣けそうになった。三右衛門と武右衛門は駄目な武士の典型のような男たちだった。要領ばかりよくて責任をとる立場を極力避け続けてきた。そのくせ遊びには熱心で、精力はすべてそのためにとってあるような感じだった。それがどうだ。素直に、「死にます」と云っただけで、顔つきまで変わってしまった。どんなに駄目武士でも、武士は武士だった。

・・・大兵の武士たちばかりが殿様の駕籠脇を守る光景は堂々として美しい。だからこれは勝茂ばかりではなく、大方の大名の慣習だった。禁裏の駕輿丁をつとめる八瀬童子にも、五尺七寸(約一メートル七十センチ)以上という規定があったようだ。

・・・どんなすぐれた船長でも、船酔いするものはする。要は船酔いしても仕事ができるかどうかであって、船酔い自体は恥でも何でもない。

・・・兄杢之助と同様に、幼時から死ぬ稽古はさせられてきたが、長じてからはふっつりやめている。常時死人であることの緊張に耐えられなくなったからだ。彼には妻も子も大切だった。手明槍のささやかな、庶民に近い日々の生活も大切だった。それを死人の眼で無視するには、権右衛門の心は温かすぎたのかもしれない。・・権右衛門を臆病者だとか、士道不覚悟というのは間違いである。島原の戦でも結構勇敢に働いたし、武芸の腕も決して人に劣るものではない。ただそれはすべて家のため、斎藤家の一員としての名誉のためだった。武人としての猛々しい気性が、権右衛門には欠けていたのである。

・・・勝茂が権右衛門の切腹を止めておきながら、打ち返し禁止の命令を出さなかったのは、それが鍋島士道に反するからだ。一度でも打ち返しを禁じれば、それが先例となって、以後あらゆる打ち返しは禁止されることになりかねない。それでは無念に死んでいった身内の者の怨念を晴らすすべがなくなってしまう。

・・・八朔とは八月一日の称で、このころには早稲は既に収穫を終わっている。農家ではこれを祝って「田の実」の節句と云った。「田の実」は「頼み」に通じる。だからいつの頃からか主従契約を結んだ家臣が、「頼む」お方、つまり主君に感謝の礼物を贈るならわしが起り、武士社会の式日となった。

・・・杢之助にはまだ家臣の方が主君を撰ぶという戦国武士の遺風が残っている。勝茂がしたことをすべて認めるつもりは毫もなかった。

・・・鍋島の主君たる者は酒について厳しい戒律を持っていた。いくら飲んでも酔うことは禁じられていたのだ。勝茂公は酒が好きで毎夜飲んだが、酔って寝床に入ることがなかった。必ず完全に醒ましてから寝所に入る。そして必ず、普段差しの刀を抜き、眉毛を斬って切れ味を確かめてから、その刀をわきに置いて寝たこれを一日も怠ることはなかったと云う。

・・・「当たり前でしょう。殿も家臣も一箇の男です。男と男として忍び難きことがあれば意趣を抱くは当然。そのために殿を斬ることがあってもこれも当然」 「そんな馬鹿なこと!」 「何が馬鹿なことですか。ご主君たるもの、常に家臣に意趣を持たれ狙われることは百も承知の上で行動なされるべきではないか。勝茂公が夜ごと佩刀を改められるのを、何のためとお思いか。御主君にはご主君なりの責任と覚悟が要り申す」

・・・所詮失うもののある方が負けなのである。失うべき何物も持たない死人の方には負けはないのだ。彼らは勝つことさえ望んではいない。勝っても負けても、やるべきことはやる。それだけのことだった。

・・・子どもが刀術で大人を斬るのは難しい。だが鉄砲は別だ。子供の撃った弾丸でも大人は確実に死ぬ。そのための鉄砲術だ。そのつもりで腕を磨け。

・・・大猿に死なれた寂しさは骨身にこたえたが、だからと云って悲しげな顔など見せては、男がすたると云うものだ。だから恐ろしく陽気だった。

・・・信綱は自分が人に好かれないのをよく知っている。いわゆる人徳というものがからっきしないのだ。才気のある人間にあり勝ちなことだった。・・この頑固一徹な古武士には、信綱の才気が不快だったのである。・・つまりは効率的ではあるが、肝心な背骨が一本通っていない感じがするのだ。

・・・当時の庶民の戸籍はすべて寺社が扱うのである。だから寺社奉行は今日の法務省ということになる。・・幕府の上級裁判所ともいうべき評定所を構成するのは、寺社・勘定・江戸町奉行の三社であり、後の二つが徳川譜代の直参で占められるのに対して、寺社奉行は小禄の外様大名があてられるのが通常だった。つまりすべての外様大名の意見を代表する形になる。』

・・・何時渡すことが出来るかも判らない刻明な手紙を、軟禁された一室で細々と書き録しながら、土山五郎兵衛はひたすら求馬に話しかけていた。〈頼むぞ、中野、お主だけが頼りだ〉

・・・この当時の武士階級の結婚適齢期は、男女ともに十三歳から十五歳である。

・・・この問題ばかりはさすがの勝茂も手に余った。光茂の人間が変わらない以上、どんな解決の法もないのである。そして既に成人となった男の人格を変えることは、人間にできることではない。それは神の領域だった。

・・・家康が天下の覇権を握ると、もういけなかった。諸国の武将が、忍びの者を雇う必要が一応はなくなってしまったのである。それに太平の世に、下手に忍びを雇ったりしたら、それだけで大名家は取り潰されかねない。忍びは無用の長物と化した。

・・・勘助の眼から見れば、剣術使いという人種はひどく傲慢だった。・・礼もせずに始めるのは無礼であり、剣の届かぬ遠くから攻撃するのは卑怯だと云う。〈いくさに卑怯もくそもなか〉 勘助はそう信じている。祖父から聞かされた嘗ての「いくさ人」はそんな阿呆ではなかった。どんな得物、どんな距離からの攻撃も充分に予想していたし、それに備えていたと云う。剣術使いは所詮「いくさ人」からは遠い生き物だった。

・・・嘘つきは自分をかばうために嘘をつくわけではない。相手を失望させたくないばかりに嘘を云う。相手の心が傷つくのが見ていられなくて嘘をつくのだ。その心は優しさに溢れていると云っていい。それに較べて正直者の心はむごい。相手の傷みより、自分が嘘をつく傷みの方を避けようとするのだから当然である。かたくなであり、頑固であると云うよりも先に、自分を守る心が強い。利己的だと云うべきだろう。

・・・この天涯孤独の男にとっては勝茂公のいない、いや、もっと正確に云えば斎藤杢之助のいない鍋島家など、どうなり果てようと知ったことではない。滅びるものなら、さっさと滅び去ればいいのである。鍋島は滅びても佐賀の大地は残る。佐賀の庶人もまた残るだろう。それでいいのだ、と強く思っていた。

・・・あたりは凄まじい黒煙と一面の火の海だった。いずれも町方の者の家財道具が燃えているのだ。〈人間の欲が人間を殺す〉杢之助はちらりとそう思ったが、貧しい庶人にとってその荷物は人生のすべてだったかもしれない。哀れだった。』

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