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2020年1月

2020年1月27日 (月)

嶽神伝 風花(上) 長谷川卓著 講談社文庫

いよいよ最後に近づいてきました。私には気になる文章が、それとなく、あちらこちらに散りばめられています。

『・・・浜松は、六月までは引馬(曳馬)という地名であった。しかし、引くは縁起が悪いからと、浜松と改めさせた家康は、岡崎城を嫡男の三郎に任せ、己は遠江を治める者として改修した浜松城に移っていた。

・・・梅干を肴に、浴びるように酒を飲む、と先代の小太郎から聞いていた。それが輝虎の飲み方だった。大酒を飲み続け、中風に罹る。家臣の中にもいた。倒れたと聞いてから、何年保ったか。五、六年であったか。

・・・「覚えておくがいい。食わぬことだ。無駄に食えば、五臓六腑は疲れる」・・気配を読みながら、冷めた薬湯をごくりと飲み、語り過ぎじゃ、と幻庵は、そこにいぬ小太郎に呟いた。先代は、少なくとも才気を仄めかすことはせなんだぞ。

・・・「『爺さ』とか『爺ちゃん』と言うと、年よりくさいから『叔父貴』と呼べと叱られています」 「分かるぞ。『お爺様』などと呼ばれると急に老け込んでしまうからな」

・・・「もう止めます。ですが、少しくらい言わないと、胸がつっかえるようで息苦しくて」 「そのような時は、袂にそっと囁くのです」新兵衛が言った。 「袂か」小見の方が右の腕をそっと上げ、袂を見た。 「左様でございます。某はそれですっきりとしております」

・・・集落で米の飯が食えるのは、十一月七日の山の神を祭る山祭りの日と、婚礼の時くらいしかなかった。その他の日は、蕎麦か粟か稗だった。

・・・聞いたことがあった。雨の時か、雨が降り始める前に、亡き人々が湿った風に乗ってやって来ることがある、と。

・・・「北条を見てみろ。越後と手を組んでいたと思ったら、今度は武田と結んでいる。いつまでもひとつのことを根に持っていたのでは生きていけぬのだ。・・過ぎたことを、忘れはしないが、思い出さないようにして折り合いをつけてゆくのだ。」

・・・「心よ、強くあれってことだな。心さえ強ければ、生きてゆける。どんな逆境でもな」

・・・五明は一瞬無坂を見つめると、我らの御館様はな、と言った。「昨日酒を酌み交わした者と、今日は殺し合い、明日は花婿花嫁の親として同席することなど意にも介さぬぞ。其の方も、そのくらいの腹を持て」

・・・薬草のお陰よ。暴飲暴食を避け、薬草を欠かさずに飲む。さすれば、病を得ることなく、戦に駆り出され矢弾にあたらねば、寿命まで生きられるものよ。寿命が幾つであるかは知らぬがな。

・・・だが、人に命じず、己が一から行うことがあった。それが薬草を碾き、煎じ、飲むことであった。手間を惜しまず、己のために草を摘み、干し、伐り、碾き、煎じる。薬湯の一滴が五体に染み込むような気がした。

・・・力のある者は任せたおけば勝手に動き、力のない者は指図してやらぬと動けぬ。』

2020年1月17日 (金)

嶽神伝 死地 (長谷川卓著 講談社文庫)

この作品は、前作に続き、七つ家も話です。還暦を過ぎた二ツの大活躍を楽しむとともに、滅びゆく北条に仕える風魔の消えゆく姿の寂しさが、このシリーズが終盤に近付いてきた寂しさも強く感じさせてくれています。

『・・・戦場を見渡せる高台に上れない時は、足軽の姿で戦場を駆け、戦の流れを読むのである。敵でも味方でも、兵に出会った時は、―――おらの殿様はどこだァ? と叫びながら走っていれば、失笑させるにとどまることが多かった。

・・・―――猿を喰うてはならぬのか。 ―――儂らは喰わぬ。猿を喰うは外道だけじゃ。 猿は山では馳走だった。だからと言って里の者を殴り飛ばしても、どうなるものでもなかった。

・・・「治部、それでは天下は取れぬ。天下は、死地に身を置いてこそ取れるものぞ。よう、覚えておけ」

・・・「治部、よう覚えておけ。賢い者は己より出来のよい者を近づけ、愚かな者はそれを煙たがり、遠ざける。そこから国は傾くのだぞ」

・・・曼陀羅華は、茄子科朝鮮朝顔属の植物で、江戸期に外科医の花岡青洲が麻酔薬に使ったものである。一般的に、江戸期に入って中国から日本に渡ったとされているが、青洲が手術を手掛ける280年も前、大永年間に幻庵は父早雲の命令で、京の陰陽師から曼陀羅華を譲り受けていた。権力者たちは、常に新しい毒薬を求めていたのである。烏頭は、附子とも狼殺しとも言われる毒草鳥兜のことで、特にその根に毒があり、嘗めると舌に痺れが走るので、他の独と判別し易かった。

・・・一対一の果し合いではなく、まとまって戦う時は、倒せる時に素早く倒すのが鉄則だった。時が掛かれば、何が起こるか分からない。

・・・小説は生き物です。読み返すたびに、加筆したい箇所、削除したい箇所が出てきます。』 

2020年1月12日 (日)

嶽神伝 血路 (長谷川卓著 講談社文庫)

これまで脇役として何度か登場してきた、「七ツ家」の物語です。書き残したい部分は多くなかったですが、凄まじい生き方と戦い方に今回も引き込まれました。

『・・・一族の者は、平時は便の良い館で暮らしている。要害の地に建てた城を使うのは、戦時に於いてのみであり、それが山城を擁する者の習いでもあった。

・・・「我らは、余計なことに関わってはならぬのだ。」 「はっ」 「関われば、情が移る。心は閉ざしておくのだ」 「覚えておきまする・・・・」

・・・焦るではない。過ちなく動くには、それ相応の支度がいるのだ。・・そのためにも、身体を鍛えておけ。己が命を守るのは、己が力だ。

・・・晴信は六畳の厠を≪山≫と呼んで、考え事や密談をする際に使っていた。』

2020年1月 2日 (木)

嶽神伝 鬼哭(下) (長谷川卓著 講談社文庫)

令和2年になりました。読んでいただいている方々、本年もよろしくお願いいたします。

今年最初の投稿は、嶽神伝の続きです。この書になぜ「鬼哭」という題がつけられているのか、まだ分からないでいます。

また、著者にとっては、上杉謙信は矛盾に満ちた、奇人と映っている様で、彼に畏敬の念を持っている私には別の視点を与えてくれました。

『・・・「分からぬ男よの。一方で、京でばらまく金を作るため、段銭(税)を取り、領民を苦しめるかと思うと、一方で義を唱える。私欲に走るな。無欲であれ、ともな。これでは豪族どもの中には特進出来ぬ者も出て来るはずだ。そこを信玄に狙われ、調略されるのだが、義の御方には分からぬであろうな」

・・・しかし、何よりも気にいっているのは、ぎざぎざとした鋸のような葉の有り様であった。このぎざぎざとした葉が、老木となると丸くなる。人も斯くありたいものよな、と雪斎に言ったことがあった。

・・・今川家は足利将軍家に繋がる名家として、輿に乗る許しを得ていた数少ない大名家のひとつであった。

・・・「御館様にはこの次があるが、儂らにはこの次はないのだ。それが、臣従している者の有り様というものなのだ・・・・」

・・・「≪戦働き」で頭角を現す方は、強欲な方か、頭より体が先に動く方です」無坂が言った。

・・・「いよいよだな」 勘助が、美味そうに杯の酒を飲み干した。勘助からは、己の死に場所に行き着こうとしている焦燥など微塵も感じられなかった。

・・・ただ景虎という奇人は、己は損得抜きで義のために戦っているのだから、弾などに当たるはずがない、と思い込んでいたのだろう。その思い込みが外れた時は死ぬだけである。死んだら、後は任せる。勝手だが、それが景虎という男だった。

・・・興奮の極みに達すると、采配を宇佐美定満や本庄実乃に託し、己は馬を駆って戦場を駆け回ってしまうのだ。実に始末が悪い。恐らく、戦国という時代にあって戦の最中に我を忘れるという大将は、政虎以外にはいないのではないか。信長も、桶狭間では兵のひとりとして斬り込み隊の先頭に立ったことはあったが、味方を鼓舞するためであった。我を忘れてはいない。

・・・鍋と器は、政虎が懐に収めていた川中島の大絵図の端を切って漏斗状に丸めたものを器にし、残りを折って鍋にした。紙であろうと、中に水気のものがあれば燃えない。草庵に被せる渋紙は、戦場には籠を持ち込めないので、月草と真木備が背帯に織り込んでいた。渋紙さえあれば、被れば雨除けになるし、敷けば濡れたところでも寝られる。山の者の心得としては、これだけは置いてくることは出来なかった。』 

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