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2019年11月23日 (土)

新聞という病 (門田隆将著 産経eブックス)

かつて「情報」を「独占」することで、世論を操作して我が世の春を謳歌していた新聞は、時代の流れを読み誤るとともに、自分たちを「正義の味方」だと過信し、国民、特に若い世代から見捨てられつつあります。そういったことについて、まさにいろいろと書いてありました。私自身も時代の流れを読み誤らないように、また、自己に与えられている「力」を自分自身で獲得したものだと勘違いしないように、他山の石としたいと思います。

『・・・ネット時代は彼等反日勢力のこともすでに炙り出しており、「ああ、まだそんなことやっているのか」と、多くの日本人を呆れさせてもいる。・・平成が始まった頃、我が世の春を謳歌していた新聞は、やがてインターネットの登場により、次第に窮地に追い込まれていった。記者クラブに記者を潤沢に配置して情報を独占し、恣意的にこれを加工して大衆に“下げ渡していた”新聞が、個人が情報発信のツールを持ったネット時代の到来に対応できなかったのだ。

・・・たしかにツブシが利かない。抜く抜かれるという勝ち負けだけが新聞記者の世界でもある。私は、こういう人物、あるいは、その精神が日本の新聞を支えてきたのだろうと想像する。

・・・時を経るにつれ、新聞記者は大きな変貌を遂げた。なにが変わったのか。ひと言で尽くせば、新聞記者が「偉くなってしまった」のである。もちろん、物理的に偉くなったのではなく、彼らの「意識として」である。いつの間にか、天下国家をあたかも自分が回しているかのような錯覚を抱くようになった新聞記者たちは、退職したら学生相手に現役時代の話でもして大学の教壇にも立ってやろう、などと考える人間が増えていった。・・記者会見を記者である自分の「意見表明」の場であるかのような勘違いをする者まで現れた。

・・・水面下で、日本国内の反日勢力は、懸命に工作を行っている。だが、その存在こそ今の事態の“元凶”であることに多くの日本人が気づいたのだ。・・朝鮮は強い者には徹底して卑屈になり、弱い者には居丈高になるという特性を持っている。

・・・米国の銀行、そして韓国の銀行の東京支店を迂回して自民党有力者への巨額の資金が還流したソウル地下鉄事件(1977年)は、その後の日韓議連の「利権構造の基本」となった。日本企業が韓国内で事業を行うには日韓議連の議員を通して、韓国政府、あるいは地方行政府に話を通してもらわなければならず、議員にとっては日韓議員連盟に所属すること自体が、途轍もないメリットとなってきたのである。

・・・「私たちは、戦争をしたい人たちとペンで闘っている。」そこには新聞特有のそんな自己陶酔がある。それは、刻々と変わる内外の情勢に対して、平和を守るための「現実的対応」を懸命にとろうとする現実的平和主義者たちを勝手に「戦争に向かう人たち」と決めつける傲慢さに支えられたものにほかならない。

・・・一方的な謝罪外交の時代はもう終わった。いつまで誤ればいいのか、という「常識」が日本の若者に広がっている。韓国人によって世界中に建てられている慰安婦像なるもので直接、被害を受けているのは海外に飛躍しようとするその日本の若者だ。

・・・いまの新聞に往時の輝きはない。いつの頃からか、自己の主義・主張、すなわちイデオロギーに固執し、事実そっちのけで紙面がそのことを「訴える場」であるかのように錯覚してしまった。読者は敏感で、そんな臭みが増すにつれ、そして特筆すべき情報が少なくなるについて、新聞離れを加速させた。受け皿は、もっぱらインターネットだ。

・・・かつての新聞と昨今の新聞の最も大きな「差」は、どこにあるかと聞かれたら、読者は何と答えるだろうか。私は、「それは写真にある」と迷わず応えさせてもらう。・・それを短時間に探し出し、しかも説得して写真を借りるのだ。そこでは、怒鳴られたり、塩をまかれたりするのが当たり前の取材活動が展開される。若い記者はこの取材を通じて、物事の核心に迫る。すなわち当事者や関係者に肉薄する必要性を知らず知らずに学んでいたのである。・・彼らは地道な取材活動よりも記者会見がすべてであると思い、そこで執拗な質問を繰り返して失言を誘い、それを特筆大書することがスクープであると勘違いするようになった。

・・・「55年体制」の思考からいまだに抜け出すことができないメディアの有様は“マスコミ55年症候群”とでも呼ぶべきものだろう。・・世の中はとっくに違う段階に移っている。それは、「左右」の対立ではなく、「空想と現実」との対立である。

・・・ファクトと根拠を示して読者に「判断をゆだねる」のが新聞の本来の使命であったはずだ。だが、それをしないまま、ただ自己の主張を感情的に展開する―――こんな「不安商法」がいつまでも通用するはずがない。

・・・朝日の記事の見出しを見て、最初は、ふざけんなよ、なにデッチ上げて書いてんだよ、と思いました。でも、記事を読んで、吉田さんの発言を曲解すれば、ここまで書けるのか、とわかり、呆れてしまいました。

・・・朝日は、〈28時間以上にわたり吉田を聴取した政府事故調すなわち政府が、このような時間帯に命令違反の逸脱行動があったのを知りながら、報告書でまったく言及していないのは不可解だ〉と書いている。不可解なのは「政府事故調」ではなく、「朝日新聞」の方である。・・最悪の事態と必死で闘った部下たちを、今は亡き吉田氏は心から称賛した。一方、朝日は日本を救うために奮闘したそんな人々を世界中から嘲笑されるような存在に貶めた。

・・・目前に迫った中国による人権抑圧と必死に闘う台湾と香港の学生たちの運動と、逆に、1992年に定めた「領海法」によって日本領の尖閣を「自国の領土」とし、紛争を前提に挑発を繰り返す中国の側を喜ばす主張を展開するシールズを「同列に位置づける」神経に言葉を失ったのだ。彼らの主張は若者にさえ受け入れられず、逆に参院選では、20代の若者の43%が、比例投票先が自民党となる結果を生んだのではなかったか。・・新聞には、世の中の出来事を正確に伝え、警鐘を鳴らす役割がある。しかし、日本には悲しむべきことに、相手に“ご注進”を続けて外交カードを与え、自国を決定的に不利な立場に追い込む新聞が存在する。

・・・「自国民の命を守る」という国家としての資格を放棄する日本の「世界の常識からかけ離れた姿」を、テヘラン在住の邦人たちは付きつけられたのである。・・救出を待っているとき、他の国のボランティア団体の人たちから、“なんで日本はお金があるのに、救援機が来ないのか。もっと貧乏な国だって来ているじゃないか”と言われました。それが他国の人たちの率直な感想です。安全保障問題でよく普通の国になる、ということを言いますが、しかし、ふつうの国というのがどういうものか、ということを、日本の国民のほとんどが知らないと思います。私はむしろ、そっちの方が問題じゃないかと思っています」・・国民の「命」を守ることは、言うまでもないが、「究極の自衛」である。そのことが「憲法違反になる」という倒錯した法理を説く政治勢力や学者、ジャーナリストが、日本では驚くほど多い。どこの国でも腹を抱えて笑われるような空虚な言論が日本では大手を振り、実際にマスコミの大勢はその意見によって占められているのである。

・・・記者だけでなく、組織自体が、単なる「いい子」になってはいないか。この“情報ビッグバン”の時代に新聞社と記者が「いい子」になって、そこに安住したら、もう終わりである。

・・・国連加盟193カ国のうち、実に94.3%に当たる182カ国が締結している「国際組織犯罪防止条約」なるものをご存じだろうか。これを締結していない国と、・・そして日本を入れた11ヵ国だ。言うまでもなく、先進国では「日本だけ」である。・・「思想や言論の取り締まりに使われかねない」「市民の自由な活動が阻害される恐れがある」「これは、現代の治安維持法だ」と主張する勢力が日本では力を持っているからだ。その中心で旗を振ってきたのは、新聞だ。

・・・かつて新聞は、人々を目覚めさせ、教え導く存在として「社会の木鐸」を自任していた。しかし、今は誰もそんなものとは考えていないし、新聞人自らもその意識はかけらもない。単に、偏った考え方によって印象操作や国民の感情をあおるだけの存在になっている。・・自分の主張に都合のいい一方だけの情報を伝えて、都合が悪い情報は決して報じない日本の新聞。もはや、そんなものは「新聞」とは呼ばない。

・・・昨今の新聞は、単に自らの好き嫌いに基づき、それに都合の良い情報と意見を表明する場になり果てていることに気付く。・・ストレートニュースである報道面からして、既に「歪められている」からだ。

・・・野党議員のレベルの低さはもはや国民の「常識」ともいうべきものであり、驚くにはあたらない。むしろ、それを後押しする新聞の罪のほうがよほど深いのかもしれない。証拠もなく、抽象論だけで、内外の諸課題をそっちのけにして国会で気の遠くなるような時間が費やされた森友・加計問題。

・・・2017年夏、読売が・・興味深い記事を掲載した。早稲田大学現代政治経済研究所との共同調査で、若者が、リベラルとは「自民党や日本維新の会」であり、保守とは「公明党や共産党」であるという認識を持っていることをリポートしたのだ(8月11日づけ)。・・国内外のさまざまな現実に対応していこうという人々と、イデオロギーに固執して現実を見ようとしない理想論、すなわち観念に縛られた人々との意識の差について考えさせられる記事だった。・・全盛代の中で若年層が安倍政権の支持基盤になっていることが浮き彫りになった。だが、現実を分析できない新聞は、これを「若者の保守化」と論じた。観念論の代表は朝日である。

・・・私は、昔の国会との差をどうしても考えてしまう。かつて野党には、論客がそろっていた。・・だが今は本質をずらす印象操作と揚げ足取りに終始するクレーマー国会と化してしまった。これを後押ししたのは、いうまでもなく新聞である。

・・・朝日新聞の動揺は、言うまでもなく販売店の“悲鳴”にある。もともと慰安婦報道の検証記事(2014年8月5日・6日付)で強まった朝日批判が読者の動揺を呼び起こし、部数は激減し、販売からの激しい突き上げが顕在化していた。これが「謝罪会見」の引き金になったのは、間違いない。

・・・記事が悪質だったのは、朝日は5月20日付の紙面で、吉田証言の中のこの「伝言が伝わっていない」部分と、福島第二原発に撤退したことが「良かった」と語っている部分を“欠落させて”報道していたことだ。有料でしか見られないインターネットの「朝日デジタル」のみ、これを掲載し、一般の読者からはこの部分を隠していたのである。朝日は省略したことについて記者会見で、「必ずしも必要なデータではないと考えていた」と釈明した。ジャーナリストして、信じられない言葉である。・・私は吉田調書を読んで、吉田さんの真意を踏みにじり、その部下をどこまでも貶めようとする朝日新聞の手法に、同じジャーナリストとして怒りを抑えることができなかった。なぜ朝日新聞はこのような報道を行うのか。それは、朝日新聞が長く続けてきた独特の「手法」と「姿勢」によるものである。それを私は「朝日的手法」と呼んでいる。朝日新聞の編集方針には、ファクトが先にあるのではなく、自分が言いたい「主張」や「イデオロギー」が先にある。

・・・大新聞が情報を独占し、加工して大衆に下げ渡していく時代がとっくに終焉しているのに朝日はそのことの目を向けなかった。インターネットの登場によるニュースメディア時代は、マスコミが情報を独占する時代を終わらせ、逆に大衆によって監視され、検証される時代に入っていることを示している。

・・・私が驚くのは、彼等には、日本を貶めている意識はなく、むしろ国家権力に対して厳しい記事を書いていると思い込んでいる点だ。中国や韓国を喜ばせるというような意識よりも、むしろ過去の日本を糾弾することで、「平和を愛する自分」に陶酔感を抱いているようなタイプが多いのだ。すなわち、朝日の記者は、「日本を貶めることを、権力と戦っているものと勘違いしている」としか、説明できないのである。

・・・「異論には耳を貸さず、力で踏みつぶせばいいのだという考えは許されない」という論調を掲げ、一方では自分と異なる意見や質問を問題視して、牙をむく姿勢、果たしてあなた方は言論の自由を守る意思はあるのですか、とつい聞きたくなる。問われているのは、言論人の「節度」ではないだろうか。

・・・風評被害を一刻も早く脱し、前進していこうという地元紙と、自主避難者への住宅無償提供を尚も税金負担で続けろ、と主張する全国紙―――さて、真の意味で、「福島復興」に寄与するのは、どちらなのだろうか。

・・・重要なのは、朝日・毎日には、一方のそういう受け取り方が書かれていないことだ。両紙が「安倍政権打倒」に執着したメディアであることは、もとより承知している。だが、自分の主張に都合の悪い情報は読者に提示せず、一方的な煽情記事を書くのが新聞の役割といえるのだろうか。自分たちが、すでに「新聞記者」ではなく「活動家」となり果てていることを認識することをこの際、強くお勧めしたい。

・・・新聞は、報じなければならないことを書かない。・・ただ法務省に迎合するような「総論」記事しかなかったからだ。本来の新聞ジャーナリズムの役割を完全に放棄していたのである。

・・・日本には、いつから恥ずべき“揚げ足取り文化”が定着してしまったのだろうか。国会やマスコミの報道を見ていると、誰しもそんな感想を抱かざるをえないだろう。・・野党やマスコミに、そもそも「見識」がないのだから、本質的な議論ができるはずもなく、国民もこれに我慢して付き合わなければならない。

・・・昨今、一部の新聞は、自分への批判は「ヘイトだ」と糾弾し、自分が批判するときは「差別だ」と言えば、世の中に通用するとでも思っているらしい。映画やテレビの制作者は、こんなレベルの低い新聞の批判など気にする必要はない。

・・・出版社の社長が、こうした見解を表明することなど厳に慎むべきなのはいうまでもない。いとも簡単に反対勢力の批判に屈してしまったことで、新潮社は取り返しのつかない禍根を後世に残してしまった。・・大切なことは、記事や書籍にはそれぞれの読み方があるということである。言論・表現の自由と共に、そうした自由に読んだうえでの「思想空間」もまた、同じように保証されるべきだということだ。・・言論・表現の自由の一翼を担う出版社には、いうまでもなく、批判に対する「対処の仕方」が求められる。それは「筆者と言論空間を守る」ということだ。これは絶対原則である。新潮社がやったことは、その原則を捨て去ったということに他ならない。

・・・「僕は君の意見には反対だ。しかし、君がそう主張する権利は、僕が命を懸けて守る」 言論・表現の自由がいかに大切かということの本質を、18世紀に生きたこのヴォルテールは語っている。

・・・酒鬼薔薇事件当時の新潮社には、元「週刊新潮」編集長・山田彦彌氏や元「フォーカス」編集長・後藤章夫氏という編集出身の両常務がいた。外部の作家に動かされて安っぽい正義感を振りかざす編集者たちを、二人が“一喝”して、いささかの揺らぎも外部に見せることはなかったのだ。新潮社は、一貫して「超然」としていたのである。

・・・私がいた頃の週刊新潮は、世の中の権威に対する「闘いのメディア」だった。・・あるいは、大新聞などのマスコミに至るまで、あらゆる「権力」が報道の対象となった。・・しかし、週刊新潮編集部には「俺たちは権力を監視している」などと大それたことを語る人間もいなければ、そんなことを実際に思っている人間もいなかった。なぜなら、ジャーナリズムにとって、それは、当たり前すぎることであり、同時に、どんなに粋がってみても、ジャーナリズムには「限界があること」を知っていたからだ。その一方で、さまざまな権力や圧力団体に対して、新聞やテレビといった大メディアは本当に弱かった。圧力団体にはひれ伏し、広告スポンサーの前では可哀想なくらい卑屈になっていた。・・新聞記者たちの中に、冒頭のように「権力の監視」などと大仰な言い方をする人間が増えてくるにつれ、逆に、新聞記事がファクト、つまり、事実ではなく、観念論にシフトしていることをより感じるようになった。自己陶酔した記者やジャーナリストたちは、本当にタチが悪い。』

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