不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか (鴻上尚史著 講談社現代新書)
私の伯父は少年飛行兵でした。この著作にある鉾田の飛行学校で訓練中に事故で殉職しました。しかし、そこで生きていても、恐らく多くの同期の方々と同様に特攻に行って戦死した可能性が高いと思われます。特攻については、本書にあるとおり、作戦そのものと、作戦に従事して戦死した英霊とは別の次元で考えるべきだと思います。それにしても、当時の軍上層部の無様さには、本当に辟易します。決してこのような人間にはならぬよう、いざというときに卑怯なふるまいをしないよう、自分を戒めていきたいと強く思いました。
・・・海軍の第一回の特攻隊として報道されたのは、世界的にも有名になった「神風特別攻撃隊」の「敷島隊」です。1944年10月25日のことでした。そして、陸軍の第一回特攻隊「万朶隊」は、海軍より2週間と少し遅れた11月12日に出撃します。海軍、陸軍共に、一回目の特攻隊は、優秀なパイロットが選ばれました。絶対に「特攻」という攻撃を成功させ、輝かしい戦果を上げる必要があると司令部が判断したからです。しかし、優秀であればあるほど、技術にプライドがあればあるほど、パイロットは怒り、苦悩しました。
・・・逓信省の管轄の養成所だったが、実際は、陸軍の予備役を作るための場所だった。平時は民間の仕事に従事し、必要な時に前線に投入して、軍人パイロットをバックアップするという構想だったのだ。逓信省航空局という名前に、生徒たちはスマートな制服を着用して民間機を操縦するパイロットを想像したが、軍隊同様の厳しい日常に、そんな甘い考えは吹っ飛んだ。
・・・もともと、養成所出身者は、「予備下士官」とバカにされる。正規の軍隊訓練を受けていない者ということだ。けれど、少年飛行兵よりも、操縦の腕が上の者が多くいた。それは、系統的な訓練方法と訓練時間の結果だった。「腕の予備下士、(軍人)精神の少年飛行兵」という言葉もあった。
・・・岩本大尉も竹下少佐も、体当たりには反対だった。理由は、体当たりが操縦者の生命と飛行機を犠牲にするだけで、効果があり得ないと考えるからだ。
・・・「身はたとへ南の海に散りぬともとどめおかまし大和だましひ」 和子は晴着を着て夫の傍らに座り、色紙に妻の心を歌にして記した。「家をすて妻を忘れて国のためつくしたまへとただ祈るなり」 岩本大尉は、和子の書いた色紙を落下傘袋の中に入れた。
・・・鉾田飛行師団では、毎月訓練中に最低でも二人の殉職者を出していた。技術を磨くことが、自分を支え、国のために尽くすことだと信じてきた。だが、「体当たり攻撃」は、そのすべての努力と技術の否定だった。・・岩本大尉は、陸軍参謀本部の作戦課員のその考えが許せなかった。操縦者に対する侮辱であり、操縦者を人間と思わない冷酷無比であり、作戦にもなっていない作戦を立案する大愚だと感じた。
・・・空母は全て、護衛空母と呼ばれる、商船を改装した船体の弱い空母だった。正規空母の約半分の大きさ、排水量は三分の一、搭載機も正規空母が100機以上なのに比べて、20機から30機だった。この空母は、輸送船団の上空に飛行機を飛ばして、潜水艦からの攻撃を護衛するのが任務だった。けれど、すべて正規空母をイメージさせる「空母」が発表された。零戦1機の特攻で空母を撃沈できるという「誤信」が生まれた瞬間だった。
・・・大西中将は部下にこう言っている。「こんなことをせねばならぬというのは、日本の作戦指導がいかに拙いか、ということを示しているんだよ。―――なあ、こりゃあね、統率の外道だよ」
・・・自分の生命と技術を、最も有意義に使い生かし、できるだけ多くの敵艦を沈めたい・・体当たり機は、操縦者を無駄に殺すだけではない。体当たりで、撃沈できる公算は少ないのだ。
・・・「飛行機乗りは、初めっから死ぬことは覚悟している。同じ死ぬなら、できるだけ有意義に死にたいだけさ。敵の船が一隻も沈むかどうかもわからんのに、ただ体当たりをやれ、「と」号機(特攻用飛行機)を作ったから乗っていけ、というのは、頭が足りないよ」佐々木は、歯噛みしながら岩本隊長の無念を思った。
・・・呑竜を失った小川団長は、自らの「所感録」に、はたしてこれでよかったのかと書きつけた。・・指揮官や参謀たちにとってそれは、壮烈な快感と言えるだろうが、少しも科学的ではなく、組織として努力していない。なんのための戦いなのだ。司令官たちは恥じるべきであると痛烈に批判した。
・・・社会人としての経験を積んだ後に召集されて軍隊に入った医者からすれば、死なせるために出撃させようとする司令部はいかにも非常識でバカバカしいと思えたのだ。
・・・レイテ決戦を指揮する第14方面軍が「自活自戦永久に抗戦を持続せよ」という最後の命令を出したのだ。自分で食料を調達し、自分で武器を何とかして戦えという、命令になっていない命令だった。「降伏」という概念がない以上、これしか言えなかった。
・・・富永司令が、エチャーゲ南飛行場から台湾に逃亡した。同行したのは、マッサージなどの身の回りの世話をしている准尉だけだった。・・戦後、生き延びた富永司令は、電報で命令を受けたのだと強弁した。・・儀式が大好きだった富永司令は、特攻隊員を前にして、必ず、この言葉を繰り返した。「決して諸君ばかりを死なせはしない。いずれこの富永も後から行く」
・・・「特攻の生みの親」と言われた大西瀧治郎中将は終戦の翌日、8月16日に自決した。54歳だった。
・・・どこにも休める椅子はなかった。椅子の板も壁の板も、剥がされ、壊されていた。それがたき火に燃やされていると気付いた時、佐々木は、戦争に負けるとはどういうことか、人々の心がどれだけ荒むかをきりきりと感じた。
・・・フィリピンの捕虜収容所では、アメリカ軍が内地に上陸すれば、日本の女性たちは貞操を守って自決するだろうと言い合っていた。けれど、今、目の前では日本の女性が、敵性語と言われた英語をしゃべり、アメリカ兵の腕にぶら下がっている。佐々木は、その光景を見ながら、猛烈な疑問が湧き上がってきた。「なんのための、体当たり攻撃だったのか」
・・・「お前らがだらしないから、いくさに負けたのだ。俺達のときとはえらい違いだ」日露戦争を生き抜いた人間としては、今回の敗戦は腹が立ってしょうがないようだった。なにかあると、父親は憤慨を口にした。
・・・友次さんが9回生きて帰ってきたというのは下士官だったことも大きいってことですか? 「そうですよ。下士官だから帰ってこれた」
・・・そのときの友次さんの本音はどうだったんですか? 「今度出たら死んでやるって気持ちもないわけじゃない。だけど生きてやるぞ、生きて帰れるかも知らんって気持ちもあったですね」
・・・「やっぱり無駄死にはしたくなかった。生きて帰るには条件として岩本大尉が言うように、沈めなきゃだめだぞって、それが第一条件で」 ―――沈めない限りは生きて帰るってことを思っちゃいかんと。 「そう。それは岩本大尉にはっきり言われたんですよ」
・・・―――やっぱり死んだ奴らに対して申し訳ないって思いが大きかったんですか? 「大きいどころじゃないですよ」 ―――それが一番ですか? 「一番ですね」 ―――あんまり大げさに自分の話をしてほしくないっていうのは、それが一番の動機ですか? 「それはそうですよ。死んだ奴が一番かわいそうで」 ―――もし友次さんが誰かを責めるとしたら、そんな人はいますか? 「いませんね」 ―――運命と時代ってことですかね? 「そうそう。奥原っていう戦友が眼と鼻の先で生き埋めになってそれきり死んだことが一番衝撃が走りましたね。だって2~3メートル離れていて片一方は生き埋めになっていて、即死ですよ。それで私は2~3メートル後ろを歩いていて泥かぶっただけでなんでもないんですからね。これはもう仏さんのおかげだと」
・・・―――自分が選ばれたというのを聞いた瞬間の気持ちって覚えてます? 「それは悲壮ですよ」
・・・―――その時はなにで自分を支えたんですか? 「やっぱり先祖。ご先祖様ですよ。いまもそう、仏様。当時はやっぱり仏様が一番精神的に強い(支え)ですよ」
・・・―――父親は、よう帰ってきたって言葉はなかったんですか? 「それは言えないですよ」
・・・大西瀧次郎中将のように、戦後自刃しなかった司令官たちは、ほとんどが「すべての特攻は志願だった」と証言します。私の意志と責任とはなんの関係もないのだと。
・・・この当時、10年たったら海軍は復活すると多くの人は考えていて、明治以来の立派な歴史を持った海軍を復活させたいという気持ちがあった。
・・・元特攻隊員の長峰良斉氏は、「(遺書は)それが必ず他人の(多くの場合は上官)の手を経て行くことをしっており、そこに(中略)「死にたくないのだが・・・」などとは書けない」と書いています。
・・・また、大学卒業者に対しても、複雑な気持ちがあったと語っています。「私と彼らは年齢的に近い。士官学校は大学よりも教育期間が短いでしょう(通常は2年)。だから「年齢が若くして参謀なんかになって、自分は特攻隊にならないで、我々素人を特攻隊用に大学から引っ張って」っていう態度が、(大学卒の特操には)消えなかったですね。「日本の教養のある人間を特攻隊にして。士官学校などという教育期間の短い人間には、軍人学はできるけども、経済学、政治学、外交関係、国際関係などの知識がない。おまえらこそ特攻に行け」と思っていたようです。」
・・・自ら志願したと判断できる場合があります。それは倉澤少佐が言ったように、陸軍なら少年飛行学校で、海軍なら予科練で10代の早いうちから軍人教育を何年も受けてきた場合だと考えられます。良く言えば純粋、別の言い方をすれば、軍隊以外の考え方を知らない若者たちです。・・エリートである士官達は、岩本大尉もそうでしたが、技術論として特攻に反対する人が多かったのです。岩本大尉は、当時の士官エリートがそうであったように、祖国を愛し、熱烈な天皇崇拝者でした。ですが、それと、作戦として「無意味な」特攻をすることは別だったのです。そして、予備士官や特操という、学生を経験した若者は、軍隊式思考に染まらず、批判的知性を持っていましたから、「この方法しか戦い方はないのか?」・・と苦悩したのです。
・・・「一億総懺悔」という、当時のリーダーにとってじつに都合のいい考え方は、国民の一定の支持を得ました。日本国民は、「私にも責任がある」と自省しました。それは、とても思いやりのある優しい国民性ですが、問題の所在を曖昧にし、再び同じことを繰り返す可能性を生むのです。「命令した側」と「命令された側」をごちゃまぜにしてしまうのは、思考の放棄でしかないのです。
・・・「特別」の攻撃だった体当たりは、沖縄では、「主流」になります。つまりは正規の作戦を放棄し、「統率の外道」である特攻を推進することを公然と宣言したのです。
・・・「私がこのように、今でも、彼等海軍上層部の連中を許せないのは、亡き友の真情を察する以外何物でもない。(中略)真の戦争の責任をこそ問われるべき連中が、戦没者の慰霊祭の際は、必ず出没し、英霊にぬかずき、涙を流し、今となって、特攻隊の勇敢さをほめたたえ、遺族をねぎらっているあの偽善の姿である。あのずうずうしさには、身震いさえ感じる」この手記が書かれたのは1979年でした。戦後、34年が過ぎても、「命令した側」に対する杉山元少尉の怒りは消えないのです。
・・・真珠湾攻撃の時、二人乗りの特殊潜航艇の攻撃を、当初、山本五十六司令長官は認めませんでした。生還が望めない攻撃は採用すべきではないとしたのです。出撃を求めて三度目の具申の結果、かなり生還の可能性は低いけれども、ゼロではないと判断されて、さらに隊員の収容方法の検討をという条件付きでやっと許可されました。
・・・アメリカは・・すぐに特攻隊対策を打ち出しました。艦上戦闘機を増やしたのもそうですが、空母から60カイリ(110キロ)のレーダー駆逐艦を広範囲に配備し、レーダーピケットと呼ばれる鉄壁の防御態勢を作り上げました。・・飛来する30分前には情報を確定することが可能になり、特攻機の上空で待ち構えることができるようになりました。特攻機は、突然、上空から襲ってくるアメリカ機に次々と撃ち落されたのです。・・フィリピン戦よりもさらにレーダーを潜り抜けて、アメリカ艦船に近づくということが非常に困難になりました。そして、近接信管の登場が決定打になりました。状況は劇的変わったのです。なのに、「命令した側」は、同じ命令を出し続けたのです。それも劣化した飛行機で、経験の浅い操縦士たちに。明らかに下がった命中率は無視して、軍司令部は、フィリピン戦での命中率を「揺るぎない事実」として作戦を立案しました。
・・・特攻が続いたのは、硬直した軍部の指導体制や過剰な精神主義、無責任な軍部・政治家たちの存在が原因と思われますが、主要な理由の一つは「戦争継続のため」に有効だったからだと、僕は思っています。
・・・自分達を分析し、相手を分析し、必要なことを見つけ出すことがリーダーの仕事なのです。それができなければ、リーダーではないのです。
・・・赤トンボを特攻に出そうという参謀に、こう言ったと紹介されています。「いまの若い搭乗員のなかに、死を恐れる者は誰もおりません。ただ、一命を賭して国に殉ずるためには、それだけの目的と意義が要ります。しかも、死にがいのある戦功をたてたいのは当然です。精神力一点張りの空念仏では、心から勇んで発つことはできません。同じ死ぬなら、確算のある手段を講じていただきたい」 こういうと参謀は「それなら、君に具体的な策があるというのか⁉」と興奮しました。美濃部少佐は唖然とします。参謀とは、作戦・用兵を立案するのが仕事です。いわば、作戦専門家の参謀が特攻攻撃しか思いつかず、一飛行隊長に代案を問うのです。その愚かさに気付いていないのです。
・・・「ああいう愚かな作戦をなぜ考えだしたか、私は今もそれも考えている。特攻作戦をエモーショナルに語ってはいけない。人間統帥、命令権威、人間集団の組織のこと、理性的につめて考えなければならない。あの愚かな作戦と、しかしあの作戦によって死んだパイロットとは全く次元が違うことも理解しなければならない」
・・・高校野球だけが問題なのではなく、みんななんとなく問題だと思っているのに、誰も言い出さないから「ただ続けることが目的」となっていることが、この国ではとても多いのじゃないかと僕は思っているのです。
・・・特攻はとてもナイーブで複雑な問題なのだとわかります。「命令した側」と「命令を受けた側」と、もうひとつ「命令を見ていた側」があったということです。一般論を語れば、どんな社会的な運動も「当事者」より「傍観者」の方が饒舌になります。・・「学生運動体験」も「新興宗教体験」も、熱く語るのは運動や組織の周辺にいた傍観者で、当事者は抱え込むのです。けれど、真実は当事者の言葉の中にあるのです。重い口を開いて語る当事者の思いが、歴史の闇に光を当てるのです。』
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