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2019年3月

2019年3月16日 (土)

日本型リーダーはなぜ失敗するのか (半藤一利著 文春新書)

筆者の日本型リーダーの定義には同意できませんし、中で引用しているクラウゼビッツの論述についての考え方にも全く的外れだと思いますが、太平洋戦争時の士官、将官の悪かったところ、良かったところがよく描かれていました。

・・・国内世論は、三国に対する敵愾心をつのらせ、ガゼン盛り上がりますが、政府は「臥薪嘗胆」をスローガンに「ここは我慢してくれ」とばかり、強硬派を押さえました。

・・・それにつけても、リーダーシップの観点から太平洋戦争を見渡して思うのは、ほんとうの意思決定者はだれなのかがよくわからないということです。それは外部から見てわからないのみならず、内部者にさえわからないということです。決定者はいるが、それは多くの場合参謀によるもので、そういう場合の指揮官は参謀の作文の代読者でしかなかった。下は上を上とも思わず、上は下に依存する仕組みとなっていたために、下克上が起きやすかった。太平洋戦争の始まる直前の、永野軍令部総長の有名な述懐があります。「中堅の参謀たちはよく勉強をしている。あの連中にまかせておけば、まず間違いはない」

・・・近代日本の軍隊は、日本型リーダーシップを確立し、意思決定者がだれであるのかをよく見えなくし、責任の所在を何となく曖昧にしてきました。指揮官には威厳と人徳があればいい。実質的にリーダーシップを発揮するのは参謀だった。それで参謀というものがとくに重視された。というわけで、参謀という「重責」を担う者たちを養成するためにつくられたのが、すなわち陸軍大学校と海軍大学校です。

・・・保坂正康さんは、瀬島をよく知るある参謀から、こんな人物評を聞いておられます。これ以上瀬島の本質を突いた評もなかろうと思われるので、そのまま紹介させていただきます。「瀬島という男を一言でいえば、“小才子、大局の明を欠く”ということばに尽きる。要するに世渡りのうまい軍人で、国家の一大事と自分の点数を引き換えにする軍人です。その結果が国家を誤らせたばかりでなく、何万何十万兵隊の血を流させた。私は、瀬島こそ点数主義の日本陸軍の誤りを象徴していると思っている」

・・・サハラ砂漠で、名将ロンメル元帥率いるドイツの戦車機甲師団を破ったイギリス第8軍司令官モンゴメリー大将は、戦場の指揮官について論じています。「リーダーシップとは、人を共通の目的に団結させる能力と意志であり、人に信頼の念を起こさせる人格の力である」と。

・・・「もうそっとしておいてもらいたい。戦争のことは、話すことはおろか、聞くも読むもゴメンだ。まあ、そうだな、このままそっと消えていきたい気持ちだよ。ほんとうに数多くの優秀な人を死なせてしまった。申し訳ないと思っている。それを思うと、周囲の情勢がガラリと変わったからといって、主義主張を変えて平気な連中の多いことを、わしは心から残念に思うのだが・・・」 ようやくこれだけ語ってくれました。生き残った将官の戦後の変節に憤怒の棘をチクリと刺し、口を真一文字に結んだのを覚えています。オトリとして撃滅される作戦任務を遂行した小沢中将。空母を沈めたくさんの部下を死なせた悔いは、生涯去ることがなかったことと思います。

・・・「寺内艦長は人間が大きかったのかな。毎晩のように士官と酒を飲んでは大きな声で笑っていました。その声が不思議なくらい安心感を与えてくれたんです。この人についていけば大丈夫だ、うちの艦長が艦橋で指揮に立ったら、ぜったい敵の魚雷も弾もあたらない、と思っていました」とは、元「雪風」乗組員から聞いた話です。どんな戦闘でもけっして沈むことはないと思えば、戦いぶりもおのずと果敢となる。

・・・本田(宗一郎)さんはたいへん気に入ってくれて、神楽坂の料亭でご馳走してくれました。そのとき聞かせてくれた話のメモが残っています。そのまま紹介します。「日本人はこうやるといいという理屈だけ知っていて、実行しない。その点アメリカ人は違う、すぐ実行に移す」 「日本人は新しい機械を買うと、工場の片隅に大切にしまってあまり使わない。そして使わない機械をいつも新しいものだと思い続けている」 「古い伝統と歴史を持つ会社はかならず伝統を大事にする。しかし、大事にしすぎると古い観念と技術が温存され、退歩するばかりとなる。昔のワクをはずさぬとパイオニア的仕事はできぬ」

・・・彼(大原總一郎氏)が言ったことは要するに、同じことを二度やるな、ということでした。成功体験を日本人は大事にして、それをもういっぺんやりたがるが、それではだめなんだと。こうも言いました。「新しい仕事は、十人のうち一人か二人が賛成したときが、始めるべきときである」 全員反対というのはだめ。2、3人ぐらいがちょうどいいというのです。けれども5人も賛成したら、そのプランを商品化するにはベストタイミングを逸している。

・・・東條内閣は7月に総辞職し、東條自身は予備役になっています。本を読んでいた近衛に、東條は話しかけるでもなくこう言ったそうです。「自分は二つの間違いをやった。その一つは、南方占領地区の資源を急速に戦力化し得るとおもったこと。その二は、日本は負けるかもしれないと思い及ばなかったことだ」この遅すぎる後悔は、いずれも情報を軽んじたことのよるものでした。

・・・米南太平洋方面軍司令官ハルゼイが、作戦会議の席で幕僚たちにこう訓示しています。「日本人というやつは一回うまくいくと、かならず同じことを繰り返す。そしてまた日本人はひと戦さ終わるとすぐ引き揚げて、戦果を徹底的に拡大することはないから、たとえ少しぐらい艦が沈んでも、あわてる必要はない。最後には必ず勝てる」

・・・井上が戦後に「新軍備計画論」の論旨について述べています。「戦艦不要論」と「海軍の航空化」が骨子でした。一、航空機の発達した今日、これからの戦争では、主力艦隊と主力艦隊の決戦などは絶対に起こらない。 二、巨額の金を食う戦艦など建造する必要なし。敵の戦艦など何ほどあろうと、我に十分な航空戦力あれば、みな撃沈することができる。 三、陸上航空基地は絶対の不沈空母である。空母は運動力を有するから使用上便利だが、きわめて脆弱である。ゆえに海軍航空兵力の主力は基地航空兵力であるべきである。 四、対米戦において、陸上基地は国防兵力の主力であって、太平洋に散在する島々は天与の宝で、非常に大切なものである。 五、対米戦ではこれら基地争奪戦が必ず主作戦になることを断言する。換言すれば、上陸作戦ならびにその防御戦が主作戦になる。 六、右の意味から基地の戦力の持続が何より大切なる故、何をさておいても、基地の要塞化を急速に実施すべきである。 七、したがってまた基地航空兵力第一主義で、航空兵力を整備充実すべきである。これがため戦艦・巡洋艦のごときは犠牲にしてよろしい。 八、次に、日本が生存し、かつ戰さを続けるためには、海上交通の確保はきわめて大切であるから、これに要する兵力は第二に充実するの要あり。 九、潜水艦は、基地防御にも通商保護にも、攻撃にも使える艦種なるゆえ、第三位に考えて充実すべき兵種である。・・このあと八月に、井上は第四艦隊司令長官に任じられて南太平洋のトラック島に赴任することとなりました。うるさい奴だからと、体よく中央を追われたのです。・・きちんと頭を下げて根回しをして、という手続きが必要なところなんです。そういうことがきちんとできる人を政治力があると言い、権力の使い方を知っている、と一般に言う。しかし、どう考えても、それこそが日本型リーダーシップの残滓というものではないでしょうか。あるいは日本型たこつぼ社会における小集団主義と言い換えてもいい。

・・・この言葉(リメンバー・パールハーバー)は真珠湾攻撃直後にルーズベルト大統領がいったように思っている人が多いが、それは間違い。ハルゼイがこのときに、将兵に全力を尽くさせるために言ったスローガンであったのです。

・・・ほんとうに気の合うものだけで数十人単位の分隊を作れと部下に命じたのです。この分隊のなかで一番くらいの上の者が指揮を執れと。宮崎は、「こいつとならいっしょに死ねる」とお互いに思える者同士の集団は強い、ということがわかっていたのです。これが効きました。』

2019年3月 3日 (日)

不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか (鴻上尚史著 講談社現代新書)

私の伯父は少年飛行兵でした。この著作にある鉾田の飛行学校で訓練中に事故で殉職しました。しかし、そこで生きていても、恐らく多くの同期の方々と同様に特攻に行って戦死した可能性が高いと思われます。特攻については、本書にあるとおり、作戦そのものと、作戦に従事して戦死した英霊とは別の次元で考えるべきだと思います。それにしても、当時の軍上層部の無様さには、本当に辟易します。決してこのような人間にはならぬよう、いざというときに卑怯なふるまいをしないよう、自分を戒めていきたいと強く思いました。

『・・・「振武寮」は、死ななかった特攻隊員を、外部に知られないように軟禁する場所だった・・陸軍の正式な記録には一切残っていない寮です。・・大貫さんは、すでに自分の戦死公報が親元に届けられていたことが、「振武寮」に送られた大きな理由だったのではないかと考えています。特攻隊員が生きて帰ってきたことを他の兵隊達が知ってしまうと戦意が鈍る、だから隔離しなければいけないという一番の理由に加えて、死んだと発表した以上、極力、人目にさらしたくなかったのではないか、ということです。

・・・海軍の第一回の特攻隊として報道されたのは、世界的にも有名になった「神風特別攻撃隊」の「敷島隊」です。1944年10月25日のことでした。そして、陸軍の第一回特攻隊「万朶隊」は、海軍より2週間と少し遅れた1112日に出撃します。海軍、陸軍共に、一回目の特攻隊は、優秀なパイロットが選ばれました。絶対に「特攻」という攻撃を成功させ、輝かしい戦果を上げる必要があると司令部が判断したからです。しかし、優秀であればあるほど、技術にプライドがあればあるほど、パイロットは怒り、苦悩しました。

・・・逓信省の管轄の養成所だったが、実際は、陸軍の予備役を作るための場所だった。平時は民間の仕事に従事し、必要な時に前線に投入して、軍人パイロットをバックアップするという構想だったのだ。逓信省航空局という名前に、生徒たちはスマートな制服を着用して民間機を操縦するパイロットを想像したが、軍隊同様の厳しい日常に、そんな甘い考えは吹っ飛んだ。

・・・もともと、養成所出身者は、「予備下士官」とバカにされる。正規の軍隊訓練を受けていない者ということだ。けれど、少年飛行兵よりも、操縦の腕が上の者が多くいた。それは、系統的な訓練方法と訓練時間の結果だった。「腕の予備下士、(軍人)精神の少年飛行兵」という言葉もあった。

・・・岩本大尉も竹下少佐も、体当たりには反対だった。理由は、体当たりが操縦者の生命と飛行機を犠牲にするだけで、効果があり得ないと考えるからだ。

・・・「身はたとへ南の海に散りぬともとどめおかまし大和だましひ」 和子は晴着を着て夫の傍らに座り、色紙に妻の心を歌にして記した。「家をすて妻を忘れて国のためつくしたまへとただ祈るなり」 岩本大尉は、和子の書いた色紙を落下傘袋の中に入れた。

・・・鉾田飛行師団では、毎月訓練中に最低でも二人の殉職者を出していた。技術を磨くことが、自分を支え、国のために尽くすことだと信じてきた。だが、「体当たり攻撃」は、そのすべての努力と技術の否定だった。・・岩本大尉は、陸軍参謀本部の作戦課員のその考えが許せなかった。操縦者に対する侮辱であり、操縦者を人間と思わない冷酷無比であり、作戦にもなっていない作戦を立案する大愚だと感じた。

・・・空母は全て、護衛空母と呼ばれる、商船を改装した船体の弱い空母だった。正規空母の約半分の大きさ、排水量は三分の一、搭載機も正規空母が100機以上なのに比べて、20機から30機だった。この空母は、輸送船団の上空に飛行機を飛ばして、潜水艦からの攻撃を護衛するのが任務だった。けれど、すべて正規空母をイメージさせる「空母」が発表された。零戦1機の特攻で空母を撃沈できるという「誤信」が生まれた瞬間だった。

・・・大西中将は部下にこう言っている。「こんなことをせねばならぬというのは、日本の作戦指導がいかに拙いか、ということを示しているんだよ。―――なあ、こりゃあね、統率の外道だよ」

・・・自分の生命と技術を、最も有意義に使い生かし、できるだけ多くの敵艦を沈めたい・・体当たり機は、操縦者を無駄に殺すだけではない。体当たりで、撃沈できる公算は少ないのだ。

・・・「飛行機乗りは、初めっから死ぬことは覚悟している。同じ死ぬなら、できるだけ有意義に死にたいだけさ。敵の船が一隻も沈むかどうかもわからんのに、ただ体当たりをやれ、「と」号機(特攻用飛行機)を作ったから乗っていけ、というのは、頭が足りないよ」佐々木は、歯噛みしながら岩本隊長の無念を思った。

・・・呑竜を失った小川団長は、自らの「所感録」に、はたしてこれでよかったのかと書きつけた。・・指揮官や参謀たちにとってそれは、壮烈な快感と言えるだろうが、少しも科学的ではなく、組織として努力していない。なんのための戦いなのだ。司令官たちは恥じるべきであると痛烈に批判した。

・・・社会人としての経験を積んだ後に召集されて軍隊に入った医者からすれば、死なせるために出撃させようとする司令部はいかにも非常識でバカバカしいと思えたのだ。

・・・レイテ決戦を指揮する第14方面軍が「自活自戦永久に抗戦を持続せよ」という最後の命令を出したのだ。自分で食料を調達し、自分で武器を何とかして戦えという、命令になっていない命令だった。「降伏」という概念がない以上、これしか言えなかった。

・・・富永司令が、エチャーゲ南飛行場から台湾に逃亡した。同行したのは、マッサージなどの身の回りの世話をしている准尉だけだった。・・戦後、生き延びた富永司令は、電報で命令を受けたのだと強弁した。・・儀式が大好きだった富永司令は、特攻隊員を前にして、必ず、この言葉を繰り返した。「決して諸君ばかりを死なせはしない。いずれこの富永も後から行く」

・・・「特攻の生みの親」と言われた大西瀧治郎中将は終戦の翌日、8月16日に自決した。54歳だった。

・・・どこにも休める椅子はなかった。椅子の板も壁の板も、剥がされ、壊されていた。それがたき火に燃やされていると気付いた時、佐々木は、戦争に負けるとはどういうことか、人々の心がどれだけ荒むかをきりきりと感じた。

・・・フィリピンの捕虜収容所では、アメリカ軍が内地に上陸すれば、日本の女性たちは貞操を守って自決するだろうと言い合っていた。けれど、今、目の前では日本の女性が、敵性語と言われた英語をしゃべり、アメリカ兵の腕にぶら下がっている。佐々木は、その光景を見ながら、猛烈な疑問が湧き上がってきた。「なんのための、体当たり攻撃だったのか」

・・・「お前らがだらしないから、いくさに負けたのだ。俺達のときとはえらい違いだ」日露戦争を生き抜いた人間としては、今回の敗戦は腹が立ってしょうがないようだった。なにかあると、父親は憤慨を口にした。

・・・友次さんが9回生きて帰ってきたというのは下士官だったことも大きいってことですか? 「そうですよ。下士官だから帰ってこれた」

・・・そのときの友次さんの本音はどうだったんですか? 「今度出たら死んでやるって気持ちもないわけじゃない。だけど生きてやるぞ、生きて帰れるかも知らんって気持ちもあったですね」

・・・「やっぱり無駄死にはしたくなかった。生きて帰るには条件として岩本大尉が言うように、沈めなきゃだめだぞって、それが第一条件で」 ―――沈めない限りは生きて帰るってことを思っちゃいかんと。 「そう。それは岩本大尉にはっきり言われたんですよ」

・・・―――やっぱり死んだ奴らに対して申し訳ないって思いが大きかったんですか? 「大きいどころじゃないですよ」 ―――それが一番ですか? 「一番ですね」 ―――あんまり大げさに自分の話をしてほしくないっていうのは、それが一番の動機ですか? 「それはそうですよ。死んだ奴が一番かわいそうで」 ―――もし友次さんが誰かを責めるとしたら、そんな人はいますか? 「いませんね」 ―――運命と時代ってことですかね? 「そうそう。奥原っていう戦友が眼と鼻の先で生き埋めになってそれきり死んだことが一番衝撃が走りましたね。だって2~3メートル離れていて片一方は生き埋めになっていて、即死ですよ。それで私は2~3メートル後ろを歩いていて泥かぶっただけでなんでもないんですからね。これはもう仏さんのおかげだと」

・・・―――自分が選ばれたというのを聞いた瞬間の気持ちって覚えてます? 「それは悲壮ですよ」

・・・―――その時はなにで自分を支えたんですか? 「やっぱり先祖。ご先祖様ですよ。いまもそう、仏様。当時はやっぱり仏様が一番精神的に強い(支え)ですよ」

・・・―――父親は、よう帰ってきたって言葉はなかったんですか? 「それは言えないですよ」

・・・大西瀧次郎中将のように、戦後自刃しなかった司令官たちは、ほとんどが「すべての特攻は志願だった」と証言します。私の意志と責任とはなんの関係もないのだと。

・・・この当時、10年たったら海軍は復活すると多くの人は考えていて、明治以来の立派な歴史を持った海軍を復活させたいという気持ちがあった。

・・・元特攻隊員の長峰良斉氏は、「(遺書は)それが必ず他人の(多くの場合は上官)の手を経て行くことをしっており、そこに(中略)「死にたくないのだが・・・」などとは書けない」と書いています。

・・・また、大学卒業者に対しても、複雑な気持ちがあったと語っています。「私と彼らは年齢的に近い。士官学校は大学よりも教育期間が短いでしょう(通常は2年)。だから「年齢が若くして参謀なんかになって、自分は特攻隊にならないで、我々素人を特攻隊用に大学から引っ張って」っていう態度が、(大学卒の特操には)消えなかったですね。「日本の教養のある人間を特攻隊にして。士官学校などという教育期間の短い人間には、軍人学はできるけども、経済学、政治学、外交関係、国際関係などの知識がない。おまえらこそ特攻に行け」と思っていたようです。」

・・・自ら志願したと判断できる場合があります。それは倉澤少佐が言ったように、陸軍なら少年飛行学校で、海軍なら予科練で10代の早いうちから軍人教育を何年も受けてきた場合だと考えられます。良く言えば純粋、別の言い方をすれば、軍隊以外の考え方を知らない若者たちです。・・エリートである士官達は、岩本大尉もそうでしたが、技術論として特攻に反対する人が多かったのです。岩本大尉は、当時の士官エリートがそうであったように、祖国を愛し、熱烈な天皇崇拝者でした。ですが、それと、作戦として「無意味な」特攻をすることは別だったのです。そして、予備士官や特操という、学生を経験した若者は、軍隊式思考に染まらず、批判的知性を持っていましたから、「この方法しか戦い方はないのか?」・・と苦悩したのです。

・・・「一億総懺悔」という、当時のリーダーにとってじつに都合のいい考え方は、国民の一定の支持を得ました。日本国民は、「私にも責任がある」と自省しました。それは、とても思いやりのある優しい国民性ですが、問題の所在を曖昧にし、再び同じことを繰り返す可能性を生むのです。「命令した側」と「命令された側」をごちゃまぜにしてしまうのは、思考の放棄でしかないのです。

・・・「特別」の攻撃だった体当たりは、沖縄では、「主流」になります。つまりは正規の作戦を放棄し、「統率の外道」である特攻を推進することを公然と宣言したのです。

・・・「私がこのように、今でも、彼等海軍上層部の連中を許せないのは、亡き友の真情を察する以外何物でもない。(中略)真の戦争の責任をこそ問われるべき連中が、戦没者の慰霊祭の際は、必ず出没し、英霊にぬかずき、涙を流し、今となって、特攻隊の勇敢さをほめたたえ、遺族をねぎらっているあの偽善の姿である。あのずうずうしさには、身震いさえ感じる」この手記が書かれたのは1979年でした。戦後、34年が過ぎても、「命令した側」に対する杉山元少尉の怒りは消えないのです。

・・・真珠湾攻撃の時、二人乗りの特殊潜航艇の攻撃を、当初、山本五十六司令長官は認めませんでした。生還が望めない攻撃は採用すべきではないとしたのです。出撃を求めて三度目の具申の結果、かなり生還の可能性は低いけれども、ゼロではないと判断されて、さらに隊員の収容方法の検討をという条件付きでやっと許可されました。

・・・アメリカは・・すぐに特攻隊対策を打ち出しました。艦上戦闘機を増やしたのもそうですが、空母から60カイリ(110キロ)のレーダー駆逐艦を広範囲に配備し、レーダーピケットと呼ばれる鉄壁の防御態勢を作り上げました。・・飛来する30分前には情報を確定することが可能になり、特攻機の上空で待ち構えることができるようになりました。特攻機は、突然、上空から襲ってくるアメリカ機に次々と撃ち落されたのです。・・フィリピン戦よりもさらにレーダーを潜り抜けて、アメリカ艦船に近づくということが非常に困難になりました。そして、近接信管の登場が決定打になりました。状況は劇的変わったのです。なのに、「命令した側」は、同じ命令を出し続けたのです。それも劣化した飛行機で、経験の浅い操縦士たちに。明らかに下がった命中率は無視して、軍司令部は、フィリピン戦での命中率を「揺るぎない事実」として作戦を立案しました。

・・・特攻が続いたのは、硬直した軍部の指導体制や過剰な精神主義、無責任な軍部・政治家たちの存在が原因と思われますが、主要な理由の一つは「戦争継続のため」に有効だったからだと、僕は思っています。

・・・自分達を分析し、相手を分析し、必要なことを見つけ出すことがリーダーの仕事なのです。それができなければ、リーダーではないのです。

・・・赤トンボを特攻に出そうという参謀に、こう言ったと紹介されています。「いまの若い搭乗員のなかに、死を恐れる者は誰もおりません。ただ、一命を賭して国に殉ずるためには、それだけの目的と意義が要ります。しかも、死にがいのある戦功をたてたいのは当然です。精神力一点張りの空念仏では、心から勇んで発つことはできません。同じ死ぬなら、確算のある手段を講じていただきたい」 こういうと参謀は「それなら、君に具体的な策があるというのか⁉」と興奮しました。美濃部少佐は唖然とします。参謀とは、作戦・用兵を立案するのが仕事です。いわば、作戦専門家の参謀が特攻攻撃しか思いつかず、一飛行隊長に代案を問うのです。その愚かさに気付いていないのです。

・・・「ああいう愚かな作戦をなぜ考えだしたか、私は今もそれも考えている。特攻作戦をエモーショナルに語ってはいけない。人間統帥、命令権威、人間集団の組織のこと、理性的につめて考えなければならない。あの愚かな作戦と、しかしあの作戦によって死んだパイロットとは全く次元が違うことも理解しなければならない」

・・・高校野球だけが問題なのではなく、みんななんとなく問題だと思っているのに、誰も言い出さないから「ただ続けることが目的」となっていることが、この国ではとても多いのじゃないかと僕は思っているのです。

・・・特攻はとてもナイーブで複雑な問題なのだとわかります。「命令した側」と「命令を受けた側」と、もうひとつ「命令を見ていた側」があったということです。一般論を語れば、どんな社会的な運動も「当事者」より「傍観者」の方が饒舌になります。・・「学生運動体験」も「新興宗教体験」も、熱く語るのは運動や組織の周辺にいた傍観者で、当事者は抱え込むのです。けれど、真実は当事者の言葉の中にあるのです。重い口を開いて語る当事者の思いが、歴史の闇に光を当てるのです。』

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