新聞記事から(「非軍事こそ平和」は無責任だ (加藤良三 産経新聞30.11.23朝刊))
こういう論調が普通に新聞に載せられるようになったことは、望ましいことだと思いますが、遅すぎたということにならないことを祈ります。
日本が出遅れていることにはいろいろ理由があるだろうが、決して無関係ではないと思われることの一つに、日本のメディアやアカデミアに見られる「軍事(ミリタリー)忌避症候群」とでも称すべきものがある。
かつて三木武夫内閣から鈴木善幸内閣にかけて「平和」とは即、「非軍事」のことであるというのが政府の立場になっていた。
世界の中で日本以外にこういう考え方を取る国は多分ない。世界主要国の「平和」とは「非侵略」(non-aggression)のことであって、「非軍事」(non-military)のことではない。アメリカで安全保障問題について最もナイーブな大統領だといわれ、引退後も北朝鮮との関係に関与し、1990年代から一貫して融和的な解決を求め続けているジミー・カーター氏でも、自身が関わった中東平和キャンプ・デービッド合意成立の際のスピーチで「平和とは決して与えられるものではない。それは闘い取る(wage)ものである」と述べている。
翻って、日本では今も「平和=非軍事」という「魔よけの札」が通用しているのかと訝しくなることがある。例えば日本学術会議は所管する研究(リサーチ)から「軍事」の要素を排除している。内閣総理大臣を議長とする「総合科学技術・イノベーション会議」において防衛大臣は常設メンバーになっていない。
軍事と民生を分ける基準は何なのか。武器とは何か。「鉛筆で核の設計図を書けるから」「自転車で戦術核の一個くらい運べるから」これらは核兵器システムの一部だというのは非常識だろう。サイバー技術は「軍用」にも「民生用」にもなり、また「攻撃」「防御」いずれにも使える技術であるに違いない。この種の技術の研究開発から「軍事」を排除するという発想がよく理解できない。
増大する地球の人口を養うには不断の技術開発が要る。日本はその要請に応えられる数少ない国の一つだろう。それ以前に、日本が「国際社会で名誉ある地位を占め」、一目置かれる国であり続けようと願うなら、可能な限り制約を排して、持てる技術と頭脳を最大限に活用するしかないではないか。
今後とも生み出される先端技術の殆どは「両用(汎用)」のものであろう。軍事目的で開発される技術が民生技術に転化し、逆に民生目的で開発される技術が軍事用に転化するケースは引きも切らないだろう。
軍用と両用(汎用)の厳密な区別をつけ難い客観情勢の下で、研究開発のスポンサーの中に軍がいるといった観念的な基準によって、自国の技術研究開発に自ら「拘束衣」をかぶせるというのは、国家安全保障政策の観点から見て寧ろ危険とさえ言える考え方ではなかろうか。そう思う理由は次のようなものである。
① 日本は引き続き抑制的で実効性ある国防態勢を維持すべきであると、筆者は一貫して思っている。が、今の世界情勢の中にあって前述の軍事、非軍事峻別主義に立って日本国内及び同盟・友好国主催の重要な研究開発から身を引くべきだという思い込みは、日本の正統な防衛努力に水を差すものではないか。
② 一旦「非軍事」だということになって進む研究開発の成果は、それが軍事的に機微な意味合いを持つものであっても、緊張感を欠いたまま望ましくない相手に「海外流出」してしまわないか。
③ そして日本の産業のあるべき発展の芽を摘むことにならないか。その結果、日本の国力がそがれ、日本が衰えるとき、誰か責任を取る用意や覚悟はあるのか-。
筆者が1965年に初めて渡米した頃、日本に比べ何もかもアメリカが上に見えた。水洗トイレ、シャワー、集中暖房を備え、清潔で公衆道徳が断然高い国だと思った。当時、日本の公衆道徳は敗戦の後遺症があって甚だ悪かった。
それ以降の日本は様変わりである。その間の筆者の一貫した印象は「衣食足りて礼節を知る」というのは真理だということである。今、日本は世界で何十年かにわたり最も「好感度」の高い国であり、それを支えてきたものは経済・技術・文化力を包含した国の総合力だろう。今の日本があるのは「衣食足りた」が故のことで、その根本が揺らいだらどうなるか考えて、不安になることがある。
「成功の犠牲」という言葉がある。近年のアメリカにはそれを身に染みて感じている人いるだろう。日本もこれまでの「成功の犠牲」に身を窶(やつ)すことのないよう、わが身を顧みるべき時だろう。』