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2018年11月

2018年11月23日 (金)

新聞記事から(「非軍事こそ平和」は無責任だ (加藤良三 産経新聞30.11.23朝刊))

こういう論調が普通に新聞に載せられるようになったことは、望ましいことだと思いますが、遅すぎたということにならないことを祈ります。

『 安全保障政策の中におけるサイバー、宇宙、電子戦、それらの手段としての人工知能(AI)などのウエートが飛躍的に高まっている。にもかかわらず日本の対応が米中露などに比べ著しく出遅れているとの懸念をよく耳にする。事実とすれば由々しきことである。

 日本が出遅れていることにはいろいろ理由があるだろうが、決して無関係ではないと思われることの一つに、日本のメディアやアカデミアに見られる「軍事(ミリタリー)忌避症候群」とでも称すべきものがある。

 かつて三木武夫内閣から鈴木善幸内閣にかけて「平和」とは即、「非軍事」のことであるというのが政府の立場になっていた。

 世界の中で日本以外にこういう考え方を取る国は多分ない。世界主要国の「平和」とは「非侵略」(non-aggression)のことであって、「非軍事」(non-military)のことではない。アメリカで安全保障問題について最もナイーブな大統領だといわれ、引退後も北朝鮮との関係に関与し、1990年代から一貫して融和的な解決を求め続けているジミー・カーター氏でも、自身が関わった中東平和キャンプ・デービッド合意成立の際のスピーチで「平和とは決して与えられるものではない。それは闘い取る(wage)ものである」と述べている。

 翻って、日本では今も「平和=非軍事」という「魔よけの札」が通用しているのかと訝しくなることがある。例えば日本学術会議は所管する研究(リサーチ)から「軍事」の要素を排除している。内閣総理大臣を議長とする「総合科学技術・イノベーション会議」において防衛大臣は常設メンバーになっていない。

 軍事と民生を分ける基準は何なのか。武器とは何か。「鉛筆で核の設計図を書けるから」「自転車で戦術核の一個くらい運べるから」これらは核兵器システムの一部だというのは非常識だろう。サイバー技術は「軍用」にも「民生用」にもなり、また「攻撃」「防御」いずれにも使える技術であるに違いない。この種の技術の研究開発から「軍事」を排除するという発想がよく理解できない。

 増大する地球の人口を養うには不断の技術開発が要る。日本はその要請に応えられる数少ない国の一つだろう。それ以前に、日本が「国際社会で名誉ある地位を占め」、一目置かれる国であり続けようと願うなら、可能な限り制約を排して、持てる技術と頭脳を最大限に活用するしかないではないか。

 今後とも生み出される先端技術の殆どは「両用(汎用)」のものであろう。軍事目的で開発される技術が民生技術に転化し、逆に民生目的で開発される技術が軍事用に転化するケースは引きも切らないだろう。

 軍用と両用(汎用)の厳密な区別をつけ難い客観情勢の下で、研究開発のスポンサーの中に軍がいるといった観念的な基準によって、自国の技術研究開発に自ら「拘束衣」をかぶせるというのは、国家安全保障政策の観点から見て寧ろ危険とさえ言える考え方ではなかろうか。そう思う理由は次のようなものである。

 日本は引き続き抑制的で実効性ある国防態勢を維持すべきであると、筆者は一貫して思っている。が、今の世界情勢の中にあって前述の軍事、非軍事峻別主義に立って日本国内及び同盟・友好国主催の重要な研究開発から身を引くべきだという思い込みは、日本の正統な防衛努力に水を差すものではないか。

 一旦「非軍事」だということになって進む研究開発の成果は、それが軍事的に機微な意味合いを持つものであっても、緊張感を欠いたまま望ましくない相手に「海外流出」してしまわないか。

 そして日本の産業のあるべき発展の芽を摘むことにならないか。その結果、日本の国力がそがれ、日本が衰えるとき、誰か責任を取る用意や覚悟はあるのか-。

 筆者が1965年に初めて渡米した頃、日本に比べ何もかもアメリカが上に見えた。水洗トイレ、シャワー、集中暖房を備え、清潔で公衆道徳が断然高い国だと思った。当時、日本の公衆道徳は敗戦の後遺症があって甚だ悪かった。

 それ以降の日本は様変わりである。その間の筆者の一貫した印象は「衣食足りて礼節を知る」というのは真理だということである。今、日本は世界で何十年かにわたり最も「好感度」の高い国であり、それを支えてきたものは経済・技術・文化力を包含した国の総合力だろう。今の日本があるのは「衣食足りた」が故のことで、その根本が揺らいだらどうなるか考えて、不安になることがある。

 「成功の犠牲」という言葉がある。近年のアメリカにはそれを身に染みて感じている人いるだろう。日本もこれまでの「成功の犠牲」に身を窶(やつ)すことのないよう、わが身を顧みるべき時だろう。』

2018年11月 4日 (日)

蒙古襲来 (菊池道人著 PHP文庫)

マンガ「アンゴルモア」で元寇について興味を持ち、本著を読んでみました。一巻しかありませんが、壮大な物語でした。また、元寇とは、本当に「国難」であったのだと、痛感しました。一歩間違えれば、我が国の姿は今とはまったく違ったものになっていたかもしれません。言葉では言い表せない先人の懸命な努力に感謝します。

『 この物語よりも四十数年前の1223年には、倭人が高麗南部金州を襲ったことが「高麗史」にも記されている。後の世に「倭寇」と呼ばれる海賊団の先駆け的な行為がすでにしばしば見られていた。 

 ・・・鎌倉幕府も民間貿易を認めたので、博多の町は、宋への窓口のような役割を果たしていた。日本に住み着く宋人も多く、彼らは綱首(こうしゅ)と呼ばれていた。 

 ・・・1231年の1回目から・・「とらえられた者男女20万あまり、殺された者は数えきれない。蒙古が通る州都はみな灰燼となった」と後に伝えられた1254年の6回目にまで及ぶ、蒙古の侵略に疲れ果てた高麗王朝は、ついに膝を屈したのである。

・・・

いわゆる倭寇が頻発するのはこれより後の室町時代だが、すでにこの元宗の代から、「倭人寇す」の記述が「高麗史」にも見えるようになる。

・・・

大宰府が筑前国に置かれた年代は、正確には不明だが、すでに崇峻天皇5年に「筑紫将軍職」、推古天皇17年に「筑紫大宰」という名で、軍事・外交を司る役所が存在していた。大宰府の名称が史上に現れるのは、この物語よりも6世紀前の天智天皇の代である。・・律令体制下においては、従三位相当の帥が大宰府の最高責任者で、その次官として大弐・少弐が置かれ、軍事・外交の他に、日向・薩摩・大隅・壱岐・対馬の三国・二島の国司の職務も統括した。

・・・

保元の乱に勝利した平清盛は、大宰大弐に任命され、さらにその後、彼の弟・頼盛がその職を継ぐと、現地に赴任して、九州の豪族たちとの結びつきを強め、平氏政権樹立への足掛かりとした。その平氏を滅ぼした源頼朝は、御家人の天野遠景を鎮西奉行に任じて、九州支配に乗り出し、さらに後任の武藤資頼(すけより)が、大宰少弐に任ぜられて以来、鎮西奉行と大宰府は一体化し、律令以来の職務を権威を継承していた。武藤氏は以来、少弐という官職名をその姓とするようになり、この物語の時代の少弐は資頼の子の資能、すなわち経資、景資兄弟の父であった。

・・・

兵乱も天災も、呪術的な宗教儀礼によって解決しようとするのが、古代から中世の貴族たちの、今日から見ればあまりにも滑稽な習わしであった。そして、それがなまじ候を奏したかのような結果になれば、益々信仰心は堅固になり、さらには現実的な判断すら困難になるような頑迷さとなっていく。

・・・

通有が指摘したように、異敵襲来の危機においては、海外からの情報網が乏しいということが北条政権の欠点でもあった。

・・・

宗王朝の軍隊は傭兵制であるので、日本の御家人たちのように、功名心を源とする「武門の心得」といったような観念は稀薄である。

・・・

朝鮮の国家は古来、中国の歴代王朝の冊封に組み込まれ、臣下の礼をとってきた。

・・・

この工事には、高麗人の工匠と人夫があわせて3万5000人動員され、糧食3万4312石も全て高麗の負担であった。

 ・・・3万余人の内訳は、蒙古軍1万5000、高麗軍8000、高麗の水手6700である

 ・・・わずか半日で、対馬は元軍の手に落ちた。・・当時の日本の弓の長さはおよそ240センチメートルなのに対して、蒙古のものは170センチ。長い矢は、大きく引かなければならない。それゆえに、日本の弓で矢を一本射る間に蒙古の弓では三本射ることができる。

 ・・・この時代の武士にとっては、味方の勝敗よりも、自分の手柄が第一義であったのである。

・・・

中世の武士にとっては、敵地への一番乗りは、誰もが欲する最高の武勲である。勝敗にかかわらず、最も勇敢な武人であることの証であるからだ。

・・・

馬を射殺して、敵を落馬させるということは、中世日本武士の作法では、卑怯なこととされた。・・一人に対して二人がかりというのも、日本の武士の作法ではあってはならないはずだ。

・・・

文永11年(1274年)10月20日、これまでの日本の歴史の中で最も長い一日は、元軍の博多上陸という最大の危機で終わろうとしていた。

・・・

元の日本再征はいずれ行われるということが衆目の一致するところであったが、その一方で、フビライは、沿海有司に、日本商船の貿易を正式に許可するようにとの勅令も出している。軍事的には敵としながらも、商業の相手としては一定の評価を下し、商人たちの経済力を利用したのである。経済を政治・軍事と分離するフビライの現実的な感覚はさえわたっていたのであった。

・・・

漢人を主とする江南軍は、総勢10万人を超える。彼らを分乗させ、なおかつ、武器、弾薬に軍馬、食糧、飲料水などを搭載させるには、戦闘用、運搬用を合わせると、3500艘の船舶が必要である。

・・・

元の東路軍は、6月15日に、壱岐まで引き上げた。博多湾での日本軍との戦いで、1000人あまりが討ち死にを遂げ、なおかつ、木造の船は暑さと湿度で腐りだし、糧食も少なくなっていた。

・・・

『高麗史』では、出征したおよそ4万人(水手などの非戦闘員も含む)の東路軍のうち、生還した者は1万9397名であったと記している。

・・・

東路軍は7000あまり、江南軍は10万人が戻ることはなかった。日本軍は、捕虜にした蒙古人、高麗人を斬首したが、宋人は殺さなかった。』

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