この著者はいわゆる護憲派といわれていて私とは主張が異なります。また、本書において感じられるのは、軍政と軍令の違いが分かっていないのではないかということ、大正デモクラシーの影響を軽視しているのではないかということですが、太平洋戦争に関する結論では同じ意見だということが分かりました。
『・・・幕末の日本人の教養の高さがよくわかるエピソードですね。そしてまた、幕末のころはそれぞれの藩が藩校をつくって、非常に質の高いサムライ教育もして、それによって有為の人材がずいぶん出ていたと思います。そういうものを一挙に、明治の革命によって大否定をして、西洋の文明を入れる・・・・大きな大きな断絶がありました。その断絶に対して、明治の一人ひとりが真剣に向き合ったこと、それが明治の精神をつくったんだと思うんですね。断絶と向き合って、古いものと新しいものを何とか調和させようという人、古い殻を叩き破って新しいほうへ突っ込もうという人、あるいは古い殻を大事にしながらなんとか生きてゆく人。それぞれの人がそれぞれの立場で、自分の考えに忠実に、誠実に生きていた。
・・・一番の典型は、昭和天皇でした。日本のやった悪いことも骨身に染みてわかっていて、その上で戦後の日本人はどうあるべきか、どうすれば世界のためになるかということを、身をもってきちっとやった人じゃないでしょうか。しかし、いまの日本人は、その自制と謙虚と真摯という美しい昭和の精神をどんどん失いつつあるようです。
・・・日本人は外圧によってナショナリストになりやすいようです。いいかえれば、時代の空気にたちまち順応するということになる。状況の変化につれて、どうにでも変貌できる。
・・・司馬遼太郎さんは「坂の上の雲」のなかでこう書いている。「日清戦争は明治28年に終わったが、その戦時下の年の総歳出は、九千七百六十余万円であった。/翌29年は、平和のなかにある。当然民力をやすめねばならないのに、この29年度の総歳出は2億円余りである。」 国家予算は戦時下の倍以上になっているんです。 「このうち軍事費が占めるわりあいは、戦時下の明治28年が32%であるのに比し、翌年は48%へ飛躍した。/明治の悲惨さは、ここにある。/ついでながら、われわれが明治という世の中をふりかえるとき、宿命的な暗さがつきまとう。貧困、つまり国民所得のおどろくべき低さがそれに原因している。/これだけの重苦しい予算を、さして産業もない国家が組み上げる以上、国民生活は苦しくならざるをえない。」
・・・軍艦を造るために官僚は給料の一部を有無をいう暇もなく天引きされていたんですよ。「この戦争準備の大予算(日露戦争まで続くのだが)そのものが奇跡であるが、それに耐えた国民の方がむしろ奇蹟であった。」と、司馬さんは書いています。・・明治10年代までの列強の帝国主義政策の波をうけて、東南アジアの国々はつぎつぎに植民地となり、わが日本もその危険性をまともに受けていた。とくにいつロシアが来るかもわからないという恐れがあった。国を守らなければ東南アジアの国々と同じになってしまうという恐怖は、明治の時代の通奏低音としてあったんです。・・明治というのは、司馬さんの言葉を借りれば、「坂の上の雲」という一つの理想を求めた時代。日本人が、植民地のされないような強く独立国家を作ろうと真剣に努力を傾注した時代なんです。
・・・太平洋戦争直前の日本の計算でも、アメリカ対日本の国力は10対1であったんです。でも昭和の軍部は動じなかった。なぜなら、日露戦争はそれでも勝ったんだ。米英恐るるに足らず、断固戦うべし、というのが太平洋戦争直前の日本陸海軍でした。昭和の軍部と違いまして、明治の軍部は本気になって戦力の差、国力の差を見据えていましたから、戦争はやるべきではないのではないか、妥協点があるのではないか、と冷静に考えていました。・・ほんとに軍部も政府も慎重でした。・・太平洋戦争のときのような、戦争はやってみなきゃわからないんだ(開戦時の永野修身軍令部総長の言葉)、なんて判断は一切してません。勝つ方法と同時に、一番大事な問題として、どうやったら戦争を終わらせることができるかということを考えていた。
・・・そして12月5日、ついに203高地を占領しました。さあ、というんで見張りを上げて、旅順港を見下ろした。ところが、ですよ。そのときにはもう、日本軍がまったく知らないことが起きていたんですよ。歴史的事実というのは、不思議千万なことがありますね。皮肉そのものです。旅順港の敵艦隊はとうに潰れていたんです。艦はほとんどが大破、大砲も水兵もすべて陸揚げされてまったくの無力・・・・・。というのは、9月28日から10月の18日にかけて、ひそかに海軍陸戦重砲隊がでっかい大砲を運んできて、山越しに旅順港を狙える場所からボッカンボッカンと砲弾を撃ち込んだんです。
・・・軍隊のみならず、日本の組織は何かやろうとするとき、いったい何を目的とするのか、それを明確にしないでやってしまうことが多いんです。命令する方は、本当の意図はこれなんだということを曖昧にして、かっこいいことを書く。
・・・連戦連勝、無敵であった日露戦争というものも、実は幸運の連続でやっとこさっとこ乗り切った。それ以上続ける余力は全くなくなったとき、アメリカが仲介になってくれたから和平を結ぶことができた。勝ちは勝ちでも惨憺たる勝ち・・・という本当のことを、私たち日本人は長い間学びませんでした。
・・・なぜ事実を隠したのか。理由の一つは、ロシアがいつ復讐戦に来るかわからないという恐れが、日露戦争後の日本のトップの中にあったわけです。・・あれほど国民に忍耐を強いて来たのに、喜びに水を浴びせるようなわけにもいかない。それで、裏側の真実というのは一切出せなくなったんです。
・・・陸軍65名、海軍35名、文官31名が全部、戦功によって貴族になっているんですよ。・・日露戦争の前まで政治家も軍人もみんなリアリズムで動いていたのに、後にリアリズムを失ってしまうのには、やっぱりこの叙勲がありました。祭り上げられて物語になってしまって、本人たちだって「ほんとは俺、ちょっと違っていたんだがな」、とひそかに感じていたと思いますよ。・・日露戦争には、私たちが教訓にすべきところがたくさんありました。しかし、勝ったという一点によってそれを全部消してしまった。そこからなにも学ばないまま、リアリズムを失い太平洋戦争に突き進んでいったわけです。・・歴史の教訓からもっとも学ぶべきリアリズムが消えてしまうのは、日本人の非常に困ったところです。あえていえば、太平洋戦争の真の敗因は、日露戦争の勝利にあったのです。いや、なぜあのような愚かな戦争をしたのか、ということも、つきつめると勝利の神話のみを語り継いできたため、といえるかと思います。
・・・日本の連戦連勝と報じられました。実際には、日本軍は108万9千人を動員して戦死8万4千4百人、戦傷14万人という、いわば「屍山血河」。真実はまことに悲惨で、いってみればやっと惨勝して休戦にもちこめたというところであったんですが、しかし、官製の勇ましい歴史しか知らされなかった国民は、とにもかくにも、”勝った”という事実に熱狂しました。・・この日露戦争の勝利を境にして、日本はそれまでと違う国家になったのではないか、とわたくしは思っているんです。脈々と繋がってきた日本人の真摯な精神と自分の力にたいするきちんとした判断がここで断絶して、なんとなしにあらゆるところでほころびを見せてくるというのが、日露戦争後の日本なんです。
・・・講和条約の主なところはつぎのようなものでした。① ロシアは、日本が韓国において政治・軍事及び経済上の卓越した利益を有することを承認する。 ② ロシアは一定期限内に満州から全軍が撤兵する。 ③ 遼東半島の租借権を日本に譲渡する。 ④ 南満州鉄道及びこれに付随する一切の権利及び財産を、日本に譲渡する。 ⑤ 樺太南半分を日本に譲渡する。 ⑤の樺太南部が、ポーツマス条約における日本側の勝利の証だったわけです。そして、大正から昭和前半の日本は、この①③④の権益を保持、さらに拡大しようと悪戦苦闘することになります。
・・・アメリカのルーズベルト大統領がいささか呆れてこんな批評を下したといいます。「日本が世界に対して自国が大失敗でもしたようにいうのは間違っている。日本は驚嘆すべき勝利を博し、多大の報酬を受けている。日本は満州と韓国との制御権を得たではないか。旅順、大連のみならず樺太の南半分をとったではないか。またロシア海軍を撃破したので、日本は自然に強大な海軍力を有することとなり、太平洋においてイギリスをのぞく外、いずれの国も敵しがたきほどの優勢となったではないか。事実かくの如きであるのに、格別とるべき理由もなき償金がとれなかったといって、講和条約が日本にとってまったく不満足なるもののように吹聴するのは賢明なあり方ではない」 外から冷静に観察をすれば、まったくそのとおりだと同感せざるをえないことといえますが、当時の日本人はそうは考えなかった。・・日露戦争前、明治の人がそれこそ「臥薪嘗胆」を合言葉に、我慢に我慢を重ねて軍費を捻出できたのは、他のアジアの国のように植民地にされてしまう恐怖があったからでした。
・・・1907年に日仏協約を結んでいた日本は、フランスの要求に応えて、1909年ごろからベトナム人を追放することにしてしまうんです。・・ロシアに勝ったことで、日本はアジアの中心の存在として欧米と対応に交渉できる立場になったのに、逆にアジアの人々の独立心を叩き潰すような存在になって行くわけです。・・百年の大計を考えれば、欧米列強に対して日本を中心としてアジアからの抵抗線を作るという道もありました。実際アジア諸国から大変に期待されていたんです。にもかかわらず、日本が選んだのは、アジアの人たちを無視して上に上にと進んでいく・・・・遅れてきた帝国主義でした。・・日本はロシアに勝って世界の列強の仲間入りした。これからのわれわれが目標にすべきは依然として西洋の列強である。こういう驕りがまず日露戦争後の日本人にはあったでしょう。
・・・日露戦争後の日本はどんな国に変わっていたのか、これについては岡義武さんという東大の政治学の先生の論文(「日露戦争後における新しい世代の成長」)を参考にしながら、我流の知恵を働かせて箇条書きにしますと、大きく分けて4つになります。一つは出世主義、学歴偏重主義の世になりました。・・二番目は金権主義の時代が来たと。・・三番目は享楽主義。お金が一番の世になれば、みんな真面目さを失って、人生楽しければいいと考えるの増えるのは当然。・・世の中全体がほんとうに真面目さと真剣さを失った。それに乗り遅れたやつはどうするかというと、懐疑、煩悶に陥って虚無主義になる。あるいは反社会的行動を起こすやつも出てくる。間もなくロシア革命が起きて、社会主義が大々的に入ってくるんですが、この連中がやがて社会主義者になるんですね。これが四番目というわけです。
・・・いずれにしろ、日露戦争に勝つまでの、国際秩序への適応に努力し、世界の動きをよく考え、非常に慎重で用心深かった冷静な日本人たちが、勝ったということで、完全にいいきになってのぼせ上がってしまった。帝政ロシアからそっくり譲り受けた満州の権益というものが、日本を否が応でも帝国主義に導いてゆく。守るということより拡張へと動いていく。それが大正そして昭和の歴史なのです。
・・・この泥沼と言われた日中戦争に和平のチャンスはなかったのか---。実は、多くの人がさまざまな努力をし、和平工作を試みた中で、うまくいきそうだった計画がはじめのころあったんですよ。・・駐中国ドイツ大使トラウトマンという人が間に入って、国民政府の蒋介石と日本政府の間を取り持った「トラウトマン工作」というのがあった。・・ところがタイミングが悪いことには、話がかなり進んだ頃の12月13日に南京が陥落したんです。近衛文麿内閣は俄然強硬になります。
・・・1月の15日、大本営政府連絡会議がふたたび行われました。このときは大事な会議だからというので、閑院宮参謀総長、伏見宮軍令部総長という皇族方を、両方とも欠席させるんです。責任が皇族に及ばないように、という配慮です。・・陸海の統帥部は和平の主張です。しかし、「中国側は全く誠意なし。もはや打ち切るべきである」という強硬派の広田外務大臣、杉山陸軍大臣という閣僚たちと大喧嘩になりました。・・陸軍の要職についている連中が入れ代わり立ち代わり多田を訪ねてきては、これ以上の反対をやめろと説得しました。このまま行くと内閣は総辞職する。そうなると、参謀本部が内閣を倒したことになる。そんなことはすべきではない。世論も考えてほしいと。・・多田さんの手記が残されています。「常に強硬なるべき統帥部(参謀本部)がかえって弱気で、弱気なるべき政府が強硬なのは実に奇怪に感じられる。しかしそれが真実で、こうなってしまうと一日も早く戦いを止めたいと思うのに、政府は支那を軽く見、また満州国の外形だけを見て楽観したるためなり」
・・・思いもかけず表面化してしまった政府対参謀本部の対立によって、陸軍中央部がおかしなことになっていくのです。あの連中は腰抜けなんじゃないかとの声が起こって、陸軍部内の日中和平論者的な人物たちが、いっせいに発言力を失って後退していくのです。もう早めに停戦なんて主張するものがいなくなってしまった。
・・・「政府と統帥部との両方を抑え得るものは、陛下ただ御一人である。しかるに陛下が消極的であらせられることは、平時には結構であるが、和戦何れかというが如き国家生死の関頭に立った場合には障碍が起こり得る場合なしとしない」 これが、近衛さんの統帥権問題に関する考え方だったんです。しかも、自分が積極的であったことなど完全に忘れてしまっているようです。天皇陛下はこれを読んで、「近衛は自分にだけ都合のよいことを言っているね」という感想を漏らしたと言われたいます。「蒋介石を対手とせず」声明が思い出されていたのかもしれません。
・・・イギリスだって、自分の政略と国益のために日英同盟を結んだだけであって、小国の日本人を助けるためとか、そんな道義心的なものであるものか、と漱石は見ているわけですが、たぶんその通りでしょう。しかし当時の多くの日本人はそんなことを斟酌するはずもなく、とにかく大喜びしたのです。ただ実際、日英同盟がないと日露戦争には勝てなかったかもしれません。・・いずれにしろ、同盟を結んでからは日本海軍はイギリスを手本にぐんぐんと発展していったんです。・・アメリカは、南北戦争でとってしまった中国進出の後れを取り戻すべく、日露戦争のときにはできるだけ貧乏国日本の依頼に応じて、いろいろな援助をしてくれました。何よりも、日露戦争終結にむけた仲裁、講和会議というものを斡旋してくれました。・・近代日本にとってはアメリカもまたイギリスと並んで本当にありがたい国だった。
・・・大正8年(1919)にパリで講和会議が開かれます。このときには、アメリカばかりではなくて、どうも戦争の分け前の奪取に熱心な日本の態度は、世界各国の顰蹙を買ったらしいのです。ちょうど、パリにいた若き日の近衛文麿が書いています。「或外国人は日本人を評して、彼らは利己一点張りの国民なり、世界と共に憂いを頒つべき熱心も新設もなき国民なりと申したり」 手前の利害に関係あることにだけ頑張って主張し、これからの世界が大事とすることに冷淡な日本人というイメージがひろがった、ということなのでしょうか。
・・・大正8年のパリ講和会議において日本は声を大にして「人種平等案」を提唱する。しかしこれは大国、特にアメリカが拒否し、潰された。そりゃあアメリカ、こんな法案なんか通すと国内が大変なことになりますから(笑)。でも、日本にとってはこれもショックなことでした。自分たちの理想が踏みにじられたような気がしたんでしょうね。いずれにしても、昭和に入る頃はこういう形で、日本はイギリスと泣く泣く手を切り、アメリカと衝突を始めたわけです。
・・・開戦直前の徳川夢声さんの日記を紹介します。16年12月4日付です。「日米会談、相変わらず危機、ABCD包囲網益々強化、早く始まってくれ」 これがたぶん国民一般の正直な気分でしたでしょうね。もう我慢も限界だと。
・・・国と国との間柄、国交というものはつまらないことでお互いに疑心暗鬼になるし、誤解がさらに大きな誤解を生むし、ある時いっぺんに悪化してしまう。
・・・加藤友三郎さんは、・・反対派を抑え、条約を呑みました。その時のいい言葉があります。「国防は軍人の占有物にあらず、戦争もまた軍人のみにてなし得べきものにあらず。国家総動員してこれにあたらざれば目的を達しがたし。・・・・・平たくいえば、金がなければ戦争はできぬということなり。国防は国力に相応する武力を備うると同時に、国力を滋養し、一方外交により戦争を避くることが目下の時勢において国防の本義なりと信ず。すなわち国防は軍人の占有物にあらずとの結論に達す。」
・・・大和を設計した福田啓二さんという造船中将に直接聞いた話です。ある日山本五十六がやってきて、「おい、福田君、いまに君は失職するぞ。戦艦などというものは無用の長物だからな」と言ったそうです。ただしその後で、「やっぱり家には床の間が必要だからな。床の間の置物としてはいいかもしれない」とも言ったとか。
・・・「これ(特攻)は九分九厘成功の見込みはない。これが成功すると思うほど大西は馬鹿ではない。だが、ここに信じていいことが二つある。天皇陛下はこのことを聞かれたならば、戦争をやめろ、と必ず仰せになられるであろうこと。もうひとつは、その結果が仮に、いかなる形の講和になろうとも、日本民族がまさに滅びんとするときに、身をもってこれを防いだ若者たちがいたという事実と、これをお聞きになって陛下自らのお心で戦を止めさせられたという歴史が残る限り、五百年後、千年後の世に、必ずや日本民族は再興するだろう、ということである。(中略)大西は、後世史家のいかなる批判を浴びようとも、鬼になって前線に戦う。天皇陛下が御自らのご意志によって戦争を止めろと仰せられたとき、大西は上、陛下を欺き奉り、下、将兵を偽り続けた罪を謝し、特攻隊員のあとを追うであろう」 初めて知る大西中将の真意です。真偽のほどはわからないが、戦争をやめるために特攻に踏み切ったとは、わたくしにとって驚天動地の話であったことは隠さずに述べておきます。
・・・海軍の安延多計夫さんという人が調べた航空機による特攻の数字があります。陸海軍合わせて2483機、命中機は244。至近弾、つまりそばに突っ込んだのは166。したがって奏功率16.5%。戦死した人、海軍は2535人、陸軍は1844人。
・・・ヒトラーはシュペールの必死の説得を拒否して、「原爆製造はやるに及ばず」と結論を出しました。もちろん、資金などビタ一銭も出さない。ドイツはここで完全に原爆から手を引いちゃったんですね。
・・・日本民衆が何となく「ダメなんじゃないか、この戦は」と思いだしたのは、ガダルカナルの敗北からなんです。軍は「撤退」(敗退)を「転進」といってごまかしていましたが・・・・・・。それが昭和18年2月。
・・・「ポツダム宣言」がポツダムから発信され日本に着信したのは27日。首相の鈴木貫太郎さんが「ノーコメント」の意味で「黙殺」と言ったのは28日の夕方。それが日本の新聞に報じられたのは29日。それを日本の同盟通信が「イグノア」と訳して世界中に送り、その「イグノア」をさらにイギリスのロイターとアメリカAP通信が、「リジェクト」(拒絶)とまた訳し直して報じたのが、日本時間では29日夜。例えば29日の朝刊でニューヨーク・タイムズは「当局からの情報によると、日本はこの提案(ポツダム宣言)を拒絶し、大東亜戦争を最後の最後まで遂行する決意である」と報じました。でも、くりかえしますよ。アメリカの原爆投下命令は7月の25日にもう発令されている。作戦は動き出しているんです。
・・・問1.太平洋戦争の戦闘員の戦死者数は、陸軍165万人、海軍47万人とされている。このうち広義の飢餓による死者の比率は? ・・70%・・問2.同じくこのうち海軍の会牧舎は18万人、陸軍は? 18万人
・・・昭和天皇の手紙は・・当時11歳の皇太子(現天皇)にあてたもので、日付は敗戦直後の昭和20年9月9日。・・「・・敗因について一言言わしてくれ。我が国人が、あまりに皇国信じすぎて英米あなどったことである。我が軍人は、精神に重きをおきすぎて、科学を忘れたことである。明治天皇のときには、山県、大山、山本等の如き陸海軍の名将があったが、今度のときは、あたかも第1次世界大戦の独国の如く、軍人がバッコして大局を考えず、進を知って退くことを知らなかったからです。
・・・昭和の大国難においては、軍部の名将も、また暴走する軍人を抑えきれる名政治家も外交官もまわりにはいなかった。そう昭和天皇が皇太子にだけ語っているともよめますね。
・・・天皇の平和への希求などはかれらはどこ吹く風なんですね。戦機は今にありと、合理的判断を放棄した盛んなる敵愾心のみが、軍中央部には充満していた。
・・・ドイツ人医学者のベルツ博士の、36年9月15日の日記(岩波文庫)をみてみます。「二か月このかた、日本とロシアとの間は満州と韓国が原因で、風雲険悪を告げている。新聞紙や政論家の主張に任せていたら、日本はとっくの昔に宣戦を布告せざるを得なかったはずだ。だが、幸い、政府は傑出した桂内閣の下にあってすこぶる冷静である。政府は日本が海陸共に勝った場合ですら、得るところはほとんど失うところに等しいことを見抜いているようだ」明治の元老も政府も軍部も、昭和と違ってカッカとせず冷静そのものだったのですね。・・こうして日露開戦にいたるまで、真剣そして慎重に彼我の国力を比較検討した御前会議は、6月23日を第一回として、10月13日、12月16日、翌37年1月12日の4回が行われました。正直いって、戦いたくはない日本政府は完全に追いつめられていたのが実情です。それでもなお慎重に、軍官の指導者は苦悩に苦悩を重ねていました。
・・・年が明けて第4回の会議になっても、明治天皇はこういいます。嘉永五年(1852)生まれの天皇はこのとき51歳。「なおもう一度、交渉してみてはどうか」しかし、もはや話し合いの段階は超えていました。満州全土にはロシアの戒厳令が布かれ、2月3日にはウラジオストク在留の日本人に退去命令がでました。ことここに及んで、明治の指導者はついに対ロ開戦を決意するんです。この決断は今から振り返っても、ロシアの引き延ばし策にも乗らず、かつ開戦責任を押し付けられることなく、最適のタイミングを選んでの開戦だったと言えるのではないかと思います。
・・・伊藤、山県をはじめとする明治の指導者の優れたところはここにあります。戦端を開く、と同時に、いかにしてこの戦いを早期に和平へ持ち込むか、その困難な道の打開へもいち早く手を打つことを誰もが考えていたのです。』