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2018年7月 7日 (土)

翔ぶが如く(三) (司馬遼太郎著 文春文庫)

『・・・会議が始まったのは、午後一時過ぎからである。一同、テーブルに付いた。正面に太政大臣三条実美37歳がすわり、その横に右大臣岩倉具視49歳がすわった。参議は8人である。西郷隆盛が最年長で、数えて47歳となる。副島種臣の46歳がこれに次ぎ、大久保利通の44歳、佐賀の大木喬任42歳、同江藤新平40歳、あとは30代であった。板垣退助、大隈重信、後藤象二郎である。

・・・薩摩人がもっとも憎む悪徳は卑怯ということであり、もしこの言葉を投げつけられて刃傷沙汰に及ばない薩摩人はないといわれた。
・・・西郷は国家の基盤は財政でも軍事力でもなく、民族が持つさっそうとした士魂にありとおもっていた。そういう精神像が維新によって崩れた。というよりそういう精神像を陶冶してきた士族のいかにも士族らしい理想像をもって新国家の原理にしようとしてきた。しかしながら、出来上がった新国家は、立身出世主義の官員と、利権と投機だけに目の色を変えている新興資本家を骨格とし、そして国民なるものが成立したものの、その国民たるや、精神の面でいえば、愧ずべき土百姓や素町人にすぎず、新国家はかれらに対し、国家的な陶冶をおこなおうとはしない。
・・・この時代の日本人が西洋からの侵略を非常に怖れ、明治維新もその民族的恐怖心で成立したということを知らなければこの時代の政情も人の心もわかりにくい。
・・・西郷は薩摩でいうチャリ(冗談)のすきな人物であった。
・・・この会議では二人の公卿をのぞいてみな武士のあがりである。武士に二言がなく、口約束そのものが証文であるという倫理観をかれらはもち、すくなくとも西郷はそういう人だということをたれも知っていた。
・・・西郷は、「両先生とも思えぬことです。間違っておられます。・・私党を結び国家を横断するがごとき景観を呈することは拙者がいさぎよしとしませぬ」
・・・長州系の軍人はぜんぶといっていいほど反征韓論者であり、長州閥の頂点にある木戸が西郷を相手に対立すれば、薩長二つの陸軍部内の勢力が中世の保元・平治の乱のように激突する恐れがあった。
・・・日本の古来の会議の慣習として、一つの議事の採決に専断権が行使されることはまれで、圧倒的多数が願望される傾向があり、残った少数意見の持主もなんらかのかたちでなだめられる。
・・・念書を要求されるなどそれだけでも武士社会では決闘ものの恥辱なのだが、公卿の場合はむしろ変節が千年来のお家芸ともいうべきものであり、二人とも平然と大久保に対してそれを書いて渡した。それでもなお、三条・岩倉はいま、その念書をすら反故にし、大久保が恐れていた変節をやってしまったのである。このことで公卿出身の人間に対する信頼感がその後の日本政界において決定的に消滅した。明治中期以降、公卿出身の政治家が西園寺公望と近衛文麿をのぞいてほか絶えて出なくなる理由のひとつにはそのこともあるであろう。・・公卿に共通している不幸な欠落ともいえる。自分の信念をまもるための勇気と、ぎりぎりの責任感に耐え抜くというものに欠けていた。
・・・西郷だけでなく、幕末の志士はナポレオンとワシントンが好きであった。ワシントンについては英国からアメリカを独立させて人民による社会の基盤をつくった人物として理解した。・・吉田松陰はナポレオンが好きであった。ただかれはナポレオンという固有名詞がフランス各面そのものの象徴であると理解していたらしく、この点では西郷もかわらない。
・・・西郷は宮中の柔弱の風をきらい、むしろ逆にもっとも武士らしい武士をもって側近団を形成することを提案した。これによって選ばれたのが、旧幕臣から山岡鉄太郎、佐賀からは島団右衛門(義勇)、薩摩からは高島鞆之助にこの吉井友実である。
・・・「時の勢いに乗ってやってくる者は、つい実際の寸法よりも大きく見える。時が経てばなんでもない人間だったということがわかったりする」という意味のことを海舟は言っているが、勝の西郷像は寸法ばかりは不変だったらしい。
・・・かれ(西郷)は本気で正義が通るものだと思っていたし、本気で人間の誠実というものは人間もしくは世の中を動かしうるものだと信じていた。むろん西郷の雁行は人間というおのは自他ともに汚辱なものだということも知っており、さらには世の中は多分権力欲をも含めた欲望で動くものだということも知っている。しかし西郷は知りつつもほとんど人工的としか言いようのない超越の仕方で、正義と誠実を信じようとし、げんに彼は幕末にあっては自分のその部分を電光のようにきらめかせることによって人間をもまた世の中を動かした。
・・・西郷は無私である以外に人を動かすことができず、人を動かせなければ国家や社会を正常の姿にひきすえることはできないと信じている男だった。
・・・西郷はじつはこの玄関を出たとき、自分の政治的敗北を心中認め、すべてをすてて故郷に帰ることを決意していたのである。その決意の中で岩倉の踏ん張りを劇中の人のように鑑賞して褒め上げたという点はいかにも西郷の香気がある。西郷はその香気でもってその追随者を魅了してきた人である。
・・・戦場の場合、退却する敵に対しては猛烈な追撃戦を敢行して戦果を拡大するのは戦術の常道なのである。
・・・西郷はしばらくだまってすわっていた。こういう場合の沈黙に耐えるのは薩摩人の特徴であるが、その点においては大久保の方がむしろ深刻な耐久力があるといえる。大久保は背筋をのばしたまま黙っている。
・・・西郷が征韓論をひっさげて猪突しているときに、大久保を中心とする勢力はその防止のために動き回ったが、薩人ではこの従道と、さきにあげた黒田清隆がもっとも精力的にうごき、そして西郷が東京を去るという場面の急転をむかえるや、もっとも悲しむのはこの二人であった。
・・・黒田は自分の才覚で事をするというほうではなく、適材をみつけてそれにまかせ、自分はむしろ功績の場から身を引きその人物が仕事をしやすいように条件をつくてゆくことに専念するというやり方
・・・明治の初期政権においてもっとも実務上の仕事をした人物の一人に黒田があげられていいが、しかし同時代も後世も黒田をそのように評価しないのは、この人物に重大な欠陥があったからである。・・酔えば人格も知能もいちじるしく低下するという精神病の範囲に入るところのアルコール性痴ほう症であった。
・・・明治11年5月14日に大久保が紀尾井坂で刺客の襲撃に遭って落命するのは、直接の誘因はこの黒田夫人の怪死事件にある。下手人島田一郎の斬奸状にもそのことが書き上げられているのである。黒田は、結果としてかれが師として仰いだ西郷を大久保をともに殺したということになる。
・・・桐野は若い頃から死の瞬間までそうであったようにひとと群れることが嫌いであった。
・・・「己を愛するは善からぬことの第一也」と、西郷はつねづねいっており、人間に対する最低の評価基準をそこにおいていた。
・・・日本史の人物でみても十に七八は小人である。・・」小人という西郷の用語は己を愛する者といういみである。「・・・・・であるから相手がたとえ小人でもその長所をとってこれを小職に用いればよく、その才芸を尽くさしめればよい。水戸の藤田東湖先生もそのようなことを言われた。小人ほど才芸のあるもので、むしろこれを用いなければならぬものである。さりとてこれを長官に据えたり、これに重職をさずけたりするとかならず国家をくつがえすことになる。けっして上に取り立ててはならぬものである」
・・・李朝は数世紀にわたって徹底的な文治主義をとり、もし国患があれば中国に防衛を依存するという考え方が伝統的に強く、自然、常備の国防軍などほとんどもっていない。この国家的風景は、明治初年における日本の士族の価値からみれば怠けているとしか見えなかった。
・・・自己の生死に関するような重大な運命の決定はごく軽い調子できめるのが、薩摩人の伝統的なダンディズムというものであった。
・・・元来、薩摩藩は深刻な教養主義を伝統としてよろこばず、士たる者は気節が高く、あくまでも勇敢で、それでいて弱い者いじめをせぬ優しさがある。それだけでよいというところがあって、他藩のように学問ができることが誇りになるという風はなかった。
・・・戦場における軍隊の士気は、地味で堅牢な統率者より陽気で華やかな統率者をいただくほうがふつふつと滾るということを知っていたのであろう。
・・・「朕は汝等を股肱と頼み」という軍人勅諭が出たのは、西南戦争のあとである。・・西南戦争直後に竹橋の兵営内でおこった軍隊騒乱に政府が懲り、とくに山県有朋が発意し、この発布を実現させたもので、それまでは天皇といってもそれが自分たちの主人であるという実感はすくなかった。
・・・薩摩系軍人が潮が退くようにして陸軍を去ったあと、無数に空いた席を埋めるのは長州系である期待があったのであろう。現に「長の陸軍」とのちにいわれる長州閥はこの時期飛躍的に拡大するのである。
・・・木戸は、そういう男である。用があれば目下の者の家にも訪ねた。もっともこの風習は幕末以来志士一般のもので、尊大に構えて自邸に呼びつけるという式のやり方をする者は、履歴の古い連中には少なかった。
・・・(あの連中は、横合いから出てきて労少なく果実を手に入れた)と、長州人は心のどこかで薩摩人をそう思っている。
・・・木戸は旧藩当時から奇兵隊など軍事担当者の政治介入をいっさいゆるさぬ態度をとり、明治後も政府が軍人の主人であり、軍人にして政府要人になるという形態は亡国の危険があるとしていた。この思想を誰から教えられたわけでもなしに鮮明に持っていたという点では木戸は明治初年の政府構成者のたれよりもすぐれていたといえるであろう。
・・・大村が構想した日本陸軍はあくまでも内国用のものであり、具体的にいえば薩摩を対象とし、さらに露骨に言えば西郷を目標とするものであった。
・・・山県はこれはかれの生涯の特徴だが、およそ他人を批評したり、他の勢力について非難がましいことを口にしたことがない。
・・・元来、長州の志士あがりの連中は戦国以来の毛利家の伝統もあってか、武人型よりも文吏に適する者が多く、この藩は新政府の役人の数をそろえるのに事を欠かなかった。軍人になっても山県のように軍政家肌の者が多く、野戦攻城の勇将といった人材に乏しい。
・・・西郷は上士出身の薩摩士族を近衛将校・下士官とし、郷士出身のそれをポリスにした。これによって薩摩郷士2000人がポリスになって東京にとどまり、市中を巡回した。
・・・木戸は、他藩人がみれば理解しがたいほどに友情にあつい。・・明治後、西洋のモラルが輸入されたときにはじめてこの感情が倫理化されるのだが、長州藩だけは例外だった。この藩だけは幕末において例外的に友愛の思想が発達した。ひるがえって考えると、幕末の長州藩が凄惨な状況下で何度か崩壊の危機があったが、かろうじて大崩壊を食い止めたきずなは、この藩で発達していた友情による相互扶助の精神と機能であったかもしれない。
・・・「袴」と、その夫人に命じた。私信でなく建白書である以上、袴をつけて読まねばならないという律義さが大久保にはある。大久保だけでなく、この時代にはまだ江戸的な折り目が残っていた。それが崩れるのは、伊藤博文が宰相になるころからである。
・・・旧幕臣は、幕末の長州征伐に従軍することもいやがったし、幕府の瓦解のときも大部分はなすことなくそれを眺めていただけだった。幕府の為にも役に立たなかったかれらに、明治政府を転覆させるだけの力が出るはずがないというのが、この時期の大方の印象であったらしい。
・・・外国人で日本の政治史を専攻する人が、日本人の感情でどうにもわからない面があるというのは、一つの体制を作った人物を好まず、そこからはみ出て漂泊してしまう人物を好むということである。
・・・陽気な人格というものは欠点でさえ愛嬌になり、失敗ですら気の毒になるという効用を持っているが、陰気ということは、いかに誠実で謹直であっても、得体の知れぬ肚黒さを感じさせるということがあるらしい。
・・・露骨に言えば、大久保は同郷の軍人から見放されて、同郷の警察官からの支持を得た。
・・・この時期の大久保内卿にはそれだけの威権がなかった。かれが内務卿として官吏及び内国に対する統制力を増してゆくのは、佐賀の乱から西南戦争へとつづくあいだであり、いわば内乱を相手にし、それを理由にすることによって協力になって行った。
・・・この時期、東京政府と鹿児島県が戦争すれば武力としては東京に勝ち目はないというのが常識であり、川路もそう思っていた。その面での東京政府の軍事的成長は、徴兵制を実施しつつある陸軍省の努力にまたねばならないとおもっている。
・・・当初(明治4年)、首都警察の邏卒の人数は3千人という規模をもって発足した。その人数でさえ、「3千人も必要か」と、当時、参議たちでもあきれたほどであった。江戸時代は江戸の町奉行の人数は奉行以下、与力同心あわせてわずかに366人であり、これでもって50万町民(あと50万は武家関係など)の治安に任じ、秩序維持からいえば世界史上稀有なほどに良好な治安の実績をあげた。
・・・肥後熊本士族団の場合は、江戸期からすでに幾つかの閥があって陰に陽に抗争し、その派閥がすでに思想的なものにまでなっていたから、肥後熊本士族が一団となって結束するということはなかった
・・・東京ではときに年長者のほうから気軽に会釈してくれる。熊本ではこういうことはまったくない。
・・・老熟ということが旧幕の頃の幕府の人材の価値観のひとつなのだが、当時のいわゆる雄藩は二十そこそこの若造に藩の舵取りをまかせた。
・・・江戸期という教養時代は幕末で凝縮された観があり、素朴な譎詐奸謀というようなものは通用せず、誠実な教養人が人の信頼を得た。』

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