« 2018年6月 | トップページ | 2018年8月 »

2018年7月

2018年7月25日 (水)

羊と鋼の森 (宮下奈都著 文春文庫)

映画化されたようですが、キンドルで安売りされていたので購読しました。さわやかな読後感を得られる小説でした。音楽についても少し知識を得ることができました。

『・・・聞くという行為は、責任を伴う。聞いて、答えてもらったら、もう一度こちらから何かを返さなければいけない気がした。
・・・きっと僕が気づいていないだけで、ありとあらゆるところに美しさは潜んでいる。あるとき突然、殴られたみたいにそれに気づくのだ。
・・・僕がいてもいなくても、木の実は落ちる「そう思うと安らかな気持ちになった。ぽと、ぽと、という音を聞きながら安心して遊んだ。
・・・「花の名前を知っているって、かっこいいよなあ」 「そうでしょうか」 「そうだよ」 柳さんは続けた。「知らないっていうのは、興味がないってことだから」
・・・「なるべく具体的なものの名前を知っていて、細部を思い浮かべることができるっていうのは、案外重要なことなんだ」
・・・「明るく静かに澄んで懐かしい文体、少しは甘えているようでありながら、きびしく深いものを湛えている文体、夢のように美しいが現実のようにたしかな文体」
・・・ピアノの音が良くなっただけで人が喜ぶというのは、道端の花が咲いて喜ぶのと根源は同じなんじゃないか。自分のピアノであるとか、よその花であるとか、区別なく、いいものがうれしいのは純粋なよろこびだと思う。そこに関われるのは、この仕事の魅力だ。
・・・「それなら、いいんだよね。和音さんが本番で力を発揮できなくて、二番手だった由仁さんが繰り上げ当選する、ってことじゃないんでしょう。和音さんはちゃんと和音さんのピアノが弾けている。それなら、かまわないじゃない?」 和音は目を見開いて僕を見ていたが、やがてぱちぱちと瞬きをした。 「ほんとだ」 それからゆっくりと唇の両端を上げて微笑んだ。 「私が本番でだめになるわけじゃない。だから私が気にすることじゃないんですね」
・・・なだらかな山が見えてくる。生まれ育った家から見えていた景色だ。普段は意識することもなくそこにあって、特に目を留めることもない山。だけど、嵐の通り過ぎた朝などに、妙に鮮やかに映ることがあった。山だと思っていたものに、いろいろなものが含まれているのだと突如知らされた。土があり、木があり、水が流れ、草が生え、動物がいて、風が吹いて。ぼやけていた眺めの一点に、ぴっと焦点が合う。山に生えている一本の木、その木を覆う緑の葉、それがさわさわと揺れる様子まで見えた気がした。
・・・赤ん坊の産声は世界共通で440ヘルツなのだそうだ。
・・・「才能っていうのはさ、ものすごく好きだっていう気持ちなんじゃないか。どういうことがあっても、そこから離れられない執念とか、闘志とか。そういうものと似ている何か。俺はそう思うことにしてるよ」 柳さんが静かに言った。
・・・「普段、50ccのバイクに乗っている人にハーレーは乗りこなせない。それと同じ。ものすごく反応よく調整したら、技術のない人にはかえって扱いづらいんだ」
・・・人にはひとりひとり生きる場所があるように、ピアノにも一台ずつふさわしい場所があるのだと思う。コンサートホールのピアノは、堂々として、輝いて、いちばん美しいと誰に言えるのだ。これが最高だと誰が決めるのだ。
・・・音楽は人生を楽しむためのものだ。はっきりと思った。決して誰かと競うようなものじゃない。競ったとしても、勝負はあらかじめ決まっている。楽しんだものの勝ちだ。・・比べることはできない。比べる意味もない。多くの人にとっては価値のないものでも、誰かひとりにとってはかけがえのないものになる。・・音楽は競うものじゃない。だとしたら、調律師はもっとだ。調律師の仕事は競うものから遠く離れた場所にあるはずだ。目指すところがあるとしたら、ひとつの場所ではなく、ひとつの状態なのではないか。
・・・努力していると思ってする努力は、元を取ろうとするから小さく収まってしまう。自分の頭で考えられる範囲で回収しようとするから、努力は努力のままなのだ。それを努力と思わずにできるから、想像を超えて可能性が広がっていくんだと思う。
・・・音の響きを優先したのが純正律だ。一音ずつの周波数の比が整数比になるよう規定されている。いくつかの音を重ねたときに、周波数の比が単純であればあるほど、美しく響くからだ。だから、純正律で調律したピアノを使えば、和音は美しい。ただ、音と音の間隔が一音ずつ違うので、転調すると使えなくなってしまうという大きな弱点がある。
・・・ピアノのタッチって、わかる? 鍵盤の軽さや重さみたいに思っていない?ほうとうはそんな単純なものじゃない。鍵盤を指で叩くと、連動してハンマーが弦を打つ。その感触のことなんだよね。
・・・「ほら、外村くんのチューニングハンマー、いつもよく磨かれてるじゃない。ああいうの、ほんとうに道具を大事に手入れしておかないと、いざというときに使えなくて命に係わるのを身に沁みて知っているんだろうなって」
・・・「ギリシャ時代にはさ」 人差し指の上でボールペンを回しながら、秋野さんが言う。 「学問といえば、天文学と音楽だったんだって。つまり、天文学と音楽を研究すれば、世界が解明できるってこと。そう信じられてたんだ」
・・・これが結構難しい。調律の感覚を言葉で書き表すのは至難の技だ。的確なメモを取れるようになったら、相当腕も上がているように思う。「書きとめるだけじゃ、駄目だ。覚えようとしなきゃ、無理だよ。歴史の年号を覚えるみたいにさ。あるときふっと流れが見えてくる」 秋野さんは言った。・・だけど、調律の技術を言葉に換える作業は、流れていってしまう音楽をつなぎとめておくことだ。
・・・「一万時間を越えなくたって、できるやつはできる。一万時間を越えても、できないやつはやっぱりできないんだよなぁ」』

2018年7月 7日 (土)

翔ぶが如く(三) (司馬遼太郎著 文春文庫)

『・・・会議が始まったのは、午後一時過ぎからである。一同、テーブルに付いた。正面に太政大臣三条実美37歳がすわり、その横に右大臣岩倉具視49歳がすわった。参議は8人である。西郷隆盛が最年長で、数えて47歳となる。副島種臣の46歳がこれに次ぎ、大久保利通の44歳、佐賀の大木喬任42歳、同江藤新平40歳、あとは30代であった。板垣退助、大隈重信、後藤象二郎である。

・・・薩摩人がもっとも憎む悪徳は卑怯ということであり、もしこの言葉を投げつけられて刃傷沙汰に及ばない薩摩人はないといわれた。
・・・西郷は国家の基盤は財政でも軍事力でもなく、民族が持つさっそうとした士魂にありとおもっていた。そういう精神像が維新によって崩れた。というよりそういう精神像を陶冶してきた士族のいかにも士族らしい理想像をもって新国家の原理にしようとしてきた。しかしながら、出来上がった新国家は、立身出世主義の官員と、利権と投機だけに目の色を変えている新興資本家を骨格とし、そして国民なるものが成立したものの、その国民たるや、精神の面でいえば、愧ずべき土百姓や素町人にすぎず、新国家はかれらに対し、国家的な陶冶をおこなおうとはしない。
・・・この時代の日本人が西洋からの侵略を非常に怖れ、明治維新もその民族的恐怖心で成立したということを知らなければこの時代の政情も人の心もわかりにくい。
・・・西郷は薩摩でいうチャリ(冗談)のすきな人物であった。
・・・この会議では二人の公卿をのぞいてみな武士のあがりである。武士に二言がなく、口約束そのものが証文であるという倫理観をかれらはもち、すくなくとも西郷はそういう人だということをたれも知っていた。
・・・西郷は、「両先生とも思えぬことです。間違っておられます。・・私党を結び国家を横断するがごとき景観を呈することは拙者がいさぎよしとしませぬ」
・・・長州系の軍人はぜんぶといっていいほど反征韓論者であり、長州閥の頂点にある木戸が西郷を相手に対立すれば、薩長二つの陸軍部内の勢力が中世の保元・平治の乱のように激突する恐れがあった。
・・・日本の古来の会議の慣習として、一つの議事の採決に専断権が行使されることはまれで、圧倒的多数が願望される傾向があり、残った少数意見の持主もなんらかのかたちでなだめられる。
・・・念書を要求されるなどそれだけでも武士社会では決闘ものの恥辱なのだが、公卿の場合はむしろ変節が千年来のお家芸ともいうべきものであり、二人とも平然と大久保に対してそれを書いて渡した。それでもなお、三条・岩倉はいま、その念書をすら反故にし、大久保が恐れていた変節をやってしまったのである。このことで公卿出身の人間に対する信頼感がその後の日本政界において決定的に消滅した。明治中期以降、公卿出身の政治家が西園寺公望と近衛文麿をのぞいてほか絶えて出なくなる理由のひとつにはそのこともあるであろう。・・公卿に共通している不幸な欠落ともいえる。自分の信念をまもるための勇気と、ぎりぎりの責任感に耐え抜くというものに欠けていた。
・・・西郷だけでなく、幕末の志士はナポレオンとワシントンが好きであった。ワシントンについては英国からアメリカを独立させて人民による社会の基盤をつくった人物として理解した。・・吉田松陰はナポレオンが好きであった。ただかれはナポレオンという固有名詞がフランス各面そのものの象徴であると理解していたらしく、この点では西郷もかわらない。
・・・西郷は宮中の柔弱の風をきらい、むしろ逆にもっとも武士らしい武士をもって側近団を形成することを提案した。これによって選ばれたのが、旧幕臣から山岡鉄太郎、佐賀からは島団右衛門(義勇)、薩摩からは高島鞆之助にこの吉井友実である。
・・・「時の勢いに乗ってやってくる者は、つい実際の寸法よりも大きく見える。時が経てばなんでもない人間だったということがわかったりする」という意味のことを海舟は言っているが、勝の西郷像は寸法ばかりは不変だったらしい。
・・・かれ(西郷)は本気で正義が通るものだと思っていたし、本気で人間の誠実というものは人間もしくは世の中を動かしうるものだと信じていた。むろん西郷の雁行は人間というおのは自他ともに汚辱なものだということも知っており、さらには世の中は多分権力欲をも含めた欲望で動くものだということも知っている。しかし西郷は知りつつもほとんど人工的としか言いようのない超越の仕方で、正義と誠実を信じようとし、げんに彼は幕末にあっては自分のその部分を電光のようにきらめかせることによって人間をもまた世の中を動かした。
・・・西郷は無私である以外に人を動かすことができず、人を動かせなければ国家や社会を正常の姿にひきすえることはできないと信じている男だった。
・・・西郷はじつはこの玄関を出たとき、自分の政治的敗北を心中認め、すべてをすてて故郷に帰ることを決意していたのである。その決意の中で岩倉の踏ん張りを劇中の人のように鑑賞して褒め上げたという点はいかにも西郷の香気がある。西郷はその香気でもってその追随者を魅了してきた人である。
・・・戦場の場合、退却する敵に対しては猛烈な追撃戦を敢行して戦果を拡大するのは戦術の常道なのである。
・・・西郷はしばらくだまってすわっていた。こういう場合の沈黙に耐えるのは薩摩人の特徴であるが、その点においては大久保の方がむしろ深刻な耐久力があるといえる。大久保は背筋をのばしたまま黙っている。
・・・西郷が征韓論をひっさげて猪突しているときに、大久保を中心とする勢力はその防止のために動き回ったが、薩人ではこの従道と、さきにあげた黒田清隆がもっとも精力的にうごき、そして西郷が東京を去るという場面の急転をむかえるや、もっとも悲しむのはこの二人であった。
・・・黒田は自分の才覚で事をするというほうではなく、適材をみつけてそれにまかせ、自分はむしろ功績の場から身を引きその人物が仕事をしやすいように条件をつくてゆくことに専念するというやり方
・・・明治の初期政権においてもっとも実務上の仕事をした人物の一人に黒田があげられていいが、しかし同時代も後世も黒田をそのように評価しないのは、この人物に重大な欠陥があったからである。・・酔えば人格も知能もいちじるしく低下するという精神病の範囲に入るところのアルコール性痴ほう症であった。
・・・明治11年5月14日に大久保が紀尾井坂で刺客の襲撃に遭って落命するのは、直接の誘因はこの黒田夫人の怪死事件にある。下手人島田一郎の斬奸状にもそのことが書き上げられているのである。黒田は、結果としてかれが師として仰いだ西郷を大久保をともに殺したということになる。
・・・桐野は若い頃から死の瞬間までそうであったようにひとと群れることが嫌いであった。
・・・「己を愛するは善からぬことの第一也」と、西郷はつねづねいっており、人間に対する最低の評価基準をそこにおいていた。
・・・日本史の人物でみても十に七八は小人である。・・」小人という西郷の用語は己を愛する者といういみである。「・・・・・であるから相手がたとえ小人でもその長所をとってこれを小職に用いればよく、その才芸を尽くさしめればよい。水戸の藤田東湖先生もそのようなことを言われた。小人ほど才芸のあるもので、むしろこれを用いなければならぬものである。さりとてこれを長官に据えたり、これに重職をさずけたりするとかならず国家をくつがえすことになる。けっして上に取り立ててはならぬものである」
・・・李朝は数世紀にわたって徹底的な文治主義をとり、もし国患があれば中国に防衛を依存するという考え方が伝統的に強く、自然、常備の国防軍などほとんどもっていない。この国家的風景は、明治初年における日本の士族の価値からみれば怠けているとしか見えなかった。
・・・自己の生死に関するような重大な運命の決定はごく軽い調子できめるのが、薩摩人の伝統的なダンディズムというものであった。
・・・元来、薩摩藩は深刻な教養主義を伝統としてよろこばず、士たる者は気節が高く、あくまでも勇敢で、それでいて弱い者いじめをせぬ優しさがある。それだけでよいというところがあって、他藩のように学問ができることが誇りになるという風はなかった。
・・・戦場における軍隊の士気は、地味で堅牢な統率者より陽気で華やかな統率者をいただくほうがふつふつと滾るということを知っていたのであろう。
・・・「朕は汝等を股肱と頼み」という軍人勅諭が出たのは、西南戦争のあとである。・・西南戦争直後に竹橋の兵営内でおこった軍隊騒乱に政府が懲り、とくに山県有朋が発意し、この発布を実現させたもので、それまでは天皇といってもそれが自分たちの主人であるという実感はすくなかった。
・・・薩摩系軍人が潮が退くようにして陸軍を去ったあと、無数に空いた席を埋めるのは長州系である期待があったのであろう。現に「長の陸軍」とのちにいわれる長州閥はこの時期飛躍的に拡大するのである。
・・・木戸は、そういう男である。用があれば目下の者の家にも訪ねた。もっともこの風習は幕末以来志士一般のもので、尊大に構えて自邸に呼びつけるという式のやり方をする者は、履歴の古い連中には少なかった。
・・・(あの連中は、横合いから出てきて労少なく果実を手に入れた)と、長州人は心のどこかで薩摩人をそう思っている。
・・・木戸は旧藩当時から奇兵隊など軍事担当者の政治介入をいっさいゆるさぬ態度をとり、明治後も政府が軍人の主人であり、軍人にして政府要人になるという形態は亡国の危険があるとしていた。この思想を誰から教えられたわけでもなしに鮮明に持っていたという点では木戸は明治初年の政府構成者のたれよりもすぐれていたといえるであろう。
・・・大村が構想した日本陸軍はあくまでも内国用のものであり、具体的にいえば薩摩を対象とし、さらに露骨に言えば西郷を目標とするものであった。
・・・山県はこれはかれの生涯の特徴だが、およそ他人を批評したり、他の勢力について非難がましいことを口にしたことがない。
・・・元来、長州の志士あがりの連中は戦国以来の毛利家の伝統もあってか、武人型よりも文吏に適する者が多く、この藩は新政府の役人の数をそろえるのに事を欠かなかった。軍人になっても山県のように軍政家肌の者が多く、野戦攻城の勇将といった人材に乏しい。
・・・西郷は上士出身の薩摩士族を近衛将校・下士官とし、郷士出身のそれをポリスにした。これによって薩摩郷士2000人がポリスになって東京にとどまり、市中を巡回した。
・・・木戸は、他藩人がみれば理解しがたいほどに友情にあつい。・・明治後、西洋のモラルが輸入されたときにはじめてこの感情が倫理化されるのだが、長州藩だけは例外だった。この藩だけは幕末において例外的に友愛の思想が発達した。ひるがえって考えると、幕末の長州藩が凄惨な状況下で何度か崩壊の危機があったが、かろうじて大崩壊を食い止めたきずなは、この藩で発達していた友情による相互扶助の精神と機能であったかもしれない。
・・・「袴」と、その夫人に命じた。私信でなく建白書である以上、袴をつけて読まねばならないという律義さが大久保にはある。大久保だけでなく、この時代にはまだ江戸的な折り目が残っていた。それが崩れるのは、伊藤博文が宰相になるころからである。
・・・旧幕臣は、幕末の長州征伐に従軍することもいやがったし、幕府の瓦解のときも大部分はなすことなくそれを眺めていただけだった。幕府の為にも役に立たなかったかれらに、明治政府を転覆させるだけの力が出るはずがないというのが、この時期の大方の印象であったらしい。
・・・外国人で日本の政治史を専攻する人が、日本人の感情でどうにもわからない面があるというのは、一つの体制を作った人物を好まず、そこからはみ出て漂泊してしまう人物を好むということである。
・・・陽気な人格というものは欠点でさえ愛嬌になり、失敗ですら気の毒になるという効用を持っているが、陰気ということは、いかに誠実で謹直であっても、得体の知れぬ肚黒さを感じさせるということがあるらしい。
・・・露骨に言えば、大久保は同郷の軍人から見放されて、同郷の警察官からの支持を得た。
・・・この時期の大久保内卿にはそれだけの威権がなかった。かれが内務卿として官吏及び内国に対する統制力を増してゆくのは、佐賀の乱から西南戦争へとつづくあいだであり、いわば内乱を相手にし、それを理由にすることによって協力になって行った。
・・・この時期、東京政府と鹿児島県が戦争すれば武力としては東京に勝ち目はないというのが常識であり、川路もそう思っていた。その面での東京政府の軍事的成長は、徴兵制を実施しつつある陸軍省の努力にまたねばならないとおもっている。
・・・当初(明治4年)、首都警察の邏卒の人数は3千人という規模をもって発足した。その人数でさえ、「3千人も必要か」と、当時、参議たちでもあきれたほどであった。江戸時代は江戸の町奉行の人数は奉行以下、与力同心あわせてわずかに366人であり、これでもって50万町民(あと50万は武家関係など)の治安に任じ、秩序維持からいえば世界史上稀有なほどに良好な治安の実績をあげた。
・・・肥後熊本士族団の場合は、江戸期からすでに幾つかの閥があって陰に陽に抗争し、その派閥がすでに思想的なものにまでなっていたから、肥後熊本士族が一団となって結束するということはなかった
・・・東京ではときに年長者のほうから気軽に会釈してくれる。熊本ではこういうことはまったくない。
・・・老熟ということが旧幕の頃の幕府の人材の価値観のひとつなのだが、当時のいわゆる雄藩は二十そこそこの若造に藩の舵取りをまかせた。
・・・江戸期という教養時代は幕末で凝縮された観があり、素朴な譎詐奸謀というようなものは通用せず、誠実な教養人が人の信頼を得た。』

2018年7月 4日 (水)

自衛隊失格 私が「特殊部隊」を去った理由 (伊藤祐靖著 新潮社)

自衛隊に不満があって辞めた人がそれらの不満ばかりを記したものかと思って読み始めました。確かに不満は書かれていましたが、依然愛着も持っていることが感じられる著作でした。

『・・・「他人が真似できない量の科学的なトレーニングをこなした奴が勝つ」という極めてシンプルな法則通りのことをすれば、本当に試合に勝てるようになるのだ。中でも私の人生を大きく変えたのは、「他人が真似できない量をこなす」という部分だった。それは苦しい練習に耐えるとか、痛みをがまんするとかの話ではない。レベルが上がっていけば、そんなことは至極当然、誰もがやっているからである。勝負がつくのはそこではない。勝負というものは、どれだけ多くのものをあきらめたのか、いったい何を捨ててきたのか、で決まる。なぜなら、どんな人でも一日は平等に24時間しかないからである。
・・・今は予科練っていうと立派なところだと思っている人が多いけど、「よたれん」って呼ばれて元不良の巣みたいなもんだった
・・・彼は敵ではない。我々、幹部候補生を育てようとしている兄貴分なのだ。くだらないことを考えていないで、兄貴分を信じてみようと心に決めた。・・青鬼の我々後輩に対する愛情を感じ、私は救われた。彼がいなければ幹部候補生学校を中途離脱していたかもしれない。
・・・私の命を守ってくれたコミュニケーション能力とは、警戒心とか、社交性とかではない。外国語能力とかでもない。それは、余裕である。そのままの自分をさらせる余裕、自慢でなければ、自虐でもない。ただ等身大の自分をさらす能力だ。
・・・作戦が行われる期間の2倍は平気でなければならない。・・一瞬でも苦痛を感じたり、何かを我慢したりしているとすれば、そこでの戦闘には絶対に勝てない。戦闘にならないんだよ。だって、いるだけでストレスを感じてしまうなら、戦闘になったとたん、肉体が死んでしまう前に、その環境ストレスとコンバットストレスがメンタル殺しちまうからな。
・・・いかなる環境下に置かれたとしても一瞬たりとも苦痛を感じないようになるための訓練、現代社会の利便性を捨てきってそのありがたみさえも忘れるための訓練を自ら実行しなければならない立場になった
・・・中年以降の典型的な自衛官とは、目指していると思っていることと、実際に目指していることの間に大きなギャップのある人のこと。加えて、それに気づいているのか、気づいていないのか微妙な人たちを指す。
・・・自衛隊は米軍の思想と習慣を参考にしながら(模倣しながら)、帝国陸海軍の伝統も残そうとしている。いいとこ取りという考え方もできるが、優柔不断、どっちつかずのノンポリシーと見ることもできる。
・・・任務達成のためにすべてのことを諦めることが軍人らしさだ。任務達成のためには保身に走る心や遵法精神や、道徳心も、すべてかなぐり捨てなければならない。何の見返りもなく、任務達成を目指す。これが軍人らしさだ。
・・・こういう無茶な話は、自衛隊ではよくあることである。何人もの業務を1人が行わなければならない。どう考えたって無理なのに、なぜかいつもできてしまう。それは、形だけを整えるからである。
・・・「はだかの王様」とは、何をしても祭り上げられ、間違いを指摘されることなく扱われるものである。私には、なる条件が十分に備わっていた。・・私が「はだかの王様」にならないためには、階級、年齢に基づく上位者という概念を自分の中から外さなければならないし、上位者として扱われないようにしなければならない。
・・・多くの師匠やその人たちを紹介してくれる軍人との人間関係を築くには時間がかかる。自分で休暇をとって、飛行機に乗り、彼らの家に行き、一緒に食べたり飲んだりしながら、お互いの人間性を理解しあわなけばならないからである。そういうつながりは一緒に過ごした時間が長くなればなるほど太くなり、広がっていく。
・・・”いくさごと”で一番大切なことは、異国の20歳も年下の女性から教えられた。それは私がずっと探し求めていたもので、一つのことに本気になる。一つのことを真面目に考えるという姿勢そのものだった。そして、それを習得した瞬間に思い出したのは、父親の言葉だった。「暗殺なんか、簡単だよ。殺すと決めたのなら、それだけすればいい。周囲を巻き込みたくないとか、自分が生きていたとか、ひどいのになると捕まりたくないとかな、二つも三つも欲しがるか難しくなるんだ」』

« 2018年6月 | トップページ | 2018年8月 »