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2018年6月 5日 (火)

西郷隆盛 維新150年目の真実 (家近良樹著 NHK出版新書)

私の尊敬する西郷隆盛ですが、良い面ばかりでなく、欠点についても著者の見解が書かれていて、参考になりました。それでも、尊敬する気持ちは変わりません。

『・・・変身を遂げたあとの西郷は、己の真意を以前よりも明らかにしない「演技力」を身につけた分、傍目には容易に理解しがたい人物となった。
・・・要は禁門の変後「朝敵」となった長州藩と、福原越後をふくむ三家老らの処罰等でもって妥協し、内乱の危機を回避することに西郷は成功したのである。とにかく、この時の西郷の活躍はめざましく、かつ彼が本来備えていた人間的魅力も手伝って、西郷の名前が一気に知られるようになる。
・・・旧体制が打倒された明治期に入ると、庶民クラスにおいても西郷の知名度は瞬く間に全国区となる。すなわち、倒幕運動の主役として一般人の間でもその名がかたられ始め、すぐに圧倒的な人気を持つ国民的英雄の座に就くことになった。
・・・明治30年代から40年代にかけて、大陸への雄飛を目指した先駆者としての側面が大々的に喧伝されることになった。そして、昭和期に入り日中戦争に突入すると、美しいすると、美しい心根を持つ愛国者であったことが強調され、結果的に戦争への協力者とされることになる。
・・・西郷が謙虚な姿勢を取りえた相手は、身分の高下にかかわらず、人間として好ましいと彼が感じられる範囲の人物だったこと、そしてそれは、二度の流島体験を経て自分の在り方を大きく変えた後だったことである。・・若き日の西郷が、後年の彼とは違って、はっきりと断定口調でものを云う直情径行型の青年だった・・もろもろの出来事に対応できる有能な「人材」ではあったが、傲慢なところが少なからずある青年に成長した。
・・・西郷は、研究者の間でもしばしば包容力のある人物だったとされるが、これは誤解である。西郷は好き嫌いの激しい人間で、清濁併せ呑むような人物ではとうていなかった。
・・・私は、西郷をして一人画然とした位置に立たしめた大きな理由として、次の諸点を挙げたい。第一点は、島津斉彬による抜擢と、その薫陶に与ったことである。・・第二点は、島津斉彬のような「名君」の薫陶を受け、かつ江戸や京大阪で優れた人物や高貴な人々と接触するチャンスを得たことで、西郷が本来有した「果断さ」とともに、「エレガンス(優雅さ)」をも併せ持つ人物となりえたことである。・・第三の点は、・・西郷の涙と微笑である。
・・・勝敗がほぼ決まった後も、西郷が執拗に戦闘の継続にこだわったために、結局、官軍と西郷軍の双方を合わせて3万人を超える戦死者と負傷者を出すことになった・・そういう意味で、西郷の罪は大きかったと言わねばならない。
・・・大隈重信なども、「どういうものか薩摩人はよく財を好む。財には甚だケチである。よく集めることばかり知って、よく散らすことを知らない。その中において、老西郷のごときはまず出色の人であったろう」との感想をもらしている。
・・・沖永良部島の子どもに経書(儒学の経典)を教えた際の言葉の一つに、「生死の二つ(が)あるものでない」といったものがある。これは彼が「死生」を「昼夜のごとく」一体のものと見ていたことによった。そして、このような考え方の根幹には、「死生の権は天に在り、当にこれを順受すべし」との死生観が横たわっていた。
・・・要は禁門の変後「朝敵」となった長州藩と、福原越後をふくむ三家老 らの処罰等でもっ て妥協 し、内乱の危機を回避することに西郷は成功したのである。とにかく、この時の西郷の活躍はめざましく、かつ彼が本来具えていた人間的魅力も手伝って、西郷の名前が一気に知られるようになる。
・・・ところが、旧体制が打倒された明治期に入ると、庶民クラスにおいても西郷の知名度は瞬く間に全国区となる。すなわち、倒幕運動の主役として一般人の間でもその名が語られ始め、すぐに圧倒的な人気を持つ国民的英雄の座に就くことになった。
・・・明治30年代から40年代にかけて、大陸への雄飛を目指した先駆者としての側面が大々的に喧伝されることとなった。そして昭和期にはいり日中戦争に突入すると、美しい心根を持つ愛国者であったことが強調され、結果的に戦争への協力者とされることになる。
・・・西郷が謙虚な姿勢を取りえた相手は、身分の高下にかかわらず、人間として好ましいと彼が感じられる範囲内の人物だったこと、そしてそれは二度の流島体験を経て自分の在り方を大きく変えた後だったことである。・・若き日の西郷が、後年の彼とは違って、はっきりと断定口調でものをいう直情径行型の青年だったことである。・・もろもろの出来事に対応できる有能な「人材」ではあったが、傲慢なところが少なからずある青年に成長した。
・・・西郷は、研究者の間でもしばしば包容力のある人物だったとされるが、これは誤解である。西郷は好き嫌いの激しい人間で、清濁併せ吞むような人物では到底なかった。
・・・西郷を一人画然とした位置に立たしめた大きな理由・・第一点は、島津斉彬による抜擢とその薫陶に与ったことである。・・第二点は、島津斉彬のような「 名君」の薫陶を受け、かつ江戸や京大阪で優れた人物や高貴な人々と接触するチャンスを得たことで、西郷が本来有した「果断さ」とともに、「エレガンス(優雅さ)」を併せ持つ人物となりえたことである。・・第三の点は、・・西郷の涙と微笑みである。
・・・勝敗がほぼ決まった後も、西郷が執拗に戦闘の継続にこだわったために、結局、官軍と西郷軍の双方を合せて三万人を超える戦死者と負傷者を出すことになった・・そういう意味で、西郷の罪は大きかったと言わざるを得ない。
・・・大隈重信なども、「どういうものか薩摩人はよく財を好む。財には甚だケチである。よく集めることばかり知って、よく散らすことを知らない。その中において、老西郷のごときはまず出色の人であったろう」との感想をもらしている。
・・・沖永良部島の子供に経書(儒学の経典)を教えた際の言葉の一つに、「生死の二つ(が)あるものでない」といったものがある。これは彼が「死生」を「昼夜のごとく」一体のもの と見ていたことによった。そして、このような考え方の根幹には、「死生の権は天に在り、当にこれを順受すべし」との死生観が横たわっていた。
・・・幕末期、ともに幕政の最高指導者として深く関わりあった松平春嶽によると、慶喜は、大胆どころか、父の斉昭同様、「至って胆の小なる性質」つまり小胆であったという(「逸事史補」)。また彼は、父斉昭が大奥の改革を目論んだものの、失敗したのを見ていたためか、大奥の改革には、いっさい手をつけなかった(関口すみ子『御一新とジェンダー』)。
・・・日本史を勉強するうえで、心得ておかねばならない要点の一つに、こと対外関係に限れば、随分長い間、日本の表玄関は、かつて「裏日本」と称されることもあった日本海地域と、九州と中心とする西南地域だったことがある。古代から近世にかけて、日本にとってかけがえのない重要な文物や大事な人材は、すべて中国大陸からか、もしくは東南アジア方面からもたらされてきたからである。
・・・薩摩藩が琉球の地を支配下においたのは、17世紀の初頭、慶長年間(1596~1615年)のことであった。そして薩摩藩は、この琉球を通じて、中国(清朝)とつながりを持ち、琉球を介しての中国貿易で莫大な利益を得ることになる。・・また19世紀に入ると、今度はやはり琉球を通じて、欧米諸国とも望まない形で接触を深めることになる。・・フランスやイギリスが琉球に大きな関心を示したのは、彼らにとって同地が貿易上重要な拠点になると判断したことに加え、捕鯨船や蒸気軍艦を停泊させる基地としても適していたからであった。こうして、薩摩藩は、いや応なしに、江戸幕府を除けば全国諸藩のなかで一番最初に、深刻な対外危機に見舞われることになった。
・・・琉球を介しての交易で莫大な利益を得ていたやり方が、のちに横浜が開港地になると、それがままならなくなったことである。すなわち、外国商人は、諸事にわたって便利な横浜に、活動の拠点を全面的に移した。そのため、薩摩藩は交易上の特権的地位を失い、そのことで、いや応なしに横浜鎖港問題等に関心を向けざるをえなくなる。いま一つは、奄美諸島の人々の手から強奪された黒糖が、旧体制を打倒するうえでの財源(軍資金)となったことである。
・・・島津家は、その祖である惟宗忠久が鎌倉時代に、薩摩、大隅、日向に近衛家が持っていた所領の荘官となって以来、同家の門流に組み込まれ、藤原姓を称した。・・近衛家のみならず徳川家とも特別な関係に入ったことで、幕末期の薩摩藩の政治活動が開始され、それが延いては倒幕にまで発展したのは否めない。それまで幕政(国政)に関わる発言は、外様大名には一切許されていなかったが、徳川家の縁(親)戚になった以上、徳川家のために助言をするのはむしろ当然だとする意識が、このような政治介入を正当化させることになったのである。・・長州藩サイドはともかく、薩摩藩サイドには長州藩を自分たちと対等な存在だと見る気持ちはなかった。それは、藩の石高が長州藩の倍近い70数万石(長州藩は30数万石)であったことに加え、いま挙げたような近衛家・徳川家双方との縁戚関係がやはり大きくかかわった。すなわち、自分たちは、長州藩などとは格が違うという傲り高ぶった気持であった。
・・・久光が、この文久2年の時点で、未曽有の民族的危機を克服し、日本国を西洋諸国と対峙しうる強国に変えるためには、幕府に政権担当者として変わってもらわねばならないと決断し、実行に移したのが、この率兵出府であった。・・この事件の及ぼした影響としては、・・まず第一は、幕府の創設以来、譜代大名と上級旗本のみで国政を運営してきた在り方に楔を打ち込んだことである。・・その第二は、いま先ほど指摘したように、無位無官の身で、藩外に対してほぼ無名に近かった久光の存在を、一気に全国区のそれとしたことである。・・その第三は、右の第二とも密接にかかわるが、久光が非常な決意でもって立ち上がったぶん、傍観者としての立場に終始した諸藩を軽蔑し排除することに繋がったことである。・・その第四は、久光が、誠忠組のリーダーであった大久保利通らを配下に組み込むと同時に、それまで敵対的な存在だった西郷隆盛をもほぼ完璧に服従させることに成功したことである。・・第五は、多大な成果を江戸で獲得した久光一行が、京へ戻る途中で引き起こした外国人殺傷事件(生麦事件)によって、イギリスとのトラブルを招いたことである。
・・・貴賤の別にこだわった封建的身分論者の久光は、有志(浪士)の過激な言動を殊の外、嫌った。すなわち彼らが、攘夷論を唱えて国政に介入したことを身分を弁えない軽輩の僭越な行動だと強く非難した。そして、久光の眼から見れば、その有志のリーダーが西郷であった。
・・・鹿児島に帰った後の西郷は、すくなくとも明治7年(1874年)の下旬ころまでは、反政府的行動に出る気持ちはまったくなかったようである。・・明治9年下四半期段階になると、西郷は相当程度、将来における自身の決起を想定し始めたようである。
・・・昭和期に行われた日中戦争などにおいても、ストレスによる兵士の下痢は深刻な問題だった
・・・川口によると、西郷軍との戦いのため進攻した大分・熊本両県に接する宮崎県山中(高千穂の郷)の村十八か村では、米を食べる習慣が「極めて稀」で、住民は麦・粟・玉蜀黍を食していたという。これは、いうまでもなく、稲作が困難で、米を手に入れるのが難しかったからであった。
・・・西南戦争では、西郷軍・政府軍の双方とも、どうやら人肉を食することが、時としてあったらしい。このことがハッキリと判るのは、西南戦争中に、政府軍関係者の中から「戦場の人肉嗜食厳禁の建議」がなされているからである。・・私が見た史料の範囲では、戊辰戦争中、会津藩との攻防の際、薩長両藩兵の中に、敵兵の胆を「ぐつぐつ鍋で煮」る行為が見られた(「維新戦役実歴談」)。・・西南戦争時の人肉(生胆)食いは、西郷軍の場合は二つの理由によったと考えられる。一つは深刻な食糧難によるもの、いま一つは政府軍兵士に対する憎しみによるものである。
・・・政府軍兵士に対する憎しみに関しては、・・いまだ戦争初期の段階で、政府軍兵士の死体がずたずたに「試切」にされ、その「総て」の「人胆」が取られていたとの目撃談が記されている。そして相手方が憎らしいというのは政府軍兵士も同様であった。・・政府軍兵士が憎しみのあまり、西郷軍兵士の死体を切り刻み、そのうえ「其の肉を割きて喰らわんと」としたのを、上官が辛うじて「抑制」したとある。・・西郷軍方の兵士の死体は多くが裸にされ、そのうえ投降したにもかかわらず首を刎ねられるケースが見られた。また、西郷軍方の病院に収容されていた傷病者が殺されたケースもあった。
・・・島津家には多くの壮兵が付従していたが、それら壮兵が戦争に加わらず中立的な立場を守ったこと、島津家の家令であった内田政風が、島津家が所有する第百五銀行の金を軍資金として西郷軍に提供するのを断固拒絶したことで、西郷軍の戦力・資金力が削がれることになった。そして、これが西南戦争が西郷軍側の敗北に終わるうえで大きな要因となったことは言うまでもない。・・久光は西南戦争を薩摩側の敗北に終わらせた影の主役であるとともに、鹿児島が存続できた真の主役でもあったのである。そして、これは、幕末期以来の薩摩藩が抱えた内部訌争がもたらした結末でもあった。
・・・歴史学のような人間や社会を相手に格闘する学問の場合は、多方面にまたがる知識が必要かと考える。
・・・西郷は、その「男ぶり」が頗るよかったうえ、「人間力」を度重なる試練を耐え抜き修養に努めることで大いに磨いた。その結果、類まれなる「人望」を得た。しかし、逆にその「人望」のために身をほろぼすことにもなった。つまり、リーダーに求められるものを十分にそなえながら、皮肉なことに、そのために破滅することにもなった。他方、どう見ても「人気者」とは言えない徳川慶喜は、リーダーに不可欠な「人望」がなかったため、「政権返上(大政奉還)」を独断で決定し、結果として日本を「内乱」の危機から救った。近代の日本にとっては、慶喜がリーダー性を欠如していたがゆえの僥倖とも評することが可能かもしれない。
・・・西郷は、このように、最後は大失敗に終わったとはいえ、彼が我々に身をもって教えてくれるものがある。・・公平性を欠く決定の仕方や、対局を見通したうえでの正々堂々とした姿勢に基づかない政治や外交に異を唱えた。もちろん、そこには、理想主義に陥り、現実軽視の側面が色濃く漂ったのは否めない。・・世界中のリーダーの多くを覆っている劣化とは、人間力の低下や教養の欠如にほかならない。』

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