翔ぶが如く(二) (司馬遼太郎著 文春文庫)
『・・・幕府というえたいの知れない政府とをたおすときにこそ寝技も必要であったかもしれないが、倒してかれの理想であるはずの太政官政権が成立したとき、国家の運営に関する正論は白日の下でおこない、いっさいの寝技は用いないという態度を頑固にとるようになった。
・・・この幕末における大機略家が、明治になってその機略性をすて、元来、かれの性格の基調であったところの正直さというものだけで生きていこうとしたことは、人間の現象としては奇跡のようにおもわれる。
・・・日本の政治は、豊臣政権と徳川政権の成立が多分にそうであるように急所はつねに寝技をもってうごいてきた。しかし西郷はつねに、「一世之智勇ヲ推倒シ、万古之心胸ヲ開拓ス」という、とほうもない教訓をもって自戒のもっとも重要なことばとしてきた。・・意味は、男子たるものの志のあり方をのべている。志をもつ以上、一世を覆う程度の智勇などは払いのけてしまえ、それよりも万世のひとびとの心胸を開拓するほうが大事である、ということであろう。
・・・「自分を戦さ好きというそうだ。誰が戦さを好くものか。戦さは人を殺し金を使うもので、容易に戦さをしてはならぬ」・・「西洋は文明国だという。しかし自分は野蛮国であるとおもっている。かれらは弱小の国をいじめ、侵略している。本当の文明とは、未開の国に対しては慈愛を本とし、懇々説諭して開明に導くべきである」ともいっている。
・・・自分を愛さない、ということもやはり自己が基準になっているのだが、その、愛さないという自己をさえすてたときに自己を忘れることができた。自己を忘れれば天の心にちかくなり、胸中が天真爛漫としてきて、あらゆる事や物がよく見えるようになった。
・・・山県は軍隊と警察を好んだが、警察の創始者であり、山県にとって原型の一人である川路利良のポリス思想を好まなかった。市民へのサーヴィスというフランス式をあらため、明治一八年ドイツから顧問をまねき、国家の威権の執行機関としてのドイツ式の警察に切りかえた。
・・・かつて江戸期の終了まで御所様として日本的陰翳の世界で神聖視さrていた天皇はこのあたりでその伝統を変える。ドイツ風の権威の象徴になり、ロシア風の重厚さをくわえることになった。
・・・斉彬はかつて世氏の頃自分を廃嫡にしてお由良の子久光を擁立しようといういわゆる「お由良派」の連中に対し、かれが藩主になったあとも報復人事をしなかったというほどの、ほとんど奇跡的な寛容さをもっていた。
・・・西郷は一世を覆う声望があったが、---出来る人の下につく。 という西郷一流の考え方から、大村の命令には忠実に従った。
・・・倒幕のあと、いちはやく新国家構想を考えたのは、長州集団であった。薩摩集団ではなかった。薩摩集団は幕府を倒したあと、兵は鹿児島に帰り、一見ぼう然と世の成り行きをながめていただけである。
・・・西郷は幕末のころからそうだったが、---人を無料(ただ)で使うことはできない。 という自分の法律をもった男で、懐中に銭をもっていないときは、煙管や煙草入れをあたえたりした。
・・・かれは若いころに郡方の下っ端の書記をしていただけにソロバンが達者で暗算も上手だった。京都での奔走当時も藩費をつかった場合はかならずソロバンを入れ、残金を明確にしておいた。しかし自分の俸給となると、ぜんぶ散じてしまうというところがあったし、勘定もしなかった。それどころか、縁側に放り出して数日そのままになっていることもあった。
・・・大村には一個の思想があった。洋学者であるかれは西洋の軍事文明で日本を武装させようとしたが、大村自身は靴もはかず洋服も傷、自分だけはそれを身につけまいとしている不思議なところがあった。
・・・このころの陸軍には夏服がなかった。警視庁もおなじで、川路なども毎夜市中を巡回するのに冬服で汗をたらしながら歩いている。
・・・西郷よりも島津久光のほうが思想家としては鮮明で鮮烈であった。「すべてを徳川時代にもどせ」というのである。強烈な現実否定であり、これほど明快な反革命主義もない。しかも久光はその生活をあげて洋臭を拒絶していた。この久光が---話が後のほうへ飛ぶが---西郷の反乱をたれよりもよろこび、その幕下あげて応援した。
・・・薩摩では幼年期から「郷中」という士族の少年団で徹底的な教育を受けるがその倫理綱領のなかに、---オセンシに従う。 ということがあった。オセンシ(御先師)とは郷中の先輩という意味で、その命令には絶対服従ということになっており、薩摩の統制主義というのはそういう地盤の上に成立している。
・・・西郷は戦闘を担当していた。本営を相国寺においていたが、前線からつぎつぎに苦戦の報がつたわった。前線から血相を変えて「援兵を頼みます」という伝令がきたことがある。西郷は戦略戦術には長じていなかった。しかしいまが戦さの潮目だという目はあった。「皆死せ」と、西郷は伝令を怒鳴りつけて前線へ追い返した。この一言で前線は奮い立ったという。
・・・大久保は諸事慎重で決して物事を即決しない。その点、西郷は合財袋のような印象を薩摩人からうけていた。何を頼んでも、頼む人間さえ不潔な野心や功利性をもっていなければ「よろしい」と然諾し、その場で所管の責任者に紹介状を書いてくれるのである。・・極端にいえば西郷は人間に地位を与える錬金術者であった。ただその錬金術を自分自身のために用いようとしなかっただけである。
・・・西郷は軍人の評価をするにあたって、それが軍事という技術者であることよりもいかに国士であるかということで測った。・・西郷は中国的教養が深かった。中国のすぐれた文官はつねに憂国家であり、いわば国士であり、であるだけでなく、国家危難のときは文官が皇帝から節刀を頂戴して兵をひきい夷狄を千里の外に破るのが理想とされていた。
・・・薩摩人の士風として侮辱されれば刀を抜き、相手を殺しおのれも死ぬという伝統があった。
・・・西郷という人物は、その思想といい人格といい、かれに格別の魅力を感じて接する者以外には空漠としてすこしも理解できないというふしぎな存在であった。
・・・木戸は勝をホラ吹きとみて好まず、さらにはほとんどの長州人が勝を軽視した。勝の意見を重視したのは薩摩派であった。
・・・遺族は、喪に服さねばならない。江戸時代にその制度は徳川幕府によって法制化されており、公卿・大名・諸藩士などはこれに従い、習俗化していた。忌服といった。忌服中は屋敷の門を閉じて出ず、魚肉や酒を遠ざけ、ひげや月代を剃ってはいけない、とあり、父母の清だ場合にはその期間が50日、養父母の場合は30日であった。
・・・かれ(パークス)はアジア人との交渉法を中国で学んだ。「どなって威嚇すること、これしかない」 と信じていたし、中国ではこの方法がうまく通用した。中国の大官を相手にして紳士的に交渉したりすれば先方は儒教的尊大でふくれあがり、対話もなにもできなくなるのだが、それよりも相手をおびえさせるとその尊大さがたちまち凋み、はじめて対話が可能になる、という智恵であった。・・やがて聡明なパークスは、中国人と日本人が人種的には相似していながら自然環境や長い歴史や体制のちがいでまったく違う民族であることを知ったが、それでもパークスは率直を好みあいまいさを憎む態度で押しとおし、ときに相手の態度によっては大声をあげ、旧幕時代、幕府高官に対しては案外このやり方が効を奏したりした。
・・・あのとき西郷が、にわかに徳川慶喜を死罪にするという基本方針をすて、慶喜の代理人勝海舟と三田の薩摩屋敷で対面し、一転、江戸城の無血あけ渡しを決めたのは、パークスの恫喝が契機になっている。
・・・英人や米人が日本人に対する侮蔑の俗語としてJapという言葉をもっていることはふつう知られている。ジャニーというのはそれ以前の蔑称であろう。・・幕末に流行し、明治になると、ジャップという言葉にとってかわられた。
・・・旧幕当時、横浜にきた外交人が、日本人はあきらかに二種類存在し、ほとんど人種が違うほどだ、と一般に見ていたようであった。武士とその他の者のことで、とくに諸外国から横浜へ流れてくる庶民たちのがらのわるさと西洋人に対する卑屈さとは、アジアの他の土地でもまれなくらいであった。「ジャニー」という蔑称はそういう印象から生まれた。・・江戸期の日本では自尊心は武士階級の独占精神のようなもので、庶民にはもたされなかった。
・・・朝鮮の場合、その無防備と文治主義はあくまでも中国に対する伝統的配慮からであり、もし朝鮮が侵されれば宗主国である中国から援軍が送られてくる(豊臣秀吉軍の侵入の場合がそうであったように)という仕組みになっていた。
・・・歴史的にいえば明治政府ほとつらい政権はない。・・その最大の理由は明治革命の主目的が近代国家になるためのものであったからだった。やってみたものの、近代国家というのはべらぼうに金のかかるものだった。・・それらの無理は、百姓たちにしわよせされた。このため各地で一揆がしきりにおこった。
・・・「郷士」というのは、十津川の村人の自称にすぎない。江戸体制での十津川村の村人の身分は、大体が百姓身分であった。しかも幕府の免租地であった。山地で米が一粒も穫れないために租税のとりようがなかったからである。
・・・薩摩人は独特の女性観をもち、むやみに女と口をきく習慣をもっていない。
・・・薩摩の顔つきは他の地方にくらべて多様で、前田のように子供っぽいほど色白で頬のゆたかな、いわば市松人形のような顔も薩摩には多い。しかし薩摩人にはちょっとした表情や身ごなしに薩摩のにおいがあり、前田にはそれがまるでなかった。
・・・---心が鬱すれば桐野に会いにゆけ。 と薩摩人のあいだでいわれたほど、桐野は足もとからたえず爽風の立っているような男だった。話もおもしろかった。なんでもない話でも桐野の人格を通して語られると、ひっくりかえるほど滑稽になったり、目を洗われるほど心地よい風景が現出したりした。
・・・「大久保は、あれは薩摩人じゃなか」というのが、かれを嫌う薩摩人が一般に、吐き捨てるようにしていう評語である。大久保は薩摩人が共通してもつとされている長所や欠点から独立した人物であった。
・・・長州藩というのは薩摩藩とちがい、江戸期の初期のころからすでに藩主の独裁権はなくなっており、とくに江戸末期においては能吏を挙げて政務役とし、政務役の会議が内閣の機能をもち、藩は全体として法人のようになってしまっていた。その上、幕末における争乱をこの藩はもろにかぶったために藩主の座はごく象徴的なものになり、いわば近代的体質をもつようになっていた。
・・・西郷は、密謀にむかない。かれは幕末にあってこそ倒幕のための機略を縦横にめぐらしたが、維新後”大業”が成ったとみたときに、そういう自分のいわば公的な陰謀家の素質を掴み出して川へなげすててしまったようなことがある。
・・・従道はいま、大久保的な派に属し、伊藤や山県の同志といっていい。新政府擁護派であった。すくなくとも従道は新政府擁護派をもって「誤っていない」とし、この時期、兄の隆盛と意見交換の習慣が消滅し、断絶同然となっている。
・・・薩摩にあっては、侍が侍がましくなるには二つのことだけが必要とされていた。死ぬべき時に死ぬことと、敵に対しては人間としてのいたわりや優しさをもちつつも、闘争にいたればこれをあくまでも倒す。この二つである。これ以外の要求は、薩摩の士風教育ではなされていない。学芸の教養はあればあったでいいが、必要とはされなかった。むしろそれを身につけているために議論の多い人間になったり、自分の不潔な行動の弁解の道具にしたりすることがあれば、極度に排斥された。たとえ無学であっても薩摩ではすこしも不名誉にはならない。爽やかな人格でないということが薩摩にあっては極端に不名誉なのである。
・・・領土拡張論が罪悪思想であるといわれはじめたのはずっと後世のことで、桐野のこの時代にはむしろそれが国家的正義とまではゆかなくても、他の列強との摩擦さえなければ国家行動として望ましいものとされていた。
・・・もし空いている一地方にある国が自国の勢力を入りこませようとするならば、あらゆる根回しが必要で、その目指す地方の王朝よりもむしろその地方に関心をもつ列強に対して十分な手をうっておかなければかならず失敗するという智恵を欧州の政治家はよく知っていた。彼らが邪智に富んでいるのではなく、そういう国際環境の中でそれぞれが国家を成立させているために経験が体質化していると言っていい。
・・・たとえ相手が隣家にすんでいる場合でも、手紙をもって意見をのべるというのが、幕末の京都政界で発生した習慣である。おそらく後日の証拠を明確にしておくためであろう。
・・・公卿には、一般社会で通用している節義というものが容易に存在しない。公卿は古来強い方につくといわれ、そのさい人を裏切っても平然としているという例が無数にある。・・「公家は鎌倉以来の武家道徳とは無縁でこんにちまで来た連中だから諸事、用心せよ」というのは、幕末、京都に駐在した諸藩の周旋方のあいだでささやかれていた言葉であった。
・・・「国友」というのは、薩摩の同志のことである。西郷にとっては日本国と旧薩摩藩とは一つのものであった。
・・・公卿たちを震え上がらせた西郷の手紙というのを、大久保はむしろ懐かしそうに読んだ。「若哉(もしや)、相変じ候節は、死をもって国友へ謝し候までに御座候」 という一条は、大久保にとっては不思議でも何でもなく、薩摩の人間ならば当然そうあるべきであり、立場こそ違え、大久保の心事もそれとかわらない。・・三条や岩倉とたまたま政見を同じくし党を組んでいるが、人間として西郷に対しこの時ほど懐かしさと友情を感じたことはなかったに違いない。
・・・この時代のロシアというものはそれに国境を接する弱小の国々にとっては脅威以上のもので、日本の明治維新の成立も、幕末以前の日本に恐怖情報として入っていたロシアの南下行動が強い刺激になっていたことを否定することはできない。
・・・草創期のこの新国家は、前原のような志操のみが高く実務については無能にちかい男よりも、構想力と実務能力をもった男を欲していた。山県しかいなかった。
・・・この年の正月に徴兵令が布告され、士族たちの反発と、庶民の不安を買いつつも国民皆兵軍が創設された。全国に六つの鎮台(師団)が置かれた。平時兵力は3万1千680人であったが、まだ第1回の徴募がおこなれたばかりであるために、そこまでの人数は存営していない。設置すべき部隊は、歩兵14個連隊の他に騎兵3個大隊、砲兵18個小隊、工兵10個小隊であった。いずれにせよ、わずか3万余という兵力が、日本の正規軍である。
・・・革命家というのは、やはり特異な精神体質をもつものであるかもしれない。・・同時代でかれらよりもはるかに学殖があった者や志の高かった者もいたし、あるいは徳望ももった者もいたが、しかしそれらのひとびとが日常の常識的世界の安らかさのなかで過ごしているときに、この連中のみは、誰に頼まれたわけでもなくまるで天命を受けているがことくして異常の行動をし続けてきた。
・・・この当時の大衆とは世論形成の主体という意味においては士族と富農層を中心とする読書階級のことであり、裏店の借家人や行商人などはまだ政治参加の姿勢も習慣ももっていない。
・・・「公明正大の正論が堂々とまかり通る政府であるはず」というのが、西郷の多分に願望を込めた政府観で、そういう政府をつくるためにおびただしい流血のすえに成立した政府なのである。その政府を作った西郷としては、太政官政府を幕府のようには見たくなく、ました幕府を倒した時のやり方をこの政府に対して試みようとは思わなかった。
・・・西郷はひげを貯えなかった。江戸期には、幕末においてさえ、日本人は無髯(むぜん)であった。ところが明治になるとにわかに西洋人のまねをしてひげと貯える者が多くなり、とくに官員にそれが多かった。西郷はそれをしなかっただけでなく、頭も洋髪にせず、ちょうど法界坊のようなイガグリ頭にしていた。』