« 2018年1月 | トップページ | 2018年3月 »

2018年2月

2018年2月24日 (土)

翔ぶが如く(二) (司馬遼太郎著 文春文庫)

『・・・幕府というえたいの知れない政府とをたおすときにこそ寝技も必要であったかもしれないが、倒してかれの理想であるはずの太政官政権が成立したとき、国家の運営に関する正論は白日の下でおこない、いっさいの寝技は用いないという態度を頑固にとるようになった。

・・・この幕末における大機略家が、明治になってその機略性をすて、元来、かれの性格の基調であったところの正直さというものだけで生きていこうとしたことは、人間の現象としては奇跡のようにおもわれる。
・・・日本の政治は、豊臣政権と徳川政権の成立が多分にそうであるように急所はつねに寝技をもってうごいてきた。しかし西郷はつねに、「一世之智勇ヲ推倒シ、万古之心胸ヲ開拓ス」という、とほうもない教訓をもって自戒のもっとも重要なことばとしてきた。・・意味は、男子たるものの志のあり方をのべている。志をもつ以上、一世を覆う程度の智勇などは払いのけてしまえ、それよりも万世のひとびとの心胸を開拓するほうが大事である、ということであろう。
・・・「自分を戦さ好きというそうだ。誰が戦さを好くものか。戦さは人を殺し金を使うもので、容易に戦さをしてはならぬ」・・「西洋は文明国だという。しかし自分は野蛮国であるとおもっている。かれらは弱小の国をいじめ、侵略している。本当の文明とは、未開の国に対しては慈愛を本とし、懇々説諭して開明に導くべきである」ともいっている。
・・・自分を愛さない、ということもやはり自己が基準になっているのだが、その、愛さないという自己をさえすてたときに自己を忘れることができた。自己を忘れれば天の心にちかくなり、胸中が天真爛漫としてきて、あらゆる事や物がよく見えるようになった。
・・・山県は軍隊と警察を好んだが、警察の創始者であり、山県にとって原型の一人である川路利良のポリス思想を好まなかった。市民へのサーヴィスというフランス式をあらため、明治一八年ドイツから顧問をまねき、国家の威権の執行機関としてのドイツ式の警察に切りかえた。
・・・かつて江戸期の終了まで御所様として日本的陰翳の世界で神聖視さrていた天皇はこのあたりでその伝統を変える。ドイツ風の権威の象徴になり、ロシア風の重厚さをくわえることになった。
・・・斉彬はかつて世氏の頃自分を廃嫡にしてお由良の子久光を擁立しようといういわゆる「お由良派」の連中に対し、かれが藩主になったあとも報復人事をしなかったというほどの、ほとんど奇跡的な寛容さをもっていた。
・・・西郷は一世を覆う声望があったが、---出来る人の下につく。 という西郷一流の考え方から、大村の命令には忠実に従った。
・・・倒幕のあと、いちはやく新国家構想を考えたのは、長州集団であった。薩摩集団ではなかった。薩摩集団は幕府を倒したあと、兵は鹿児島に帰り、一見ぼう然と世の成り行きをながめていただけである。
・・・西郷は幕末のころからそうだったが、---人を無料(ただ)で使うことはできない。 という自分の法律をもった男で、懐中に銭をもっていないときは、煙管や煙草入れをあたえたりした。
・・・かれは若いころに郡方の下っ端の書記をしていただけにソロバンが達者で暗算も上手だった。京都での奔走当時も藩費をつかった場合はかならずソロバンを入れ、残金を明確にしておいた。しかし自分の俸給となると、ぜんぶ散じてしまうというところがあったし、勘定もしなかった。それどころか、縁側に放り出して数日そのままになっていることもあった。
・・・大村には一個の思想があった。洋学者であるかれは西洋の軍事文明で日本を武装させようとしたが、大村自身は靴もはかず洋服も傷、自分だけはそれを身につけまいとしている不思議なところがあった。
・・・このころの陸軍には夏服がなかった。警視庁もおなじで、川路なども毎夜市中を巡回するのに冬服で汗をたらしながら歩いている。
・・・西郷よりも島津久光のほうが思想家としては鮮明で鮮烈であった。「すべてを徳川時代にもどせ」というのである。強烈な現実否定であり、これほど明快な反革命主義もない。しかも久光はその生活をあげて洋臭を拒絶していた。この久光が---話が後のほうへ飛ぶが---西郷の反乱をたれよりもよろこび、その幕下あげて応援した。
・・・薩摩では幼年期から「郷中」という士族の少年団で徹底的な教育を受けるがその倫理綱領のなかに、---オセンシに従う。 ということがあった。オセンシ(御先師)とは郷中の先輩という意味で、その命令には絶対服従ということになっており、薩摩の統制主義というのはそういう地盤の上に成立している。
・・・西郷は戦闘を担当していた。本営を相国寺においていたが、前線からつぎつぎに苦戦の報がつたわった。前線から血相を変えて「援兵を頼みます」という伝令がきたことがある。西郷は戦略戦術には長じていなかった。しかしいまが戦さの潮目だという目はあった。「皆死せ」と、西郷は伝令を怒鳴りつけて前線へ追い返した。この一言で前線は奮い立ったという。
・・・大久保は諸事慎重で決して物事を即決しない。その点、西郷は合財袋のような印象を薩摩人からうけていた。何を頼んでも、頼む人間さえ不潔な野心や功利性をもっていなければ「よろしい」と然諾し、その場で所管の責任者に紹介状を書いてくれるのである。・・極端にいえば西郷は人間に地位を与える錬金術者であった。ただその錬金術を自分自身のために用いようとしなかっただけである。
・・・西郷は軍人の評価をするにあたって、それが軍事という技術者であることよりもいかに国士であるかということで測った。・・西郷は中国的教養が深かった。中国のすぐれた文官はつねに憂国家であり、いわば国士であり、であるだけでなく、国家危難のときは文官が皇帝から節刀を頂戴して兵をひきい夷狄を千里の外に破るのが理想とされていた。
・・・薩摩人の士風として侮辱されれば刀を抜き、相手を殺しおのれも死ぬという伝統があった。
・・・西郷という人物は、その思想といい人格といい、かれに格別の魅力を感じて接する者以外には空漠としてすこしも理解できないというふしぎな存在であった。
・・・木戸は勝をホラ吹きとみて好まず、さらにはほとんどの長州人が勝を軽視した。勝の意見を重視したのは薩摩派であった。
・・・遺族は、喪に服さねばならない。江戸時代にその制度は徳川幕府によって法制化されており、公卿・大名・諸藩士などはこれに従い、習俗化していた。忌服といった。忌服中は屋敷の門を閉じて出ず、魚肉や酒を遠ざけ、ひげや月代を剃ってはいけない、とあり、父母の清だ場合にはその期間が50日、養父母の場合は30日であった。
・・・かれ(パークス)はアジア人との交渉法を中国で学んだ。「どなって威嚇すること、これしかない」 と信じていたし、中国ではこの方法がうまく通用した。中国の大官を相手にして紳士的に交渉したりすれば先方は儒教的尊大でふくれあがり、対話もなにもできなくなるのだが、それよりも相手をおびえさせるとその尊大さがたちまち凋み、はじめて対話が可能になる、という智恵であった。・・やがて聡明なパークスは、中国人と日本人が人種的には相似していながら自然環境や長い歴史や体制のちがいでまったく違う民族であることを知ったが、それでもパークスは率直を好みあいまいさを憎む態度で押しとおし、ときに相手の態度によっては大声をあげ、旧幕時代、幕府高官に対しては案外このやり方が効を奏したりした。
・・・あのとき西郷が、にわかに徳川慶喜を死罪にするという基本方針をすて、慶喜の代理人勝海舟と三田の薩摩屋敷で対面し、一転、江戸城の無血あけ渡しを決めたのは、パークスの恫喝が契機になっている。
・・・英人や米人が日本人に対する侮蔑の俗語としてJapという言葉をもっていることはふつう知られている。ジャニーというのはそれ以前の蔑称であろう。・・幕末に流行し、明治になると、ジャップという言葉にとってかわられた。
・・・旧幕当時、横浜にきた外交人が、日本人はあきらかに二種類存在し、ほとんど人種が違うほどだ、と一般に見ていたようであった。武士とその他の者のことで、とくに諸外国から横浜へ流れてくる庶民たちのがらのわるさと西洋人に対する卑屈さとは、アジアの他の土地でもまれなくらいであった。「ジャニー」という蔑称はそういう印象から生まれた。・・江戸期の日本では自尊心は武士階級の独占精神のようなもので、庶民にはもたされなかった。
・・・朝鮮の場合、その無防備と文治主義はあくまでも中国に対する伝統的配慮からであり、もし朝鮮が侵されれば宗主国である中国から援軍が送られてくる(豊臣秀吉軍の侵入の場合がそうであったように)という仕組みになっていた。
・・・歴史的にいえば明治政府ほとつらい政権はない。・・その最大の理由は明治革命の主目的が近代国家になるためのものであったからだった。やってみたものの、近代国家というのはべらぼうに金のかかるものだった。・・それらの無理は、百姓たちにしわよせされた。このため各地で一揆がしきりにおこった。
・・・「郷士」というのは、十津川の村人の自称にすぎない。江戸体制での十津川村の村人の身分は、大体が百姓身分であった。しかも幕府の免租地であった。山地で米が一粒も穫れないために租税のとりようがなかったからである。
・・・薩摩人は独特の女性観をもち、むやみに女と口をきく習慣をもっていない。
・・・薩摩の顔つきは他の地方にくらべて多様で、前田のように子供っぽいほど色白で頬のゆたかな、いわば市松人形のような顔も薩摩には多い。しかし薩摩人にはちょっとした表情や身ごなしに薩摩のにおいがあり、前田にはそれがまるでなかった。
・・・---心が鬱すれば桐野に会いにゆけ。 と薩摩人のあいだでいわれたほど、桐野は足もとからたえず爽風の立っているような男だった。話もおもしろかった。なんでもない話でも桐野の人格を通して語られると、ひっくりかえるほど滑稽になったり、目を洗われるほど心地よい風景が現出したりした。
・・・「大久保は、あれは薩摩人じゃなか」というのが、かれを嫌う薩摩人が一般に、吐き捨てるようにしていう評語である。大久保は薩摩人が共通してもつとされている長所や欠点から独立した人物であった。
・・・長州藩というのは薩摩藩とちがい、江戸期の初期のころからすでに藩主の独裁権はなくなっており、とくに江戸末期においては能吏を挙げて政務役とし、政務役の会議が内閣の機能をもち、藩は全体として法人のようになってしまっていた。その上、幕末における争乱をこの藩はもろにかぶったために藩主の座はごく象徴的なものになり、いわば近代的体質をもつようになっていた。
・・・西郷は、密謀にむかない。かれは幕末にあってこそ倒幕のための機略を縦横にめぐらしたが、維新後”大業”が成ったとみたときに、そういう自分のいわば公的な陰謀家の素質を掴み出して川へなげすててしまったようなことがある。
・・・従道はいま、大久保的な派に属し、伊藤や山県の同志といっていい。新政府擁護派であった。すくなくとも従道は新政府擁護派をもって「誤っていない」とし、この時期、兄の隆盛と意見交換の習慣が消滅し、断絶同然となっている。
・・・薩摩にあっては、侍が侍がましくなるには二つのことだけが必要とされていた。死ぬべき時に死ぬことと、敵に対しては人間としてのいたわりや優しさをもちつつも、闘争にいたればこれをあくまでも倒す。この二つである。これ以外の要求は、薩摩の士風教育ではなされていない。学芸の教養はあればあったでいいが、必要とはされなかった。むしろそれを身につけているために議論の多い人間になったり、自分の不潔な行動の弁解の道具にしたりすることがあれば、極度に排斥された。たとえ無学であっても薩摩ではすこしも不名誉にはならない。爽やかな人格でないということが薩摩にあっては極端に不名誉なのである。
・・・領土拡張論が罪悪思想であるといわれはじめたのはずっと後世のことで、桐野のこの時代にはむしろそれが国家的正義とまではゆかなくても、他の列強との摩擦さえなければ国家行動として望ましいものとされていた。
・・・もし空いている一地方にある国が自国の勢力を入りこませようとするならば、あらゆる根回しが必要で、その目指す地方の王朝よりもむしろその地方に関心をもつ列強に対して十分な手をうっておかなければかならず失敗するという智恵を欧州の政治家はよく知っていた。彼らが邪智に富んでいるのではなく、そういう国際環境の中でそれぞれが国家を成立させているために経験が体質化していると言っていい。
・・・たとえ相手が隣家にすんでいる場合でも、手紙をもって意見をのべるというのが、幕末の京都政界で発生した習慣である。おそらく後日の証拠を明確にしておくためであろう。
・・・公卿には、一般社会で通用している節義というものが容易に存在しない。公卿は古来強い方につくといわれ、そのさい人を裏切っても平然としているという例が無数にある。・・「公家は鎌倉以来の武家道徳とは無縁でこんにちまで来た連中だから諸事、用心せよ」というのは、幕末、京都に駐在した諸藩の周旋方のあいだでささやかれていた言葉であった。
・・・「国友」というのは、薩摩の同志のことである。西郷にとっては日本国と旧薩摩藩とは一つのものであった。
・・・公卿たちを震え上がらせた西郷の手紙というのを、大久保はむしろ懐かしそうに読んだ。「若哉(もしや)、相変じ候節は、死をもって国友へ謝し候までに御座候」 という一条は、大久保にとっては不思議でも何でもなく、薩摩の人間ならば当然そうあるべきであり、立場こそ違え、大久保の心事もそれとかわらない。・・三条や岩倉とたまたま政見を同じくし党を組んでいるが、人間として西郷に対しこの時ほど懐かしさと友情を感じたことはなかったに違いない。
・・・この時代のロシアというものはそれに国境を接する弱小の国々にとっては脅威以上のもので、日本の明治維新の成立も、幕末以前の日本に恐怖情報として入っていたロシアの南下行動が強い刺激になっていたことを否定することはできない。
・・・草創期のこの新国家は、前原のような志操のみが高く実務については無能にちかい男よりも、構想力と実務能力をもった男を欲していた。山県しかいなかった。
・・・この年の正月に徴兵令が布告され、士族たちの反発と、庶民の不安を買いつつも国民皆兵軍が創設された。全国に六つの鎮台(師団)が置かれた。平時兵力は3万1千680人であったが、まだ第1回の徴募がおこなれたばかりであるために、そこまでの人数は存営していない。設置すべき部隊は、歩兵14個連隊の他に騎兵3個大隊、砲兵18個小隊、工兵10個小隊であった。いずれにせよ、わずか3万余という兵力が、日本の正規軍である。
・・・革命家というのは、やはり特異な精神体質をもつものであるかもしれない。・・同時代でかれらよりもはるかに学殖があった者や志の高かった者もいたし、あるいは徳望ももった者もいたが、しかしそれらのひとびとが日常の常識的世界の安らかさのなかで過ごしているときに、この連中のみは、誰に頼まれたわけでもなくまるで天命を受けているがことくして異常の行動をし続けてきた。
・・・この当時の大衆とは世論形成の主体という意味においては士族と富農層を中心とする読書階級のことであり、裏店の借家人や行商人などはまだ政治参加の姿勢も習慣ももっていない。
・・・「公明正大の正論が堂々とまかり通る政府であるはず」というのが、西郷の多分に願望を込めた政府観で、そういう政府をつくるためにおびただしい流血のすえに成立した政府なのである。その政府を作った西郷としては、太政官政府を幕府のようには見たくなく、ました幕府を倒した時のやり方をこの政府に対して試みようとは思わなかった。
・・・西郷はひげを貯えなかった。江戸期には、幕末においてさえ、日本人は無髯(むぜん)であった。ところが明治になるとにわかに西洋人のまねをしてひげと貯える者が多くなり、とくに官員にそれが多かった。西郷はそれをしなかっただけでなく、頭も洋髪にせず、ちょうど法界坊のようなイガグリ頭にしていた。』

2018年2月11日 (日)

野村のイチロー論 (野村克也著 幻冬舎)

イチロー選手が超一流なことは認めていましたが、何となく好きにはなれず、しかし自分でその理由を説明することはできませんでした。本著で野村元監督は、イチロー選手の素晴らしさを様々な面から説明してくれていますが、同時に私が好きになれなかった理由も明確に説明してくれた気がします。

『・・「グリップを残す」こと、それだけをイチローが注意しているように、ワンポイントでいいのである。バッティングにおいて気を付けるべきことは・・・・。あれこれ気にするより、もっとも大切な一点を決め、そこをきちんとチェックしてさえいれば、あとはおのずと理想的な形になっていくものなのだ。
・・・野球をやったことのある人なら、「ボールをよく見ろ」と必ず言われたはずだ。けれども、じつはプロのバッターというものはふだん、ボールを「見る」という意識はほとんど持たずに打席に入っている。実際にそこに「見えて」いるわけだし、漠然と「見ている」だけで、長年の感覚をもとにバットを振る。それが普通だ。しかし、そこに「見る」という意志を入れてボールに対すると、結果はずいぶん変わってくるのである。「見える」と「見る」はまったく違うのだ。スランプになったとき、私はそのことに気がついた。
・・・イチローは、「僕の中では全く違う」と反論し、こう続けた。「つまらせてヒットにする技術がある」すなわち、わざとつまらせて打球のスピードを殺し、野手がキャッチするまでの時間を稼いてヒットにするというのだ。こわはほんとうに信じられない。そういう発想すら私にはない。
・・・彼の発言を聞いてしばしば思うのは、イチローは凡人を煙に巻くような話をすることで、格好をつけているのではないかということだ。
・・・「ショートゴロはいいけど、セカンドゴロはダメ」イチローはそれをひとつのバロメーターにしているらしい。身体の動き出しが遅くなると、それを取り戻そうとバットが早く出てしまい、手前でさばいてしまう。その結果がボテボテのセカンドゴロになるというわけである。
・・・よく言うのだが、「小事に気付く」「小事を大切にする」ことは、一流選手に共通する条件である。・・小さなことに気付くことができるかどうかで、結果はずいぶんと違ってくるのである。2004年にメジャーのシーズン最多安打記録を更新したときだったと思う。いみじくもイチローは述べていた。「小さなことを大切にしていかないと、頂点には立てない」
・・・彼はフォームにはこだわっていないのだろう。イチロー自身はこう語っている。「毎年気持ちは変わりますし、身体も微妙に変わります。いいフォームが何年経ってもいいとは思いません。その時々の自分に合うフォームが必ずあるはずです」
・・・ここでも注目すべきことは、40歳を越えたイチローが、いまだ成長しようという意志を持ち続け、そのため努力や試行錯誤を厭わないことである。そして、「変わる」ことを恐れないということである。ある程度の実績を残した選手というものは、変化を好まない。・・不惑を越えてなお進歩するために変わり続けるところに、イチローのすばらしさの一端があると私は思っている。
・・・イチローも言っている。「丈夫さ=強さとか大きさ、硬さだと思いがちだけど、僕は全く正反対の考え方。丈夫さ=柔らかさ。そしてバランス」私も同感だ。・・・聞くところでは、イチローはオリックス時代、ウェイトトレーニングで身体が大きくなったものの、パフォーマンスが落ちたことがあったらしい。そこで関節の可動域を広げ、筋肉を柔らかく保つ調整法に変えたそうだ。
・・・メジャーのキャンプは日本のそれに較べると期間も時間も短いし、当然、練習量もはるかに少ない(言い換えれば、身体づくりはキャンプがはじまるまで各自でやってこいということであり、進歩や上達は試合を通じて身に付くものだというのがメジャー流の考え方である)。イチローにはそこが物足りなかったらしい。そこでイチローは、アメリカでも日本で行っていたハードな練習を続けた。すると、その姿を見たほかの選手も次第に彼を見習うようになり、チームの首脳陣もイチロー流トレーニングを全体練習に取り入れた。
・・・イチローはプレーする際も、ケガをしないように気を配っているのがわかる。たとえばスライディング。イチローは頭から絶対に滑り込まない。必ず身体の横で滑り込んでいる。・・頭から突っ込まないのは、守備においても同様だ。・・ケガをしにくい身体づくりと、ケガを未然に防ぐプレー。イチローがめったに休むことがなく、40歳を過ぎてもそれほど衰えを感じさせないのは、このふたつを実践しているからなのである。
・・・馬場敏史という、オリックスからヤクルトにやってきた選手がいた。彼に聞いた話では、イチローは朝から晩まで雨天練習場でバッティング練習をしていたそうだ。・・イチローは天才でありながら練習の虫なのである。努力を怠らない。そこがすごい。長嶋と同じく、”努力の天才”でもあるわけだ。だからこそ、誰もまねのできないあのバッティングを生み出すことができた。これだけは間違いないと私は思っている。
・・・イチローはドラフト4位指名でオリックスに入団した。全選手中、44番目の指名である。ヤクルトだけでなく、オリックスも含めた12球団のスカウトはみな、この逸材に対してその程度の評価しかしていなかったわけだ。・・いずれにせよ三輪田のおかげでイチローはプロ入りすることができたわけである。イチローはいまも三輪田の墓参りを欠かさないそうだ。
・・・スカウトは選手の目利きのプロである。いやしくもプロであるなら、イチローの素質をひと目見ただけで見抜けなくてはならない。
・・・バッターでもピッチャーでも私は、「それではダメだから、こう変えろ」といきなりフォームをいじったことは一度もない。「まずはそれでやってみろ」私ならそう言う。1,2年、そのフォームでやってダメだったら変えればいいだけの話だ。それなら本人も納得できる。・・ただし、そういうときでも決して頭ごなしに命令はしない。「こういうやり方もあるが、試してみてはどうだ?」という言い方をする。選手を伸ばすのに必要なのは、「こうやれ」と自分のやり方を押し付けることではなく、足りない部分に気付かせてやることであり、「それならこういうやり方があるぞ」と提案してやることなのである。
・・・すべての指導者は選手と対峙する際、「こうでなければならない」という固定観念と、「これではうまくいくはずがない」という先入観を排して臨まなければならない。それは、選手のいわば生殺与奪権を握っている監督やコーチの義務なのである。
・・・困った時こそ、原理原則に返る。---私はいつもそうしている。
・・・おそらく仰木は「ファンサービス」と考えたのであろう。だが、それは断じて違う。ほんとうのファンサービスとは一流選手同士の真剣勝負を見せることにほかならない。仰木自身、現役時代はオールスターにほとんど出たことがないから、そういうことがわかっていないのだ。
・・・私の知る限り、外野手で守備練習を一生懸命やっていたのは、山内一弘さんくらいしかいない。山内さんはレフトを守っていたが、試合前のフリーバッティングのとき、打球をいつも追いかけていた。決して足は速くなかったし、肩も強くなかったが、どの球場でも定位置から何歩行けばフェンスだとか、この場所にワンバウンドで投げればストライクでキャッチャーや内野手に返球できるなどということがすべて頭に入っていたそうだ。練習のときから全部チェックしていたのである。
・・・私が日米野球に出場したころのメジャーリーガーたちも、たとえばウィリー・メイズがそうだったように、パワーだけに頼ることはなかった。俊敏さとち密さをあわせもっていた。だからこそ、私は憧れ、尊敬した。しかし、バットやボールなどの用具の進化、科学的トレーニングの進歩もあって、メジャーリーガーたちは次第にパワーを競い合うようになり、細やかさやち密さといって要素はホームランの華やかさの陰に隠れ、失われていった。ファンからも顧みられなくなった。
・・・たとえばジーターはこう語った。「連中(日本人選手)の長所が、そのままわれわれの弱点なんだ。彼らは細かいプレーを本当に丁寧にこなしている。走者を進めたり、タイミングよくバントしたり、エンドランをうまく使う。本当にいいチームは、そうやって試合に勝つんだ。ああいう試合では、ホームランばかりに頼ってはいけないのさ」
・・・しかし、私にいわせれば、それは打たれた責任を転嫁するに等しい。打たれたら全責任を負うのがキャッチャーである。みんなで決めたことだから、たとえ打たれる可能性が高くてもスライダーを投げさせる。そうすれば、たとえ打たれてもなるほど誰も責任をとらなくていいかもしれない。しかし、それが許されるのはアマチュアである。たとえ自分が悪者になっても、もっとも成功する確率の高い作戦を選ばなければならない。それがプロである。少なくとも私はそう思ってやってきた。
・・・たしかにプロである以上、常に結果を求められるのは当然である。しかし、結果の裏側にあるものは何か。プロセスである。いい結果は、正しいプロセスを経てこそもたらされる。逆に言えば、どんなにいい結果がでたとしても正しいプロセスを踏んだものでなければ、所詮は偶然の産物にすぎない。ほんとうに身についたわけではないのだから、長続きはしない。だから私は選手たちに言い続けてきたのである。「プロフェッショナルのプロはプロセスのプロ」
・・・自分では「納得した」と思ったことでも、第三者の目で客観的に見れば、「妥協した」と映ることが多い。たんなる甘え、自己満足といっていい。低いレベルで「納得」していては、それ以上努力しようとしなくなり、政庁も止まるのは確実だ。私が思うに、評価とは自分が下すものではなく、他人が下すものである。そして、他人の評価のほうがたいがいは正しい。そのことを頭に入れておかないと、評価されていないと感じたとき、「自分はこんなに頑張っているのだから、それを認めない周囲がおかしい」と思いかねない。自分が納得するのではなく、他人を納得させる生き方を目指すべきだと私は思うのだが・・・・・。
・・・「打たなきゃいけない」と思うとプレッシャーになるが、「打ちたい」と思えば楽しみになる。・・「楽しむというのは、決して笑顔で野球をやることではなくて、充実感を持ってやることだと解釈してやってきました」とイチローは言った。
・・・満足してしまえば、「これくらいやればいい」と妥協してしまいかねない。それが「これ以上は無理だ」という自己限定につながり、満足→妥協→自己限定という負のスパイラルに陥ってしまう。そうなれば、それ以上成長しようがないのは当然。「満足はプロには禁句」なのである。
・・・およそプロの世界に入ってくるような選手であれば、能力にそれほどの差はない。であれば、結果を出す選手と出せない選手の差がどこにあるかといえば、自分の長所に気付いているか、もしくはそれを活かす術をわかっているかどうかが非常に大きいのである。必ずしも「自分がしたいこと=自分に合っていること」とは限らないし、自分では長所と思っていることが他人から見ればそうでないことは珍しくないのだ。
・・・「失敗と書いて、成長と読む」私はよく言う。・・たしかに失敗を振り返るのは気分がいいものではない。だが、失敗を遠ざける者は、成功をも遠ざける。失敗を受け入れ、原因をつきとめ、そこからどれだけ学ぶことができるかによって、その人の人生はずいぶん違ってくると私は思う。
・・・「初心を忘れないことっていうのは大事ですが、初心でプレーしてはいけないのです。成長した自分がそこにいて、その気持ちでプレーしなければいけません」・・「いつまでも初心でいては、成長していないともいえる」イチローはそうも語っている。
・・・その(藤山)寛美さんが話していた。「野村さん、『人気』って、どう書きます?『人の気』って書くでしょう。だから難しいんですよ。人の気をつかみ、動かすということは大変なことなんです」おそらく落合は人の気をつかみ、動かすことができなかったのだ。プロ野球は人気商売。ロッテという不人気チームにいたことも影響しているかもしれないが、落合は人の気をつかみ、動かすための努力が足りなかったように思う。
・・・ふつう、あれほどのレベルの選手であれば、練習では適当に艇を抜いたり、休んだりしても不思議はないし、誰も文句は言わない。けれどもこの二人(ON)は、周りが「そんなにやらなくてもいいのに・・・・」と感じるくらい真剣に取り組み、オープン戦であっても試合を欠場することはめったになかった。巨人から南海にやってきた相羽欣厚という選手がこういったのを私はいまだに忘れられない。「ONは練習でも一切手を抜かず、目一杯やる。だからわれわれもうかうかしていられない。彼ら以上にやらなければならないと思った」
・・・私がイチローを認めなったもっとも大きな理由は、ひとことでいえば、こういうことだ。「『イチローを見習え』と、ほかの選手に言うことができないから---」中心選手というものは、”チームの鑑”すなわち手本でなければならないというのが私の考え方だ。・・イチローの野球に対する姿勢について文句はない。その点では十分にチームの鑑たりえる。ならば、どうして「イチローを見習え」と言えないのか---。「勝負とかけ離れたところでプレーしていた」それが理由だ。・・そのプレーが、その努力が、自分の記録を伸ばすためだけに向けられていた---私にはそう見えたのだ。「チームより自分優先」つまりはそういことである。「チームのために」という意識がイチローには欠如していた。そこがONとイチローの大きな差であり、私がイチローの実力と努力を十二分に認めながらも、手放しで称賛できなかった理由だったのである。
・・・私はよく言うのだが、「自分がヒットを打つことがチームに貢献することになる」という考え方と、「チームに貢献するためにヒットを打つ」という考え方は、似ているようで違う。前者は「チームより自分」。後者は「自分よりチーム優先」である。野球が団体競技である以上、すべての選手は後者を目指さなければならない。
・・・イチローは三振が少ないが、フォアボールも少ない。記録を見ると、それなりの数に上るが、一番という打順を考えれば、もっと多くてもおかしくない。・・好きなコース、打てるボールが来たら、どんな状況であってバットを出すからだ。
・・・「自分が打てなくてもチームが勝ってうれしいなんてありえない。そういうことを言うのはアマチュアでしょう」そういったこともある。「自分がヒットを打てれば、チームはどうなってもいい---」極端にいえば、それがイチローの考え方なのだ。
・・・こういう話をいたるところで聞いた。「イチローはマリナーズのチームメイトから信頼されず、浮いていた」・・アメリカ人は「個人主義」だという。だが、だからといってチームより個人が優先されるかといえば、そんなことは、こと野球に関しては絶対にない。・・私は目を疑った。なんと、ボイヤーが送りバントをしたのである。これにはさすがの私も驚いた。四番で、しかも4年連続24本塁打を放ち、その年はナ・リーグの打点王を獲得したボイヤーがランナーを進めるためにバントをしたのである。が、同時に大いに感銘を受けた。「やっぱり、メジャーリーグもチームの勝利最優先なんだな・・・・」
・・・だが、「中心選手が個人優先主義だからチームが弱い」という言い方もできないわけではない。中心選手が自己中心的だと、おのずとほかの選手もチームの勝利よりも自分の記録を優先するようになる。だから低迷するというわけである。
・・・イチローは肝心なことを忘れている。記者たちの向こうにはファンがいるのである。ファンはイチローと直接話すことはできない。報道は、ファンがイチローの言動を知ることができる唯一と言っていい機会なのである。記者たちは、イチローとファンをつなぐ接点なのだ。そのことに思いが及べば、記者たちにいい加減な態度をとっていいわけがないではないか。
・・・私は各社のデスククラスの人間に「もっとマシなのよこせ」と文句を言った。すると、デスクは一様に答えた。「若手を育てるには、ノムさんに預けるのが一番いいんですよ。なんとか育ててやってください」だから、「記者たちに何を言ってもわからない」と言って取材を拒否する落合にもいった。「わからないなら教えてやれ。わかるように、懇切丁寧に教えてやれよ。記者を育てるのも監督の仕事のひとつなんだから」
・・・プロ野球選手は、最初にどの球団に入ったか、どういう監督のもとで育ったかということが、その後の野球人生に大きな影響を及ぼすものだ。仕えた監督によって、野球に対する考え方、取り組み方がずいぶん変わってくるし、さらにいえば人生観も違ってくる。
・・・監督が人間教育をせず、先輩も自分中心であれば、おのずとそうなっていく。私が経験したなかでは阪神がその典型だったし、近鉄にもそういう雰囲気があった。
・・・あとで聞いたところでは、イチローはこうした自分勝手な行動をとることがしばしばあったらしい。どうやら監督の仰木彰が特別扱いを許していたようだ。移動が別なら、ホテルも別ということもあったと聞いた。川上監督がONであってもいっさい特別扱いせず、叱るべき時はきちんと叱ったのとは対照的である。
・・・清原が事件を起こすようになってしまったのには、最初に入団した西武にも責任があると私は思っている。私は監督だった森祇晶にも直接いったことがあるが、森が「プロとは何か」「野球とは」「人間とは」という教育をしっかりしなかったことが影響しているはずだ。・・仰木もそうだ。彼は”野武士集団”と呼ばれた西鉄ライオンズの出身、グラウンドで結果を出しさえすれば私生活は問われない球団で育った。極端にいえば、「重要なのは個人の力で、チームプレーなんてくそくらえ」というチームに高卒で入った。だから、自分が指導者になってもそういうやり方を踏襲した。
・・・ヤンキースといえば、メジャーリーグでも屈指の名門である。・・その強さの秘密は、キャプテンを務めていたデレク・ジーターの以下のような発言に象徴されている。「ヤンキースは常勝が義務。自分が活躍しても、チームが勝たなければ意味はない。チームが勝つためにできることをする」』

2018年2月 8日 (木)

軍人が政治家になってはいけない本当の理由 政軍関係を考える (廣中雅之著 文春新書)

航空自衛隊の元将官の著作でした。納得できない部分もありましたが、現在の日本の憲法は勿論法律に、国家機構における自衛隊の位置づけが明記されていないということについては、まったくその通りだと思います。現在の日本で、誰が日本の主権を外国から守ることは明記されていません。多くの国民は自衛隊だと思っているのでしょうが、法令的に曖昧だと思います。国家における武力、実力集団の意義を明らかにするような憲法改正の議論を期待していますが、現状を見ると、期待薄です。
『・・・最も重要なことは、第一に民主主義国家の国防組織は、憲法及び国内法制の下で国家機構の中に国防を担う専門的な職業集団(profession)として明確に位置付けられなければならないということである。このことは、政権のトップ、国防省(防衛省)、法執行機関及び軍隊の指揮官が、国家機構全体の中で、権限と責任を、どこまで負うことになるかについて、明確にしておくことを意味する。
・・・民主主義国においては、文民統制は絶対的な原則なっている。政治は、軍事にかかわる政策決定の最終責任を負い、軍隊の指揮官は政治指導者に対して軍事的な助言を行うとともに、政治目的を達成するための軍事的手段を提供することのみを行う。しかしながら、一般的に、この政策決定の結果が明らかになるまでの過程において、政治指導者と軍隊の指揮官との間ででは対立と協調が生じ、その過程を含めて如何に適切に管理していくかが、政軍関係を考える目的となる。・・文民統制は、政治指導者の最終的な政策決定に対する軍隊の徹底的な服従という「過程」であり、政軍関係の一機能でしかないことを正確に理解する必要がある。
・・・軍隊が実力を行使して政治体制を変えるクーデターは、米国が大切にしている民主主義の原則に反すると米軍の指揮官は正確に理解している。英国においても、議会制民主主義の下で民主主義を追求していることから、17世紀以降、軍隊がクーデターを起こしたことはない。
・・・政治指導者と自衛隊の指揮官の間の信頼関係は、あった方が良いではなく、緊急事態における率直な意見交換を実現するためには、絶対的な信頼関係が必要条件となる。
・・・「任務ですから、いつものとおりやってきます。大丈夫です。お任せください」。第一ヘリコプター団長は、少しも気負うことなく、統合幕僚長に報告した。当日、CH-47ヘリコプターでの対処を実際に命じた統合幕僚長以下の自衛隊の各級指揮官及び現地部隊の隊員には高いリスクを負う覚悟ができていた。
・・・しかしながら、「統合幕僚長に決心してもらった」という第三者的な発言に、多くの自衛官は戸惑った。自衛隊のあらゆる作戦行動は、防衛大臣の行動命令によって行われる。正に、防衛大臣による指揮監督権の行使であり、政治指導者である防衛大臣には、自らの決断を部下に命じ、その結果責任の全てを背負う覚悟が必要である。それぞれのレベルで持つべき重大な責任を負う覚悟を部外者である米軍幹部でさえ十分に理解している。北澤防衛大臣の発言では、政治指導者が持つべき強い覚悟が現場の自衛隊員は伝わっていない。
・・・本来、自衛隊の指揮官の主たる任務は、緊急事態に際し、政治指導者に対して政策決定のための軍事専門的な見地からの作戦上の選択肢を提示することである。そこには、基本的に政治判断が入る余地はない。自衛隊の指揮官が、緊急性、公共性及び非代替性を考慮した上で、政治指導者に対して選択肢を提示することは、軍事専門性が曖昧になり、期せずして提示する選択肢の中に政治的な判断が加わることになおそれがある。
・・・実際、政治指導者から、もっと人が出せないのかとの圧力がかかる中、自衛隊は、全力で災害派遣活動を行いつつ、警戒監視活動などの防衛・警備にかかる諸活動については、レベルを下げることなく強靭に継続した。とりわけ、沖縄や九州方面の部隊には、増加する周辺国の偵察活動に対し警戒監視活動のレベルを上げるように指示した。
・・・そもそも、福島第一原子力発電所は、日本人の生活のための電気の供給を行っており、その事故に対しては、あくまでも日本が主体となって対処すべきであり、米国が米国民の保護のために如何なる行動をとろうと、うろたえるべきではない。残念ながら、我が国の政治指導者には、明らかに当事者意識が不足していた。
・・・栗栖陸将は、文民統制上、不適切として政治指導者に更迭されるという結果になったが、栗栖陸将の発言は、軍事専門家としての強い問題意識に基づき専門的な意見を述べたものに過ぎなかった。日本に適切な政軍関係が構築されていれば、とりたてて問題となるようなものではなかっただろう。
・・・依願退職の理由として、「防衛庁長官の信を失ったので退職を決意した」と誠に潔い一分のみが認められていた。政治指導者と自衛隊の指揮官の間の信頼関係が壊れれば、政治指導者が自衛隊の指揮官を更迭するのは当然である。栗栖統合幕僚会議議長が自ら退職を願い出たことで、政治問題化の様相を呈しつつあったこの問題は速やかに沈静化している。政軍関係が未熟である日本において、、栗栖陸将の出処進退は見事であった。
・・・複数の指揮官職への配置を通じて得られる様々な経験は、自己犠牲を伴う高い精神性を養う絶好の機会となる。
・・・田母神空将は、部下統率に優れた優秀な指揮官であり、また、極めて能力の高い幕僚であったが、将官として持つべき健全な精神性を育む過程において、唯一、最も大切な民主主義国家における政軍関係に関して深く考察する機会が不十分であった。
・・・何故、問題が起きたのか。結論を言うと、自衛隊の指揮官が過早な政治判断をしているためである。・・自衛隊の指揮官は軍事専門家的な立場から軸足を外さず、政治指導者に率直に報告すべきであり、それを怠ったところに問題がある。・・政軍関係上、重要な視点のひとつである政治指導者と自衛隊の指揮官の間の率直な意見交換の前提となる信頼関係が全く築かれていないことを明確に示している。
・・・自衛隊は、国内法上、行政組織の一部として位置づけられたままとなっており、国家機構の中で高度な専門家集団である国防組織として位置づけられていない。このことは、我が国の国民に現実から目を背け、安全保障や軍事問題に真剣に向き合わなくてよいという空気を期せずして与える大きな要因となっている。
・・・自衛隊の指揮官は、安全保障に関する一般的な知識は十分に持っているものの、政軍関係にかかわる概念や原則的な事項を学ぶ機会はほとんどなく、政治指導者との距離感をつかみかねている。
・・・政治指導者と自衛隊の指揮官の距離は、統合幕僚長が国家安全保障会議に、防衛大臣とともに常に陪席できることとなったことから格段に縮まっている。しかしながら、米国では、1986年以降、統合参謀本部議長は、国防長官とともに国家安全保障会議の正規メンバーとして、軍隊の意見を代表して国家安全保障会議における軍事政策の決定にかかる採決に加わることができる。我が国の状況は、ようやく30年前の米国に近づいたということかもしれない。
・・・政治指導者に代わって文官官僚が自衛隊を律する文官統制は、冷戦時代のように自衛隊が精強な組織として「存在」することのみに意義があり、自衛隊の実際の「行動」を想定しなくてもよい時代においては、政治が軍事からできるだけ距離をおくための安全弁として一定の役割を果たした。もちろん、防衛省内部部局の軍事専門性の不足は、文官統制の問題だけに起因するわけではない。我が国では、諸外国の陸軍省、海軍省及び空軍省に相当する専門性のある行政組織がなく、事実上、防衛省内部部局のみがそれにあたっている。そのため、本来、専門性の高い組織のいてそれぞれ検討されるべき国防政策・戦略が、主として調整機能しかもっていない防衛省内部部局によって扱われる状況となっている。防衛省の文官官僚の軍事専門性の不足は、この組織構造に起因する問題が最も深刻である。
・・・諸外国の国防省は、長官官房に所属する文官と統合参謀本部に所属する軍人のふたつの系列で構成されている。文官と軍人の所掌事項は、軍政事項(予算、部隊の編成、募集など)と軍令事項(作戦計画の立案、実施及び訓練など)に明確に区分されている。そして、文官といえども、高い軍事専門性をもっている。
・・・新たに出された文民統制に関する政府統一見解でも明らかなように、引き続き、諸外国では例がない「文民統制について内部部局の文官が防衛大臣を補佐する」とされており、未だに文官統制の残滓を引きずっている。自衛隊を適切に使うための制度改革は、道半ばである。
・・・米国憲法は、大統領に軍隊の最高指揮官として強大な権限を付与するとともに、併せて、連邦議会には宣戦布告の権利と軍隊の募集、編成と維持に関する権限を与えている。
・・・大統領および国防長官の高級将官の任命権に関する上院の関与は、実質的に行政府に属する政治指導者からの高級将官に対する過度の影響力を排除し、軍隊の政治的な中立を守る機能を果たしている。
・・・米海軍大学のリンゼイ・コーン准教授は、「米国においては、一般国民は政府をあまり信用していないが、軍隊に対しては絶対的な信頼を寄せている。また、国民は国際情勢にはほとんど関心を持っていないにも関わらず、軍隊の指揮官の判断には絶大な信頼を寄せている」と指摘している。
・・・何故、国民の軍隊に対する高い信頼度が維持されているのかについては、軍隊の実際の軍事行動(performance)、軍事専門性(professionalism)及び説得(persuasioon)の三点があると指摘されている。
・・・大学卒以上の教育水準の高い国民は、あまり軍隊を信用していないのに対し、高卒以下の低学歴の国民の軍隊に対する信頼の度合いは高い。・・第2次世界大戦後のベビーブーマー世代の国民より、ベトナム戦争後に生まれたいわゆるミレニアム世代の方が軍隊に対する信頼度が高く、所得の高い国民に比べて所得の低い国民の方が軍隊を信頼している。・・軍隊に対する支持が低いのは18~29歳が60%、民主党寄り、リベラルな立場が58%となっている。
・・・何故、オバマ政権の対外政策にかかわる政策決定が不適当だったのか。専門家、研究者の批判を総括すると、その最も大きな理由は、大戦略がなく、状況対応型の政策決定を繰り返しているためである。
・・・マレン統合参謀本部議長も、軍隊は政治的中立を守るべきとして、米軍の機関誌上で、「軍人は、現役、退役を問わず、常に中立的、非政治的でなければならず、常に国家全体の利益を考えて行動するべきである」として軍人の政治活動に対して強い警鐘を鳴らしている。
・・・退役将官の一般企業への再就職も、政治活動への関与と同様に潜在的な問題となっている。米軍人を含め、諸外国の軍人には、退役後は恩給制度が適用され、退職後、直ちに恩給の支給が開始されることから、基本的に生活に困窮することはない。米軍の場合、35年以上の勤務を経て退職すると(中将、大将の昇任者に相当)、一生涯、退役時の年棒100%の恩給が支給される。英国軍においても、条件により若干の違いはあるが、退役時の年棒の90%以上の額の恩給が生涯支給されている。ちなみに、自衛隊は軍隊ではないため、恩給制度は適用されず、自衛官は年金を受け取ることとなる。
・・・一般的に辞職は政治指導者のリーダーシップに対する抵抗と受け取られる。従って軍隊の指揮官は政治指導者の最終判断が本当に受け入れられないかを感情論を抜きにして自問できる適切なバランス感覚を持つべきであると多くの米軍の高級将官は考えている。
・・・ハンチントンの「軍隊の軍事専門性を高めることにより、政治指導者は軍事作戦に関し方針的な事項のみを示し細部についてはできるだけ軍人に任せる客観的な統制が可能になる」とする考え方は、今日でも政軍関係の理論の主流になっている。
・・・現役、退役を問わず、米軍の将軍の多くが最も尊敬する米軍人はジョージ・マーシャル陸軍元帥(1880~1959年)である。・・米軍の将官の尊敬を一身に集めている理由は、国務長官、国防長官としての実績ではない。それは、陸軍参謀長代理だった若き日のマーシャルの軍事専門家としての適切な行動である。・・マーシャル元帥は、未だ政軍関係の基礎理論が構築されていなかった時代にあって、軍人は、本来持つべき軍事専門性を最も大切にすべきとの信条を持ち、実践した軍隊の指揮官であった。
・・・この民兵制度は米国の正規軍(常備軍)の制度よりも古い歴史を持ち、米国民が最も大切にしている自主独立精神の源泉として、今日でも国防に対する考え方の基調となっている。
・・・マーシャル元帥は、政治的な活動に関わらないために、生涯、一度も選挙の投票に行かなかったと言われている。
・・・第二次世界大戦後から朝鮮戦争の間、マスコミを通じて自らの意見を主張して政府の政策を公式に批判し続け、ついに、トルーマン大統領に解任されることとなったマッカーサー元帥の行為は、政治指導者と軍隊の指揮官との対立の象徴的な事案である。政治指導者の政策決定に対し公然と批判を繰り返したマッカーサー元帥の文民統制に対する明白な違反行為を支持する米軍人は一人もいない。
・・・ベトナム戦争は、リンドン・ジョンソン大統領、ロバート・マクナマラ国防長官をはじめとする文民が軍事作戦に細かい指示を出しすぎた結果、米国を敗戦に招いてしまったと言われている。
・・・複数の実質を伴う軍事的選択肢を確保することこそ、政治指導者の政策決定における軍隊に対する優越性を担保する鍵となる。
・・・ルート中将がホワイトハウスでの影響力を増していくことは、軍隊の意見を代表していないホワイトハウスの軍事補佐官が、オバマ大統領の軍事政策の決定に大きな影響を及ぼすようになることを意味した。・・軍隊の意見を代表していない軍事顧問が大統領に最も近いところにおり、その軍事顧問が、直接的、間接的に大統領に対し軍事政策にかかる助言を継続的に行うことの是非は再検討されるべきである。
・・・実際は、共和党には軍隊の指揮官の助言を真摯に受け止めない傲慢な政治指導者が多い。他方、民主党政権は軍隊に対する理解が浅く、基本的に軍隊を信頼していないため、やはり軍隊の指揮官の助言を尊重しない政治指導者が多い。軍隊の指揮官は軍事専門家であり、政治指導者とは判断基準が基本的に異なる。如何なる政権であっても、政治指導者と軍隊の指揮官の間には大きなギャップがあり、お互いにそのギャップを埋める努力をし続けることが民主主義国家における政軍関係のあるべき姿である」と苦悩しつづけた孤高のマレン提督は話してくれた。
・・・現在でも、内閣総理大臣、国防大臣と英国軍の指揮官は、少なくも毎週一回、定期的に会う機会があり、緊急事態が発生した場合には、日に何度も会う機会が与えられる。一般的に、英国軍の指揮官は、女王陛下の軍隊であることを誇りに思っている。英国においては、行政府の長である内閣総理大臣が、事実上、軍事政策の決定権を持っているが、英国軍の指揮官は、英国軍は女王陛下の軍隊であり、政治的に中立の立場を堅持しているとの思いが極めて強い。
・・・一般的に英国軍の指揮官は、米国の指揮官に比べて政軍関係に関する関心は低い。それは、英国では政治指導者と軍隊の指揮官の関係が極めて良好である証左でもある。
・・・英国の国家安全保障会議には相当数の軍人も所属しているが、彼らは軍事的な助言者とは認識されていない。内閣総理大臣に対する軍事的な助言者は、英国においては、法律上、国防大臣と統合参謀総長であり、この二人が軍隊の意見を代表して内閣総理大臣に助言をすることとされている。
・・・最も重要なことは、民主主義国家の軍隊は、憲法および国内法制の下で国家機構の中に国防組織として明確に位置付けられなければならないということである。このことは、政権のトップ、国防省、法執行機関及び軍隊の指揮官が、国家機構全体の中で、軍事政策にかかわる権限と責任を、どこまで負うことになるかについて明確にしておくことを意味する。
・・・この対外的な防衛の目的は、国家に対する脅威の排除、主権の維持及び国際的な平和維持である。災害救助、国家建設支援、麻薬取締などは、軍隊の役割としては主体的に行うべきではなく、あくまでも支援する立場にある。
・・・軍隊の指揮官は、常に軍事専門的な観点に軸足を置きつつ、政治指導者が考える政治目的を的確に理解し、政治目的と作戦目的の合致を追求する必要がある。そのことは、政治目的を達成するためとして作戦行動の選択肢を安易に妥協させることを意味しない。
・・・最終的に政治指導者による政策決定が行われる直前まで、考え抜いた軍事作戦の選択肢を政治指導者に説き続けることは、軍隊の指揮官の義務である。
・・・たとえ、軍隊の専門的な判断が100%正しく、政治指導者の判断が100%間違っている場合(実際には51%と49%の違いかもしれないが)であっても、最終的に政治決定がなされると軍隊は徹底的にその命令に従わなければならない。
・・・米英では、退役将官の発言は、軍隊の意見を代表する発言であると理解されている。
・・現役将官はもとより、退役将官は、いかなる状況にあっても政治的な発言はするべきではないという重要な教訓を示唆している。米国では、法律上、退役将官を含む、軍隊の指揮官は政治的中立性を保つ原則を尊重しなければならないこととされている。・・第二次世界大戦前の米国においては軍隊の指揮官が政治活動に関与することは一切なかった。しかしながら、現在、退役将官の政治活動が活発化しており、軍隊が政治的な中立性を確保することが、より難しくなっている。
・・・何より大事なことは、軍隊が政治的な中立性を保っていることを明確に示すことである。つまり、軍隊のあらゆる献身的な行動は、主義主張、党派を越えて国民のために行われているという明確なメッセージが国民に伝わることにより、初めて軍隊が国民から信頼される必要条件を備えるということである。
・・・自衛隊法は、自衛隊並びに自衛官の行動を律するための法律であり、国家機構の中でも自衛隊の位置づけを明確にするものではない。
・・・自衛隊の指揮官の軍事専門性に常に軸足をおいた行動は、国民から信頼を得る鍵となる。言うまでもなく、軍事専門性を追求し続けることは、自衛官の生涯にわたっての目標であり、それこそが、制服を着る「誇り」の源泉である。
・・・自衛隊の指揮官は、政治指導者と意見が違う場合にも政治指導者による最終的な政策決定に至るまで、職を辞さないという覚悟をもって真摯に軍事的な助言をし続ける必要がある。
・・・内閣府国家完全保障局に配置されている自衛官の越権行為は厳に慎む必要がある。
・・・米軍の中将以上への高級将官の昇任に際しては、議会証言が求められ、また、作戦部隊指揮官には随時に議会証言の機会が与えられるが、そこでは自己の信念を率直に述べることが許されている。しかしながら、そのような場であっても、まず軍隊の指揮官は、あくまでも専門家として軍事的観点からの意見のみを述べること、さらに、政治的な問題とは努めて距離を置くことが求められている。
・・・将官にまで承認して退役した自衛隊の幹部は、一生涯、現役将官と同じ、国家に対する責任を負うことを自覚すべきである。
・・・自らが関与した作戦行動の意義、思考過程及び結果について、国民にきちんと言葉で説明し、理解を得ることができなければ、自衛隊の指揮官として失格である。』

2018年2月 4日 (日)

翔ぶが如く(一) (司馬遼太郎著 文春文庫)

大河ドラマが始まったので、関連の著作を読むことにしました。明治維新後がメインですが、初めて知ることも多く書いてありました。

『・・・かつての御府内の警察制度に通暁していたが、士分待遇の与力、足軽身分の同心、さらに同心が私的に追い使っている目明しのたぐいには良からぬたちの者が多く、とくに町方に対する親切心などというものを職業の伝統として持っていなかった。
・・・江戸体制にあっては警察は一種の不浄機関とされ、たとえば奉行所の与力・同心という職には正規の幕臣がこれに就かず、原則として一代限りのいわば臨時雇いの身分の者にこれをやらせ、それらを不浄役人とよんだ。
・・・たとえば旧幕時代江戸町奉行が二人いたように、幕府にせよ、藩にせよ、あらゆる職の責任者はかならず複数をもって構成され、一人に権力や義務が集中することをおそれた。
・・・それら徴士は、出身藩から俸禄をもらい、出身藩の藩主を主君としていた。
・・・薩摩人が共有している執着心の稀薄さという点では、川路も例外ではなかった。
・・・客間に座布団を用いないのは、武家一般の風だが、薩摩ではことにそうで、客も主人も素のままで正坐する。
・・・山本権兵衛は、いう。「仲間と西郷翁のところへ押しかけてゆくと、翁はいつもよろこんで相手になってくれた。”何か、話をして賜はんか”と頼むと、翁は”俺は噺家じゃなかで、何を聞かせってあげてよかか、わからんで。お前たちのほうで、何か、聞きやはらんか”なんでも質問せよ、という風で、接していてあたかも春風に触れるがような長閑な気持ちになる。辞して門を出るときは、もう胸中名状しがたい愉快が湧いてくるのである」
・・・酔って管をまく乱酔癖のことを薩摩語で「芋掘り」という。
・・・薩摩の士族言葉に余計なあいさつ言葉や、人間関係をやわらげるためにのみ存在する冗漫な慣用句がほとんどないのである。この日本でも特殊な言葉は、大久保や川路だけでなく薩摩人全体の発想や行動に大きく影響していた。
・・・この藩だけは江戸期三百年間、鎌倉・戦国の武士の習慣や気質を濃厚に残した。藩内に百二カ所の山塞をもち、郷士という他藩のような名誉身分ではなく、実質的な屯田兵式の軍団制をもって藩領を守り、「他国の風習に似てくれば薩州は弱くなる」という島津義弘の遺訓を奉じて独自の武士文化を作りあげたために、日常のさりげない言葉までが意味をさぐると殺気を帯びている。
・・・薩摩音は日本語にめずらしくラリルレロがL音に近い。リュウがジュウと聞こえるのである。
・・・以上三藩の東京駐屯部隊がやがては「近衛兵」と改称され、最後の士族軍として、そして最初の日本陸軍として出発した。
・・・革命の最高の元老である西郷はひとによのように呼ばれたこともなく、呼ばせもしなかった。彼はこの時期、陸軍大将、参議、近衛都督という、文武の最高権力を一身で兼ねていたが、その日常は全く書生風で、たとえば帰宅のとき正門さえ開けさせないのである。
・・・薩摩の士族習慣のおかしさは、あいさつ口上でさえ多弁を恥じることであった。万事、言葉を信ぜず、心を信ずるという風があり、-見ればわかる。言うも聞くも必要なか。と言い、態度で意思疎通が行われた。
・・・明治初年における薩摩人の外交方針は、旧幕臣の勝海舟が指南したようであった。勝海舟は旧幕時代から日本と朝鮮と中国の三国同盟の提唱者であり、とくに朝鮮に対してはつよい連帯意識と親近感をもっていたから、明治政府が朝鮮に修好を求めたのは、海舟流の善意の行動であったにちがいない。が、朝鮮はそれを蹴った。そのあと海舟流の三国同盟論のかげが薄くなった。
・・・いずれにしても陸軍大将・近衛都督という日本の常備軍の総大将でありながら、西郷はいつも徒歩であった。
・・・薩摩人は、ほtんどこれは風土性とまでいえるが、心情的価値観として冷酷を憎むことがはなはだしく、すべてに心優しくなければならないということを男子の性根の重要な価値としていた。
・・・薩摩は、日本中のどの藩よりも中世的な制度と気分を残し、さらには戦国武者のエネルギーをひたすらに貯えていた集団であった。それが、西郷と大久保という、当時の日本の人材水準をはるかに越えた両人の英雄的活動によって革命主力となり、そのあざやかな手腕によって戦いに倦まぬまま革命を樹立させたのである。精気だけが残った。
・・・西郷は、この連中の金銭問題にこまかい心遣いをしていた。彼自身はささいなことでも人に使い走りなどさせる場合、かならず銭をやって人をタダ使いしないという個人的習慣をもっていたが、かといって若い者が先輩から金をせびるという気分を持つことを許さなかった。が、一般にその悪習があった。
・・・薩摩系軍人と薩摩系警官とはたがいに郷党でありながら仲が悪い。すでに述べたように近衛の将校は城下士(他藩で言う上士)で、警官は郷士で構成されている。城下士は郷士をいやしめることはなはだしく、かといって郷士はたとえば土佐におけるように露骨に城下士と対抗するというほどの険悪さはなかったが、事と次第では積年の鬱屈のためにどう爆発するかわからない。
・・・戦国以来江戸期を通じて薩摩藩でもっとも高貴とされてきた人間の価値はいさぎよさと勇敢と弱者に対する憐みという三つで、武士の学問などはほどほとでよいとされていた。
・・・西郷は他人の漁色について厳格なことを言ったことのない人物であったが、しかし革命政府の清潔ということについては異常なほどやかましく、すくなくとも自分にたいしてだけは修道僧のような生活を課していたのである。
・・・板垣というもっとも過激な征韓論者が、のち自由民権運動の急先鋒に転ずるというところをみても、この時期の征韓論がいかに複雑なエネルギーをふくんだものであったかがわかる。西郷の方がむしろ温和であった。西郷は断じて軍事行動は不可である、と反対した。まず特命全権大使を送る、意を尽くして朝鮮側と話し合い、それでもなお朝鮮側が聞き容れなければ世界に義を明らかにして出兵する、といった。
・・・結局、物事を動かすものは機略よりも、他を動かすに足る人格であるという智恵が、とくに薩摩人の場合は集団として備わるようになっていた。
・・・政治は勢力である。大久保はそのことをよく知っていた。西郷や江藤や板垣らが一大勢力をなして征韓論を唱えているが、これをつぶすためには勢力が必要であった。一人では何もできないと思い、岩倉以下の外遊組の要人が返ってくるのを待っていたのである。
・・・西郷という政略家は、そういう類の仕事には参加していなかった。かれほどおのれの人格とおのれの正義を信じている者はなく、しかも正義の表現(政略)は白昼公然たるものでなければならないと信じ切っている男であった。
・・・明治6年には、東京、仙台、名古屋、大阪、広島、熊本に六鎮台が置かれた。これがのち師団になる。鎮台こそ近代的国防軍の雛といっていいであろう。
・・・明治初年の軍制は、長州の大村益次郎が草創した。大村は明治2年暗殺されるまで軍政面の独裁権を握っていた。統帥の方は唯一人の陸軍大将である薩摩の西郷隆盛がにぎり、陸軍は二本建になっていた。大村の死後、軍政面の後継者に山縣がなった。
・・・要するに明治維新の目的は、国民を成立せしめて産業革命の潮流に乗った欧米の侵略に耐えうる国家をつくることであった。
・・・厳密には長州人の集団というのは薩摩人の集団とちがい、頭目を戴くということを習慣としてもっていない。
・・・大久保も伊藤も日本をもっとひ弱にみていて、列強に伍するというような、いわば大それた期待よりも、せいぜいシナのように列強から蚕食される状態にならない国境を設計できれば十分であった。ひるがえって余談をいえば、大久保も伊藤も太平洋戦争をおこすような強国としての日本を想定したことがなく、伊藤にいたっては日露戦争でさえその開戦に反対し、日本の滅亡という悪い卦をのみ想像しつづけた。
・・・新帰朝という言葉は字義よりも思想語として受け取られていた。欧米文明という、アジア世界とはまったく別系列の文明に接し、それに一大衝撃をうけ、その衝撃から日本的現実を批判し、一年に一センチでもいいから日本を欧米に近づけなければ日本はほろびるという危機感をもった人を指す。
・・・この当時、東京の大道でもいたるところでひとびとが放尿していた。前を隠そうともせず、むしろ通行人に見えるようにして放尿するのが、「江戸っ子の猛気(きおい)」といわれていた
・・・桐野もそうであったが、川路も西郷を訪ねる場合には玄関から入らない。勝手口から入るのである。武家の作法として、そうであった。下級者や後輩が、他家を訪ねる場合にとくにその家の当主のゆるしがないかぎり、門から入らずくぐりから入り、玄関にはのぼらず、裏口へまわるのである。
・・・西郷は旧幕時代、薩摩藩を代表して諸藩との交渉にあたっているころ、むしろ美服といっていいものを着ていた。西郷は元来服装にぞんざいな男ではなかったのだが、しかし彼自身をふくめてかつての同僚が廟堂の大官になり、大廈に住み、美服をまとうようになってから、急に田夫野人のような姿を好むようになった。
・・・江戸三百年、農民は兵士にとられることがなく、それだけが農民の徳分というものであった。ところが明治政府は租税が重いうえに農村の壮丁を兵士にするというのである。(これで、乱がおこらぬはずがない)と、文明への志向者である川路利良も、そうおもうのである。しかし、川路の立場は、一介の士族ではない。明治政権の崩壊をふせぐ力は、一つは内乱鎮圧用(外征用のものでなく)の軍隊としての鎮台である。この整備と充実を、長州人の陸軍中将山縣有朋が着々とすすめている。
・・・西郷はそういう男であった。こちらから話題か用件をもち出さなければ反応を示さないのである。話題や用件さえもち出せば西郷はかならず正直に答え、その論理はつねに明晰であった。
・・・薩摩の風として、長者は若いひとに対して言葉が丁寧である。とくに西郷はそうであった。
・・・かれ(島津斉彬)は、流行の鎖国・攘夷論者ではなく、「鎖国を上策と心得たり、日本国を唯一の世界と思うのはまちがいである。外国との交際と貿易を大いにすべきで、その高裁の精神は平和親善であらねばならない。ただそのためには国防をさかんにし、外国からの侮辱に対しては断乎たる態度をとらねば独立をうしなう」とたえず重臣たちに諭していた
・・・「産業を興し、武備を充実すれば外国はおそるの足りない」という点で、斉彬のやり方はつねに充実した具体性があった。
・・・薩摩の武家の習慣として、畳の上に頭を置かない。首というのは敵の大将の見参に入れるという意味でもっとも尊いものだというのがその理由である。他郷の者からみれば滑稽なことかもしれないが、薩摩には鎌倉風の武家習慣が濃厚にのこっていた。』

« 2018年1月 | トップページ | 2018年3月 »