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2017年12月 2日 (土)

般若心経は間違い? (アルボムッレ・スマナサーラ著 日本テーラワーダ仏教協会)

これまで少し意味が不明なところもありながらも、般若心経はありがたいお経だと信じて唱えてきました。しかし、この著作で疑問点は解消し、般若心経に対する見方が変わりました。

『・・・じつは「般若心経」は分からなくて当たり前なのです。それはお釈迦様、正等覚者である釈迦牟尼ブッダその人が語った経典ではないからです。「般若心経」をはじめとする大乗仏教の経典は、お釈迦様が涅槃に入られてから数百年後、その直接の教えから一部を抜き出して、その人なりの能力で深い意味を表現しようとした宗教家たちの文学作品です。それを私たちはいろいろと頭をひねって解釈しなければならないのですが、私たちもお釈迦様が説いた真理を知っているわけではないので、納得いかないのです。
・・・自分の国スリランカにも、子供から大人まで確実に覚えている経典として「慈経」という短い経典があります。これは暗記していない人はいないというくらい有名です。この経典は、お釈迦様が「慈しみ(慈悲)」の実践について説かれたものです。
・・・観自在菩薩は、大乗仏教でトップクラスの知名度を持つ菩薩ですが、初期仏教の時代には全然出てこない。あとからつくられたキャラクターです。
・・・初期仏教では、大乗仏教のような菩薩信仰を説かないのですが、菩薩の波羅蜜は六どころか、十も挙げられています。布施波羅蜜(施しの実践)、持戒波羅蜜(道徳の実践)、離欲波羅蜜(欲望の放棄と克己の実践)、般若波羅蜜(智慧の実践)、精進波羅蜜(精進努力の実践)、忍辱波羅蜜(耐え忍ぶことの実践)、真諦波羅蜜(誠実さ、正直の実践)、決意波羅蜜(不撓不屈で目的を成し遂げる実践)、慈波羅蜜(慈しみの実践)、捨波羅蜜(無執着の実践)です。ブッダになる誓願・決意をした菩薩は、この十項目を完成して完璧な人格者にならないといけないのです。
・・・波羅蜜を人格完成のための行として、いろんな試練訓練を受けて、自分を磨き上げることだと理解したほうがよいのです。
・・・お釈迦様は「私、といっているものは、色受想行識の五つでできているのだ」と言っています。「私を構成している、色蘊、受蘊、想蘊、行蘊、識蘊の五つの本性は空である」つまり「実体はない」ということを観察しているのです。
・・・色は、簡単にいうと私たちの「肉体」です。・・受は感覚、感じることです。・・私は「想は、私たちが持っているさまざまな概念だ」と説明しています。・・大人になるとどんどん想が増えていくのです。勉強すればするほど想が増えます。それでトラブルが起こったりもします。・・行は、経典の説明では、喋りたい、考えたい、身体を動かしたいという気持ち、エネルギーのことです。これも増えたり減ったりします。・・識は、認識すること、知ることです。・・色受想行識の五つが一緒になって、離れることなく行動すること。それを私たちは一般的に生き物、人間と言っています。
・・・初期仏教では、あくまでも「一切の現象は生じて滅するものである」「一切は無常である」という立場です。お釈迦様は生滅説なのですね。これに対して「般若心経」は、「生滅がない」と言っているのです。この一言で「般若心経」は、せっかくお釈迦様が発見された「無常」という真理を否定してしまうのです。
・・・存在しないものについても考えられるのが、頭で思考する(妄想する)ことの特徴です。人間には妄想する機能(識)があるのです。
・・・お釈迦様は、次に「私と外の世界のかかわりはどうなっているのか?」を分析しました。その答えが「十八界」です。・・「見る」という現象の要素として、眼界・色界・眼識界という三つがあるのです。これを六根(眼耳鼻舌身意)すべてで起きているので十八界になるのです。十八界はネットワークです。このネットワークには中心的に管理するところはありません。インターネットのように中心がないネットワークなので、「実際の機能としての存在」を示す意図で「十八界」と言っているのです。・・このネットワークには、何も芯となる実体はありません。それが「生きる世界」の一つの説明になります。「私がいるんだ」というのではなく、「ネットワークが存在なのだ」と。・・十八界は常に変化生滅しているのです。そこで私たちは、「存在は無常である」という結論にいとも簡単に達することができるのです。
・・・本当は、「私」はネットワークで成り立っているもので実体はないのですが、それが分からないでいるのです。こういう存在の分析はブッダしかやっていないのですから、人間が知るはずもありません。
・・・仏説の本当の心臓は「般若心経」ではなく、十二因縁なのです。十二因縁は生起論と滅尽論がセットです。無明がなくなれば行もなくなる、行がなくなれば識もなくなる---、という滅尽論もあるのです。これによって、私という存在が苦しみの世界から脱出して解脱に達する道筋が明らかになったのです。
・・・ブッダが言うのは、「もともと実体はないんだよ」という話です。実体があると勘違いするから執着するのです。執着するから物事が変化するとすごく苦しくなって、悩むはめになるのです。実体がないからこそ、物事が変化するのです。外の世界に限らず自分自身も、変化し続けているのです。そこでブッダは、「どこにも実体のないことを発見しなさい。悩む自分も実体がないことに気づきなさい」と説くのです。
・・・言葉を使うときは語りすぎに気を付けること。そうしないと、どこまでも、頭の考えだけで飛んでいってしまうのです。
・・・宗教たるもの、けっして人間の呪文願望を支えてはならないのです。もし宗教が呪文願望を応援するなら、それはインチキ宗教に決まっているのです。
・・・正直さ、真理であるということは、それ自体がすごい力なのです。それを教えるためにお釈迦様はいくつかの経典で祝福をしています。「これは真理だよ。本物だよ」という証として言っているのであって、呪文に力があるというような神秘的な話ではありません。お釈迦様は星占いも他の占いも、きれいさっぱり貶して捨てているのです。
・・・「言葉に力がある」のではなく、「意味のある言葉に力がある」のです。
・・・呪文の特色は、論理性がないことです。文法も主語も目的語もありません。・・呪文には、伝える意味がないので、力がないのです。なのに皆、呪文に力があると思って、意味のない単語を羅列する。それは明確に迷信です。・・お釈迦様は明確に呪文を否定されました。呪文のことは、はじめからまったく馬鹿にしています。だから経典に呪文はひと言もありません。
・・・最後まで読んできましたが、「『般若心経』はあまり勉強していない人が作った経典ではないかな」というのが私の感想です。『般若心経』は仏教用語をたくさん並べていますが、パーリ経典を読んで学ぶ人から見ると、経典に値しないダラダラした作品で、欠点がたくさんあります。作者はただ適当に短くまとめてみようと思っただけで、そんなに真剣ではなかったようです。本人は「空」ということをわかっていないし、空の思想を理解してもいませんでした。そのことは、空を理解していたら使えない「na 無」という言葉を使ってしまっていることからもわかります。
・・・ということで結論です。「般若心経」は中身を勉強しなくてもいい経典です。そもそも中身がないし、論理的でもない。だから、意味がわからないことで困らなくてもいいのです。意味がわからないのは私たちの頭が悪いのではなく、先生の頭が悪いからです。
・・・「般若心経」は、仏教ほど古くないけれど、長い間みんなが大事にしてきた経典ということくらいのことです。大事に守られた理由は、短いことと、理解できないことですね。理解できなかったのは、中身がなかったからです。
・・・「向上するための躾が欠けているならば、それはブッダの生の教えではない」これは私たちが経典をチェックする重要なポイントです。
・・・そこで智慧のある人は、・・無常の中でなんとかうまくいくように励むのです。・・私たちの仏教世界では、「親は梵天(最高の神)として尊敬しなさい。親孝行しなさい」と教えます。なぜそんなに親を大事にするかと言えば、無常だからなのです。
・・・釈尊は、「常に気づきを持って(sato サトー)、この世を空として観察しなさい」と答えます。・・仏教でいう「世 loka ローカ」は、物理的な世界より、一切生命のことをいうのです。釈尊が、「一切生命を空と見なしてください」と言うのは、「実体たる自我がない」と発見するためです。これはパーリ経典のなかでも、最も古いところで出てくる教えです。「生命は空である」と分析すると、色受想行識の五蘊でできているものが生命なので、「五蘊には実体がないから空である」ということがわかるです。「生きる」とは何かといえば、眼耳鼻舌身意で認識することであって、それも実体がない。空である。そういう空論です。
・・・たとえとして使われる場合は、「毒矢」のイメージです。自分の身体に毒矢が刺さっていたら、ありがたいとは誰も思わないのですね。とにかく捨ててしまいたい、離れたいのです。だから、五蘊そのものが毒矢だと見てください。
・・・仏教では、「瞑想修行で発見するのは、無常、苦、無我とうい真理の側面のどれか一つだ」とも説明されています。しかし無常も苦も無我も、はっきり言えばすべて「同義語」なのです。
・・・修行を完了した人と、修行中の人の世を見る観方は、まったく同じですが、修行中の人には「我見を絶つ」という仕事が残っているのです。
・・・執着を捨てることは、決して楽ではありません。価値を入れると執着が生まれます。「価値がある」と思うと、やはり置いておきたくなります。私たちの家にもガラクタがいっぱい溜まっていますけれど、なかなか捨てられないでしょう。それは価値をつけているからです。
・・・事実だからといって、役に立つとは限らないのです。だから初期仏教では、「知っているものは全部語る」という立場は取りません。無駄なことは語らないのです。
・・・「空論」を語る人は「na 無」という言葉を使いません。それは「無」と「空」がまるで違うからです。・・「空」というのは、そういうことではないのです。蜃気楼は空です。蜃気楼について、私たちは語らなければいけないのです。「あれは水のように見えるけれど、ホントはそちらに水も何もないんだよ」と。「これはこういう働きで水のように見えるのだ」と。それな空なる現象であって、「無」ではないのです。蜃気楼を見て、「あれは無だよ」と言ったところで、蜃気楼はあるように見えるのですから無じゃないでしょう。私に苦しみが「無い」と言ったって、実際には現象として苦しみがあるのだから無ではないのです。
・・・確かに一切の現象は空です。しかし仏教では空論は語りません。その代わりに無常論を語るのです。それはわかりやすくて手につかみやすい事実だからです。無常は、「今のある現象が変わっていっても、また次に別の現象がある。また変わっていって別の現象がある」ということです。だから、そこから「どうすればいいのか」ということが導き出されます。それで修行することや、悟ることや、解脱することや、そういった道徳的なセクション、実践的な方法が成り立つのです。
・・・仏教は進化の道であって、人格完成の道であって、悟りに達する道なのです。だから空だけをハイライトして論じることで、それが壊れます。だから初期仏教では真理として「空である」とはっきり言うのですが、けっして「空論」は展開しないのです。
・・・じつは大乗のお坊さんたちも、まじめに修行しているのです。しかし論理的にはあべこべだから、その人たちにもまじめに修行する気がなくなってしまうのです。・・ただ真剣まじめに修行させる論理的な支え、裏付けがまったくないのです。それで最終的に大乗の世界で何をするかというと、「般若心経」のように呪文を唱えたり、「南無妙法蓮華経」と唱えたりするだけに終わってしまうのです。
・・・悪業か善業かは、しゃべった内容と気持ちによります。善いことを善い気持ちでしゃべるなら善業であり、善い結果につながります。
・・・仏教では、人間より次元が高い、心のエネルギーのレベルで生きる生命のことを、「神」といいます。仏教では、「いろんな生命が生きていて、どれもこれも清明だ。輪廻の世界で苦しんでいるのだ」という認識なので、神だから尊いということにはなりません。心を極限まできれいにして輪廻から解脱した阿羅漢こそがすばらしいのです。生命ということでは、微生物も人間も神も同じです。・・人間であるからには、人間としてしっかり生きることです。
・・・たくさん記憶したら、sannaがたくさんあるということです。忘れたら減ります。たくさん勉強するということは、サンニャーを増やすことです。sannaが増えると、そのぶん五蘊の量が多くなってしまいます。だからものすごく勉強した人というのは、性格が悪くて、頑固で、育ちにくくて、ややこしいでしょう?
・・・行蘊は「衝動」です。・・私たちには常に何かしらの衝動があって、その衝動は常に変化しています。衝動がない瞬間はありません。・・そのエネルギーをsankharaというのです。
・・・私たちの身体は五蘊でできているのですが、それらはすべて常に変化しているということになります。・・五つの無常をまとめたら、それは何に例えることもできない徹底的な無常なのです。ただ「無常」というしかないのです。・・ヴァジラー比丘尼は、「五蘊で自分ができている。それを生命という世間の合意がある。それだけですよ」と言ったのです。
・・・私の身体も、机も、物体です。どちらも同じ物体なのです。しかし、私の身体は感じるのですが、机は感じないのです。つきつめれば、違いはそれだけです。
・・・似ているものを長く感じると、「苦しみ」が生じます。・・それは感覚が苦だからです。・・苦には二つの次元があります。一つは、「感覚は苦で、生きるとは感覚があることなので、生きることは苦である」ということです。私たちは感覚があるから「生きている」とかいうのですが、その感覚が「苦」なのです。だから私たちは苦しまずに生きることができないのです。苦が生命を維持管理しているのです。「生きる=苦という現象」なのです。「生きることには微塵も楽しみはない」というのは真理です。・・楽なんて苦の「騙し」でしかないのに、「楽だ、楽だ」とありがたがってしまうのです。・・感覚が楽なら私たちは簡単に死んでしまうのです。生きていられません。それで苦が生じて生き延びるのです。生きていくには苦が必要なのです。
・・・楽しみがあったのではないのです。苦しみが減っただけです。それを勘違いして「幸福だ」というのです。・・世間の人が夢見る最高の幸福は、不幸のどん底でないと感じられないのです。苦が消えることが楽しみなので、幸福を感じるためには、どん底の不幸になるしかないのです。では、「生きる苦しみ」が完全に消えたらどうなりますか?「生きる=苦」なのです。それがきれいさっぱり消えたら、どうなりますか?それを解脱というのです。その境地が涅槃です。輪廻から解脱し、二度と生まれないなら、完全に苦を断つことに成功した方なのです。
・・・本当に、人生に楽はないのです。「楽」というのは錯覚で、ただの世間の合意です。・・その幸福は、「苦しみが消えた」という事実をあべこべに見ただけのことです。苦しみとは別物の幸福があるわけではありません。あるのは苦しみだけなのです。苦しみ以外にないです。
・・・「苦」には「感覚の苦」とは違う意味もあります。一切は無常で、絶えずに変化していくのですが、この状態も「苦」というのです。
・・・「私の」という気持ちが苦しみを作るのです。「私の」というのは、自分の感覚から生じる錯覚です。だからこの「感覚の苦」をしっかり観察しなければならないのです。
・・・ところでヴァジラー比丘尼は「誰が生命を創造するのか?」という悪魔の最初の問いに答えていません。それはそもそも、実体として誰も見いだせないからです。「生命」という実体が成り立たず、あるのは無常たる現象のみなので、問い自体がナンセンスなのです。だから仏教にしてみれば、「森羅万象を創造したのは誰?」という問題は、答える価値さえもない、無意味な成り立たない問いなのです。
・・・修行者にとって「悪魔」とは「自分自身の思考」です。仏教の修行をする人は「神様が降りてきて修行の邪魔をする」と考えてはいけません。自分の悪さを、他人のせいにしてはいけません。悪魔は自分の思考、妄想なのです。妄想は感情から絶えず生まれるのです。感情とは煩悩です。だから、まず自分の妄想を減らすことです。それは自分でできます。それが悪魔退治です。けれど妄想が減って落ち着きが出てくると、「自分は理性的だ」と勘違いする思考が現れます。「いま私は妄想していない。論理的なことを考えているのだ」といばるのです。これが悪魔の攻撃です。思考を止めさせてくれないのです。「理性的な思考」でも思考にすぎません。真理を知っているならば、思考する必要もありません。』

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