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2017年12月

2017年12月30日 (土)

軍事のリアル (冨澤暉著 新潮社)

元陸上幕僚長の著作。前半は一つのテーマについての論述、後半はエッセイ的な印象を受けましたが、目からうろこのような印象もありました。

『…1999年にも国連軍参加についてまったく同様の答弁があったと聞くが、これらの答弁で2つの点が明確にされた。一つは、内閣法制局が国連軍・多国籍軍・PKFに参加し武力行使をすることを、「すべて集団的自衛権に関わる問題だ」と誤解ないしは曲解していることであり、次に「武力行使というものはすべて我が国防衛のための必要最小限を超えるものであってはならない」と盲信していることである。
・・・本来、自営における反撃の限度は侵害の程度に応ずるものである。だから、通常兵力1個師団で攻撃された場合の反撃の限度と、核兵器で攻撃された場合の反撃の限度は明らかに異なる。つまりこれは、その時の状況・相手に応じた部隊運用上の限度なのであって、一定量として表現できないはずのものだ。にもかかわらず、日本に許された自衛・反撃の限度が総じて「必要最小限」、といういかにも一定量であるかのように思わせて、それを防衛力整備とか、集団安全保障とか、集団的自衛権行使の可否等というまったく無関係な分野のことにまで及ぼす。そして結局は、その言葉の意(量)を話す人・聞く人の同床異夢に委ねてしまう。こんな曖昧で意味のない言葉で議論することは直ちに止めなければならない。
・・・ようやく1974年に国連総会が侵略の定義に関する決議を採択した。この定義は8ヵ条からなるもので、無論完璧なものとは言えないが、ケロッグやパルの時代に比べれは大進歩といえる。・・この74年の国連総会は、侵略概念を武力攻撃に限定・確定したのである。
・・・正当防衛は国内法上の言葉であり、自衛は国際法上の言葉ということで、その区別は完全に定着している。ところが、国際的には困ったことが残っている。日本、中国、ロシア、ドイツ等の国々では、国内刑法上の正当防衛と国際法上の自衛とが別の言葉として確立しているのに、米国、英国、フランス、スペイン等の国々では、国内刑法でも国際法で、self-defense(英・米)、legitimadefensa(スペイン)、といった同一語で表現するのである。そのため、外国依存、特に米国依存度の強い日本に、要らぬ誤解と混乱をもたらしている。・・米国の国民の多くは国際法上の自衛(self-defense)という言葉を知らない。・・その彼らから言わせると自衛隊(self-defense force)というのは、「護身隊」とか、「正当防衛隊」と聞こえるらしい。世界秩序や国家を守る軍隊ではなく、もっぱら自分の身を守る部隊、というのは彼らの理解を超えたものである。
・・・刑法の正当防衛なら無論、憲法の認めるところのものだ、ということで、この条項を武器を保有する海上保安庁巡視艇(船)は勿論、米国を含むすべての友好国艦艇等にも適用できるように修正したらしい。集団的自衛権行使に反対する人々が、この条項を「憲法違反だ」と訴えても通じないようになっている。
・・・自衛と正当防衛をself-defenseのような同じ単語で表現する国々があるために、「自衛と正当防衛は同じものだ」とする誤解がなお消えずにいる。しかし「自衛と正当防衛とはやはり違うもの」なのである。「自衛」は国際法上の問題だからその権限と責任は国家にあり、「正当防衛」は個人の刑法上の問題だからその権限と責任は個人にある。
・・・かつて小野寺五典防衛大臣は「情報は共有しても指揮権は日本にあり、他国に譲ることはない」と語ったが、技術の進歩は、各国最高指揮官をパスし、自動的に集団安全保障措置をとれるところまで来ているのである。当然その事前設定は各国の最高指揮官が決心することだが、ことほど左様に今や集団的自衛権で特定の国を護るのではなく、集団安全保障で世界、地域全体の秩序・平和を守る時代なのだ、ということである。
・・・「駆けつけ警護」も「公海上の他国軍艦艇の防護」なども「集団的自衛権行使」に似てはいるが、全く違うものである。これは国際法上の国権に基づくのではなく国内法上試験に基づくものだから、責任は国になく個人にある。それでも諸外国のとっては歓迎すべきものなので、外交上は成功であった。問題は、この現場の自衛官たちにとって(1)奇襲攻撃を待ち受けるまでの忍街、(2)正当防衛についての国家に替わる個人の責任、がどこまで受容できるのか、ということである。
・・・集団安全保障とは戦うことが目的ではない。諸国連合で「何時でも戦える」という姿勢を示しつつ、まず話し合い、次に経済制裁を加え、相手が先に武力行動をとった時に初めて諸国の力を合わせて武力制裁する、というものである。
・・・歴代の米政権は、採用はせずとも多様な政策提言を許容し、かつ国益を守るための検討材料としている。そのことを承知の上で米国戦略家たちから学ばなけれならないのである。
・・・米戦略国際問題研究所(CSIS)シニアアドバイザーのエドワード・ルトワックは、(1)財務省とウォール街は「親中」である、(2)国務省は「親中」と「反中」の間をゆれる、(3)国防総省は「反中」である、と言っている。
・・・各種軍事協力で日本だけが他国と違った行動をとることは、その中で孤立するだけでなく、チーム全体の力を殺ぐことになり好ましくない。自衛隊他員たちの多くが、現場で努力しそれなりの成果を上げつつも、その「手足を縛るような」任務付与については、帰国後・退官後に不満を漏らしてきた。・・国内では「自衛隊は憲法により外国軍とは違う」が通じても、国際的な現場ではそれが説明できない。
・・・状況判断能力については、部下とともに訓練し、数々の現場を部下たちとともに踏んできた後輩指揮官たちをより信頼したい。ただ、現職自衛隊指揮官方にお願いしたいことがある。自らが訓練し自信を持っていることだけを実行してほしい。訓練していないこと、訓練してもできないことについては、恥ずかしくても「これはできません」と正直に言わなければならない。
・・・筆者が防衛大に入港した1956年には、米軍の陸軍中佐が防大校長の顧問として存在していた。
・・・統合作戦というのは、積極的に我が戦力を集中できる攻勢作戦において極めて効果的なのだが、防勢作戦において敵の自由意思に基づく攻撃を待ち受け敵の一つ一つを排除するには不便極まりない。
・・・統合軍が、米国において発展したのは、軍の大きさや活動領域の広さのためでもあるが、軍事技術、特にミサイル・IT(情報技術)の進歩のためだと言われている。要するに陸・海・空全てのプラットフォームが目標情報を共有し、どのプラットフォームから発射するのが最適かを選び出すコンピューター技術が自動的・効率的な指揮を可能にしたためである。
・・・日本は1954年2月に調印した「国連軍地位協定」に基づき、これら参加各国軍を在日米軍基地7か所(横田、座間、横須賀、佐世保、嘉手納、普天間、ホワイトビーチ)において支援しなければならない。これは「軍事による国際協力」であり、一つの「連合作戦」参加と見なされる。国連安保理決議に基づく多国籍軍への自衛隊の参加は2004年6月、イラクにおいて既に実現している。司令部からの情報提供は受けるが、武力行使に関わる指揮は受けないという条件はついているが、その実例は既に国際法の一部になっている。
・・・これらの「連合」は、すべて集団安全保障措置に関わるものであり、集団的自衛権行使とは関係がない。
・・・今、「国連中心の集団安全保障」と、「米国中心の集団安全保障」が併行して存在するかに見える。しかし、先にも述べたように、国連はもともと米国一極を公認するための組織であり、米国と国連は世界秩序維持のための車の両輪なのである。現在、世界の有力国はすべてこのことを認めているが、大量破壊兵器を拡散させ、テロ・ゲリラなどで世界秩序を変えようとする一部の国(またはグループ)だけがこれを認めていない。
・・・米国一極体制を長続きさせるため、日本の軍事がなすべきことの第一は、米国中心の軍事行動への参加である。それは戦争への参加ということではなく、戦争予防のための「集団安全保障」への参加である。・・まず(1)話し合い、次に(2)経済制裁をかけ、やむを得ぬ場合に(3)軍事制裁をかける、というものだが、ここでの軍事の本来の目的は、その存在により(2)の経済制裁を有効にし、さらに(1)の話し合いに拍車をかけるものであることを理解しなければならない。
・・・米国にとって今欲しいものは各軍の実力ではなく、出来るだけ多くの外国軍の共同の心と姿勢なのである。なぜならそれが「平和裏に米国中心一局秩序を維持する最大の推進力」だからである。
・・・朝鮮戦争は64年前に既に終わったと誤解している人が多いが、この戦争はまだ終戦になっていない。未だ講和条約が結ばれておらず、引き続き休戦状態にある。・・豪・加・英・仏・比・ニュージーランド・タイ・トルコの8ヵ国の駐日大使館駐在武官が国連軍派遣国・連絡将校として兼務(非常勤)で勤務している。
・・・金斗昇氏(韓国国防研究院主任研究委員、元ハーバード大日本研究所客員研究員)は、2002~2008年の間に在韓米軍司令官を務めたレオン・ラポート、パーウェル・ベル両大将の発言を紹介し「米国は、国連軍司令部体制を強化し、国連軍司令官の指揮権をなお有効とし、米韓連合軍司令部体制でない国連軍司令部体制だけでも朝鮮半島有事に対応することが可能であると考えている。つまり米国は米韓連合軍の指揮官の問題が揺れれているこの状況の中で朝鮮半島及び東アジアにおける自国の影響力を維持・強化するための一つの手段として国連軍司令部体制を活用し「北東アジア平和維持軍」を創設するという構想を持っている」「しかし、韓国はこの問題に対する十分な理解を関心を有しておらず、日本に至っては全く認識不足で、ただ日米同盟重視を言うのみである」との趣旨を述べている。
・・・国家安全保障戦略のここまでについては何の文句もなく、筆者にとっては「我が意を得たり」である。しかし、頭の部分は大変優れていたとして、首から下の部分が全くできていないところが問題である。「大量破壊兵器の拡散」が脅威だとして、それにどう対応していくのかという具体的方策がこの戦略には全く表現されていない。更に、この戦略を受けた「25大綱」にも関連策が示されていない。・・最大の脅威に具体的施策が全く伴わないというのでは、戦略としてはお粗末である。
・・・筆者は英国の核は米国核の分散配置に過ぎず、フランス・中国の核はいずれも「トリガー(引き金)核」だと理解している。「トリガー核」とは、「我が国も世界破滅の引き金を引ける」という自己主張であり、「滅多なことでは引き金を引かない」が故に「我が国も世界秩序(平和)を担う重要国家である」と宣伝しているの過ぎない。・・イスラエルの核は周りのアラブ諸国の攻撃を抑止することが目的であり、イランはこれに対抗して核開発を進めようとしている。
・・・米露の核が世界秩序(平和)の維持に役立っていることは確かだとしても、このようにイラン・北朝鮮のような国が核開発を進めると、世界の核使用のハードルが低くなり、全体の秩序が脆弱なものとなるので困る。それゆえ、これ以上の核拡散を止めようということになる。既核保有国の核を保全して、その他の国の新たな核保有を禁じることは確かに不平等な話である。しかし、世界の平和、即、各国の平和と考えるならば、これはやむを得ないことと考えなければならない。
・・・原子力工学に詳しい自衛隊OBにきくと、不可能ではないようである。ただ、すぐにできるというようなものではなく、何年というレベルの時間を要するらしい。2016年に331キロの研究用プルトニウムを米国に返納したが、ある程度時間をかければ核兵器用のプルトニウムを準備することも可能らしい。
・・・米国では騎兵の機能と部隊名を残し、その機能を継続できる新たな装備と訓練を探し続けたのだが、日本では騎馬という装備(ブツ)そのものに拘り、そのブツが陳腐化してなくなると同時にその機能そのものまでをも忘れ去ってしまった、ということである。
・・・「本腰を入れることはないのだから、前捌きに集中しよう」ということである。「海のISR(情報・監視・偵察)重視」もこれで理解できる。数年前に沖縄海兵隊外交政策部(G-5)次長であったエルドリッヂ博士から、「海兵隊とは騎兵隊のようなものです。陸上自衛隊も海兵隊のようにしてはどうですか」という提言を受けた。「海兵隊は騎兵」には全く同意である。しかし、海兵隊が騎兵の役割を務めることができるのは、米陸軍という主力(本腰)が後ろに控えているからである。自衛隊全てが騎兵になった時、主力(本腰)は米軍が務めるとでも思っているのだろうか。また、諸外国の状況をみるに、「国家間決戦なき時代」ではあっても、「外国力」の背景として「本腰」の力が大きく働いていることは明白である。
・・・統率力は一般に、指揮官の「人格」と「能力」によって構成される。「人格」と「能力」のどちらに比重をかけるかは人によって違うが、少なくとも片方がゼロという人に統率はできない。
・・・統帥は当初、部隊運用(軍令)に限られていたのだが、この軍令と軍政の混乱が、帝国陸海軍に大きな誤りをもたらした。・・ところが、軍政は軍令の要求に従うべきものであり、軍政が軍令の要求を入れないことは参謀総長(陸軍)や軍令部(総)長(海軍)の統帥権を干犯するものだ、という動きが起こる。・・これらは、実際は大勝利とは言えなかった日露戦争の反省が不十分なままに、大正デカダン(軍事不要)という風潮の中で、天皇という玉を掴み取ろうとした陸海軍の過ちであった、と筆者は考える。明らかな贔屓の引き倒しで、極めて不敬なことであった。
・・・スイスは1648年のウェストファリア条約で独立した小国(現人口842万人)であるが、独立以来永世中立国であり、その中立政策を守るため370年間、徴兵制を続けている。しかし、国防関係者が「冷戦の終結により外敵からの侵略の危険性が減少したことで、現役総定員17万人は過大になった。故に装備の近代化と職業軍人の増加で軍隊のプロ化を進め、兵指数も12万程度にする」との方針を発表し、これまでに3回の国民投票が行われたが、3回とも否決された。3回目(2013年)の結果は反対票73%で、その最大の理由は、「職業軍人だけの軍隊になるとNATOやEUとの関係が強いものとなり、中立が保てなくなる」であったと聞く。
・・・イタリア軍は1860年代から徴兵制度を続けてきたが、2000年に徴兵制廃止を決定、2005年から完全志願制の軍隊となった。徴兵制廃止の最大の理由は、「90年代のソマリア内戦に国連多国籍軍として参加したときに、余りに弱く役立たなかったので、訓練練度の高い精強部隊を作るため」と伝えられている。
・・・「もっとも効果的な情報入手手段は「人間交流による情報(ヒューマン・インテリジェンス=Humint)」であり、最高の情報とは「相手(敵)の意図を自分の意図に一致させること」である。それができたときには戦わずして勝てるのだ」という結論が出る。藤原は自らの魂(愛情と誠意)によってそれを実行した稀有の情報将校として歴史に残る。
・・・米軍の将校たちが「戦場で状況判断をするときに、最小限考えるべき要素」として教えられてきた「METTT(メッツ)」という略語を紹介する。それは次のような意味を表している。M(Mission):任務、E(Enemy):敵、T(Troops):我が部隊、T(Terrain):地形、T(Time):時間
・・・現在の日本には、この「3戦」に応じ当方からも「3戦」を仕掛ける所管官庁がない。それが最大の問題なのだが、筆者は国家安全保障局が遠からずその中核であろうことを期待している。
・・・(A)「演繹法的収集」と(B)「帰納法的収集」について考える。(A)は当方の任務・行動を原点とし、・・(B)は敵方だけでなく、互いの友軍の動きや広い世界の動きなどが定まらず、当方の行動方針の目安も経たない段階で長期戦略的な判断に資する情報を探るものである。・・当面の作戦に備える戦闘情報では(A)が多用されるが、その場合でも(B)で補完しより確実を期すことが大事である。最近はコンピューターの発達により大量のデータを短時間で解析できるようになったらしいので、(B)の方法が戦闘情報にも活用できるようになるかもしれない。』

2017年12月 2日 (土)

般若心経は間違い? (アルボムッレ・スマナサーラ著 日本テーラワーダ仏教協会)

これまで少し意味が不明なところもありながらも、般若心経はありがたいお経だと信じて唱えてきました。しかし、この著作で疑問点は解消し、般若心経に対する見方が変わりました。

『・・・じつは「般若心経」は分からなくて当たり前なのです。それはお釈迦様、正等覚者である釈迦牟尼ブッダその人が語った経典ではないからです。「般若心経」をはじめとする大乗仏教の経典は、お釈迦様が涅槃に入られてから数百年後、その直接の教えから一部を抜き出して、その人なりの能力で深い意味を表現しようとした宗教家たちの文学作品です。それを私たちはいろいろと頭をひねって解釈しなければならないのですが、私たちもお釈迦様が説いた真理を知っているわけではないので、納得いかないのです。
・・・自分の国スリランカにも、子供から大人まで確実に覚えている経典として「慈経」という短い経典があります。これは暗記していない人はいないというくらい有名です。この経典は、お釈迦様が「慈しみ(慈悲)」の実践について説かれたものです。
・・・観自在菩薩は、大乗仏教でトップクラスの知名度を持つ菩薩ですが、初期仏教の時代には全然出てこない。あとからつくられたキャラクターです。
・・・初期仏教では、大乗仏教のような菩薩信仰を説かないのですが、菩薩の波羅蜜は六どころか、十も挙げられています。布施波羅蜜(施しの実践)、持戒波羅蜜(道徳の実践)、離欲波羅蜜(欲望の放棄と克己の実践)、般若波羅蜜(智慧の実践)、精進波羅蜜(精進努力の実践)、忍辱波羅蜜(耐え忍ぶことの実践)、真諦波羅蜜(誠実さ、正直の実践)、決意波羅蜜(不撓不屈で目的を成し遂げる実践)、慈波羅蜜(慈しみの実践)、捨波羅蜜(無執着の実践)です。ブッダになる誓願・決意をした菩薩は、この十項目を完成して完璧な人格者にならないといけないのです。
・・・波羅蜜を人格完成のための行として、いろんな試練訓練を受けて、自分を磨き上げることだと理解したほうがよいのです。
・・・お釈迦様は「私、といっているものは、色受想行識の五つでできているのだ」と言っています。「私を構成している、色蘊、受蘊、想蘊、行蘊、識蘊の五つの本性は空である」つまり「実体はない」ということを観察しているのです。
・・・色は、簡単にいうと私たちの「肉体」です。・・受は感覚、感じることです。・・私は「想は、私たちが持っているさまざまな概念だ」と説明しています。・・大人になるとどんどん想が増えていくのです。勉強すればするほど想が増えます。それでトラブルが起こったりもします。・・行は、経典の説明では、喋りたい、考えたい、身体を動かしたいという気持ち、エネルギーのことです。これも増えたり減ったりします。・・識は、認識すること、知ることです。・・色受想行識の五つが一緒になって、離れることなく行動すること。それを私たちは一般的に生き物、人間と言っています。
・・・初期仏教では、あくまでも「一切の現象は生じて滅するものである」「一切は無常である」という立場です。お釈迦様は生滅説なのですね。これに対して「般若心経」は、「生滅がない」と言っているのです。この一言で「般若心経」は、せっかくお釈迦様が発見された「無常」という真理を否定してしまうのです。
・・・存在しないものについても考えられるのが、頭で思考する(妄想する)ことの特徴です。人間には妄想する機能(識)があるのです。
・・・お釈迦様は、次に「私と外の世界のかかわりはどうなっているのか?」を分析しました。その答えが「十八界」です。・・「見る」という現象の要素として、眼界・色界・眼識界という三つがあるのです。これを六根(眼耳鼻舌身意)すべてで起きているので十八界になるのです。十八界はネットワークです。このネットワークには中心的に管理するところはありません。インターネットのように中心がないネットワークなので、「実際の機能としての存在」を示す意図で「十八界」と言っているのです。・・このネットワークには、何も芯となる実体はありません。それが「生きる世界」の一つの説明になります。「私がいるんだ」というのではなく、「ネットワークが存在なのだ」と。・・十八界は常に変化生滅しているのです。そこで私たちは、「存在は無常である」という結論にいとも簡単に達することができるのです。
・・・本当は、「私」はネットワークで成り立っているもので実体はないのですが、それが分からないでいるのです。こういう存在の分析はブッダしかやっていないのですから、人間が知るはずもありません。
・・・仏説の本当の心臓は「般若心経」ではなく、十二因縁なのです。十二因縁は生起論と滅尽論がセットです。無明がなくなれば行もなくなる、行がなくなれば識もなくなる---、という滅尽論もあるのです。これによって、私という存在が苦しみの世界から脱出して解脱に達する道筋が明らかになったのです。
・・・ブッダが言うのは、「もともと実体はないんだよ」という話です。実体があると勘違いするから執着するのです。執着するから物事が変化するとすごく苦しくなって、悩むはめになるのです。実体がないからこそ、物事が変化するのです。外の世界に限らず自分自身も、変化し続けているのです。そこでブッダは、「どこにも実体のないことを発見しなさい。悩む自分も実体がないことに気づきなさい」と説くのです。
・・・言葉を使うときは語りすぎに気を付けること。そうしないと、どこまでも、頭の考えだけで飛んでいってしまうのです。
・・・宗教たるもの、けっして人間の呪文願望を支えてはならないのです。もし宗教が呪文願望を応援するなら、それはインチキ宗教に決まっているのです。
・・・正直さ、真理であるということは、それ自体がすごい力なのです。それを教えるためにお釈迦様はいくつかの経典で祝福をしています。「これは真理だよ。本物だよ」という証として言っているのであって、呪文に力があるというような神秘的な話ではありません。お釈迦様は星占いも他の占いも、きれいさっぱり貶して捨てているのです。
・・・「言葉に力がある」のではなく、「意味のある言葉に力がある」のです。
・・・呪文の特色は、論理性がないことです。文法も主語も目的語もありません。・・呪文には、伝える意味がないので、力がないのです。なのに皆、呪文に力があると思って、意味のない単語を羅列する。それは明確に迷信です。・・お釈迦様は明確に呪文を否定されました。呪文のことは、はじめからまったく馬鹿にしています。だから経典に呪文はひと言もありません。
・・・最後まで読んできましたが、「『般若心経』はあまり勉強していない人が作った経典ではないかな」というのが私の感想です。『般若心経』は仏教用語をたくさん並べていますが、パーリ経典を読んで学ぶ人から見ると、経典に値しないダラダラした作品で、欠点がたくさんあります。作者はただ適当に短くまとめてみようと思っただけで、そんなに真剣ではなかったようです。本人は「空」ということをわかっていないし、空の思想を理解してもいませんでした。そのことは、空を理解していたら使えない「na 無」という言葉を使ってしまっていることからもわかります。
・・・ということで結論です。「般若心経」は中身を勉強しなくてもいい経典です。そもそも中身がないし、論理的でもない。だから、意味がわからないことで困らなくてもいいのです。意味がわからないのは私たちの頭が悪いのではなく、先生の頭が悪いからです。
・・・「般若心経」は、仏教ほど古くないけれど、長い間みんなが大事にしてきた経典ということくらいのことです。大事に守られた理由は、短いことと、理解できないことですね。理解できなかったのは、中身がなかったからです。
・・・「向上するための躾が欠けているならば、それはブッダの生の教えではない」これは私たちが経典をチェックする重要なポイントです。
・・・そこで智慧のある人は、・・無常の中でなんとかうまくいくように励むのです。・・私たちの仏教世界では、「親は梵天(最高の神)として尊敬しなさい。親孝行しなさい」と教えます。なぜそんなに親を大事にするかと言えば、無常だからなのです。
・・・釈尊は、「常に気づきを持って(sato サトー)、この世を空として観察しなさい」と答えます。・・仏教でいう「世 loka ローカ」は、物理的な世界より、一切生命のことをいうのです。釈尊が、「一切生命を空と見なしてください」と言うのは、「実体たる自我がない」と発見するためです。これはパーリ経典のなかでも、最も古いところで出てくる教えです。「生命は空である」と分析すると、色受想行識の五蘊でできているものが生命なので、「五蘊には実体がないから空である」ということがわかるです。「生きる」とは何かといえば、眼耳鼻舌身意で認識することであって、それも実体がない。空である。そういう空論です。
・・・たとえとして使われる場合は、「毒矢」のイメージです。自分の身体に毒矢が刺さっていたら、ありがたいとは誰も思わないのですね。とにかく捨ててしまいたい、離れたいのです。だから、五蘊そのものが毒矢だと見てください。
・・・仏教では、「瞑想修行で発見するのは、無常、苦、無我とうい真理の側面のどれか一つだ」とも説明されています。しかし無常も苦も無我も、はっきり言えばすべて「同義語」なのです。
・・・修行を完了した人と、修行中の人の世を見る観方は、まったく同じですが、修行中の人には「我見を絶つ」という仕事が残っているのです。
・・・執着を捨てることは、決して楽ではありません。価値を入れると執着が生まれます。「価値がある」と思うと、やはり置いておきたくなります。私たちの家にもガラクタがいっぱい溜まっていますけれど、なかなか捨てられないでしょう。それは価値をつけているからです。
・・・事実だからといって、役に立つとは限らないのです。だから初期仏教では、「知っているものは全部語る」という立場は取りません。無駄なことは語らないのです。
・・・「空論」を語る人は「na 無」という言葉を使いません。それは「無」と「空」がまるで違うからです。・・「空」というのは、そういうことではないのです。蜃気楼は空です。蜃気楼について、私たちは語らなければいけないのです。「あれは水のように見えるけれど、ホントはそちらに水も何もないんだよ」と。「これはこういう働きで水のように見えるのだ」と。それな空なる現象であって、「無」ではないのです。蜃気楼を見て、「あれは無だよ」と言ったところで、蜃気楼はあるように見えるのですから無じゃないでしょう。私に苦しみが「無い」と言ったって、実際には現象として苦しみがあるのだから無ではないのです。
・・・確かに一切の現象は空です。しかし仏教では空論は語りません。その代わりに無常論を語るのです。それはわかりやすくて手につかみやすい事実だからです。無常は、「今のある現象が変わっていっても、また次に別の現象がある。また変わっていって別の現象がある」ということです。だから、そこから「どうすればいいのか」ということが導き出されます。それで修行することや、悟ることや、解脱することや、そういった道徳的なセクション、実践的な方法が成り立つのです。
・・・仏教は進化の道であって、人格完成の道であって、悟りに達する道なのです。だから空だけをハイライトして論じることで、それが壊れます。だから初期仏教では真理として「空である」とはっきり言うのですが、けっして「空論」は展開しないのです。
・・・じつは大乗のお坊さんたちも、まじめに修行しているのです。しかし論理的にはあべこべだから、その人たちにもまじめに修行する気がなくなってしまうのです。・・ただ真剣まじめに修行させる論理的な支え、裏付けがまったくないのです。それで最終的に大乗の世界で何をするかというと、「般若心経」のように呪文を唱えたり、「南無妙法蓮華経」と唱えたりするだけに終わってしまうのです。
・・・悪業か善業かは、しゃべった内容と気持ちによります。善いことを善い気持ちでしゃべるなら善業であり、善い結果につながります。
・・・仏教では、人間より次元が高い、心のエネルギーのレベルで生きる生命のことを、「神」といいます。仏教では、「いろんな生命が生きていて、どれもこれも清明だ。輪廻の世界で苦しんでいるのだ」という認識なので、神だから尊いということにはなりません。心を極限まできれいにして輪廻から解脱した阿羅漢こそがすばらしいのです。生命ということでは、微生物も人間も神も同じです。・・人間であるからには、人間としてしっかり生きることです。
・・・たくさん記憶したら、sannaがたくさんあるということです。忘れたら減ります。たくさん勉強するということは、サンニャーを増やすことです。sannaが増えると、そのぶん五蘊の量が多くなってしまいます。だからものすごく勉強した人というのは、性格が悪くて、頑固で、育ちにくくて、ややこしいでしょう?
・・・行蘊は「衝動」です。・・私たちには常に何かしらの衝動があって、その衝動は常に変化しています。衝動がない瞬間はありません。・・そのエネルギーをsankharaというのです。
・・・私たちの身体は五蘊でできているのですが、それらはすべて常に変化しているということになります。・・五つの無常をまとめたら、それは何に例えることもできない徹底的な無常なのです。ただ「無常」というしかないのです。・・ヴァジラー比丘尼は、「五蘊で自分ができている。それを生命という世間の合意がある。それだけですよ」と言ったのです。
・・・私の身体も、机も、物体です。どちらも同じ物体なのです。しかし、私の身体は感じるのですが、机は感じないのです。つきつめれば、違いはそれだけです。
・・・似ているものを長く感じると、「苦しみ」が生じます。・・それは感覚が苦だからです。・・苦には二つの次元があります。一つは、「感覚は苦で、生きるとは感覚があることなので、生きることは苦である」ということです。私たちは感覚があるから「生きている」とかいうのですが、その感覚が「苦」なのです。だから私たちは苦しまずに生きることができないのです。苦が生命を維持管理しているのです。「生きる=苦という現象」なのです。「生きることには微塵も楽しみはない」というのは真理です。・・楽なんて苦の「騙し」でしかないのに、「楽だ、楽だ」とありがたがってしまうのです。・・感覚が楽なら私たちは簡単に死んでしまうのです。生きていられません。それで苦が生じて生き延びるのです。生きていくには苦が必要なのです。
・・・楽しみがあったのではないのです。苦しみが減っただけです。それを勘違いして「幸福だ」というのです。・・世間の人が夢見る最高の幸福は、不幸のどん底でないと感じられないのです。苦が消えることが楽しみなので、幸福を感じるためには、どん底の不幸になるしかないのです。では、「生きる苦しみ」が完全に消えたらどうなりますか?「生きる=苦」なのです。それがきれいさっぱり消えたら、どうなりますか?それを解脱というのです。その境地が涅槃です。輪廻から解脱し、二度と生まれないなら、完全に苦を断つことに成功した方なのです。
・・・本当に、人生に楽はないのです。「楽」というのは錯覚で、ただの世間の合意です。・・その幸福は、「苦しみが消えた」という事実をあべこべに見ただけのことです。苦しみとは別物の幸福があるわけではありません。あるのは苦しみだけなのです。苦しみ以外にないです。
・・・「苦」には「感覚の苦」とは違う意味もあります。一切は無常で、絶えずに変化していくのですが、この状態も「苦」というのです。
・・・「私の」という気持ちが苦しみを作るのです。「私の」というのは、自分の感覚から生じる錯覚です。だからこの「感覚の苦」をしっかり観察しなければならないのです。
・・・ところでヴァジラー比丘尼は「誰が生命を創造するのか?」という悪魔の最初の問いに答えていません。それはそもそも、実体として誰も見いだせないからです。「生命」という実体が成り立たず、あるのは無常たる現象のみなので、問い自体がナンセンスなのです。だから仏教にしてみれば、「森羅万象を創造したのは誰?」という問題は、答える価値さえもない、無意味な成り立たない問いなのです。
・・・修行者にとって「悪魔」とは「自分自身の思考」です。仏教の修行をする人は「神様が降りてきて修行の邪魔をする」と考えてはいけません。自分の悪さを、他人のせいにしてはいけません。悪魔は自分の思考、妄想なのです。妄想は感情から絶えず生まれるのです。感情とは煩悩です。だから、まず自分の妄想を減らすことです。それは自分でできます。それが悪魔退治です。けれど妄想が減って落ち着きが出てくると、「自分は理性的だ」と勘違いする思考が現れます。「いま私は妄想していない。論理的なことを考えているのだ」といばるのです。これが悪魔の攻撃です。思考を止めさせてくれないのです。「理性的な思考」でも思考にすぎません。真理を知っているならば、思考する必要もありません。』

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