朝鮮半島はなぜいつも地獄が繰り返されるのか 中国人ですら韓民族に関わりたくない本当の理由 (石平著 徳間書店)
元中国人で現在は日本に帰化した石平氏の著作です。中国人の視点から朝鮮半島の歴史が記述されており、初めて知ることも多く、参考になるところが多くありました。
『・・・他国と結んだ条約や規約についても、あとから難癖をつけて破棄しようとするのが韓国のやり方なのである。
・・・要するに、韓国は日米中のいずれからも不信の目で見られているのである。そしてその原因は、韓国のコウモリ外交にある。いくら「バランサー」を自任していても、実力が伴わないため、結局は「お追従外交」にしかならないのだ。・・朝鮮半島の歴史を振り返れば、自国の内紛に中華王朝を引き込み、その結果、中華王朝の属国にされてしまうということが繰り返されてきた。一方で、属国としての悲しい定めを打ち消すために、「自ら進んで中華の属国となったが、いまや宗主国よりも自分たちの方が得が高い。本当の中華は自分たちの方だ」とうぬぼれるようになった。・・朝鮮半島は国内のゴタゴタを常に他国へ振り向けるからタチが悪いのだ。・・朝鮮半島の歴史を知れば知るほど、はっきり言えば韓民族には「かかわらない」ことが一番だという思いが強くなってくる。日韓併合についても、朝鮮半島に近代化をもたらし、人口を2倍にしたにもかかわらず、韓国は「史上最悪の植民地支配」などと批判している。本書でもふれているが、近代化を拒みつづけてきたのは朝鮮人自身であったのだ。
・・・「史記」によれば、この箕氏朝鮮は殷王朝の28代王である文丁(ぶんてい)の子供である箕氏が、殷を滅ぼした周の武王によって朝鮮に封じられ、殷の遺民を率いて建国したとされている。つまり、もし実在したとしても、中国人がつくった国なのだ。現代において、朝鮮史で確実に立証できているのは衛氏朝鮮である。だがこれも、中国人がつくった国であり、建国は紀元前195年ごろと推定されている。
・・・そもそも「朝鮮」という名称は、明の洪武帝(朱元璋)に「朝鮮」と「和寧」の2つの候補から選んでもらったものである。洪武帝は「朝鮮」の称こそ美しく、古くからの由来があるといって「朝鮮」を選んだ。この「朝鮮」とは「箕氏朝鮮」を指していた。
・・・漢人の明が滅びたなら、儒教の正当性を守るのは朝鮮しかない。朝鮮こそが真の中華だと自尊するまでになったのである。要するに朝鮮人たちは、独自のアイデンティティではなく、あくまで中国の聖人に連なっていることを誇りとしたのである。そして実際に、最初に彼らの国を建国したのは外国人だったという事実があった。・・朝鮮半島が中国の属国から脱したのは、1894~95年の日清戦争で日本が勝利したことによる。日本は清に対して朝鮮を独立国として認めさせたのだ。・・韓国には建国記念日にあたる日がない。・・建国記念日をいつにするかで、現在もなお揉めつづけている。。
・・・よく日本では「韓国と交渉してもすぐにゴールポストをずらされる」と言われるが、議論の基底となる国家観が韓国人自身でまとまっていないため、その時の感情によっていうことが異なるという事態になるのではないだろうか。
・・・中華王朝と宗主国・属国の関係になることは、「冊封」と呼ばれる。属国(冊封国)は宗主国から王や候に任命してもらうと同時に、毎年朝貢することや中華王朝の暦を使用することなどが義務付けられた。
・・・日本の武士が文武両道だったのに比べて、朝鮮半島では文人ばかりが出世して武人は蔑ろにされた。そのため、高麗朝以降の朝鮮軍は他国との戦いが起こると、ほとんど連戦連敗という有様だった。・・科挙試験は、儒教古典をいかに精読し、理解しているかということに重点が置かれた。そのため法学や数学、医学などの実学は身分の低い者の学問として軽視され、儒学は高官の子弟だけに独占されていた。このような実学軽視も李氏朝鮮まで続き、朝鮮の近代化を遅らせる原因となった。・・科挙制度は隋王朝(581~618年)が発明した官僚選抜制度で、ペーパーテストを中心とした試験によって官僚を選抜する制度である。587年に初代皇帝文帝(楊堅)によって創設され、清王朝(1616~1912年)末期の1905年まで、科挙制度は約1300年の長きにわたって中国の官僚選抜制度の骨格となった。
・・・南宋王朝(1127~1279年)になると儒教を再整理して体系化した朱子学が、徐々に御用学問としての地位を確立していった。・・明とそれに続く清の時代では、この「四書五経」を十分に理解しているかどうかが、優秀な人材を官僚に選ぶ決め手になったのである。「絶対的主権者としての皇帝」「皇帝の手足となって土地と人民を支配する官僚」「官僚を選抜する科挙制度」という「3点セット」は、まさに中国独特の政治システムの基本である。
・・・朱子学では儒教の「三綱五倫」(臣の君に対する忠、子の親に対する孝、妻の夫に対する烈の三綱と、孝行、忠誠、夫婦の役割、長幼の序、友への信義の五輪)を絶対とし、儒教だけが尊く、仏教など他の教義はすべて邪道だとする極めて排他性の強い教義である。そのため、李氏朝鮮では「崇儒斥仏」(儒教を敬い、仏教を廃する)が行われ、高麗朝まで多くあった寺院は次々と破壊されていった。
・・・1446年に第4代国王の世宗が、ハングル(訓民正音)という独自の文字を創出したが、中華の漢字を尊んでいた両班(官僚)からは大反対が起こった。・・このような両班階級の反対により、ハングルは婦女子の文字として蔑視されて、ほとんど普及しなかった。ハングルが普及するのは、日韓併合後の日本の教育により漢字ハングル混じり文が使用されるようになってからである。両班階級は、難解な漢字を使用することで、大多数の非識字層の上に立ち、特権階級としての地位を守り続けてきたのである。このため、日韓併合時の朝鮮半島の識字率は6%前後だったと見られている。
・・・戦後の韓国では一転して漢字が廃止され、ハングル表記だけに統治された。しかし、それまで多用していた漢字用語をハングルで表記されたことで、同音異義語が増えて、意味があやふやになってしまったという。中国の属国時代、あるいは日本統治時代を否定するあまり、かえって退化してしまうという現象は、戦後の韓国ではよくみられることである。
・・・李氏朝鮮の儒者たちは、むしろ中華文明の伝統は夷狄の清によって地に堕ちたため、中華の正統は朝鮮だけになったと考えるようになり、朝鮮は清以上に、自国以外のすべての世界を夷狄視するようになった。自分たちこそが世界一だとうぬぼれたわけである。いわば「負けているのに精神的には勝った」と自ら思い込んだわけだが、それは中国の文豪・魯迅が批判した阿Q精神(精神的勝利法)にそっくりでもある。
・・・朝鮮半島が一躍、近代国家になったのは、日韓併合時代(1910~45年)である。現在の韓国人は決して認めようとはしないが、前述のハングル普及も日本統治時代であり、また、人口も李氏朝鮮末期に比べて2倍に増えている。朝鮮半島で道路や上下水道、鉄道などが整備され、人口30万人前後だったソウルは100万人の近代的な大都市に変貌した(1944年の時点で105万人)。
・・・朝鮮半島の歴史を見ると、つねに他力本願であると同時に頑迷固陋であり、内紛をくりかえしては外国を巻き込み、争いを拡大させるということの連続だったとつくづく思い知らされる。
・・・徳川将軍家の場合には、一族の間で権力争いによる殺し合いなどはほとんどなかったが、李朝では王家の親子や兄弟、親族の間で凄惨極まりない殺戮が続いた。
・・・李氏朝鮮には安定した社会をつくるために必要な継続性がなく、政治とは党派を組んで相手を蹴落とすことであり、自分だけが栄えればいいと考えるようになったため、法が軽んじられ、官僚たちは不正蓄財や賄賂に走り、民衆は搾取と収奪の対象でしかなかったと断じている。
・・・朝鮮人の最初の王朝である高句麗からして、内紛と売国的行為によって滅んだのである。囲碁、朝鮮半島には統一新羅、高麗、李氏朝鮮と続くが、いずれも内紛で滅んでいる。・・朝鮮半島の内紛の特徴は、つねに外国勢力を巻き込んでいくことである。・・朝鮮半島での内ゲバは、どんな手段を使っても徹底的に相手を潰すことを目指し、そのためには外国軍の先導役まで務めるのだ。
・・・百済の復興運動に巻き込まれ、利用され、挙句の果てに貧乏くじを引かされたのは日本だったのだ。余談だか、鬼室福信の子孫は、大敗した日本軍とともに日本に渡った。滋賀県に鬼室神社という神社があるが、これはそのときに来日した鬼室福信の一族を祀ったものだという半士だ。
・・・1231年にモンゴルが高麗に来襲してきた。高麗は抗戦してモンゴルを撤退させたが、同時に王朝の首都である開京(現在の開城)を放棄して、江華島という現在のソウル近くの島に都を移し、崔氏は私兵団である三別抄を率いてモンゴル軍に徹底抗戦した。以後、5回にわたるモンゴル軍の攻撃を撃退せしめている。
・・・文官と武官の内ゲバ、武官同士の内ゲバ、王と武官の内ゲバが繰り返され、最後には外国勢力に泣きついて政敵を倒すというのが、高麗時代前半の出来事であった。
・・・第25代国王の忠烈王に即位以降、高麗の王太子は必ず人質としてモンゴル、大元帝国に行かなくてはならなくなった。そして、元朝でモンゴル族の皇族の娘を妃にもらうことが義務付けられた。・・王室についても祖や宗といった呼称は禁じられ、「○○王」とするように定められた。・・大元帝国に対する属国ぶりは徹底しており、高麗では女性を朝貢品として献上することが通例となった。こうした貢ぎ物としての女性は「貢女(コンニョ)」と呼ばれ、高麗朝では数千人が送られたとされている。貢女は美しい処女でなくてはならない。全国から貢女を集めるために高麗政府は結婚都監を置いて国中の結婚を禁止し、さらに寡婦処女推考別監という役所を開設して選別作業を行った。・・この貢女は李氏朝鮮時代まで続き、元帝国以降の歴代中華帝国に女性を献上し続けた。
・・・このような残虐行為を行ったのはモンゴル人だけでなく、多数の高麗人も含まれていたことはいうまでもない。もともと朝鮮人が事大する国のお先棒を担ぐことはよくあった。例えば、李氏朝鮮は明に対して忠誠を誓っていたものの、その後、清に攻められて降伏した後は、清のお先棒を担いで、かつての宗主国である明の遺臣の掃討作戦を徹底的に敢行している。そうした民族性は、近代でもよく見られた。ベトナム戦争では、韓国はアメリカの要請で派兵したが、そのときの韓国軍の残虐さは有名で、村民虐殺はもちろん、現地のベトナム人女性を次々と強姦したため、韓国人の血を引く子供がおおく生まれた。
・・・このときの日本遠征は確かにモンゴルが主導したものだった。だが、2回目の「弘安の役」(1281年)は、高麗王が進言し、主導したものである。
・・・朝鮮半島が、常に大陸における各勢力の消長に左右されてきたことはいうまでもない。中華の主宰者が誰になるかによって、運命は大きく変わる。・・1950年からの朝鮮戦争で中国が介入してきたときには、延安派が力をもった。だが、53年に休戦協定が締結されて中国軍が朝鮮半島から撤退すると、満州派の金日成は延安派を粛清した。これにより中朝関係は悪化するが、朝鮮戦争で中国軍を率いていた延安派支持の彭徳懐が失脚し、満州派とつながりのある林彪が国防部長になったことで、61年には中朝友好協力相互援助条約が結ばれることになった。
・・・李氏朝鮮でも儒教が国教となり、明との正式な冊封関係が成立(1401年)した太宗の時代からは崇儒斥仏が加速した。仏教の力を弱めるために寺院の特権がはく奪された。全土に一万以上あったとされる寺院は次々と破壊され、太宗の時代には88寺院に、世宗の時代には36寺院にまで激減したとされる(「朝鮮王朝実録」)。
・・・両班は朝鮮を「小中華」と称し、大中華である中華帝国の正統な後継国家を自任していた。そのため中華王朝によく使える国として、李氏朝鮮は「東方儀礼の国」を自称していた。
・・・ハングルが広まるのは、李氏朝鮮末期から日韓併合時にかけてである。福沢諭吉やその弟子である井上角五郎による初のハングル使用の新聞発行、あるいは日本統治時代の漢字ハングル混じり文の教育によって、飛躍的に普及したのである。李氏朝鮮は、宗主国以上に儒教に心酔したため、中国同様に近代化がおおいに遅れた。儒教は周の時代の礼を理想とする尚古主義祖先崇拝による家族主義により、進取の気性にかけ、排他的性格があるからだ。
・・・朝鮮史において、歴代の朝鮮王朝が外国軍を打ち負かしたという事例は少なく、むしろ連戦連敗であった。とくに儒教国化していくなかで武臣よりも文臣の地位が高まったことや、党争の激化と混乱に加えて、両班の賄賂政治の横行により民衆からの搾取がひどく、政府軍に対する支援が得られなかったことなどが挙げられている。
・・・西人派は大北派を粛清し、それまでの明と後金との等距離外交を改め、崇明斥金へと転換したのだが、これが悲劇を生む。清による朝鮮半島侵略と、その後の朝鮮の属国化である。またもや党争が国際情勢の判断を誤らせ、現在にも続く韓国人のルサンチマンの元凶をもたらすことになるのだ。
・・・清は、朝鮮が清に反抗した罪とホンタイジの徳を忘れないようにと、1639年に大清皇帝功徳碑を建立させた。この碑は現在もソウルにあるが、「恥辱碑」と呼ばれている。なお、前述した壬辰・丁酉倭乱と、この丁卯・丙子胡乱により、朝鮮民族は外国からの襲来に非常におびえるようになったようだ。王朝内で党争ばかりして国を疲弊させてばかりいるため、自分たちだけでは外国軍に勝てないことを自覚していたのだろう。・・オランダ人のニコラース・ウィットセンは、1690年当時までの朝鮮の情報を集成し、「朝鮮国記-「北及び東ラルタリア誌」-」(生田滋訳、平凡社)を著したが、次のように述べている。「コレー人(編集部注・コリア人=朝鮮人)はタルタル人と日本人をひどく恐れている。というのは彼らはたいへん意気地がないからで、そのため戦争がおこなわれようとする時には、その戦争の数日前に数百人の人々が恐怖心から縊死することが見られる」・・仁祖は清に三跪九叩頭を強いられたという。韓国人にとっては屈辱この上ない王であると同時に、自らの息子と孫を殺したということで、韓国では非常に評判が悪い。
・・・大院君は夷狄相手に国を開いた日本をさげすんでおり、「禽獣と化した日本人と交わる朝鮮人は死刑に処する」という布告まで出している。こうした朝鮮側の非礼に日本の朝野は沸き立ち、征韓論が噴出した。
・・・清の力によって権力を取り戻した閔氏一派は、次第に日本よりも清に頼り、事大の姿勢を強めていくようになる。このように自らの権力維持のために、その時々で頼る外国を変えるというのは、朝鮮半島ではよくみられるものである。
・・・ソウルには「独立門」というものが建っている。多くの韓国人は、日韓併合後に日本から独立したことを記念して建設されたものだと思っているが、それは違う。日清戦争に日本が勝利し、下関条約第一条で朝鮮独立が認められたことを祝して、1897年に完成したものだ。・・この独立門が建てられる以前、そこには「迎恩門」があった。これは歴代の朝鮮の王が、中華王朝の皇帝の使者を迎えるための施設であった。中華王朝の使者が来るときは国王自らが迎恩門にでむいて、使者に対して九叩頭の礼を行っていた。いわば中華王朝の属国であることの証でもあったのだ。この迎恩門が日清戦争後に取り壊され、そのかわりに独立門が建てられたというわけだ。
・・・どんなに改革をやろうとしても、政争の果てに潰されるか、あるいは自ら潰すということが、朝鮮では延々と行われてきたのである。・・ロシアが朝鮮半島に対する影響力を強めていくにつれて、日本は、日清戦争以前と同じような厳しい状況に追い込まれた。日本の朝鮮における権益が奪われると同時に、ロシアの朝鮮半島への勢力拡大による南下が、日本の国防上の最大の脅威となったのだ。
・・・一進会の基本理念は、日本と連携してロシアを含めた西洋列強と対抗し、朝鮮民族の生存と自立を守っていくというものであった。会員数は公称100万人であったが、呉善花氏によれば、最盛期の会員数は、「20万から20数万はあったのではないか」と推測されている。・・1909年2月、宋ビョンジョンは、当時首相であった桂太郎に、「合邦論」を提出して、日本と朝鮮との「合邦」、すなわち両国の合併を提言した(長田彰文氏の前掲書)。「日韓合邦」を最初に言い出したのは、むしろ朝鮮からだったのだ。・・こうした動きが大きな推進力となり、1910年8月には日韓併合条約が締結されることになる。日本との併合を決めた韓国の閣議で、学部大臣(文部大臣)の李ヨンシク以外の全閣僚が賛成したことから見ても、日本側の一方的な強制ではなかったのである。
・・日韓併合により朝鮮半島は日本の一部となったが、朝鮮の本格的な近代化はそのときから始まった。・・イギリス人の女性旅行家イザベラ・バードは、1894年から97年にかけて4度にわたって朝鮮半島を旅したが、それを記録した著書でソウルと次のように評している。「穢きこと臭きこと世界一の都は京城乎。(中略)市街の中心を西より東に流るふ下水道は市中の汚水を夜に昼に絶えず城外に排泄して居る。其の為に下水道の泥は真っ黒に幾世も昔からの濁水に染められ悪臭を空中に放散して旅人を悩まして居る。」「北京を見るまでわたしはソウルこそこの世で一番不潔な町だと思っていたし、・・」「衣服は、白衣ということになっているが、しかし、ちゃんとした清潔さを保っているのはとても労力のいることなので、たいていの場合、濃厚な垢のため色変わりしている。不潔ということは朝鮮人の大きな欠陥で、富裕な者でもしばしば虫がついて破れたままの服を着用している」
・・・朝鮮半島はまたたくうちに近代化し、食糧事情から衛生環境までが飛躍的に向上したため、朝鮮半島の人口は、併合時の1313万人から1944年には2512万人へと約2倍にも増えたのである。1929年、カーネギー財団から朝鮮に派遣されたアメリカ人記者は、「日本は併合以来19年間にして、数百年停頓状態にあった朝鮮と、近代文明国とのあいだに渡橋を架けてやった」と証言している。
・・・元中国人の私からしても、朝鮮人はかなり尊大な民族であり、しかも歴史のねつ造も中国人にまして得意である。
・・・この大韓民国臨時政府には、後に韓国の初代大統領となる李承晩や、呂ウニョン、金九などがいたものの、朝鮮人らしく、つねに内ゲバを続けており、どの国からも政府として認証されなかった。・・臨時政府の主席を務めた金九は、かつて日本人を殺害し、金品を奪ったことのある犯罪者でもあった。
・・・普通に考えれば、日本の敗戦後、アメリカとソ連が朝鮮半島に進駐して支配し、その後、北朝鮮と大韓民国に分かれてそれぞれ独立したのであるから、その日が建国記念日となるというのが一般的だろう。実際、北朝鮮の建国記念日(国慶節)は、朝鮮人民共和国政府が樹立された1948年9月9日である。同じ論法でいえば、大韓民国政府が樹立された1948年8月15日が韓国の建国記念日となるはずである。だが、韓国国内ではこの8月15日を建国記念日にすることについては拒否感が強い。・・韓国の憲法に、現在の韓国は大韓民国臨時政府を前身として成立したことが書かれている・・このことから国定教科書で「1948年建国」としてことは、憲法違反だという反対派の意見もある。・・1919年建国では、国際的に承認されて行われた日韓併合という歴史もなかったことになってしまう。「韓国は日本の強制的侵略下にあっただけで、正統な政府が別にあった」ということになると、日本の敗戦後に3年間も朝鮮半島を統治したアメリカは、侵略国ということになる。だが、アメリカはあくまでも敗戦国・日本の一部としての朝鮮半島の南側を統治したに過ぎない。このように韓国は、抗日を続けたという大韓民国臨時政府から正統性を引き継いだことにしてしまったため、現在もなお建国記念日が作れないでいるのである。
・・・そもそも朝鮮半島は、日本の敗戦後から分裂・騒乱続きであった。現在の南北分断を日本のせいにする韓国人もいるが、それは事実ではない。ポツダム宣言の受諾を事前に知っていた朝鮮総督府は、独立運動家として民衆から人気のあった左翼民族主義者の呂運亨を1945年8月15日に朝鮮総督府へ呼び、治安維持と日本人の生命財産を保証するよう協力を求めた。呂運亨は政治犯の釈放や独立運動への不干渉などを条件に受諾し、その日のうちに朝鮮建国準備委員会を結成した。だから、日本は敗戦後すぐに半島全体の統治権を韓民族自身の手に返している。朝鮮半島が分断されることになったのは、米ソが朝鮮半島に侵入してきたことから始まる。・・やがてアメリカ軍がソウルに進駐してきて、軍政庁が置かれ、管理・統治が始まった。すると、もともと朝鮮建国準備委員会に批判的だった保守派の重鎮・宋鎮禹が、大韓民国臨時政府こそが正当な政府であり、朝鮮人民共和国も朝鮮建国準備委員会も偽物だと主張した。・・このように、せっかく朝鮮人民共和国を設立したのに、朝鮮人による内部抗争、しかも外国勢力を利用するといういつのパターンで崩壊してしまったのだ。そして、行政権もすべてアメリカに握られることになった。南北分断の歴史は、米ソによる分断支配よりも、ある意味ではこうした内紛が原因であった。
・・・1946年3月20日~5月8日まで、第一次米ソ共同委員会がソウルで開かれた。米ソ両国とも朝鮮民主臨時政府の樹立を優先課題としながらも、ソ連は臨時政府から李承晩・金九などの右派勢力を排除するよう主張、これに対してアメリカは逆に、左派勢力による臨時政府支配を阻止する立場をとり、会議はまったく進展しなかった。そのため、米ソ共同委員会は5月8日に無期限休会状態に入った。国土分断の悲劇はそこから始まったのである。もちろん、左右対立の激化に危惧を抱き、左右合作運動を展開する者もいた。それが呂運亨である。先述したように、呂運亨は当初、右派と左派が統合した朝鮮人民共和国を設立したように、穏健な中道左派でもあった。だが、呂運亨は1947年7月に右翼テロ組織の青年に暗殺されてしまう。
・・・金日成も李承晩も、単独政権樹立後に、あらゆる手を使って相手を倒し、南北統一を成し遂げようと考えていたわけだ。しかし本来、祖国統一を理想とするなら、最初からモスクワ協定が提唱した民主臨時政府に参加するのが通常の思考だろうが、両者ともまず単独政権樹立を唱えたのは、自分が権力者になることが重要だったからだ。そして、両社とも政権樹立後に相手を潰すことを目指していたわけであるから、その後に朝鮮戦争が起こることは必然だった。
・・・1947年5月21日から米ソ共同委員会は第二次会合を始めたが、もはや会議をする意味はなく、・・8月12日をもって完全に決裂した。そこから、南北の単独政府樹立の動きは一気に進んだ。アメリカはこれによって信託統治の合意を反故にし、朝鮮半島の戦後処理を国連に委ねた。国連は朝鮮全体での総選挙の実施を決めたものの、北側がこれを拒否したため、南だけの単独国政選挙が1948年5月10日に行われることが決定した。これに対して北では1948年2月、北朝鮮労働党指導下の朝鮮人民軍が創設された。自前の軍隊を持つ政権はもはや政府というしかない。北の金日成政権はこれで完全に国家としての形を整えた。
・・・北朝鮮、韓国の建国は、どう考えても左派と右派の分裂を抗争の結果であり、抗日はいっさい関係がない。だから、韓国で建国年を1919年とすることは、まったく史実に反しているのである。
・・・1948年4月3日、単独選挙反対とアメリカ軍の即時撤退を主張する共産主義者と住民が済州島で武装蜂起し、島内の警察や右翼団体の要人宅を襲った。これに端を発する島民と韓国政府側との衝突、虐殺事件は「済州島4.3事件」と呼ばれている。
・・・反乱軍の占領地域では警察や右派に対する人民裁判が行われ、多くの人々が粛清された。麗水だけでも1200人が殺害されたという。・・韓国政府は、済州島に対して過酷な焦土化作戦を展開した。敵性地域の村は焼かれ、子供から老人、妊婦にいたるまで皆殺しにされた。当然ながら、そのなかには武装勢力と関係のない島民も含まれていた。・・後の調査では、この済州島4.3事件による犠牲は2万5000~3万人と推定されているが、当時の済州島の人口は28万人だったから、約1割が殺害されたことになる。
・・・日本の植民地時代に作りあげられた産業基盤の大半が北朝鮮に残されていたことも、金日成の「祖国統一」にむけての戦争準備には都合が良かった。
・・・李承晩大統領をはじめ、国民を守るはずの韓国軍は我先にと逃げ、敵の追撃を逃れるために漢江にかかる橋を避難民ごと爆破したため(漢江人道橋爆破事件)、逃げ遅れた大量の市民は北朝鮮の攻撃の犠牲となった。・・2015年6月に韓国テレビKBSが報じたところによると、李承晩政権は開戦2日後には早くも日本政府に対して日本での亡命政権の設置を打診していたことが発覚したという(「産経WEST」2015年9月19日付)・・韓国軍は配送時、多くの非戦闘員を虐殺していった。・・敗走する韓国軍は、各地の刑務所に収監されていた政治犯はもちろん、保導連盟員や左派経験者、あるいは危険分子と見なされた者たちなどはほぼ全域で虐殺した(保導連盟事件)。大田刑務所では政治犯1800人が集団虐殺されている。その被害者集は明らかではないが、少なくとも20万人、あるいは120万人という説もある。
・・・アメリカ軍の目的はあくまで38度線の回復であり、その目的のために、それ以北の軍需品の集積地は破壊してもかまわないが、38度線を越えて本格的な軍事侵攻をしてはならない、という方針を示していた。また、国連安保理の決議にも「当該地域の国際平和と安全の回復」と書かれており、国連軍もアメリカ同様、開戦以前の原状回復を目的にしていたことになる。(神谷不二「朝鮮半島-米中対決の原形」中公文庫)。だが、朝鮮戦争の勃発前から筋金入りの「北進統一論者」であった李承晩は、この機に乗じて38度線を越えて北へ攻め込むことを主張した。・・1950年10月1日、韓国軍が率先して38度線を越えたことにより、アメリカ軍も国連軍もこれにつきあわざるを得なくなった。・・作戦指揮権はマッカーサーにあったが、李承晩は大統領の権威を笠に着て、恫喝に近いやり方で韓国軍の中枢部に圧力をかけ、無理やり38度線突破に協力させたのである。・・本来なら開戦から3か月後の1950年9月に終了するはずだった朝鮮半島は、1953年7月の休戦協定まで、3年間にもわたる悲惨な戦争へと発展してしまった。・・朝鮮半島での犠牲者は戦闘員と民間人を含めて600万人ともいわれるが、そのたいはんが1950年10月1日の韓国軍の38度線越えからの戦闘による犠牲者である。
・・・1952年8月、最初の大統領直接選挙が行われ、李承晩が第2代大統領に当選したのである。この一連の権力闘争は、「釜山政治波動」と呼ばれているが、官製デモと議員逮捕により自分の野望を達成させるという、李承晩のなりふり構わぬ権力欲ぶりがよくわかるだろう。しかもこれは朝鮮戦争中のことなのである。
・・・李承晩政権が潰れると、国会は内閣責任制改憲を実現させ、「第2共和国」が成立した。新憲法では大統領の権限が大幅に縮小されて、国務総理が国家の実質的指導者とされた。
・・・1965年の日韓国交正常化により、日本からの経済協力として有償、無償、民間借款あわせて8億ドルという、当時の韓国の国家予算の2.3倍もの資金提供がなされ、さらにベトナム戦争に31万人以上の兵力を派遣したことで、アメリカから経済協力の増額を受けて、「漢江の奇跡」と呼ばれる高度経済成長を成し遂げた。
・・・これを「光州事件」というが、韓国政府が確認した犠牲者は民間人168人、軍人・警察27人、負傷者4782人、行方不明者406人に達している。その後も失業者やホームレスといった社会的弱者、あるいは犯罪者や学戦運動家、労働運動家など約4万人を一斉に逮捕させ、軍で過酷な訓練と強制労働を課した。とくに強制労働では暴行などで52人の死者を出し、3000人近くの後遺症や精神障害が残るなど、韓国社会に大きな傷跡を残した。
・・・盧武鉉は不正資金疑惑で野党から弾劾訴追されて一時的に大統領職を停止され(2004年)、2008年の退任後は親族や側近が贈賄で相次いで逮捕、ついに司直の手が自身に及ぶと自宅裏山の崖から投身自殺した(2009年5月23日)。・・韓国の歴代政権にはつねに民衆虐殺や収賄がつきまとっている。それは、これまで朝鮮史で見てきたように、朝鮮民族には公の意識が薄く、権力欲、金銭欲、独占欲といった我欲の強さが国民性として根づいているからではないだろうか。だから韓国での公のために大同団結できず、つねに私欲によって分裂と争いが絶えないのである。
・・・福澤諭吉は喝破していた。「脱亜論」において、中国と朝鮮が儒教を遵奉して、近代化を拒否していることを指摘し、西洋人が中国や朝鮮の悪癖を見て、日本もまた同じだとみられてしまうことは「日本国の一大不幸」だと論じ、中国・朝鮮を隣国だからといって特別視せず、西洋人が彼らに接するのと同じように接すべきだと説いた。近年の朝鮮半島の混乱ぶりを見るにつけ、福澤はまさに慧眼であったといえよう。とくに、元中国人の筆者としては、日本の韓国及び中国に対する姿勢は甘すぎると思わざるを得ない。』
« 腸が嫌がる食べ物、喜ぶ食べ物 40歳を過ぎたら知りたい、病気にならない食習慣 (松生恒夫著 SBクリエイティブ) | トップページ | よろこびの歌 (宮下奈都著 実業之日本社) »
「書籍・雑誌」カテゴリの記事
- ハイブリッド戦争 ロシアの新しい国家戦略 (廣瀬陽子著 講談社現代新書)(2022.07.09)
- 賢者の書 (喜多川泰著 ディスカバー・トゥエンティワン)(2022.05.30)
- ウクライナ人だから気づいた 日本の危機 ロシアと共産主義者が企む侵略のシナリオ (グレンコ・アンドリー著 育鵬社)(2022.05.29)
- 防衛事務次官 冷や汗日記 失敗だらけの役人人生 (黒江哲郎著 朝日新書)(2022.05.16)
- 古の武術から学ぶ 老境との向き合い方 (甲野善紀著 山と渓谷社)(2022.05.08)
« 腸が嫌がる食べ物、喜ぶ食べ物 40歳を過ぎたら知りたい、病気にならない食習慣 (松生恒夫著 SBクリエイティブ) | トップページ | よろこびの歌 (宮下奈都著 実業之日本社) »
コメント