戦国の合戦 (小和田哲男 学研新書)
日本における戦いについて、思い込みが多かったことを痛感しました。
『・・・水田耕作の全面的展開となると弥生時代ということになる。ちなみに、弥生時代は、紀元前3世紀ごろから紀元3世紀までの期間をいう。
・・・この戦いによって、中央政界における武士の地位は飛躍的に高まり、特に清盛の勢力は大きなものとなった。しかし、その時点では、平氏と源氏の力は拮抗し、並立する状態であった。ところが、それに続く平治元年(1159)の平治の乱で清盛が源治の棟梁源義朝を破ったことにより、平氏圧倒的優位の状況が生まれることになった。
・・・この二度にわたる蒙古襲来は、日本に集団戦法という新しい戦い方を広めるもととなったわけであるが、鎌倉幕府崩壊を早めることにもなった。それは、それまでの戦いでは、戦いに参加することで恩賞をもらうことができたのに対し、このときは、敵を撃退しただけで、幕府としても、戦いに加わった御家人たちに恩賞を与えることができず、御家人の窮乏が進んだからであった。
・・・応仁年間よりも文明年間の方が長く、そのため、従来の応仁の乱といういい方に代わり、応仁・文明の乱と言われるようになったのである。・・東軍細川勝元に属すか、西軍山名宗全に属すかの二者択一を迫られ、結局、東軍16万人、西軍11万人、合わせて27万人もの大群が京都に上っている。この軍勢の数は、「天下分け目」といわれた関ヶ原の戦いよりも多いのである。・・敵の陣地である大名の屋敷や寺に放火する放火合戦の様相を呈していたからであった。そのため、京都は焼け野原と化してしまったのである。
・・・意外なことに、応仁・文明の乱が終わっておよそ10年ほどは、地方でもこれといった大きな戦いはなく、文明18年(1486)の出雲守護代尼子経久による下克上が特筆される動きである。
・・・守護代・国人クラスの武将たちが歴史の表舞台に登場し、文字通り、戦国乱世に突入したことがはっきりわかる時期である。
・・・儒教的武士道徳がまだ一般化されていない戦国時代は、むしろ、自分の能力に応じた待遇を与えられるのを当然としていたので、働きに応じた待遇をしてくれていないと思えば、使えていた家を飛び出し、他家に仕えるのが当たり前であった。そのため、主君は、家臣たちをつなぎ留めておくため、常に恩賞を与え続けなければならなかったのである。このことが、戦国時代、合戦が続くことになた最大の要因であった。
・・・私が一番注目しているのは、「武者は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝事(かつこと)が本にて候事」という部分である。「武士は、相手から犬といわれようと、畜生といわれようと、とにかく勝つことが大事である」といった意味で、勝つための工夫が必要だし、勝つためにはどのような手段を使ってもよいという意味にもなる。・・合戦である以上、負けてしまったのでは元も子もないわけで、相手から卑怯者呼ばわりされてでも勝たなければならないというのが、そのころの武将の共通した認識だったものと思われる。
・・・死を恐れるということは、戦国武将も現代のわれわれも同じであろうが、死に対する考え方は現代人と決定的に違っていた。それは、一言で言えば、「死んで名を残す」という考え方である。「名をあげる」「名を惜しむ」という言い方も同じである。
・・・当時の武将たちにしてみれば、まさに「名を残す」行為だったわけで、事実、ここで死んでいった12人の「城将」の子孫は、上杉家において重用されているのである。見事な死に方が子供たちへの遺産となっていたことがわかる。
・・・戦国時代とはいっても、ある場所に限定すれば、毎日毎日戦いが続いていたわけではなく、戦いのない日もあった。つまり、戦いのときは武士として出ていくが、戦いのない時は農民として農作業に従事していたのである。・・大道寺友山の「落穂集」が参考になるのではないかと思われる。そこには戦場において死者が1000人あった場合、侍はそのうちの100人か150人で、あとは農民や下人だったと見える。
・・・兵農未分離の段階における戦国大名家臣団の主力は地侍、すなわち半農半士の土豪だった・・侍のもとに多数の農民が組織され、戦場に出ていった
・・・戦国時代のある段階まで、合戦の主力はこのような一領具足に代表される半農半士の地侍、すなわち土豪たちによって構成されていた。彼ら地侍を寄子とし、専業武士である上層家臣を寄親とする寄親寄子制が軍団編成の基本であった。その仕組みを大きく変えたのが織田信長である。もっとも信長も、ある時を境に、兵農未分離の家臣団を急に兵農分離に変えていったわけではない。少しずつ変えてゆき、いつの間にか兵農分離になっていたという状況だった。信長が兵農分離の踏み出す一つのきっかけは、親衛隊の組織化である。・・親衛隊の中には兵農未分離の家臣が含まれていたかもしれないが、注目されるのは、信長が、地侍クラスの二・三男以下の者を親衛隊としていた点である。これは兵農分離の第一段階に位置づけられるもので、”兄弟の分離的対応”とよんでいる。
・・・兵農分離をすませた常備軍だと、その心配はない。いつでも戦いに出られるし、しかも長期滞陣が可能になった。・・まだ兵農分離が進んでいないときには、籠城しても勝つことができたのである。・・織田信長の後半、さらには豊臣秀吉の時代には、兵農分離で、将兵は何年でも城を囲むことができたため、籠城イコール敗北という認識が出来上がってしまったわけである。・・兵農分離後の常備軍団は決定的にちがう。鑓なら鑓、弓なら弓、鉄砲なら鉄砲というように、それぞれの持ち道具によって隊を編成し、鑓隊、鉄砲隊ごとに集団訓練ができ、その訓練を実際の戦いの場で生かしているのである。・・足軽は、応仁・文明の乱のころ登場してきたといわれるが、合戦の主力として重視されるようになるのは戦国時代に入ってからである。
・・・従来型の武田軍による小集団と、兵農分離後の織田軍による足軽戦法の戦いということになり、その意味で、長篠・設楽原の戦いは、足軽戦法が個人戦法を破った記念碑的な戦いと言ってもよいように思われる。
・・・信玄の「信玄棒道」は戦いのために軍用道路として作られたものであるが、信長の場合は単に軍用道路としてでなく、商品流通経済も視野に入れた富国強兵のための道路政策だったところに違いがある。
・・・信玄の関所撤廃の理由は、荘園領主・在地領主の収入源を絶つとともに、商人たちの自由な往来を保証したことにあった。
・・・出陣の日から3日分は、それぞれの兵の責任で兵糧持参が義務付けられていた様子がわかる。・・「三日分の腰兵糧」がなくなった4日目ごろから現地での兵糧の支給が始まるのである。・・小荷駄隊に動員されたのが農民だったことについてはすでに述べたとおりである。そして、兵糧の準備から、輸送の実務まですべてを差配したのが兵站奉行であった。
・・・兵器は、一部の名刀と言われる太刀や刀は別として、たいていは消耗品である。実際の戦いで使用した後使えなくなるものもあり、常に補給が必要だった。・・鑓は鎗、槍など字はいろいろに書かれるが、・・武器としての登場は元弘・建武の騒乱のころで、室町時代に入って急速に普及し始め、それまで、長柄といえば薙刀(長刀)をさしていたのが、鑓に代わっているのである。戦国時代はもっぱら鑓で、薙刀は女性の持ち道具となっている。・・名だたる名将のことを形容する言葉として「弓取り」がある。・・この言葉は、弓矢を使った戦いが一般的だった時代の名残であった。次第に鑓が主力の戦いになってくると「一番鑓の功名」とか「鑓働き」といった言い方が増えてくる。さて、その鑓であるが、はじめは柄の部分もそんなに長いものではなかった。二間(約3.6メートル)もあれば長い方だった。・・ついには「三間間中」つまり三間半(約6.3メートル)にまでなった。おそらく持ち手の腕力からしてこの三間半が限界だったのであろう。それ以上長い柄の鑓は出現していない。長鑓が使われることになった背景に前述した足軽戦法があった。・・長さをそろえた長鑓をもって最前列にならび、いわゆる「鑓衾」を作る。敵の騎馬武者がそこに来た場合、長鑓で突かれ「鑓衾」を突破することができず、逆に鑓隊に押し込まれる形となる。・・合戦場面で、圧倒的に多いのは、鑓と鑓の戦いである。
・・・おそらく、このころになると、刀は戦闘での武器というよりは、相手の首を取るときの道具として使われていたものであろう。
・・・具足は何らかの形でほぼ全員が身につけるとしても、冑、すなわち兜はそうはいかない。兜は「兜首」といういい方があることからも明らかなように、あるランク以上の者でなければかぶれなかった。・・直江兼続の「愛」の一字がある。これを愛情、人間愛の「愛」と思っているいる人が多いようであるが、愛染明王の「愛」であろう。・・武将たちがこうした変わり兜を用いたのは、目立ちたかったからである。戦場で目覚ましい働きをすれば、「あれは誰だ」ということになり、変わった兜をかぶっていればいっぺんに名前を覚えられる。
・・・「乱取り」といっても、戦いがはじまる前から「乱取りは自由である」といった許可がおりていたわけではなく、当然のことながら、勝ち戦になった場合の恩典ということになる。ある程度、勝利が確定したところで、「乱取り自由」の指示が出されたものと思われる。城攻めの場合には、全員討ち死にということもあるが、多くの場合は城兵の命は助けられることになる。しかし、待っていたものは悲惨な現実であった。男も女も、子供まで生け捕りにされ、売られてしまうのである。
・・・こうした勝鬨は凱旋のときの一種の儀式となっていて、それをリードしたのが軍配者、すなわち軍師だったのである。
・・・負けた場合の首の取り扱われ方であるが、全員が磔になったり晒し首にされるのはどちらかといえば例外的で、みせしめにされた場合に限られるようである。多くは、林薨とか水薨という形で死体処理がなされることになる。林薨は、そのまま野山に打ち捨てられるもので、土とか木の葉がかぶせられればいい方で、水薨は、川に流されたり、池にそのまま沈められるものである。
・・・「八陣」とは、魚鱗、鶴翼、雁行、長蛇、偃月、鋒矢、衡軛、方円の八つの陣形をいう。』
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