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2017年5月

2017年5月26日 (金)

新聞記事から (【正論】安全保障避ける学術会議の錯誤 東京大学客員教授・米本昌平) (産経新聞 29.5.26朝刊)

日本の学者さんたちには是非読んでほしい内容でした。

≪冷戦の過酷さとは無縁だった国≫

 3月24日に日本学術会議は「軍事的安全保障研究に関する声明」をまとめ、軍事目的での科学研究を行わないという半世紀前の方針を再確認した。その直接の動機は、一昨年から防衛装備庁が「安全保障技術研究推進制度」を発足させたため、これに対する態度表明を迫られたからである。

 どんな国であれ大学が防衛省関係から研究費助成を受ければ、軍事機密や達成目標などで条件をのまなければならず、大学側は当然これに対する原則を明確にする必要が出てくる。だが、声明や学術会議報告「軍事的安全保障研究について」を読んでみると、日本のアカデミズムは安全保障の議論をするのに恐ろしく逃げ腰である。

 その理由の一つに、日本が20世紀後半の世界を決定づけた冷戦の過酷さを体感しないまま21世紀に抜け出た、唯一の先進国であることがある。冷戦とは米ソ両陣営が最悪時には7万発の核弾頭を備え、国内総生産(GDP)の5~10%を国防費に割いて核戦争の恐怖に耐えた時代であった。

 この未曽有の恐怖の時代を通して日本は「冷戦不感症」国家であったため、科学技術と軍事の関係を冷静かつ客観的には語りえない欠陥をもつようになった。この点について軍民両用(デュアルユース)技術を軸に論じておきたい。

 ≪表層的な日本の軍民併用技術論≫

 最も基本的なことは、米国の科学技術は1940年を境に一変してしまったことである。第二次大戦以前の米国では、大学は東部の法文系が主流だった。ところが40年に国家防衛研究委員会が置かれ、戦争中にこの委員会が通信技術、レーダー、航空機、核兵器などの戦時研究を組織し、理工系大学がその一部を受託して力を蓄えた。戦後間もなく冷戦が始まったため、米国は41年の真珠湾攻撃から91年のソ連崩壊まで50年戦争を戦ったことになる。

 そんな中、57年10月にソ連が人類初の人工衛星スプートニク1号を打ち上げた。米国は衝撃を受け、高度な科学技術研究を維持することが安全保障に直結すると確信し、翌年に国防高等研究計画局や航空宇宙局を新設する一方、理工系大学の大幅な拡張を促した。

 国防総省からの大規模な研究委託によって、マサチューセッツ工科大学(MIT)やスタンフォード大学などは急速に力をつけ、「研究大学」という特別の地位を獲得した。60年代末に大学紛争が起こると、軍からの委託研究は批判にさらされ、キャンパスの外に移されたが、これがベンチャー企業の先行形態となった。結局、冷戦の最大の受益者の一つは米国の理工系大学であった。

 冷戦後、米国の科学史の研究者は精力的に冷戦研究を行い、この時代の米国の科学技術は、核兵器の開発・小型化・配備体制の開発を最大のミッションとする「核兵器研究複合体」を形成していたと自己診断を下した。日本の議論は、この米国における科学技術史の研究成果を咀嚼(そしゃく)していない。

 90年代の米国は、科学技術を軍事から民生へ転換する「軍民転換」政策を採用した。この時、冷戦時代に開発されたコンピューター技術、インターネット、衛星利用測位システム(GPS)などが民間に開放され、巨大な情報産業が誕生した。この政策を正当化したのが「軍民併用技術」という概念であった。これと比べ、日本の軍民併用技術論は何と表層的でひ弱なものなのであろう。

 ≪米科学技術史の成果を踏まえよ≫

 かつて核戦争の危機は2度あったが、2度とも日本は重度の「冷戦不感症」を呈した。62年のキューバ危機に際し、ケネディ大統領は事態を説明するためフランス、西ドイツ、カナダに特使を派遣したが、池田勇人首相には親書で済ませた。核戦争が起こるとすれば大西洋を挟んだ撃ち合いになると考えられたからだ。この時、日本は親書の意味が読み取れないまま経済政策に邁進(まいしん)したのである。

 83年欧州のミサイル危機の時には、相互確証破壊を前提とする戦略核ミサイル体制は両陣営で完成していたから、核戦争になれば日本は全滅してしまうはずだった。だがこの時、日本で議論されたのは欧州の反核運動であった。

 冷戦時代、日本が核戦争の脅威を認知しようとしなかった理由はほぼ3つに集約される。第1に日本における核兵器の議論はヒロシマ・ナガサキで凍結されてしまい、その後に本格化する核兵器の大量配備の現実を視野に入れようとしなかったこと。第2に核戦争になれば全てが破壊されてしまうという虚無感。第3に東アジアには東西対決の緩衝地帯として中国共産党政権が存在し、日本がソ連との直接的な軍事対決にさらされることが少なかったことである。

 大学の研究と軍事研究との間に線引きが必要になった事態をもって右翼化と言ったり、戦前の日本と重ねる論法は、冷戦期に日本社会が孕(はら)んだ時代認識の欠陥の残滓(ざんし)でしかない。いやしくも日本学術会議である以上、最低限、米国の科学技術史の研究成果を踏まえた論を展開すべきだったのである。』

2017年5月 5日 (金)

勝ちきる頭脳 (井山裕太著 幻冬舎)

私も下手ですが囲碁を趣味にしています。七冠保有の井山棋士の本著は、囲碁に限らず間違いなく人生に通ずるものを伝えてくれる内容でした。その考え方は、仏教と共通のものを含んでいると思います。弱冠20代でこの境地に達しているとは、本当に脱帽です。

『・・・「打ちたい手を打つ」という行為は、僕が自分に課している信念で、これを棋士人生の中でつらぬいてきたからこそ、今の僕があるのです。もし無難な手を優先したり、リスクを恐れて回避してばかりいたら、七冠はおろか、一つのタイトルも取れていなかったに違いありません。
・・・囲碁というゲームは、二〇〇手を超えて終盤を迎えた場面でも、たった一手のミスで優勢をフイにしてしまうことがあります。・・百問百答を繰り返した結果、「あとで後悔するような手だけは打たない。常に自分が納得できる手だけを打つ」という、自分に対する決め事のを作ったのでした。・・一手一手、目の前にある局面で最善を尽くすということです。・・着手をする際、「この後どんなことになっても、それを受け入れる」という覚悟を持つようにしました。これが「納得した手を打つ」ということ
・・・トップを争っている人たちは例外なく、そうした「形勢が悪い時の踏み込み」が抜群に鋭いわけです
・・・自分の打ちたい手、最善と思う手を選択することを貫いているうちに、見えてきたものがありました。それは「リスクがあっても、最善と思う手を選択している方が、勝ち切れることが多い、という事実です。
・・・やるのは本人ですが、その本人をやる気にさせたり、子供の特性に合わせて気持ち良く行動できる環境を用意することが、周囲の大人にとっては何より大事なことなのだと思います。
・・・囲碁の目的は「最終的に勝つこと」なので、自分が余裕をもって優勢な場合「正解」は複数あるということです。・・最も大きな差で勝てる手段のことを言い、勝利という最終結果は同じであっても、僅差で勝つよりは大差で勝つ方が「最善」というわけです。「正解」は複数存在しますが、「最善」は一つしかありません。
・・・そこでものを言うのが、譲歩であれ決行であれ、自分の選択しようとしている道が「本当に正しいのかどうか」の裏付けをとるための「読み」です。読みを入れてみて間違いないとなったら、それを実行する---囲碁というのは結局、この繰り返しをしていくよりほかないのではないでしょうか。
・・・大きな勝負であればあるほど、どうしても「安全な手を選びたい」という気持ちがわきがちなのですが、じつは勝負においてこの心理こそが最も危険である---このことを僕は過去の敗戦で学んできました。いつも平常心を保ち、自然体で碁盤に臨んでいれば、そこの勝負の大小という要素が入ってくる余地はありません。
・・・勝負の先行きに関しては楽観的に見て、現局面は悲観的に捉えるといったところでしょうか。
・・・「ヤマ勘」が明らかな当てずっぽうで根拠がない選択であるのに対し、「直観」には確実に根拠がある・・その根拠とは何か?人によって微妙に回答が変わるかもしれませんが、僕は「経験と流れ」だと答えます。
・・・日々の勉強で棋譜ならべがありますが、僕はこの時、ただ漠然と手順を追って並べるのではなく、割と意識的に「普通では気が付かないような別の選択肢はないか?」と探すことにしています。この訓練が、人が廃案とするような手を「直感」の班内に残しているのではないでしょうか。・・「直観」だけでは不利な形成を打開できないので、もうひと絞りして「ひらめき」にたどり着く---こうした思考順序だと思います。
・・・「読み」とは「先を見通す力」なのですが、この能力には当然ながら差があります。・・中国や韓国では、強い棋士を養成するために若いうちから、というより若い時だからこそ、読みの力を徹底的に鍛え上げます。読める局面、つまり正解が存在する局面で正解を出せることこそが、勝てる棋士を養成するにあたっての最重要課題だとみているからです。・・囲碁では「直観」が占める部分も大きいのですが、この分野はなかなか伸ばすことが困難でもあります。対して「読み」は鍛えれば鍛えるほど伸びる傾向が強いので、中国や韓国は、そうした鍛えられる部分を徹底した伸ばしていこうという方針なのです。・・「読み」に限って言えば、プロならそれほど大差はありません。皆、ある程度のところまでは等しく読むことができるのです。ただしそれには「時間がたっぷりあれば」という条件が付きます。・・囲碁において最も重要なのは、その「読み」によって導き出した無数の出来上がり図を、どう判断するかなのです。プロの間でも差が出るののは、この「判断」の部分であると言っていいでしょう。
・・・「序盤における直観は好みである」とも言えます。それに対し、石が混みあってくる中盤以降では、石の生死や地の計算といった要素が入ってくるので、はっきりとした正解手が存在する局面が増えてきます。
・・・でも人間ですから、ミスをするのは仕方がありません。ミスは出るものだとして構えておく必要があり、そのうえでどう対処するかが、勝負において非常に重要なテーマになってくるのです。・・目の前の局面を「どういう状況であっても、なるべく同じ心理状態で見る」ことが大切でしょう。ミスをした、しないは関係なく、今この局面での最善手は何かということだけに意識を向けるのです。・・ミスをしたことは分かっていても、何とかその手に意味を持たせたい、完全に見捨てたくはないという心理で「顔を立てたい」と思ってしまうのです。しかしこれは、傷口をさらに広げる結果となる可能性が大と言わざるを得ません。ミスと言っても大した損ではなかったのに、そのわずかな損を惜しんだあまり、一局の碁を失ってしまった---これはともよくあるケース
・・・棋士背後を勝負事としてだけではなく、作品として捉えている部分があります。人に見られて恥ずかしくない棋譜を残したいということです。
・・・棋譜はやっぱり、人を映す芸術作品なのです。自分らしい手や自分にしか打てない手を打つことが、今の僕の大きなモチベーションになっています。
・・・心技体とよく言いますが、まさにこれは三位一体---どんなに高い技術を身につけて心境が澄んでいようとも、身体が弱っていてはすべてが台無しになってしまうのです。
・・・棋士ならば誰もが、自分の打った碁を並べ直し、反省を行っているはずです。この復習なくして、成長はありません。・・中国や韓国の棋士が共同研究で生まれた結論を多用し、10代から早々に活躍する反面、30歳を超えると皆揃って衰退していくのは、この「情報に頼りきり」という一面があるからではないでしょうか。
・・・自分の対局手順を覚えていないということは「着手に必然性がなく、軽い気持ちで打っていた」ことになる
・・・囲碁で必要なのは、学業的な能力ではないのです。求められているのは、ある局面を見て「あ、以前に似た局面があったな」とか「こういう形の時は、ここが急所であることが多い」などと察知する能力---応用力とか適応力であり、刺激的な表現をすれば「嗅覚」と言ってもいいかもしれません。
・・・定石とはあくまでもマニュアルであり、それ以上でも以下でもありません。使い方次第で、薬にも毒にもなってしまうからです。・・「部分的な打ち方のマニュアル」に過ぎないのです。・・「定石通りの手を打つ」ことよりも「その定石が全局にマッチしているかどうか」という判断のほうが重要となってくるのです。・・簡単な定石でいいので、その一手ごとの意味を考えるようにしてみてください。
・・・負けた事実はもう消すことができないので、同じ失敗をしないよう、自分がさらに成長するしかありません。今より少しでも上に行きたい---この探求心があれば、いつまでも挫折しているわけにはいかないのです。
・・・今の中国・韓国の若い棋士の実戦量たるや、それは凄まじいものです。尋常ではない実戦の数をこなし、そのなかから自分で何かを得たり覚えたりして、強くなっていくスタイルなのです。
・・・90年代前半までは「日本のナンバーワン=世界のナンバーワン」で間違いありませんでした。しかし90年代後半にその座がやや怪しくなってきて、2000年代になるとついに韓国がナンバーワンに。そして10年代になる頃から中国も肉薄してきて、現在は「中国と韓国の2強」という情勢です。日本は残念ながら3番手と言わざるを得ません。・・日本には聖徳太子の時代に、仏教とともに伝来したことは確かなようです。その日本の囲碁が飛躍的な進歩を遂げたのが江戸時代でした。徳川幕府が囲碁(と将棋)を保護し、家元を作ったことで、技術的な研究が大いに進んだのです。・・日本碁界全体が油断したという一面はあるのでしょう。しかし、それ以上に「駐豪と韓国が国を挙げて強い棋士を育成し、日本に追いつき追い越した」と見るべきでしょう。・・僕が対戦していて特に感じるのは、読みであったり計算であったりと言った「答えの出る分野」での正確さが際立っているという点です。
・・・江戸時代に家元が作られてからたゆまぬ精進を続けてきた日本の囲碁は、そんなにヤワなものではないという思いもあります。日本の囲碁には独自の良さがあり、それを前面に押し出し精進していけば、再び中韓を抜き返すことも不可能ではないと考えているのです。では、その「日本の囲碁の良さ」とは何か?それはやっぱり「碁は自分一人の力で精進していくもの」という日本の伝統的な考え方ではないでしょうか。・・中国・韓国棋士の最大の強みは、安定した中盤から終盤の力です。この力は卓越した読みと計算の納涼によって支えられており、脳が素早く働く若さが原動力です。瞬発力と言ってもいいでしょう。だからこそスポーツ選手と同様、瞬発力に陰りが見え始めてくる30台になると、衰えてきてしまうのです。・・日本の棋士はこのように活躍の期間が長いのかと言えば、これは若いころに「自分で自分の碁を創り上げてきた」からでしょう。
・・・朴さんに限らず世界の超一流は、相手がひとたび守りに入ったら、徹底してそこに付け込んできて、最後には逆転を果たしてしまいます。
・・・僕が、若手のどこを見ているのかというと、公式戦でも練習碁でも、実際に対局していて「大事なところに石が来るかどうか」です。僕が「ここに打たれたら嫌だな」と思っていた所に打ってくるかどうかということですが、今は粗削りで結果が伴っていなくても「急所、急所!」に石がくる子は、やがて必ず頭角を現してきます。
・・・最後には結局「自分は囲碁というゲームを通して、井山雄太という人間を表現しているのだ」という考えに行き着くのです。・・羽生さんの真の偉大さは、七冠達成自体にあるのではなく、その後二〇年以上にわたって、今なおトップの座にあり続けているという事実にあると思っています。』

2017年5月 3日 (水)

101年目の高校野球 「いまどき世代」の力を引き出す監督たち (大利実著 インプレス)

若者を指導していくためのヒントを得ようと読んでみましたが、たくさん収穫できました。

『・・・日誌をつけ、本と新聞を読むことも義務付けていました。ただ、春先はいいですけど、1年間継続してとなるとなかなか難しい。
・・・掃除したり、物をそろえたりすることは、心のすさみ除去につながります。
・・・面白いもので、字が書けない選手というのは、本をあまり読まない選手です。読書が好きな選手は書けます。なので、ファイターズでは読書を取り入れているんです。寮生は毎朝一日10分、読書の時間があります。本を読む習慣をつけてほしいので、同じ場所に集まって読んでいます。・・新人には本を読む習慣をつけてほしいので、はじめの一か月は同じ場所に集まって読む。そこからは、部屋で読んでもいいとしています。
・・・(読書感想文のようなレポート)それはありません。ただ、半年に一回大きな面談があります。野球の面では遠藤良平GM補佐が、教育面では私が担当し、半期の振り返りを行っています。そのときにどんな本を読んできたのかを必ず聞くので、読んでいない選手は答えられないことになります。
・・・大谷はプレーヤーとして一流ですが、考え方も一流です。自分でやると決めたことを、必ず実行できる。どんなに忙しかったとしても、やることをしっかりとやる。タイムマネジメントのうまさを感じます。まわりが何をしていようとも、流されることはありません。
・・・ファイターズでは、「何のために」を重視しています。・・何のためにその目標を立てたのか。
・・・人としての本質的なものは変わっていないと思います。・・ただ、環境が変わっているのは事実。簡単に言えば、環境の変化によって、ハングリーな子供たちが減ってきている。・・恵まれていることや、環境を与えられていることに、いかに気づけるかです。そこに気づくことができないと、ワンランク上には行けないように感じます。---身に付けるためにはどんな取り組みをしていますか。 それは、常日頃から言い続けるしかないと思っています。
・・・個を生かして、その個をまとめるのが上に立つ人の役割だと思います。
・・・結局、自分を高めていくのは誰かと言えば、指導者ではなく、最後は自分自身です。つまりは、自分自身に対していかに厳しくできるか。そういう選手になってほしいですね。・・選手が自分で考えて、自分でやり遂げることの方が大変ですから、自分自身をしっかりと見つめる。この環境を作るのが、指導者の仕事だと思います。
・・・拓大の選手は仲がいい。それは悪いことではないんですけど、グランドでもっと厳しいことを言い合ってほしい。ダメなことはダメと言えなければ、勝てません。
・・・いまどき世代という意味では、大人の言うことを聞こうとしない生徒が増えているように感じます。話を聞いているようで聞いていない。ハイハイと言ってその場をやり過ごそうとしている。
・・・生活がだらしなくなったり、おろそかになったりすると、どこか自信をもってプレーができない自分がいました。正しい生活を送ることによって気持ちの部分で強くなれる。・・森監督に、「いまどき世代に一番伝えたいことは何ですか」と尋ねると、「自己責任」と「仲間意識」というキーワードが挙がった。
・・・森監督の考えでは、上に立つ人間には三つの責任があるという。①自分を高める力 ②部下を育てる力 ③全体を向上させる力
・・・「何かを言われたときにすぐに反応を返せない生徒が多い。これまで修羅場をくぐってきていないせいか、フリーズしてしまう。「間違ってもいいから反応を示せ!」と言っても、立ち止まってしまう。時間が過ぎることによって、自然に解決することを待っている生徒が多くいるのです。・・修羅場の時にこそ、求められるのは自己表現。時間による解決は根本の解決にはつながっていない。
・・・「ぼくはバッティングピッチャーもやりますよ。なぜ一緒にやるのかと言えば、あの子たちが大人になったときに『一番に動く大人になれよ』と伝えたいからです。口であれやこれやと支持するのではなく、大人が先に動いて背中で示していく。うまい下手ではなくて、姿勢で見せる。
・・・「高松商には古くから続く伝統があります。伝統を守ることも大事ですが、人として間違ていることはやめなければいけない。・・厳しい上限関係がなくても、人間はしっかりと成長していく。今の時代は、もっと別の方法で心を育てることを考えなければいけないと思います。
・・・「いまどきの子たちは自分が一番。自分中心に物事を考えがちです。これは親も一緒。だから、自分自身を客観的にみられるようなシチュエーションを作ったり、声掛けしたりするようにしています」
・・・「いまどき世代のいいところを挙げるとしたら、周りにあまり影響されずに、自分のパフォーマンスを発揮できるところです。大舞台になっても動じない。
・・・今は違う。情報があふれています。先生がすべて正しい。先生がなんでもわかっている。「俺の言うことを聞け!」という時代はとっくに過ぎ去ったと思っています。いま、必要な指導者は昔のようなカリスマ指導者ではなく、スーパーサラリーマン。人事もやるし、総務もやるし、なんでもできるサラリーマンです。・・選択することになれている。これは指導者としてはやりやすい。
・・・チームにひずみが生まれるのは、うまいやつがいい加減なことをした時です。エースと4番が練習をしない。そうなると、周りの選手は「お前らだけでやれよ」となるわけです。ひずみを生まないためには、レギュラーはほかの選手よりはるかに練習をしなければいけない。
・・・今、僕が気に入っている言葉が「じつに面白い!」ガリレオですね。何か自分に問題が降りかかったときに、「じつに面白い!」と言っている。そう思えば悩まないし、その壁が大きければ大きいほど、面白さが倍増します。・・学校もいろいろ大変で、育英劇場があるんですよ。それを面白いと思わないとやっていけません。
・・・「大事なことは、どんな状況でも最善を尽くすること。それができたら、人生は生きていける。特に、苦しい時にどれだけ最善を尽くせるか。いまどきの子は、うまくいかなかったときや失敗したときに表情や態度に出ることが多い。それは自分中心に物事を考えているから。
・・・「人生は一度きり。妥協して、適当に生きている人間と、目標に本気で向かって苦しんでしんどい経験をしてきた人間とでは、違う人生になる。生きている土俵が違う。人間は何のために生きているかと言えば、自分自身を高めるために生きていると思っています。
・・・「人にやさしくしなさい」とよく言っています。それができるようになるには、自分に厳しく生きなければいけない。人のためにと思っていれば、最終的には自分を律することにもつながると思うのです」
・・・「監督を胴上げしたいと思わせたらダメだなと思っています。監督は、選手同士のきずなを強くするためにいるのであって、真ん中にいてはいけないのです。選手の周りにいて、見守っているのが理想だと感じています」
・・・日本の指導論を考えると、手取り足取り教えたり、大声で指示を出していないと教えていないと思われやすい。でも、それは違う。監督は監督としての仕事があると思うのです。
・・・「そんな態度じゃダメだろう!」と怒るのではなく、「お前はふてくされていないと思っていても、周りからはそういうふうに見えるよ。そうやって怒られたことないか?そこを直していかないと、また高校と同じように見られるんじゃないの?」というような言い方をするようにしています。
・・・「叩かれて強くなる」という時代はもう終わりました。叩かれても強くはならない。では、何で木々示唆を植え付けるかと言えば、今は無視だと思うのです。人を育てる言葉で「非難・称賛・無視」がありますが、まったくその通りだと思います。無視されることが、何より辛く、冷たい。
・・・キャプテンがどれだけチームのために動いているか。それがわかれば、チームの力も見えてきます。
・・・10あるうちの10まで追い込めたのが昔のやり方。それによって、能力が高くない選手も力をつけることができ、いわゆる「中間層」が厚い時代でした。しかし、今は中間層が少ない。一部のトップアスリートは世界でも活躍していますが、鍛でることで育ってきた中間層の人数が減っているように感じます。
・・・自らやらない選手に対しては、何か精神的な痛みが必要になることもあるでしょう。過去には試合に使わなかったり、寮を出したりしたこともありました。
・・・勝負どころでは、我慢できる人間のほうが強い。そして、この我慢は若い時にしか身につかないと思うです。
・・・「使わない筋肉は滅びていく」の言葉のとおり、精神的な面も使わなければ退化していきます。つまりは、我慢しようとする機会がなければ我慢する力は弱くなっていく。
・・・食の好き嫌いがない選手は、人の好き嫌いもなく、いろいろな人間と付き合うことができる。でも好き嫌いがあると、人との付き合いも選ぶようになるのです。
・・・何かの本に「いい本とは何か?」を書いた文が載っていた。「読み始める前と読み終えた後で、目の前の景色や世界が変わっていること」と書いてあったと記憶している。』

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