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2017年1月

2017年1月10日 (火)

利休と遠州 (薄田泣菫著 青空文庫)

二日連続で茶道関連の書です。短い作品でしたが、なるほどと思うところがありました。

『・・・自分はこの道の宗匠である。自分の一挙手一投足はこの道の規範として残り、自分の一言は器の真の価値を定める最後の判断であるのを思ふと、滅多なことは口に出せませんでした。利休はただ黙ってゐました。
・・・「わしが賞めたのは、千金にも代へ難いその誇りと執着とを、茶器とともに叩き割つた持主のほがらな心の持ち方ぢや。ただそれだけの話ぢや」「それでは茶入をお賞めになつたのぢや・・・・」遠州は呆気にとられて、老人の顔を見つめました。「さうとも。さうとも。賞めたのは、ただその心持ばかりぢや」老人はきつぱりと言い切りました。』

2017年1月 9日 (月)

利休聞き書き 「南方録 覚書」全訳注 (筒井紘一著 講談社学術文庫)

長らく更新しませんで、大へん失礼しました。本年もどうぞよろしくお願いします。

偽書であるとされていますが、それでも参照される部分も多い本書は私にとっても学ぶところ多いものでした。
『・・すると利休は、「いや、茶の湯というものはそういうものではありません。自分が心に納得できないことを、客に見せるものではないし、自分の腹に納まるようにして客を迎えるのが、わび茶の本来の心というものです」と答えたという。
・・・利休は足利義政の同朋衆の一人であった千阿弥を祖父とし、堺の納屋衆(のちの会合衆)の一人田中与兵衛を父として、大永二年(1522)に生まれた。
・・・叶おうと迎合する心が見られるのはよくない。茶の湯の奥義に達している客と亭主であったならば、おのずから心地よい状態になるものです。ところが、未熟な人が互いに相手の心に叶おうとばかりすると、一方が茶の湯の本道から外れたら、ともに誤ってしまうものです。だからこそ、自然と心に叶う茶はよいけれど、叶おうとする意識の見える茶はよくないのです。
・・・江戸時代中期にいたり、茶道批判がなされるようになると、この叶おうとする心が取りあげられ、茶道は諂い(へつらい)の極みだとして非難されるようになった。
・・・茶の湯での大切な心得とは、もっぱらこの三炭(さんたん)・三露(さんろ)にあります。これは、よほどの達人でなくては、茶会のたびに思うようにできるものではありません。・・わびの茶会は初めから終わりまで四時間を超えてはいけません。四時間を過ぎると、朝会は昼会にさしさわりができ、昼会は夜会にさしさわりがでます。そのうえこのようなわびた小座敷に、通常の宴会か、遊興のもてなしのようにだらだらと長居するのは不作法以外の何物でもありません。
・・・利休の時代から江戸時代の終わりごろまでは露地口まで送りに出るのが決まりであったようだだからこそ立水(たちみず)が必要だったわけである。・・茶会が終わりに近づくと、客と亭主はともに余韻と残心とをもって露地にでる。
・・・江岑(こうしん)は、茶の教えとは自分で学ぼうとすることにその根本があると理解したのである。
・・・利休にとって茶席の花は、常に移ろいやすく、ほんの束の間のものでなければならなかった。・・富貴な相が見えたり、金銭花という世俗を思い起こさせる花はわび茶席に似合わぬと思われたのであった。今日でも牡丹は蕾を生けるのを約束とするのはそのためである。
・・・利休によりわび茶が深化して以来、客のもてなし方の真髄は、「心をこめる」の一語につきた。・・利休はそれに対し、「竹庵は点前を見せるために我々を招いたわけではない。ただ一服の茶を振舞おうと思って招いたのである。ただ湯がたぎっている間に一服の茶を点てようと思って、怪我、あやまちを顧みないで一心に茶を点ててもてなしてくれたのではないですか。その心に感じ入ったからこそ称賛したわけである」と言って聞かせたという。
・・・いらない点前はしてはいけないということである。・・茶の湯では、茶と湯の相応を第一とする。たとえば陰暦の十月(陽暦では十一月)に催す口切(新茶を詰めた壺の封を切り、新茶を挽いて用いる)から二月までは茶の気が強く保たれているけれど、三月後半から少しずつ気が衰え、四月になるといよいよ気が弱くなる。・・それゆえ五月の茶の気の衰えた時期に熱い湯を入れると気が抜けてしまい、色香も変わってしまうのに、南坊が釜に水を差さずに茶を点てたので利休に叱られたわけである。水をさす行為は、天候にかかわるものでないことがこれで理解できる。・・風炉の場合には沸いた湯に水を一杓入れて、湯相を穏やかにしてから茶碗に入れるのがよいというわけである。
・・・朝会・昼会・夜会ともに、茶の湯の水は明け方に汲んだものを使うのが習いです。これが茶人の心得であって、暁から夜の茶会までの水を絶やさないように用意しておきます。夜会だからといって、正午以降に汲んだ水を用いてはなりません。なぜなら、夕方から夜半までは陰の気で、水の精気が沈み毒があるからです。それに対して夜明けの水は用の気の最初の水だから、精気がわき上がっています。
・・・茶に使う水は、「井華水(せいかすい)」である午前4時から5時にかけての陽の水を汲んでおいて、朝会でも昼会でも夜会でも、それを使わなければならないというのである。
・・・茶の湯で「渡り三分に景七分」といわれるゆえんであろう。ちなみに、渡りとは飛び石を伝い歩く客に、歩きやすいように石が配されること。景とは露地入りしてから見渡せる景色の意味。・・茶会は、季節感や自然の動きをいち早く取り入れ、生かすことが大切で、それができるかどうかは亭主の功・不功しだいということになるのだろう。
・・・初期茶道の時代に茶に遠い道具として扱われていた掛物は利休による茶道の大成とともに大きく地位を転換させることになった。それが墨跡を第一とする、と説く「南坊録」の本条である。
・・・わび料理の根本は、亭主が心を込めたもてなしとして自ら膳を運ぶことで、招いた客に満足していただこうとした食事文化であるといってよかろう。
・・・表千家七代の天然宗左(1705~51)と裏千家八代の一灯宗室(1719~71)は、ともに表千家六代覚々斎(かくかくさい)原叟(げんそう)(1678~1730)の子として生まれ、千家七事式を制定するなど、千家中興として知られる大茶人である。
・・・諸芸で、綾がつく段階にある間は、まだ修行が行き着いていない証拠である。それゆえ茶の修行をしている人は、日常の生活そのものが茶になるように心がけ、茶会の場に臨んだからといって、ことさら改まった態度で接しないようにするのがよいというのである。
・・・現在とは違って利休の時代にあったは、わび茶人を任じる茶人は、何時にかかわらず、いつ人が訪ねて来てもよいように釜を掛けておくのが真骨頂であるといわれていた。それは釜の湯のたぎりと同時に、心もたぎらせておくということであった。
・・・いつも道具は自分に向けて用いるものです。置き合わせた道具も、客に見せるためのものではありません。
・・・唐物に和物の陶器などを取り混ぜて使うところに草庵茶の在り方を発見したのが珠光であった。
・・・「わび」の語を初めて取り上げたのは紹鷗であった。資料的には問題はあるが、「紹鴎わびの文」の中で、 侘ということ葉は、故人も色々に歌にも詠じけれども、ちかくは正直に慎しみ深くおごらぬさまを侘といふ、一年のうちにも十月こそ侘なれ とあるのがそれである。
・・・「山上宗二記」に「茶の湯者覚悟十躰」といわれる個所がある。それは茶の湯を志す者として心得ておかねばならないことを十ヶ条の教えとして記したものである。その十ヶ条とは客を招く際の心構えからはじまる。その中の一条に、 一、心ノ内ヨリ奇麗数寄 という心得がある。茶の湯をたしなむ者は、心の中がきれいでなければならないというものである。・・「きれい」というのは、表面にあらわれた現象から判断されるものではなく、世俗の欲望を捨てるところにその出発点があるというのである。・・ 一、万事に嗜、気遣 が必要だとも宗二は言っている。すなわち、「わび」は他人に「むさくるしさ」を感じさせないだけの気遣いが大切だと言っているのである。』

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