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2016年11月 8日 (火)

真田幸村 真田三代伝 下 (竹本友重著 逍遥堂)

やはり見事な生き方でした。この作家さんのことはこれまで知りませんでしたが、引き込まれるような読みやすい書きぶりでした。

『・・・「この九度山は・・・」と村人は言う。「付近に弘法大師の母君が暮らされていた慈尊院がございまして、大師が月に九度も会いに来られたことが名の由来となっております」
・・・幸村は彼らを心苦しくさせぬよう、「これも武略のためじゃ」と、言うのである。「体がなまれば性根もなまる。武略を練る鋭気を失わぬよう我らも汗を流さねばならぬ」
・・・昌幸はそんな幸村を頼もしく思いつつ、「古に学べ」と、幸村や家臣たちに諭し、兵書や古今の合戦記録を紐解き武略を練り上げるよう訓示し続けた。「武とは人がするものよ」と、いうのが口癖であり、いかにして人間心理を洞察し活用していくかが勝敗の分かれ目であるとこの老人は考えている。
・・・関ヶ原の戦いは、東西両軍とも「秀頼君の御為」という名分を掲げて行われたものであり、・・元々、豊臣政権は商業・流通・貿易による莫大な収益により維持されており、天下人ながら秀吉が領していた土地はわずか二百万石ほどに過ぎない。
・・・元々、正信は鷹匠として家康に仕えていた男で、三河一向一揆が起こった際には家康に敵対し、鎮圧後は出奔して松永久秀に仕えるなど異色の経歴を持つ。
・・・家康は健康というものに対して人一倍気を使い、気を使うがあまりに自らの手で薬の処方を決め調合するなど漢方医学にも精通し、美食をせず麦飯を食い、疲れが溜まれば侍女に灸を据えさせ十分な睡眠をとる。そして体がなまらぬように鷹狩を行い、心身を鍛えている。
・・・豊臣家は間もなく滅び去るだろう。だが、(それにも散り方というものがある)時流に見放された旧主に対し、せめて誰かが寄り添い、わずかにでも武辺の花を咲かせて見せねば、(一体、武人とは何であろう)と、思えてしまうのだ。
・・・「場内の最大の欠陥は、自分たちの価値基準でしか物事を図ろうとしないことだ」
・・・家中で権勢を誇っているのは、淀殿の周りにいる乳母や侍女、そして子である大野兄弟らであるが、彼らが政治と称して行うのは家中における序列の調整に過ぎず、外交・軍事の采配を執れる者はいない。
・・・『長沢聞書』では、当時48歳であった幸村の印象を、「真田左衛門は四十四、五にも見え申候。ひたひ口に二、三寸ほどの疵あと有之小兵なる人にて候」と、記している。
・・・毛利勝永は、豊前小倉城主・毛利吉成(勝信)の子である。入場当初「毛利とはあの毛利家の者か」と、いう声もあったが、かつて中国地方を制した毛利元就の家系とは無関係である。・・勝永は父と共に秀吉に仕え、長年の忠勤と軍功を賞された父が豊前小倉六万石を与えられた際、「西国の地を治めるのに都合がよかろう」と、いう秀吉の計らいで森姓を毛利姓に改めたのだ。
・・・象徴としての秀頼がすでに存在しているのに、さらにその下に大会戦を率いる器量の無い人物を置くことなど、迅速な対処が遅れ致命的な結果を招きかねず、誤った采配の下前線で戦わねばならない兵達の悲哀は計り知れない。いかにも落ち目の組織にありがちな弊害である。
・・・(戦とは生き物であり、臨機応変さが鍵を握る。凝り固まった考えと偏見を以て戦に臨めば、敵を喜ばすだけである。)
・・・要するに、家康が考える武家の棟梁の理想像は、山のように構えて少々のことにも微動だにしない姿にあるらしい。武勇・知略・政治力が備わっていればいうことはないが、そうしたものは周囲に人材がいれば補える。だが、総大将が敵味方に舐められてしまえば、どれほどの軍勢を率いようとも崩れてしまいかねない脆さがある。組織とは結局人であり、人を有機的に動かせるかどうかは棟梁の器量に左右される。
・・・寡兵で大軍を防ぐには、地の利を活かしきることです。
・・・幸村に言わせれば、大野修理の案などは戦略というより楽観的要素を組み合わせた願望に過ぎず、現実を客観視できずに自分たちの固定観念にしがみついているだけに思えてならない。
・・・元々、武田軍の築城技術に、出入り口の外側に曲輪を築き防御録を高める「馬出し」というものがある。
・・・家康が世間を相手に芝居を打つのも政治の一環であり、幕府への畏怖を感じさせることで味方を増やし敵を動揺させようとしている。
・・・家康は、「大樹」と、声をかけた。「大将の気が急いては家臣ともが必要以上に殺気立ちますぞ。ここはゆるりと天下人の戦ぶりを見せてやればよろしい」
・・・実質的な戦闘は、「冬の陣」では慶長19年(1614)11月19日からのおよそ一か月間、「夏の陣」では翌年の4月26日から5月7日まで行われた。
・・・(大魚を逸したか・・・)幸村は落胆した。兵たちは、せめて徳川重心である本田正純を狙撃すべきだと主張したが、幸村は頭を振り、「あのような小者を殺すために兵を伏せたのではない」と、語ると、城内へ撤退した。
・・・薄田兼相は城内で「橙武者」と嘲笑されることになる。酸味がきつい橙は正月飾りにしか使えないため、「見た目が立派だが役に立たない」という意味である。
・・・信玄の凄みは、徹底した情報収集にあり、状況を正確につかむまでは決して軽率に動かず、方針が決まれば一糸乱れることなく精強な軍団を操り、敵の弱点を衝いてくる。
・・・家康の功名さは、そうした圧力をかけつつ、有楽斎を通じて甘い誘いを淀殿に吹き込んだところにある。
・・・古来より講和における城割りの多くが儀礼的に済まされることが多く、濠の一部のみを埋めたり土塁の一角を崩したりする慣習が治長の念頭にもあったのだろう。さらには大阪城の外濠三方が天然の河川を利用したものでもあるため、(まさか川を埋めることなどできまい。せいぜい南方の空堀を埋め立てる程度であろう)と、思ったのかもしれない。
・・・この老人は、これまでの生い立ちの影響からか自身の肚の底を決して明かさず、命令を下す時も大まかな方針だけを述べ、そのあとは部下の裁量に任せた。これが家臣たちを育てることにも繋がったのだが、大坂の陣のあたりから彼の政略は陰謀じみたものを多分に匂わすようになり、その緻密さ故、疎漏のないよう細部にまで指示をすることが増えた。
・・・彼は結局、豊家の存続を第一に考えながらも、常にその思考が己の保身を中心にして組み立てられてしまうため、場当たり的な方針しか生み出すことができないのである。
・・・今思えば、14年にもわたる蟄居生活も、(役に立った)と、思えるようになった。世間の感覚からすれば、流刑を受けた者など社会構造の底辺に転がり落ちた存在であると思うかもしれないが、俯瞰の目で世間を眺められる環境がどれほど武略を練ることに繋がったか分からない。かつて昌幸が語ったことがある。「人は利害で動く。だが大業を成すためには、私利私欲を感じさせては人はついてこぬ。太閤はそれをよく知っていたが、最期に囚われてしまったため豊家の現状がある。大業を成し遂げる者は私心余人に触れさせぬものよ」幸村はまさにそういう男であった。
・・・どういう状況下に置かれても決してあきらめようとしない「信念」、言い換えれば「しぶとさ」や「あきらめの悪さ」を原動力とし、合理的な情勢判断と行動力を併せ持つことで、この小一族は歴史に爪痕を残すことができた。』

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