男の禅語 (平井正修著 三笠書房)
何度か取り上げている、全生庵住職の著作です。禅宗は、本来の釈尊の教えよりも、中国の思想の影響が強いように、私は感じていますが、それはそうとしても生きる上での教訓が多くあると考えています。
『我々、禅僧は、この肚をくくることを「あきらめる」と言うことがあります。これは何も断念する、投げやりになるということではなく、「明らかにする」という意味です。
・・・その瞬間、瞬間に自分がしていることに、なりきれば「無」になれるのです。
・・・言葉に重みがある人、ない人。たとえ同じことを言ったとしても、相手への伝わり方は全く異なってきます。その違いは何か。端的に言うなら、本人に迷いがあるかないかです。
・・・大切なのは、物事にどう向き合ったのか、ということ。逃げ腰だったり、手抜きをしたりせず、きちんと正面から向き合った経験があれば、その人の血肉となっていきます。そうした経験を積んだ人間は、おのずと自分を信じることができるようになるのです。
・・・禅に「雲門の関」という公案があります。夏期90日間の修行(夏安居や夏行ともいう)が終わって禅僧翠厳令参が、「私は説くべきことでない悟りのことを、いろいろな人に説いてきた。仏罰が当たって眉毛が抜け落ちたのではないだろうか。どうです、残っていますか」と尋ねたところ、保福従展禅師は、「盗みごとをしたから落ち着かないんだろう」と言い、長慶慧稜禅師は、「眉毛は抜け落ちるどころか、大いに生えている」と応じた。そして、最後に雲門禅師は一言、「関(かん)」と言った。この雲門の「ここは通さぬ」という言葉は三人の前に立ちふさがり、その後、この公案の真理を体得するため多くの僧が苦しい修行を積み重ねることになったそうです。
・・・「遺教経」の中には「八大人覚(はちだいにんがく)」と言われる、修行者が守らなければならない八つの徳目があり、「知足」はその一つ。ちなみに八大人覚は次の通りです。・少欲(欲を少なくする)」・知足(足ることを知る)・寂静(寂静を願う)・精進(精進する)・守正念(正道を念ずる)・修禅定(しゅぜんじょう 心を乱さない)・修智慧(しゅちえ 智慧を修める)・不戯論(ふけろん 無益な論争はしない)
・・・そんな名称や肩書は一時のもの、あなたの外形、表面に過ぎないはずです。あなたそのものではない。名前ですら、ただの刷り込みです。
・・・一つのことにわき目もふらず没頭しているとき、人は一心であり無心になれるのです。坐禅をするなら坐禅にお経を読むときはお経を読むことに一心=無心になる。
・・・何かあったら、目の前のことに没頭して一心になってみる。あんなにあなたを煩わせていた苦しみが、ふと消えていることに気づくでしょう。
・・・「無為」は「何もしない」という意味ではありません。ありのままを重んじ、あえて余計なことをしないということです。
・・・(山岡鉄舟)先生はさめざめと応じました。「お前にはすでに罰が当たっているのに、それがわからないか」「なんですか?」「せっかく人間に生まれていながら、犬猫と同じマネをして。わざわざ自分で自分を貶めているのがわからんか」
・・・達磨大師は答えました。「無功徳(何の功徳もありません)」「私はこれだけ尽力してきたのに、どうして功徳がないのでしょう」そう問い返した武帝に大師は答えます。「あれもした、これもしたと自負したり、恩に着せたり、褒められることを期待しているのでは、なんにもならないのです」
・・・「自分がしたことは、やっただけで終わり」となるのなら、余分な負担がなくなり、常に心を軽くして生きられるに違いありません。
・・・「『主人公」をしっかりとつかまえなさい」と言うのです。つらい、苦しいという気持ちが出てくるより前の、本当の自分自身をしっかりとつかまえなさい、と。
・・・究極のところ、本当の自分自身とは何かを突き詰めて考えると、これまでもふれたように「無」に行き着きます。いったん何もない「無」であるところの主人公を体得すると、本来はない苦しみと離別できるのです。
・・・山岡鉄舟先生は、「公案とは、石鹸のようなものだ」と言いました。汚れている手や心を公案と言う石鹸で洗い、最後は手をすすぎ、石鹸をきれいに洗い流さないといけない。何にも執着を持たず、一切をきれいさっぱりと捨て去ること、無一物に徹すること。しかしそれは至難の業です。
・・・鏡はただ、目の前にあるものを映すだけ。汚いものを映したからといって鏡自体が汚くなるわけではないし、きれいなものを映したからといって鏡がきれいになるわけではありません。私たちの心も、本来、あるがままを映しています。映ったものだけを見てみれば、それが現実だと気づくことができるのに、私たちは勝手に妄想して不安や不満、悩みを作り出しているのです。
・・・世の中には、「わからないなら、わからないでいい」というものがあるのです。この「喫茶去」の公案にしても、ただ「お茶を飲んでいきなさいよ」というだけ。そのまま受け取ればいいのです。・・お茶を飲むということは、一つの釜でわかしたお湯を、みなで分かち合う「和合」の精神を表しています。・・自立はしないといけない。でも、人間は一人では生きていけないのですから、「喫茶去」は、人と人とのふれあいの温かさを伝える言葉に思えます。
・・・何か迷ったときは、まず一回、瞬間ではいいから、自分自身の足元をピシッと見る。そうすれば、今何が足りていなくて、ゴールまでに何をすればよいのかが見えてくるはずです。
・・・この公案にはどう答えたらよいのでしょうか。一番簡単なのは、パーンと戸を開ける。戸を開けるだけでなく、自分が外に行ってぬれて帰ってくる。我が身で感じたものが現実の世界ですから、雨を実際に感じるのも一つの答えでしょう。
・・・「吹毛剣(すいもうけん)」とは、吹きかけた毛がスパッと切れるほどの切れ味を持った、人間の煩悩や妄想をも断ち切る伝説の剣です。そんなすごい剣でも磨かなかったら、切れ味が悪くなります。心も常に磨いていないと、刀と同じようにさびついていくのです。・・他人はあなたの心を磨いてはくれません。自分の心は自分でしか研げませんから、切れ味を失わないようにしたいものです。
・・・仏の心や悟りの境地は言葉では表現することができないので、お釈迦さまは花をつまんで差し出すという方法で伝えられたのです。それを見た魔訶迦葉尊者が微笑み、微笑んだということは、お釈迦様の心と一体になったということ。・・言葉や文字ですべてを伝えることはできません。物事の本質は「心」と「心」でつないでいくしかないのです。
・・・「不思善不思悪(善も思わず、悪も思わない)、すなわち善悪の一念も生じない時、汝(慧明)の本来の面目はいかなるものか」
・・・「これが正しい」と思うことは、その瞬間に「間違っているもの」を作りだすことになってしまう。そべてはそれぞれに差があって、それぞれの姿のままでいいのです。
・・・平和とは、争いのない状態です。争いという目に見えるものがないのが平和。ということは、争いがあるから平和がどういう状態なのかが感じられるのでしょう。目には見えなくても平和があるのです。大切なものはいつだって目に見えません。差別と平等、体と命、争いと平和のように互いに交わり合いながら存在しているのです。
・・・「和敬」は、みなで同じ空間を分かち合い、一緒にやっていくためには、お互いを尊敬し尊重し合う心がなければいけない、という意味です。・・「清寂」の「清」は、清らかできれいなさまを言います。人はいきなり澄んで清らかな心にはなれないので、ここで「寂」が必要になります。いったん、心を落ち着けてみる。すると、自分の心に渦巻いている好き嫌いや損得は、海に例えるなら、表面上のさざ波のようなものだと気づくのです。・・お互いに敬い合いながら、競い合っていくことは、どんな世界においても大切。健やかな人間関係をはぐくみ、何かを成し遂げるために、「和敬清寂」はふと立ち止まって自分の心を見直すことを教えてくれる言葉なのです。
・・・女性同士は、会話が割合とスムーズに進むそうですが、どうも男性同士はなかなかそれが難しいというのです。無意識のうちに相手の値踏みをしてしまう。
・・・禅語の「無位真人」は、あなたの地位や立場をなくして、何ものにもとらわれない姿が真実の人間性なのですよ、という意味です。・・地位や立場は当然、いつかはなくなります。だから、「もともとは何もない」「何もないのが本来の自分なんだ」ということを知っておかなければなりません。
・・・私たちは都合の悪いことは、つい隠そうとする傾向があります。しかし、隠してしまうと、それは弱点になってしまう。逆に、「さあ、どこを見られてもいいですよ」とすべてされけ出せたら、これほど強い状態はありません。・・すべてをあらわにすることで、よい意味で自制心が働いているのです。・・隠すところがない、弱みが一つもないのが、つまり一番強いということなのです。
・・・「直心是道場(まっすぐな心そのものが道場なのです)」・・場所というものは借り物であり、心の中に道場があると言ったのです。・・どこにいても、何をしていても、自分の心がけ次第で、徳を積むことはできる。逆にいい加減にやれば、徳を失することになるのです。・・それは、「直心」、まっすぐな正しい素直な心、乱れることのない心です。この直心で臨めばすべては修行になり、成長するためのステップになるのです。
・・・たとえ目の前にある現実が悲しい日、苦しい日でも、あるいは楽しい日、喜ばしい日でも、すべてが「日々是好日」なのです。この言葉の意味は、よく「いい日」「うまくいった日」とおもわれていますが、本来は「一瞬一瞬を積み重ねてきたその日」ということです。・・また、どんな日であれ、誰かの「好日」になっているのです。・・業務や課題に対して真摯に努力して、精一杯取り組んだのであれば、たとえうまくいかなくても、その経験は間違いなく自分の身になっています。
・・・禅では「びょうどうしん」と読みます。・・「平常心是れ道(日常の心がそのまま道です)」・・「知は是れ妄覚、不知は是れ無記(平常心を知っていると言えば妄想になる。知らないと言えば愚かなことだ)」と返しました。「平常心」自分自身の体験からつかみ取っていくべきで、「これが平常心ですよ」とは言えない。
・・・「あんたたちは、私にできないような修行を私の代わりにしてくれているから」と言葉をかけてくださいました。その瞬間に私は、「なんでじぶんだけが・・・・」という狭い気持ちで修行していたことが恥ずかしくなりました。・・自分のしている坐禅も、自分のためだけでない。こうして人のためにもなるのだと、ようやく気付くことができたのです。・・今あなたがやるべき一つのことは、世の中のすべてにつながっていきます。だからこそ、一所懸命に向き合わなければならないのです。
・・・つらくなるたびにちょっと逃げているうちは、いつまでも慣れません。たとえ苦しくても、一回度胸を決めて、やるべき「道」を選んだ方が、結局は近道になるのです。
・・・曹源一滴水はそもそもは、一滴の水が落ちてさまざまに枝分かれし、禅が栄えていったことを意味しています。・・普通に生きていたらなんと思わないことでも、朝から晩まで細かく気を配る。手を洗う、顔を洗う、皿を洗う、掃除をする、洗濯をする。どれも心配りをしていけば修行になります。・・抜きんでる人というのは、目標を持ち、目の前の業務の一つ一つに真剣に向き合って来た人です。「自分はどんな立場にいるのか」「組織のために何をすればいいのか」「どうすれば目標を達成できるのか」など、きちんと考えながらどんな作業でもおろそかにしないから、成果と信頼が得られます。
・・・とかく人からの評価は気になるものです。それが励みになるうちはいいのですが、あまり気にしすぎると本来の自分を見失ってしまいます。・・人は何かの基準にあてはめたくなるものです。しかし、評価を取り払ったところにこそ、本来の自分がいる。人間性とは評価しきれない部分なのです。
・・・「明暦歴露堂堂」---はっきりと、目の前にあるものにすべてが表れている、という意味の禅語です。坐禅は何も語らず坐っているだけですが、当然、坐っている姿勢にその人の気力、やる気、体力などが表れてきます。ただ坐っているだけでからこそ、逆に隠しようがないのです。・・一番隠ししていない例が自然界です。草木も花も、何も隠していません。・・だから私たちは、自然を見て気づかされることが多いのです。・・ミスをしたら隠すのではなく、非を認めて次にどうするか。人間関係では何を大切にするのか。たったそれだけで、堂々とした生き方という姿に表れてきます。
・・・「百尺竿頭進一歩(ひゃくしゃくかんとうしんいっぽ)」という禅語があります。「すごく高い竿の上、いわゆる悟りの極致から、もう一歩進まなくてはいけません」という意味です。
・・・「そのままでいい」ことを表した禅語が、「不風流処也風流」です。「風流でないところが、かえってまた風流であり、妙味がある。」つまり、「それはそのままで、実は風流なんだよ」という意味です。
・・・「随処作主立処皆真」(いつでも主体性を失わず、「主人公」を自覚して精一杯生きていけば、その場その場で真実を把握することができる)・・いかなる状況であろうと、主体的に一所懸命に励めば、あなたがそこにいる意義が見えてきます。
・・・「天上天下唯我独尊」・・自分自身の存在がこの世の中で一番尊い、つまりは全ての存在が尊い、という意味です。・・みんな生まれながらに尊いのだ、ということをよく示している言葉なのです。
・・・「坐水月道場」---さざ波が立っている心を落ち着け、月がきれいに映る、透き通った水のような心にしていく重要性を説いたものです。・・”無心”という心持になれば、どこでも道場になります。逆に、”無心”でなければ、たとえ修行道場で坐禅していたとしても、坐禅をしていたとは言えないのです。』
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