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2016年10月28日 (金)

真田幸村 真田三代伝 上 (竹本友重著 逍遥堂)

真田3代の歴史を簡潔に、わかりやすく書いてあると思います。

『・・修験者たちは、関所の通行自由を保証していたため、各地の情報を集めさせるのに適しており、滋野一族は彼らに加持祈祷をさせながら、諸国を巡らせた。このやり方は、後年に幸隆が作り上げる諜報部隊の原型となる。
・・・従来、室町期の守護というものは、ほとんどの場合、民政などに目を向けることなどなく、搾取のみを行う存在であったのだが、下剋上を経て伊豆一国の領主となった早雲は、真心を込めて民政を行う風変わりな人物であった。
・・・「武田に与しよう」と、幸隆は決意した。これは思い切った発想であった。何せ武田といえば滋野一族を打ち砕いた張本人なのである。実質的に、それをおこなったのは晴信の父・信虎であったとはいえ、滋野一族の武田に対する感情は穏やかであろうはずがなく、・・
「・・・わずかの間にこれほど時勢が動いている中で、旧体制の権力の幻影にすがりつき、時勢の流れに逆らっていては、彼らのような小勢力は瞬く間に滅んでしまいます」と、幸隆は訴えた。
・・・業正は幸隆の才能に目をかけ、将来のためには衰えた勢力の中で燻っているより、有望な武田に仕えるほうが良いと進めてくれるのだ。さらにそのうえで、自身がいる限りは上野の地は渡さないと武門も意地をも見せているのである。
・・・この男の非凡さは、失敗が許されない局面でありながら、焦ることなく数か月もの時間をかけて工作を続けたところにある。・・その間の彼の忍耐は相当なものであっただろうが、流寓の生活を耐え忍んでいた精神の強さが彼を支えた。
・・・軍事において大軍を速やかに移動させることは、兵力を集中させ敵の虚を衝くためには欠かせないものであり、かつては秦の始皇帝も道幅の広い軍用道路を設けている。
・・・のちに源五郎は、甲斐の名家であり、信玄の母系・大井氏の氏族である武藤家の養子となり、「武藤喜兵衛」と名乗る。
・・・(戦功者ほど慎重で、時に臆病であることを恐れぬものよ)
・・・出陣の前、幸隆は昌幸に「戦場では何が起こるか分からぬ。己の功名よりも身を挺してお館様を守れ」と声をかけた。
・・・上杉軍は合戦の際、一人に三食分を用意させておく軍律があり、火を焚く必要がなかったため察知されることはなかったといわれる。
・・・「奇策というものは種が知れてしまえば多大な危険が付きまとう。・・」
・・・武田信繁の戦死は痛かった。彼は人望が厚く、武田の副将として兄を支え続けた人物で、昌幸も尊敬していた。次男(幸村)に「信繁」と名付けたのはその影響ともいわれる。ただ、俯瞰的視野でみれば、武田としては、信濃の勢力圏を維持することができたため、戦略的勝利を得たともいえる。このことは、信玄という人物の本質を表している。彼は、局地的勝利よりも、軍事・外交・政治の総合面を駆使し、大局的勝利を得ることに重きを置く人物であった。
・・・一説によれば、この「六文銭(六連銭)」の家紋は、幸隆が武田に臣従した時期改めたものだといわれているが、元々は滋野氏が用いていた紋である。
・・・信長は自身が力をつけるまで、信玄が輝虎といった戦上手に対して、徹底して下手に出ることで摩擦を避けようとしていたようで、桶狭間の戦いのような博打を繰り返そうとせず、富国強兵政策による軍備の充実と外交・政略を駆使し、敵に勝てるだけの準備ができるまでは合戦を回避しようとしたところに、信長という人物の凄みを感じることができる。
・・・彼の妻は今川義元の娘であり、氏真は義兄弟にあたるため、武田の外交方針が今川・北条から織田・徳川ラインへと移行していくことに、「それでは信義に背きましょう」と憤りを見せたのだ。当時、後世のような信義という概念は未だ育ち切っていなかったが、おそらくこれは教養のある妻から得た宋学の影響であっただろう。
・・・「お館様の葉柄の神髄は、外交や駆け引きを駆使して敵戦力を分散させ、逆に味方敵を有利な地形に集中させ、各個撃破するところにある」
・・・後年、鬼神のような采配で徳川軍を二度も寡兵で破ったこの男の軍才は、日夜信玄という巨人に接してその思考法に触れ続け、心胆を練り上げた結果育まれたものであったのかもしれない。
・・・信長は目先の局地的勝利を得て、用意周到に準備を整えたうえでの大局的勝利を目指していたのだ。逆に、勝頼の立場上、失敗することは権力基盤が崩れることに直結するため、常に全ての合戦に勝利しようとするところがあった。このあたりの余裕の差が、今後の両者の明暗を分けることになる。
・・・信玄には必勝の信念と大胆な着想とともに、慎重かつ緻密な思考力があった。敵を侮らず徹底して情報を集め、外交・内政の準備を尽くして勝てる見込みが整ったときに初めて軍を動かした。だからこそ武田軍は連勝を重ね、諸国から恐れられる存在になったのである。
・・・戦いにおいて、戦略面での失態を戦術で補うことは難しく、昌幸は勝頼の姿をみて、改めて采配を預かる者の責任を学び取った。
・・・かつて長篠城が大軍を勝手に持ちこたえたのは、天嶮の要害であるだけでなく、結束が固かったからだ。
・・・ただ、昌幸という男の凄みは、こうした事態に陥っても冷静沈着に戦局を読み取り、己を俯瞰的視野で眺めることができるところにある。
・・・一方、物静かな幸村は、道中言葉を発することもない。年少期の彼には活発さがあったが、年を経るに従い口数が少なくなっている。後年、兄・信幸はこの弟について、「物ごと柔和忍辱にして強からず、言動少々にして怒り腹立つことなかりし」と、温和な人柄を評している。
・・・内側から湧き上がる情動をひたすら抑えながら、いつか訪れるであろうその時に備え、思考を練り上げていく作業を続けることで、彼の作戦能力と心胆は鍛えられていったのだろう。
・・・三成という人物は、卓越した行政能力を以て秀吉に重用される能吏であったが、反面その潔癖で傲慢な性格が災いし、諸将から嫌悪される存在であった。だが彼は、自身が信頼した相手に対しては、誠実な態度で接するところがあり、彼の右腕として奮戦することになる島左近(清興)や直江兼続らがそうであった。
・・・昌幸が何か問えば、即座に本質を衝いた口にする。(これは普段心胆を練っておらねばこうはいかぬ)
・・・昌幸がそれでも西側についたのは、太閤秀吉や秀頼への義理ではない。一つには領地のことがあった。
・・・西軍に裏切りが相次ぐ中、大谷隊は一人も戦線から離脱することなく、吉継の指揮の下奮戦した。このあたりに、吉継の人望と統率力が表れているといえるだろう。』

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