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2016年8月27日 (土)

だから仏教は面白い (後編) (ニー仏(魚川祐司)著 Evolving発行)

前編に引き続き、いろいろな疑問を解消してもらいました。

『ゴータマ・ブッダの仏教というのが、基本的には衆生の認知の領域を問題としているということです。衆生というのは、私たち人間も含めた感覚のある生き物たちのことです・・
・・そうした認知の構成要素に対して、それを「我(私)」として実体視することが、世界が常住だとか無常だとかいった、形而上学的な認識に繋がるのだ。
・・ブッダにとっては、この意味での「世界(世間)」、即ち、欲望を伴った凡夫の認知という意味での「世界」が、実は苦そのものでもあるんです。「世界」が苦そのものであるからこそ、この意味での「世界(ローカ)」を終わらせることになるわけです。
・・「欲望の対象を喜び、欲望の対象に耽り、欲望の対象を楽しむ」ことが、仏教的な意味における「苦」の原因そのものだからなんですね。
・・「私」という焦点があって、はじめて一つのイメージとして総合的な像を結ぶということです。経典の言葉に即していえば、認知の構成要素を「これは私のものであって、これは私の我である」という風にとらえないと、そこにイメージは出来上がらないということ。・・「私」の認知だととらえること。言い換えれば、「我執」が存在することによって、現象が「ただ現象のみ」ではなくなって、我を焦点としたイメージ(物語)を形成し、それが織り合わされて、「世界(ローカ)」というものが成立しているわけです。
・・「ゴータマ・ブッダの仏教において求められていることは、私たち現代日本人のいわゆる『考え方を変える』というようなことではなくて、そのように考えたり判断したりすることの前提条件であるところの、認知のほうを変更・転換することである」
・・私たちは生まれたときにはすでにその中に「投げ込まれて」いて、それを前提如件として考えたり判断したりしているということです。だから「解脱する」ということは、そういう意味での「事実的世界(私たちにとってのデフォルトの世界)」を乗り越えることとして、「出世間」と呼ばれるわけ。
・・本を読んで、知識を積み重ねて、それを元にいくら考えても、その思考の前提となっている本人の認知が変更されていない限り、「世界」を超出することはできないし、ゆえに少なくともゴータマ・ブッダの教説の真意義は理解できない。だから仏教徒たちは瞑想などの「修行」を実践して、凡夫(パンピー)にとっては現実であり事実であるところの「世界(ローカ)」から脱出する努力を続けてきたわけです。
・・経典のゴータマ・ブッダは、自分の法(ダンマ)は「現に証せられるもの」であり、「来て見よと示されるもの」であると言っているんですね。つまり、「とにかくこういうものだから、証拠がなくても信じなさい」という性質のものではなくて、眼前にありありと展開する明晰判明な事実として実証可能な教えである。だから、come and see、「やってきて、己の目で見て知りなさい」と、ゴータマ・ブッダはいうわけです。
・・「無記」の態度を貫いて直接には決して答えず、代わりに縁起や四諦の法を説いて、彼らを「如実知見」の認知へと導こうとするわけです。
・・仏教というのは、この戒学、定学、慧学という三つの基本的な学を修めることによって、修行者を「悟り」へと導くものだということですね。
・・集中力が上がってくると、ものがゆっくり知覚されるようになる、ということが起こります。自分自身の身体の動きが、細かく分節されて感じられたり、あるいは音楽が「解体」されて、連続したメロディとして聞こえなくなったりする。・・瞑想センターの場合は、そのゾーンの状態に24時間いることを目指しなさい、と言うんです。・・「ゾーン」に似た状態も、それ自体が目標になるというよりは、あくまで集中力を高めていく実践をしたことにより、結果として到達するものにすぎません。・・通所の認知が変更されるくらいの強烈な集中力があって初めて、仏教にいうところの「如実知見」に、私たちは近づくことができるから。・・定の集中力によって己の認知を実際に変更することが、「ありのままにものごとを見る」ための条件になるということですね。
・・凡夫の生きる現象の世界(ローカ)においては、欲望の対象に向かって常に煩悩が流れている。その流れを堰き止めるものが「気づき(sati)」であると言われています。ただ、気づきによってとりあえず「堰き止める」ことはできたとしても、それで煩悩の流れの源泉までを閉塞できるわけではありませんから、それを行うのが「智慧」である。そういくことですね。
・・mind-ful-nessということで、要するに一つ一つの行為に意識をいきわたらせることです。これがなぜ重要かと申しますと、私たちは自分が何か行為をする際に、しばしば十分に意識の注意力をはたらかせずにそれを行ってしまい、ゆえにその行為に伴っている煩悩にも多くの場合は気づかずにいるからです。もっと言えば、普通の人々は、たいてい自分が無自覚であることにすら気づいていません。・・立つときには「立つ」という現在の行為に意識を行き渡らせ、食べるときには「食べる」という現在の行為に意識を行き渡らせるということをせずに、たいていは過去や未来のことに心を奪われながら、行為自体は癖によって自動的に行ってしまうということです。
・・第21偈からの引用です。 不放逸は不死の道。放逸は死の道。不放逸の者たちは死ぬことがない。放逸の者たちは死者のごとくである。・・ダラダラ怠けないで、つとめ励むことは不死の道であり、ダラダラと怠けるのは死の道である。つとめ励んでいる者たちは死ぬことがないが、ダラダラ怠けている者たちは死んでいるのと変わりがない、といっているわけです。
・・縁生の現象に過ぎない煩悩のことを「私自身」だと思い込み、それに従って行動してしまう。「無我」ということでゴータマ・ブッダが伝えようとしたことの一つは、「そのような欲望や衝動は、単に縁によって、つまり原因や条件に従って心の中に生起してきているものでに過ぎないのであった、それを『あなた自身』だと思ってはいけませんよ」ということです。・・仏教の立場からすれば、これまで説明してきたように、縁によって生じた欲望や衝動にそのまましたがって行為することこそが、むしろ「不自由」な振る舞いであって、「己こそが己の主人」になっていない生き方である、ということになる・・」
・・なぜ気づきが煩悩の流れを「堰き止める」ことができるかというと、心に浮かんでくる煩悩・貪欲に自覚的である(気づいておく)ことによって、無意識のままに対象への習ちゃkを強めて煩悩を再生産するという私たちの「悪い癖」をとりあえず差し止めることができるからですね。
・・ゴータマ・ブッダの仏教は、本来的には「反社会」ではなくて、「脱社会」的なものなんです。
・・「初期経典」による限り、ゴータマ・ブッダの説く「解脱・涅槃」は、「ある特定の時点において起こる、決定的で明白な実存の転換」であると考えられる・・
・・禅というのは中国化された仏教として、ゴータマ・ブッダの仏教とはかなり性質の異なるものであると言われることもありますし、実際に相違点も多いのですが、同時に他の大乗諸派よりも、ゴータマ・ブッダの仏教に近いことを言っている部分も多くあります。
・・パーリ語によるいちばんシンプルな心の定義は、「対象を思念するのが心である」ということで、つまり心(citta)というのは常に対象をとるものであるとされているんですね。だから、解脱の際にも心は涅槃という対象を認識しているのだ、ということになるわけです。
ウィパッサナーというのは、観察の瞑想ですから、具体的には「内外の現象に気づき続けていること」が実践の内容になりますし、それは立っていても座っていても歩いていても寝ていても行うことが可能です。』

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