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2016年8月

2016年8月27日 (土)

だから仏教は面白い (後編) (ニー仏(魚川祐司)著 Evolving発行)

前編に引き続き、いろいろな疑問を解消してもらいました。

『ゴータマ・ブッダの仏教というのが、基本的には衆生の認知の領域を問題としているということです。衆生というのは、私たち人間も含めた感覚のある生き物たちのことです・・
・・そうした認知の構成要素に対して、それを「我(私)」として実体視することが、世界が常住だとか無常だとかいった、形而上学的な認識に繋がるのだ。
・・ブッダにとっては、この意味での「世界(世間)」、即ち、欲望を伴った凡夫の認知という意味での「世界」が、実は苦そのものでもあるんです。「世界」が苦そのものであるからこそ、この意味での「世界(ローカ)」を終わらせることになるわけです。
・・「欲望の対象を喜び、欲望の対象に耽り、欲望の対象を楽しむ」ことが、仏教的な意味における「苦」の原因そのものだからなんですね。
・・「私」という焦点があって、はじめて一つのイメージとして総合的な像を結ぶということです。経典の言葉に即していえば、認知の構成要素を「これは私のものであって、これは私の我である」という風にとらえないと、そこにイメージは出来上がらないということ。・・「私」の認知だととらえること。言い換えれば、「我執」が存在することによって、現象が「ただ現象のみ」ではなくなって、我を焦点としたイメージ(物語)を形成し、それが織り合わされて、「世界(ローカ)」というものが成立しているわけです。
・・「ゴータマ・ブッダの仏教において求められていることは、私たち現代日本人のいわゆる『考え方を変える』というようなことではなくて、そのように考えたり判断したりすることの前提条件であるところの、認知のほうを変更・転換することである」
・・私たちは生まれたときにはすでにその中に「投げ込まれて」いて、それを前提如件として考えたり判断したりしているということです。だから「解脱する」ということは、そういう意味での「事実的世界(私たちにとってのデフォルトの世界)」を乗り越えることとして、「出世間」と呼ばれるわけ。
・・本を読んで、知識を積み重ねて、それを元にいくら考えても、その思考の前提となっている本人の認知が変更されていない限り、「世界」を超出することはできないし、ゆえに少なくともゴータマ・ブッダの教説の真意義は理解できない。だから仏教徒たちは瞑想などの「修行」を実践して、凡夫(パンピー)にとっては現実であり事実であるところの「世界(ローカ)」から脱出する努力を続けてきたわけです。
・・経典のゴータマ・ブッダは、自分の法(ダンマ)は「現に証せられるもの」であり、「来て見よと示されるもの」であると言っているんですね。つまり、「とにかくこういうものだから、証拠がなくても信じなさい」という性質のものではなくて、眼前にありありと展開する明晰判明な事実として実証可能な教えである。だから、come and see、「やってきて、己の目で見て知りなさい」と、ゴータマ・ブッダはいうわけです。
・・「無記」の態度を貫いて直接には決して答えず、代わりに縁起や四諦の法を説いて、彼らを「如実知見」の認知へと導こうとするわけです。
・・仏教というのは、この戒学、定学、慧学という三つの基本的な学を修めることによって、修行者を「悟り」へと導くものだということですね。
・・集中力が上がってくると、ものがゆっくり知覚されるようになる、ということが起こります。自分自身の身体の動きが、細かく分節されて感じられたり、あるいは音楽が「解体」されて、連続したメロディとして聞こえなくなったりする。・・瞑想センターの場合は、そのゾーンの状態に24時間いることを目指しなさい、と言うんです。・・「ゾーン」に似た状態も、それ自体が目標になるというよりは、あくまで集中力を高めていく実践をしたことにより、結果として到達するものにすぎません。・・通所の認知が変更されるくらいの強烈な集中力があって初めて、仏教にいうところの「如実知見」に、私たちは近づくことができるから。・・定の集中力によって己の認知を実際に変更することが、「ありのままにものごとを見る」ための条件になるということですね。
・・凡夫の生きる現象の世界(ローカ)においては、欲望の対象に向かって常に煩悩が流れている。その流れを堰き止めるものが「気づき(sati)」であると言われています。ただ、気づきによってとりあえず「堰き止める」ことはできたとしても、それで煩悩の流れの源泉までを閉塞できるわけではありませんから、それを行うのが「智慧」である。そういくことですね。
・・mind-ful-nessということで、要するに一つ一つの行為に意識をいきわたらせることです。これがなぜ重要かと申しますと、私たちは自分が何か行為をする際に、しばしば十分に意識の注意力をはたらかせずにそれを行ってしまい、ゆえにその行為に伴っている煩悩にも多くの場合は気づかずにいるからです。もっと言えば、普通の人々は、たいてい自分が無自覚であることにすら気づいていません。・・立つときには「立つ」という現在の行為に意識を行き渡らせ、食べるときには「食べる」という現在の行為に意識を行き渡らせるということをせずに、たいていは過去や未来のことに心を奪われながら、行為自体は癖によって自動的に行ってしまうということです。
・・第21偈からの引用です。 不放逸は不死の道。放逸は死の道。不放逸の者たちは死ぬことがない。放逸の者たちは死者のごとくである。・・ダラダラ怠けないで、つとめ励むことは不死の道であり、ダラダラと怠けるのは死の道である。つとめ励んでいる者たちは死ぬことがないが、ダラダラ怠けている者たちは死んでいるのと変わりがない、といっているわけです。
・・縁生の現象に過ぎない煩悩のことを「私自身」だと思い込み、それに従って行動してしまう。「無我」ということでゴータマ・ブッダが伝えようとしたことの一つは、「そのような欲望や衝動は、単に縁によって、つまり原因や条件に従って心の中に生起してきているものでに過ぎないのであった、それを『あなた自身』だと思ってはいけませんよ」ということです。・・仏教の立場からすれば、これまで説明してきたように、縁によって生じた欲望や衝動にそのまましたがって行為することこそが、むしろ「不自由」な振る舞いであって、「己こそが己の主人」になっていない生き方である、ということになる・・」
・・なぜ気づきが煩悩の流れを「堰き止める」ことができるかというと、心に浮かんでくる煩悩・貪欲に自覚的である(気づいておく)ことによって、無意識のままに対象への習ちゃkを強めて煩悩を再生産するという私たちの「悪い癖」をとりあえず差し止めることができるからですね。
・・ゴータマ・ブッダの仏教は、本来的には「反社会」ではなくて、「脱社会」的なものなんです。
・・「初期経典」による限り、ゴータマ・ブッダの説く「解脱・涅槃」は、「ある特定の時点において起こる、決定的で明白な実存の転換」であると考えられる・・
・・禅というのは中国化された仏教として、ゴータマ・ブッダの仏教とはかなり性質の異なるものであると言われることもありますし、実際に相違点も多いのですが、同時に他の大乗諸派よりも、ゴータマ・ブッダの仏教に近いことを言っている部分も多くあります。
・・パーリ語によるいちばんシンプルな心の定義は、「対象を思念するのが心である」ということで、つまり心(citta)というのは常に対象をとるものであるとされているんですね。だから、解脱の際にも心は涅槃という対象を認識しているのだ、ということになるわけです。
ウィパッサナーというのは、観察の瞑想ですから、具体的には「内外の現象に気づき続けていること」が実践の内容になりますし、それは立っていても座っていても歩いていても寝ていても行うことが可能です。』

2016年8月22日 (月)

だから仏教は面白い! 前編 (ニー仏(魚川祐司)著 

最初は仏教について、浅い内容かと思いましたが、軽い文体でありながらかなり深い点まで解説してあり、本当に勉強になりました。他の書籍で疑問だったことも明らかになりました。

『ではブッダがなぜ「自分の悟ったことは人に喋らないでおこう」と考えたかというと、それは彼が自分の教えを「世の流れに逆らうもの(パティソータガーミン)」だと理解していたからです。
・・在家の人々にゴータマ・ブッダが説く教えというのは、基本的には「施論・戒論・生天論」といわれるものです。これは簡単に言えば、布施をして、戒を守っていれば将来いいことがあるよ、ということ。・・「善いことをすれば、来世ですごくいい感じに生まれられるよ(生天できるよ)」という話になるわけです。
・・「自由への旅」というウィパサナー瞑想の解説書があります。そこで最初に言われていることが、「瞑想はbargainではない」ということなんですね。」・・「瞑想は取引ではない」ということですね。
・・私たちが居るのは有為の世界なんですね。条件によって形成された、つまり演技によって成り立っている現象の世界に私たちは生きている。仏教の原則的な目標は、その有為の条件付けられた状態から、無為の条件付けられていない状態、即ち涅槃へと至ることです。
・・瞑想というのは、こうすればこうなる、これをやればこれを得られるといった「こうすればこうなる式のものの考え方」によって有為の世界の中を生き続けることを、少なくとも一時的に停止すること。
・・「苦」といっても教理的にはいろいろ種類がありまして、苦苦、壊苦、行苦の三苦に分かれたりしますが、その本質的な意味はなんであるか。・・最近の英訳ですと、この言葉はしばしばunsatisfactorinessと訳されます。文字通りには「不満足」という意味なりますが、これは非常に適訳だと思いますね。・・その不満足に終わりがないことですね。
・・インド思想全体の傾向ですが、彼らは多くの場合、輪廻転生の世界観を受け入れたうえで、そこから解脱することを目指します。・・インド文化圏の人たちにとって、輪廻転生というのは物語とかネタではなくて、「事実」です。つまり、私たち日本人が、自分が将来的に死ぬであろうことを経験はしてないが「事実」であると考えているのと同様に、インド文化圏の人たちは、自分がこれまで輪廻転生を繰り返してきて、そしてこれからも同様に繰り返すであろうことを「事実」であると考えている。
・・仏教では、絶対に悟れない人たちのことを「一闡提(いっせんだい icchantika)」というんですが、これは何かというと、「欲する人、欲求する人」という意味です。
・・今生で一生懸命に修行をして煩悩を滅尽すると、輪廻から解脱した「阿羅漢」になることはできるんです。---なるほど。パンビー(一般ピープル)は今生で仏になることはできないけど、阿羅漢にはなれる可能性があると。・・阿羅漢というのは、自分自身の欲望は滅している。だから己の汚れたところについては、ちゃんとわかっていて、自信が欲望の対象を喜び楽しむ傾向性を身に付けてしまっている、その根源を徹見して、そこに関する無知(無明)は滅尽している。けれども、対象世界一般のこと、解脱とは関係ないこと、例えば、「この人はどんな人だろう」とか「世界の構造はどうなっているのだろう」とかそういうことは、別に知ろうが知るまいが、そういうことに関しては、必ずしも知識を持ってはいません。しかしながら、ブッダは「一切智」をもっているから、そうした対象世界一般に関しても完璧に知っているとされているんですね。そのようない「一切智」を持っているからこそ、彼には自分以外の衆生を広く救う能力がある。自分の煩悩を滅尽しただけではなく、「一切智」をもっていて、この世界のことを全部わかっているから、今のこの世の状態がどうなっているかとか、目の前の人はどういう奴だとか、そういったことも全て分かるから、ゆえに衆生たちのことを広く適切に救うことができるわけです。加えて、彼には衆生の苦を抜きたいと強く志す「大悲」も備わっていますから、要するにブッダには衆生を広汎に救済する、動機も能力もあるわけです。
・・ゴータマ・ブッダ自身は、初期経典による限り、そういう「大乗」的な主張は特にしていないわけですよ。
・・テーラワーダの人たちなどは、大乗経典を基本的に相手にしていないというか、ノータッチなわけです。それはそういう人たちが勝手にそういう話をしているだけでしょう?という話になる。
・・様々な新しいブッダや仏教の解釈を積極的に提示していくのが大乗経典というものの性質なんですね。
・・ゴータマ・ブッダが入滅して数百年経ったところで、さまざまな人々が、「私はこれこそが仏教だと思う」「私はこれこそがブッダだと思う」という、ゴータマ・ブッダの仏教の「二次創作」を、大乗経典という形で提示していく。ただし、「二次創作」「同人誌」と言いましたけど、彼らは主観としては、「これこそが本当の、理想的なブッダ・ストーリーなんだ」というつもりで書いているわけです・・
・・「仏教」というのは、総称していうならば、そのような「オリジナル」も「同人誌」も全て含んだ、思想の維持・変化・発展の運動の総体のことです。
・・原因のよって生じるものごとについて如来はそれらの原因を述べた そしてまた、それらのものごとの滅尽なるも偉大な沙門はこのように説くのである。 これは一般に「縁生偈」と呼ばれているもの・・これはゴータマ・ブッダの教説の内容を知らない人に向けて要約したものなんですね。
・・では、「迷い」というのはどういう状態であるのかというと、わかりやすく表現するなら、それは「悪い癖がついてしまっている状態」です。「癖」という言葉を使うのは、それが「わかっちゃいるけどやめられない」ものだからですね。・・欲望の対象を喜び、欲望の対象に耽り、欲望の対象を楽しむという衆生の傾向性そのものは、もう遺伝子レベルで私たちに染みついているもの・・
・・私たちは、そのように、ものごとをありのままに見る(如実知見する)ことができずに、感覚与件(センス・データ)から「おっぱい」のような欲望の対象となる観念を作り上げて、それに執着して右往左往してしまうという「癖」をもっているんですね。
・・四諦の「諦」というのは、「真理」を意味します。・・五取蘊というのは、私たち衆生の構成要素で執着の対象となるもののことです。凡夫(パンピー)を構成している五つの要素は、要するに苦だと言っているわけですね。ということは、少なくとも凡夫にとっては、生きることはそれ自体として苦だということです。
・・では苦の原因は何なのか。「それは渇愛だ!」と明確に指摘したわけですね。・・さて、比丘たちよ、苦の滅尽の聖諦とはこれである。即ち、その渇愛を残りなく離れ滅尽し、捨て去り、放棄し、執着のないことである。・・渇愛というものを徹底的に、残りなく消滅させれば、それを原因として起こっていた苦も消えます、ということですね。
・・さて、比丘たちよ、苦の滅尽に至る道の聖諦とはこれである。それは即ち、聖なる八支の道であって、つまりは、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定である。
・・仏教の基本的な立場というのは、「無我なのに輪廻する」ではなくして、「無我だからこそ輪廻する」というもの・・
・・一生懸命に苦行して身体をいじめたりとか、あるいは一生懸命に瞑想したりすれば、「いま僕は発見できていないが、どこかに常一主宰の変わらない本当の私、実体的な私、アートマンというものがあるはずだ。だからそれを探そう。探すためにいろいろなことをしよう」というふうに頑張っていたわけです。それだゴータマ・ブッダはそういうアートマンというのは少なくとも現象の世界の中にはないよ、という話をしたわけです。
・・原因や条件が消えてなくなれば、当該の現象も消えてしまうことになる。したがって、現象は常に条件づけられた存在者でしかありえない以上、それが永遠に存在し続けるということはない。だからこそ無常(常住ではない)である。・・縁生(えんしょう)(縁によって生じたもの)であるがゆえに、無常であって常に移り変わり続けている。これがゴータマ・ブッダの基本的な認識ですね。
・・必ず無常であって、それゆえ終わりのない不満足であり続けるしかないものというのは、言い換えればコントロールできないものですよね。だから「無我」。
・・私たち自身も含めた現象の世界の中にあるものは、そのどの部分を取り出しても無常であり、苦であるのだから、そうした諸要素のどこかに常一主宰の実体我を発見するということは絶対にありえない。「無我」ということでゴータマ・ブッダが語っているのは、そうしたことだということ・・
・・経典のテクストにおいてはっきりと、常見は邪険であるし、断見も邪険であると、明言されているわけですからね。---「死んだら無になる」と考えるのは、少なくとも仏教的には明白に誤りだということですね。
・・変わらない「私自身」というものは存在しないけれども、無常であり苦であるものとして、常に流動変化を続けているところの、眼耳鼻舌身意/色声香味触法の認知のまとまりというものは、人それぞれに存在します。・・そうした眼耳鼻舌身意/色声香味触法の認知の要素のどこを探しても、そこに固定的な実体というものは存在しない。「核」になっている実体はないわけです。
・・業というのは、行為であると同時に作用でもあるのですが、それをまとめて、「後に結果をもたらすはたらき」というふうにとらえておいてもいいと思います。---なるほど。「やったら終わり」になるのではなくて、残されたポテンシャルが後に必ず結果をもたらすのが「業」なんですね。
・・固定的な実体は存在していなくて、ただ条件によって形成された現象が、ひたすら継起を続けているのが現実である。だからこそ、輪廻というプロセスが生起し続けてしまうのだ。これが仏教の考え方ですね。
・・そのプロセスは「個体」と呼ばれる現象の諸要素の集合体に、「死」が訪れても止まることはない。なぜなら、積み重ねられてきた業の潜勢力が、そこで雲散霧消するということはあり得ませんから。貯めこまれてきた業の潜在的なエネルギーは、また次の「個体」において、結果を発現させずには済まない。ゆえに、「死んだらそれで終わり」(断滅論)というのは、仏教の内在的な論理からすれば、むしろ不自然な考え方になるわけです。
・・中部のある経典では、次のように言われています。 衆生とは業を自らのものとし、業の相続者であり、業を母体とし、業を親族として、業を拠りどころとするものである。
・・起こっているのは業を条件とした現象の継起だけなのであって、そこで何か固定的な実体(我)が核となって持続しているということはありません。「後に結果をもたらすはたらき」である業が、実際に結果として現象を引き起こし、それがまたさらなる業の条件となって、次に新しい結果を生む。その繰り返しがひたすら継起し続けているという、そのプロセスのことを「輪廻」と言っているんですね。ですから、そこに「何が」と問われるような、「主体」となるものはないわけです。だから「無我」。
・・ウ・ジョーティカ師の「自由への旅」には、輪廻について以下のように述べられています。 輪廻とは、精神的と物理的のプロセスのことです。それが輪廻と呼ばれるのです。ある人が、一つの生から別の生へと移るという、物語のことではありません・・・・・。本当の輪廻とは、本当の廻り続けることというのは、この精神的と物質的のプロセスが、ずっと続いていくことを言うのです。それが輪廻と呼ばれるのです。
・・サンサーラ(輪廻)というのは、精神的と物質的の現象がひたすら先行する条件、あるいは業によってずっと継起を続けていくということ。
・・サンサーラというのは、いま・この瞬間の私たちが変化を続けながら生成消滅を繰り返しているという、そのプロセス全体のことを指してそのように言うわけです。・・いわゆる「悟り」、「解脱」というのは、そのようなナーマ、ルーパが生成消滅しているサンサーラのプロセスそのものを、ありのままに知り見る(如実知見する)ことによって生じるんですね。

2016年8月12日 (金)

国のために死ねるか 自衛隊「特殊部隊」創設者の思想と行動 (伊藤祐靖著 文春新書)

最近テレビでもよく見かける特殊作戦部隊出身の元自衛官の著作です。共感できるところと、やや視野が狭いのではないかと感じられるところがありました。

『「・・予科練って言うと、立派なところだと思っている人が多いけど、元不良の巣みたいなもんで、”よたれん”って呼ばれてたんだ」と言っていたことを思い出した。
・・大切なことは、参考にしたものをいかに自分が必要とする技術と融合させていくかだ。そして、融合するときに忘れてならないのは、我々は、ある特殊な環境下でその技術を発揮しなければならないということである。
・・私は自分の身の振り方を考えた。船乗りとして防衛省で働くより、これまでのように各国のコネクションを活用し、必要ならば世界のどこにでも行って技術と情報を持ち帰り、それを必要とする者や学ぼうとする者に伝える方が、私という人間の使い道として余程国のためになると思った。だから、退職した。
・・我々は「できない」と簡単に口にしてしまうが、実は、できないのではなくて、できるのである。多くの場合は単にそこまでしてやりたくないとか、そんなリスクを負うならやらないという話なのである。
・・リアリズムを追求しながら、より効果的でよりリスクの少ない訓練方法を常に模索しなければならない。』

2016年8月11日 (木)

総理 (山口敬之著 幻冬舎)

著者は元TBSの記者ですが、バランスのとれた見方をしていると感じました。消費税増税延期の際の、安倍総理と麻生副総理の関係を特に知りたかったのですが、詳しく書かれていて腑に落ちました。また、現在進行形の政治の様々な動きのヒントも散見されました。

『事実に基づかない論評は、批判も称賛も説得力を持たない。
「・・確かに自民党でやる調査は甘めに出ることが多いんだよね。特に参議院だと、衆議院ほど詰めた調査ができないし」・・「・・僕たちがこの手の調査で重視するのは、個別の選挙区の積み上げもさることながら、「全体の傾向」なんだよね。矢印が上向きか下向きか」
・・麻生は平素、同僚や後輩の政治家に敬語は使わず、親しみを込めて砕けたべらんめぇ口調で話す。しかし安倍が総理・総裁になった瞬間、麻生は安倍にきちんとした敬語を使うようになった。首相という孤独な仕事に携わる安倍への、麻生流の敬意の表現だった。
・・2008年9月に自らも総理となった麻生は、総理大臣とは「どす黒い孤独」を背負わなければならない職業だと証言する。本当に大切なことを誰にも相談できず、ひとたび決断したら全責任を一人で負わなければならないからだという。
・・宰相とは、たとえ民衆に糾弾されようとも、国家のために正しい判断をしなければならないということを、吉田茂は小学生の麻生太郎に切々と語ったのである。
・・この頃自民党内では、複数の派閥領袖クラスから中堅若手議員まで辞任論がくすぶり続けていた。なかでも安倍下ろしで中心的な役割を担っていたのが、森や中川秀直といった安倍の出身派閥である清話会の幹部クラスだったのである。
「簡単なんだよ。親分を絶対に裏切らない奴だけを選ぶ。そうでなければ、ねじれという難局を乗り切れるはずはない。ここに書いた名前は、ボスを裏切らない奴ばかりだ。最初の組閣で派閥の論理に妥協してしまったことを、安倍さんは今とても後悔しているはずだ」
・・一口に政治記者といっても、大きく二つのタイプに分かれる。「政局記者」と「政策記者」である。特定の政治家や情報ソースと強い信頼関係を結び、独自の情報をいち早くつかむタイプが政策記者と呼ばれるのに対して、政策記者は安全保障、社会保障、税制といった個別の政策課題を足掛かりに、これにかかわる政治家・官僚・学者などを幅広く取材し知識と人脈を広げていく。
・・私なりの取材作法を理解してくれる政治家もいないわけではなかった。そうした政治家は、折に触れて先方から電話をかけてきてくれる。そして政治家が連結をしてくれるタイミングや形式そのものが、彼らの狙いや置かれた状況を如実に移していて、それが貴重な情報となることもあった。
・・2002年に官邸が現在の新しい建物に移ると、官邸と記者クラブの間での取り決めが変わった。総理が一日に2回、記者のぶら下がり取材に応じる代わりに、官邸内を移動する総理への「声かけ」が原則禁止となったのである。
・・菅の人事は大鉈を振るうばかりではない。場合によっては俊敏に先回りして役人の抵抗を未然に防ぐ。典型的な例は2015年の政策投資銀行の社長人事だ。
・・「官庁の中の官庁」といわれる財務省の情報収集能力は、永田町の老練な政治家ですら震え上がらせる。実際、旧大蔵省と対立して最終的に失脚していった政治家は枚挙に暇がない。その財務省をねじ伏せるために、菅は自ら構築したネットワークを利用して事前に情報を集め、周到に準備をして機先を制したのである。
・・第1次安倍政権になくて第2次安倍政権にあるのは、安倍を本気で支えようというベテラン議員たちの存在だ。中でも、重要な役割を果たしているのが、麻生と高村である。
・・私はこの二人の緊張が最高潮に達した瞬間を、2014年の衆議院解散直前、オーストラリアのブリスベンで目撃した。それは別の見方をすれば、消費税増税見送りをめぐる安倍官邸を財務省の全面対決であった。
・・財務省は平素から、主要紙の経済部記者や経済評論家と頻繁に接触し、意見交換と称して情報提供を行っている。記者サイドは財務省のラインに沿った記事を書くことで、情報を一手に握る財務省幹部の「覚え」がめでたくなり、その後の仕事がやりやすくなる。こうして財務省の立場を補強する言論が巷に出回りやすくなっているのである。財務省にとって経済系メディアのコントロールは、世論を誘導する重要なツールである。
・・私は20年以上中央省庁を取材しているが、霞が関には恐ろしく頭のいい官僚や奇想天外なアイディアマンがたくさんいる。国益を守るために人知れず命を削って必死に交渉をしている外交官も、数は多くないが確かにいるのである。
・・一拍おいた麻生は、様々な思いを飲み込んで安倍にこう伝えた。「いろいろ言いたいことはありますが、総理が決めたというのならこれ以上私から申し上げることはありません」財務大臣としての立場を超えて、首相の決断を尊重してくれた麻生に対し、安倍は深々と頭を下げた。・・仁義とマナーをモットーとする麻生ならではの潔さだった。
・・意見が食い違っているからこそ一回の直接会談ですべてを決めたい。安倍の勝負勘であり、麻生に対するマナーだった。
「安倍さんは心身ともに本当に強くなったね。健康を回復したんじゃなくて、別人に生まれ変わったみたいだよ」
「憲法改正、教育基本法改正、拉致問題、人権擁護法案、自民党にはあなたの力が必要なのです。それに比べたら、郵政民営化など小さな問題ではありませんか」安倍にとってこの言い回しは、国家観を共有し、本当に信頼している政治家への最大の敬いの表現であるとともに、NOと言わせない殺し文句でもあった。
・・その関係は、「お友達」でも「不協和音」でもない、永田町の陳腐な形容詞が全く当てはまらないものだった。そして二人の政治家が意見の相違を乗り越えていく際に不可欠なのが、「国家観」であることを痛感した。
・・麻生はこう証言する「安保改定をしたいという岸の申し出に対して、吉田は即座に「あれは当時はしょうがなかったが、変えなければならない代物だ」と言っていた。はたから見ると、二人の関係は、政敵というよりは盟友に近かったと思う」
・・私は当時、アメリカ政府の複数の担当者が鳩山のことを「Loopy(頭がおかしい)」「Idiot(間抜け)」と吐き捨てるように言うのを何度も聞いた。
・・岸は引退後この訪米について、次のように語っている。「友好親善の日米関係を築くためには、占領時代の滓(かす)みたいなものが両国間に残っていてはいかん。これを一切なくして日米を対等の地位に置く必要がある」 岸は訪米に先立ってアジア各国を歴訪し、太平洋戦争の戦禍を乗り越えアジアの盟主として歩んでいく決意を内外に示した。
・・いくつかのオバマの個人的エピソードを分析した結果、オバマの性格について「打算的」「自己中心的」「ドライ(冷たい)」「ディフェンシブ(身構えている)」という結論が導き出されたという。あらゆることに論理的説明を求め、自分が不利になりかねない情報開示を避けるあまり、打ち解けた雑談や人間的なやり取りも避ける傾向がある。こうした「とっつきにくい」オバマの個性が、長く日米関係に影を落とすことになる。
・・アメリカ政府は、通信を根こそぎ収集してデータセンターに保管し、後から検索できるようにしていることも明らかになった。暗号化されていない電話やメールはすべて傍受されている前提で行動しなければならない時代が来たのだ。
・・この共同声明の署名欄には、日米に加えて英豪韓など11カ国が名前を連ねているが、ドイツは含まれていない。後になって日本側のある外交関係者は、アメリカ側から「ドイツにも開示していない情報を、秘密保護の法整備が不完全な日本に開示した」と恩を着せられたという。「こちらがいくら依頼しても、客観的な証拠を示すまで日本は信じてくれなかった」というアメリカ側の失望の表現ともいえた。実際この後一定の間、日米関係はぎくしゃくした。その最たるものが安倍の靖国参拝をめぐるアメリカの反応だった。
・・安倍が2013年12月26日に靖国神社を参拝すると、アメリカ側は「あれだけ行くなと忠告したのに無視された」と受け止めた。それがアメリカ国務省がコメントの中の「disappointed(失望)」という言葉につながっていく。
・・肩書をまとった表向きの交渉とは別に、日頃の個人的な付き合いが外交の舞台では重要なカギを握ることが多い。
・・もっとも安倍の心をとらえたのは、岸の次のフレーズだったという。「日本が、世界の自由主義国と連携しているのも、民主主義の原則と理想を確信しているからであります。このフレーズには、「アメリカとの対等な関係を構築する」という岸の強い決意が込められていた。
・・宏池会は、岸田と古賀という新旧領袖の全面対決といっていい展開になっていった。岸田はそれまで毛並みのよさかっらパワーゲームから縁遠い印象を持たれがちだったが、この経緯を通じて自民党内では「岸田はリーダーとして一皮むけた」と評価する者が少なからずいた。
・・「小沢も亀井も政局観が衰えた」と揶揄する声もあった。しかし、それだけだろうか。「耳障りのいい政策で国民を釣る」という旧来の日本政治家の迎合手法が、有権者に通じなくなったのではないか。逆に言えば、「たとえ国民に不人気な法案でも必要と判断すれば果敢に実行する」という姿勢が、大衆迎合の言説を凌駕したのではないか。・・2009年の政権交代前夜から、民主党政権時代に受けた国民の落胆は、耳障りの言い政策そのものへの懐疑心へと変質した。日本の有権者は度重なる失望から学習したのだ。
・・支持率という観点から、安倍の政権運営を理解するキーワードとして、「ポリティカル・アセット」という表現がある。これはアメリカの政治学で使われる用語で、直訳すれば「政治的資産」、わかりやすくいうなら「総理の貯金」とでも表現すべきものだ。政権発足直後で支持率の高いうちは「政治的資産」が大きいから、思い切った政策を打ち出せる。逆に支持率が低迷している内閣は「政治的資産」が乏しいから、議論の分かれる法案を通すことはできないといわれる。
・・北岡伸一は、2015年11月に訪米した際、昨今の国民意識の変化について、次のように語っていた。「安倍は自らの祖父岸伸介以来めったに見られなくなった「媚びない政治」を再興しようとしているのではないか。これは安倍独りの力で達成されるものではない。これまで裏切りを続けてきた、「媚びる政治家」への国民の本質的な嫌悪が安倍への静かな追い風となっていることは間違いない」
・・「総理大臣になることや総理大臣であり続けることが重要なのではなく、総理大臣になって何をなすかが重要なんです」
・・「Yes or No」ではなく、「How」を問われる局面が急増しつつある。
・・「アベ政治を許さない」と主張する人の話を聞いてみても、アベもアベ政治も知らないケースが多い。イデオロギーや好悪に基づいて感情的にアベを嫌い、印象論でレッテルを張り戦略的にアベを貶めようとする人がほとんどだ。
・・政治家と直に接触する政治記者には、有権者に対して政治家の人格・品性・能力に関する客観的情報を提供することが期待される。
・・現代では、インターネットが記者をかつての特権的地位から引きずり降ろそうとしている。・・もはや、生の政治家に触れられるという点こそ、政治記者が有する最後の特権と言っても過言ではない。それでも政治家に肉薄しない政治記者は、震災現場に行かずに震災の記事を書く社会部記者と変わらない。
・・ジャーナリズムの一線を越えてしまいそうな局面で、本当のジャーナリストが自らの支えとするのは、「事実に殉ずる」という内なる覚悟だ。だからこそ、記者という仕事には矜持が求められる。』

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