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2016年7月 3日 (日)

熊撃ち (吉村昭著 筑摩eブックス)

以前にアップした「熊嵐」が生まれるきっかけとなった短編集です。熊撃ち猟師の厳しい猟の様子、羆の恐ろしさを改めて思い知ることができました。同時に、そのような恐ろしく、憎らしい熊も、命を持った生き物なのだと感じました。

『羆をしとめる折りの条件は、千差万別で同一のものはない。気に臨んでそれに応ずる勘と決断力を持たなければ、羆をたおすことはできない。
・・用心深い熊は一度身を憩わせた場所には再び近づかない。そうした習性を知っている朝次郎は、ためらうことなくその場へ歩み寄っていった。
・・熊は、驚くほど賢い動物で、人間の頭脳をうわまわる知恵をはたらせて自らの棲家を猟師の目からかくそうとする。
・・雄は、母熊から乳離れすると常に単独で行動する。
・・熊は、穴の中で冬ごもりしているとは言っても絶えず穴の中で動いている。羆の穴は、あぐらをかいて坐っても天井まで30cmほどの余裕があり、そこには熊笹が厚く敷かれている。熊はその中でかなり動き回るらしく、穴の中で仕留めた熊の体毛は、普通15,6cmも長いのに2cmほどにすりきれている。穴の中には埃が積もり、熊は冬の間も時折穴から外に出るらしく、穴の周囲は中から排出される塵埃で黒く汚れているのが常だ。
・・ただ一つ与三吉は、父から厳重に言われて守っていることがあった。それは、山中で天候の変化にあったときに決して動いてはならぬということであった。「山というものは、天候が良い時に歩くことができる場所だ。もしも天候が悪化したら、山は人間の歩ける場所ではなくなる。さからわずに動かぬようにするのだ」と父は言った。
・・熊は、人間の子供がするような遊びを楽しんでいた。高いところへ登っていっては、尻をつけて雪の斜面をすべり下り、また斜面を登るとすべり下りる。そうしたことを飽きることなく繰り返していた。
・・かれは、ライフルというものがあまり好きではなかった。速射には効力があるが、近い距離で発射するとその射出力が強いため弾丸は羆の体を貫通し、死にまでは至らせない。つまり羆を危険な手負い熊にさせてしまうおそれがある。
・・かれの結論は、羆は動物中最も賢くそして獰猛な野獣だということだった。羆は人に追われていることを知ると、樹木と蔓のからみあった場所や人間の歩くことの困難な傾斜を選んで歩き、機をみて人を襲ってくる。樹木の上でネグラを作り休息をつくっている羆をみたこともある。
・・羆は、人間や家畜を餌としてねらうが共食いも激しいようだった。・・また雌争いに勝った羆が、相手の雄羆と同時に雌羆さえも殺して食べてしまった光景を見たこともある。羆は、生きているものならなんでも食う肉食獣なのだ。
・・熊は、用心深い動物だ。人の声がすれば、身の危険を感じていち早く逃げる。熊が人間に危害をあたえるのは、突然出逢った時で熊はその鋭い爪で人間の体を引き裂く。しかし、それも熊の恐怖心がそうした行為をとらせるだけのことで、本質的には人を恐れている。
・・熊を倒すのには、熊の習性をよく知った者のみでやらねばならない。余りにも素人が多かったことが、二人の男に傷を負わせることになったのだ、と思った。人々は、熊が三十貫もある大熊だと口々に言い合っていた。
・・その話を聞いた熊撃ちの名手小山田菊次郎だけは、政一の話は事実にちがいない、と言った。羆はたしかに獰猛な野獣ではあるが、その反面臆病な性格をもっているともいう。小山田の話によると、銃声におどろいて糞をたれ流しながら逃げていった大きな羆がいたという。
・・「羆だって必死だ。必死なものを斃すのにはこちらもそれだけの心構えがいる。熊とりにゆく時は、銃も弾丸も点検するのが常識だ。政一もおれの息子も点検を怠った」と、低い声で言った。
・・熊撃ちには豊かな知識と経験が必要で、一人前の熊撃ちになるためには謙虚な気持ちで先輩の猟師から教えてもらうことが先決である。
・・山には土、岩、植物があるだけではなく、多くの動物たちが山とともに生きていることも強く感じるようになった。羆は、山という大自然の懐に抱かれ棲息して耕平も自分が山と密接な関係を持ち始めていることを意識した。
・・ころげまわるのは上機嫌な折りにみせる羆の習性で、羆は満腹感にひたっているのだろ。
・・羆と一度も対決したことのない俊一にそのような役割を課すことはできない。息子の仇を討ちたいという強い願いを持ってはいるが、羆は、猪や狸と本質的に異なった獰猛な野獣なのだ。
・・その時、かれは、ふいに絶叫を耳にした。それは、激しい恐怖にかられた人間の叫び声であった。かえrは、岩陰から俊一が走り出すのをみた。俊一は、林の中に叫び声をあげながら駆け込んでゆく。
・・熊撃ちの猟師の中には誇張した話をする人が多いらしいが、私が会った人たちの中には、そのような人はいなかった。必要以上に自らを律すること厳しく、自慢話などはしない。それがいかにも猟師らしく、その人たちと会った後の気分は爽快だった。
・・羆は月の輪熊とは比較にならぬほど大きく、5百キロを越すものさえある。襲われた数頭の牛の写真を見たことがあるが、最初に牛の頭を殴って殺したらしく、牛の首が一様に直角に折れ曲がっているのを眼にし、その力が強大であることを知った。内地の人間には、熊は愛らしく思えるのだろうが、熊は恐ろしい猛獣なのだ。』

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