武士道の逆襲 (菅野覚明著 講談社現代新書)
これまで「武士道」について疑問に感じていたことを明らかにしてくれました。ただし、軍人勅諭などについての考察はかなり浅いと感じました。
『はっきりいえば、今日流布している武士道論の大半は、明治武士道の断片や焼き直しである。それらは、武士の武士らしさを追究した本来の武士道とは異なり、国家や国民性(明治武士道では、しばしば、「武士道」と「大和魂」が同一視される)を問うところの、近代思想の一つなのである。
・・用例数だけから見れば、「武士道」は明治時代の言葉なのである。その点からすれば、「武士道」は、明治人が「武士」の名を借りて作った新しい日本精神主義のことであって、近代以前の武士たち自身の思想とは関係がない、と言う言い方も一応は成り立つであろう。
・・「武士道」と言う言葉が使われ始めるのは、およそ江戸j代の初めころのことである。
・・武士道ももちろん、ある種の道徳を含み持っている。だがそれは、一般人の道徳とは大きく異なる道徳である。平和の民にはおよそ想像を超えた異様な道徳。それが、武士道の道徳なのである。
・・戦国乱世の戦闘者の思想「武士道」に対して、太平の世が新たに生み出した武士の思想。それが、儒教的な「士道」なのである。
・・「死狂ひ」とは、戦国乱世の戦闘者の精神そのものであり、常朝が理想と仰ぐ鍋島歴代最強の主君、鍋島直茂のお墨付きの言葉である。
・・鎌倉の材木座海岸から、新田義貞軍と鎌倉幕府軍の戦いの戦死者と考えられる、多数の人骨が発掘されたのは、有名な話である。そうして、そのうち、相当数の図外国に顔の皮を剥いだ際にできたとみられる削り傷があったという。山本博文はこれを、「敗戦の中で大将の首を敵に確認させないため、従者が自害した主人の顔の皮を全て剥いだ」ものと推定している。
・・その発生以来、徳川の泰平に至る五百年以上の間、武士なるものの基本イメージは、とにもかくにも、「鬼のやうなる」ものであったといってよい。
・・武士道の根源は、本当の実力とは何かという問いになる。自己の実力だけが、自分の存在をささえる武士の世界にあっては、この問いはまさに自己の生命を懸けた問いであった。
・・求めているのは説明ではなく、事実である。説明に命はあずけられぬ。自らと一族の存亡を懸けられるのは、ただ一つ、事実だけだ。これが、「長武者」の思想であり、さらには武士道全般の判断基準でもある。
・・武士の実力とは何か。それは、自己の持っているものすべての力である。腕力、武芸はいうのおよばず、知識、才覚、身体能力、財産、家族、肩書はじめ、容貌、性格、気質から、はては運勢まで、およそ自分に属するあらゆるものが、他を制する力として使われるならば、それこそがその人の実力である。要するに、自分のすべてを力に換算したものを、実力と呼ぶのだ。
・・自分の身や妻子にひきずられては、おくれをとってしまう。物を恐れぬというのは、身を思わず妻子を思わないことをいうのだ。
・・武士の世界のバランスは、過不及を削った適度としての中庸のことではなく、一人の文物が過激な両極端を矛盾なく体現するところの中庸なのである。両極端を足して二で割った常識ではなく、両極端をそのまま包み込む、いわば両極端を超えたところにある常識なのだ。
・・合戦の場では、どんなに大事なこと、複雑なことでも端的に口頭で伝達せねばならない。いちいち公式文書をつくったり、解説をつけたりしている場合ではない。あいまいなこと、裏表のはっきりしないこと(「うろんたる事」は、武士の武士たることが最終的に試される合戦の場では一切通用しない。
・・武辺・情け・慈悲は、いわゆる徳川家の三引付(家憲)とよばれるものであるが、この「御代々の引付、三つの物」が一つでも欠ければ、お家は成り立たないと忠教はいう。
・・「現在の名利」に生きた武士たちは、自己を貫き通すため、自己の所領や妻子を守るため、あるいはこの私がこの人と頼んだ主君のために、戦い、死んでいった。しかし、士道論の立場は、こういういわば「私の義理」(荻生徂徠「政談」巻之四)に死ぬことを正当なものとは認めない。武士の刀は、人の道を正し、守るためのものであって討ち死にもまた道のため、公のために死ぬことでなければならないのだ。武士は、正義・不義を正し分かつ存在であり(義)、主従関係は上下秩序の道徳(忠)である。武士の刀は、武辺ではなく、一つの徳目(勇)なのだ。
・・今日なお一般に広く流布している、「義のために死ぬ」武士のイメージは、むしろ「孟子」の大丈夫のような儒教的求道者のそれなのであり、余五将軍平維茂や大久保彦左衛門忠教に本来の姿をみる本書の武士道イメージとは相当なずれがあると言わざるを得ない。
・・黙々と主君をとりつつっみ、ことあればさりげなく前へ出て討ち死にする。あるいは、主君の何気ない一言を聞いて腹を切る。為政者・役人としての武士像とは対極にあるこうした家来こそが、戦国乱世の「頼もしき家来」の流れをくむものなのである。
・・根本は、あくまでも「人斬らんと」するところにある。よく磨き立てて刃をつけ、いつでも抜けるようにしておくこと。これが「脇指心」の基本である。しかし、その人を切る心構えは、通常は表に出してはいけないと弾正は言う。重く冷たい刃、すなわち人を切るという意志はさやのうちに隠されていなければならないというのである。
・・日頃公儀などをいくら無難に務めていようとも、「即座の働」ができなければ何の意味もない。生きて恥をさらすよりは、腹を切るほうがまだましだ。これというのも、「武士とは何としたるものやら、夢にも存せず、うかうかと日を暮らし罰と云物」だと常朝はいう。
・・命を捨てるというのは、死地に向かって積極的に踏み込んでいけるように、自らの心身を習慣づけておくことなのだ。常朝の考えは、そういうことである。
・・心身のあらゆる能力が武器として働く合戦においては、言葉もまた第一義的にはぶきでなくてはならない。戦闘者たる武士の言葉に求められるのは、したがって、何よりもまず武器としての威力であり精度であった。たとえば、言葉は簡潔・明瞭に、かつ大きな声で発せられねばならない。合戦の場では命令はすべて口頭で発せられる。だから、武士の物言いは、普段から「少しもうろんたる事」がないようにせねばならない。一発で決まる要を得た文句は、それ自体優れた武勇である。
・・一生とは、ある意味で些事の連続である。人の一生が重いものであるとすれば、それは些事の積み重なった重みであろう。・・死の覚悟とは、そこであらわになる些事の重さを先取りすることである。そして、死の覚悟によって先取りされた些事の重さを、生きている今ここの一瞬一瞬の立ち居振る舞いにおいて意識的に感じ取れること。それこそが、「武士のたしなみ」と呼ばれるものに他ならないのである。』
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