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2016年5月 6日 (金)

真釈 般若心経 (宮坂宥洪著 角川ソフィア文庫)

真言宗のお坊さんが書かれたもので、専門的で難しい部分も多いのですが、サンスクリット原典をもとに解釈されたものなので、なるほど、と思える部分も多々ありました。

『この経典は中国の明代の小説「西遊記」で有名な唐の三蔵法師玄奘(602~664)がインドからサンスクリット原典を持ち帰って漢訳したものです。・・「般若心経」の原型はインドにおいて3世紀ころには成立していたであろうと推測されます。

・・13世紀初頭までにインド仏教は、インドに侵入したイスラム教徒によって滅ぼされてしまいました。無数の経典や論書を生み出したナーランダーやオーダンタプリーやビクラマシラーといったインド仏教の大寺院に所蔵されていたおびただしい経典類はことごとく焼き払われてしまったのです。・・「般若心経」に関しては、なんと日本はサンスクリット原典の宝庫なのです。
・・とりあえず今は、原典には尾題というかたちでタイトルが示されている、と考えて話を進めていきましょう。・・ここで注意すべきは、原典の尾題には「仏説」も「魔訶」もなく、なんと「経」という語すらもないということです。・・「仏説魔訶」とは「魔訶」は流布本として広まる段階で付け加えられた語だったのです。・・一般に聖人の語録を「経」といいます。この漢字は、慣用的に呉音で「きょう」と読めば仏教の典籍(釈尊の教えの記録)をさし、漢音で「けい」と読めば中国の儒学の典籍をさします。
・・「般若」と音写された「プラジュニャー」の意味は「智慧」です。・・「波羅蜜多」と音写された「パーラミター」の意味は「完成」です。・・以上の二語を合わせた「ブラジュニャー・パーラミター」は、とりあえず「智慧の完成」と訳すことができるでしょう。「智慧の彼岸に到ること」と訳すことも可能です。・・「般若波羅蜜多心」とは、「智慧の完成の心(または精髄)」という意味である、と結論付けることに何の問題もないように思われるかもしれません。・・ところが、そうではないのです。最大の問題は、そのように語義解釈をしてしまうと、「般若心経
」本文が伝える内容とかみ合わなくなってしまうのです。
・・釈尊が語るべきことを釈尊の意をくんで観自在菩薩が舎利子に向かって説く、というのが「般若心経」の中心場面となっていたわけです。・・観自在菩薩が行った深遠な般若波羅蜜多の修行とは、いったいどんな修行だったのか。これを明確にしておきましょう。それは「羯諦、羯諦・・・」のマントラを誦えることなのです。マントラを静かに、あるいは心の中で何度も繰り返して誦える修行を念誦法(サンスクリットで「ジャバ」といいます。その結果が、「五蘊は皆空なりと照見して、一切の苦厄を度せり」ということなのです。・・「般若波羅蜜多」の修行とは、マントラを誦えること以外にはありえません。
・・この「尾題」は、「般若心経」全体のタイトルなのではなく、「羯諦、羯諦・・」の句を受けて「これば般若波羅蜜多のマントラである」と訳すべき文なのです。この最終句までが、観自在菩薩の台詞と解すべきでしょう。
・・サンスクリットの合成語を解釈する厳密な方法によりますと、これは「智慧という完成」が正しいのです。そもそも智慧自体が完成されたものですから、それを完成させるということは意味を成しません。・・そうしますと、般若波羅蜜多の修行とは、般若(智慧)の完成を目指す修行ではなく、般若そのものに立脚した修行ということになります。
・・「般若波羅蜜多心」とは、経典の最後の「羯諦、羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提、娑婆賀」のマントラをさします。したがって、「般若心経」の経題は「般若波羅蜜多のマントラを説いて経」というのが正解です。
・・この経典の開幕のシーンは瞑想する釈尊のお姿です。釈尊の瞑想に感応して観自在菩薩が修行を完成した、というところからドラマが展開します。・・インド仏教の伝統的な瞑想の仕方には、シャマタ(止)とヴィバシュヤナー(観)という二つがあります。・・シュヤナー(止観)は、インド仏教におけるもっともオーソドックスな瞑想実践の方法でした。今でもタイやミャンマーなどの南方仏教では極めて重視されている修行法です。シャマタというのは、心を静めることです。背筋を伸ばして、肩の力を抜き、深い呼吸をこころがける。これ以外になんの特別な努力もしない。これがシャマタの実践です。・・ヴァイパシュヤナーの原義は観察です。何を観察するかというと、仏陀の示した法、すなわち仏法を観察するのです。これを観法とも言います。・・仏教において見るべきものは、仏陀の示した法、すなわち仏法にほかなりません。「般若心経」においても、法(ただし、法は複数なので常に「諸法」といいます)をどう見るかということが重要な課題となっています。すなわち、観自在菩薩が諸法をどのように観察したかということが、まさに「般若心経」の中心場面になっているのです。
・・数珠は本来、マントラを数えるための道具なのです。数珠は仏教が興る以前から、マントラを繰り返して誦際にその回数を数えるための道具としてバラモン教で用いられていたものでした。・・マントラの念誦とは、文字通りに「念じて誦する」ことですから、念ずる内容を瞑想しながらマントラを繰り返して誦するわけです。
・・「般若心経」においては、実は般若波羅蜜多そのものが本尊なのです。・・私たちにとって寺院に仏像が安置されているのはごく当たり前のことですが、実はこれは世界の宗教の中で異例のことなのです。世界の多くの宗教では、ユダヤ教やキリスト教やイスラム教にしても、あるいは日本の神道でも、神を人間の姿に造形化してはいけないことになっていて、いわゆる偶像崇拝を禁止しています。
・・遥か未来性に出現する仏陀を目指し、仏陀の智慧を追求し、仏陀のように利他の精神を重んじ、慈悲を心がけようとする、そんな菩薩としての自覚をもって生きようとした人々が現れてきたのです。仏陀の智慧と慈悲の精神を重んじる新しい仏教、それが大乗仏教です。大乗仏教の出現により、伝承を遵守するだけの部派仏教は、一段と低い小乗仏教と呼ばれるようになりました。・・さて、大乗仏教の先駆をなした経典が、般若波羅蜜多経です。・・・「羯諦、羯諦・・・」のマントラは、仏母としての般若波羅蜜多に対する祈りの言葉だったのです。
・・観自在菩薩が般若波羅蜜多の修行を実践し、そのマントラを説き示すという、この経典の場面設定こそが、「般若心経」の際立った特徴なのです。・・結局「般若心経」はマントラ念誦法の指南書というべき性格の経典なのです。
・・人間の目は・・動いているものには敏感に反応するけれども、動かないものには鈍感で、そのままでは見えないので、動かないものを見るためには目のほうを激しく動かさなければならない。動かない活字を見るときなど、一秒間に百回近くの微振動を目のほうでしてくれているから見えるのだそうです。その動きで、目に映ったものを脳で識別し、そのうえで総合し、判断しているのです。私たちは目に映っているものがその通りに見えて、その通りにモノがあると思いがちですが、実は、目が見ているのではなく、心が見ているのでした。
・・自分とは何だろうか。自分を自分たらしめているものは何だろうか。それを突き詰めていくと、「体がある」「感覚がある」「イメージを持つ」「深層意識がある」「判断をする」、この五つがある。この五つが自分を自分たらしめている根拠だということを、まず知りなさいということです。この五つが「五蘊」です。・・言い換えれば、自分という存在は五蘊なのだ、ということです。・・体は自分そのものではなく、自分のいわば所有物なのです。体は自分を自分たらしめている根拠には違いありませんが、どうやら自分そのものと考えるのは無理のようです。感覚も同様です。・・表層意識としてのイメージや深層意識や判断も同様です。これらは「自分のもの」ということはできても、それ自体は自分ではありません。そうしますと、五蘊は自分の根拠だとは言えても、五蘊そのものは自分でない。つまり、自分は五蘊ではない、ということになりはしませんか。・・五蘊を別にして自分はやはりどこにもいそうにありません。でも、五蘊は自分ではない。・・不思議なことに、自分はどこにも見当たらないのです。・・自分を探求していくと自分はいなくなってしまいました。このことをどのように考えればよいのでしょうか。実はこの時点で無我の瞑想は完了するのです。・・五蘊は五取蘊(ごしゅうんともいいます。煩悩や執着(取)を生み出す条件でもあるからです。それゆえに五蘊自体は日常レベルにおける自己の総体に違いありません。しかし、それがそうだと知ること、すなわち「五蘊あり」と観察することは、もはや日常レベルを超えていることなのです。・・「無我」は何ら日常的な教訓のたぐいのものではないのです。むしろ真に自己を確立しえた人がさらにその上のレベルに至って見ることのできる高度な洞察というべきものなのです。
・・自分は存在しない、存在するのは五蘊だけである、と見極めるのが最初の段階。次に自分が存在するのではないように、五蘊も存在しない、と見極めるのが第二の段階。このような構造になっていることができます。・・「般若心経」は、徹頭徹尾、瞑想の指南書です。「このように観よ」と指示し、そのために念誦すべきマントラを指示した経典なのです。
・・私たちは病気や怪我で苦しむこともありますし、日常の生活でもいろいろと悩み苦しみます。このような明白な苦痛・苦悩のことを、仏教では「苦苦」(苦の苦)といいます。・・どんなに楽しく思えることでも本質的には苦なのです。このような苦を「壊苦(えく)」(変容の苦)といいます。また、楽しく思えることでも、特に苦でも楽でもないことでも、つぶさに振り返ってみると、すべては無常であって生滅変化を免れることはできません。あらゆるものが移り変わっていくことを見て感じる苦を「行苦」といいます。これらは苦苦・壊苦・行苦の三苦といわれ、結局、この世にないものはない、ということで「一切皆苦」というのです。・・「苦」の原語「ドゥッカ」は「思いのままにならないこと」、すなわち「不如意」が原意です。・・仏教が「一切苦」を説くのは、このような現実の認識が大切だということなのです。
・・この四つのゆかりの場所は、そのままインドの四大仏蹟としても、今でも多くの巡礼者の訪れる聖地となっています。それぞれ誕生の地ルンピニー、成道の地ブッダガヤー、初転法輪の地サールナート、涅槃の地クシナガラがそうです。
・・インドでは古くから重要なことは三度繰り返して言うという習慣があったのです。
・・「空」と似た語に「無」があります。この二つはよく混同されがちですが、厳密には違います。・・無いのは容器ではなくて水です。インド人は、このことを「容器には水の無がある」と表現します。もし容器に水があれば容器は「水の場所」です。ないと、容器は「水の無の場所」です。「無の場所」が「空」なのです。・・「自性空」とは、それ自体を欠いている、ということです。つまり、五蘊は五蘊自体がない、すなわち、五蘊そのものがない、ということを言っているのでして、何かがからっぽということではないのです。「色即是空」における「空」も同じです。色はからっぽだということではなく、要は単純に、色はない、ということです。
・・だれでも自分自身のうちにもっと見晴らしの良い上層階があるにもかかわらず、私たちはそれに気づかず世間にあって悩み、苦しみから逃れるすべを知りません。しかし、自分自身の内なる高次の観点に到れば、あらゆる苦悩から解放されるのだ、ということを「般若心経」は伝えようとしているのです。
・・仏教が説いている無我の教えというのは、日常的な教訓ではありえません。むしろ自己を真に確立しえた人が、さらにその上に至って得られる高度な洞察なのです。・・そこに至って、自己は五蘊が仮に和合したものに過ぎないと観察します。自分なるものはどこにもない。つまり、ここでようやく、無我という真相を覚るのです。じつはそれはまだ小乗の段階ですが、舎利子はすでにこの段階に達しています。
・・仏教用語で「色」といえば、・・「姿かたちあるもの」のことです。・・受・想・行・識は、・・自分自身の根拠として、それぞれ「感覚がある」「イメージを持つ」「深層意識がある」「判断をする」と観察された項目にあたります。・・「行」ですが、・・いろいろなイメージを総合して集めて意識を意味出す作用、という意味になります。さて、そうしますと、おおざっぱに言えば、「知を主体とした形成作用」というのが、色受想行識の五蘊の総体であり、それが「自己」の正体であると結論付けても良いかと思われます。
・・この語(ダルマ)の原意は、「保持されるもの」です。「ダルマ」に多様な意味があるといっても、この原意からかけ離れたものは一つもありません。
・・一見非常識に見える「自分はない」という無我説は、単に自分はあるかないかを問うて、思弁的にないということもできる、というようなものではなく、世間のレベルを踏まえたうえで、それを超えた観点に導こうとする瞑想の指南なのです。
・・仏典を総称して大蔵経といいますが、蔵とは仏典を集大成したもののことです。経蔵(経典類)と律蔵(戒律類)と論蔵(論書類)の三つを合わせて三蔵といいます。
・・ここで(五比丘篇)で、色受想行識の五蘊は無常であり、苦であるから厭うべきものである、ということがきっぱりと述べられています。五蘊は苦の原因というのではなく、苦そのものであるといわれていることにご注意ください。
・・かつて人は自我の檻に閉じ込められていました。常識的には自我なくして、いかなる日常生活も送ることはできません。しかし、それはあらゆる苦しみが生まれる我欲の巣でもあります。釈尊はその檻の虚構を見破ることによって、無我という開放的な次元のあることを示してくれたのです。その鍵となる言葉がダルマでした。釈尊はダルマが生じ、かつまた滅す、その次第を観よといったのです。しかし、アビダルマ論師たちは、釈尊が示したダルマを重んじるあまりダルマを永遠に存在するものと考えるようになってしまったのです。・・やがてついに、ダルマの本質的なありようを示す決定的な一語を大乗仏教とは編み出します。それが「空」という言葉でした。「空」は、ほかでもなく「ダルマの解体」のために導入された言葉だったのです。
・・観自在菩薩の観点においては、そうした永遠なものはない、そもそも、いかなるものもないので、生じるとか滅すということもない、ということなのです。
・・もろもろのダルマは三階の小乗レベルのフロアにはあるのです。ある、というより、二回の世間のレベルを超えて三階のフロアにおいてダルマは観察されるのです。・・観自在菩薩は階下のすべてのフロアを通過して、つまり一つ一つ卒業して四階に至ったのです。この上位のフロアにおいては、いかなるダルマもない、どのようなダルマがないかということを示そう、というのが本段における伝授内容となっているのです。
・・「諦」という漢字は一般には「あきらめる」と読み、「仕方がないと思いきる、断念する」といった意味で使われますが、仏教用語として「諦」はそのような意味では用いられません。・・現在の学者はほぼ例外なくこれを「真理」と訳しています。
・・「般若心経」が否定しているのは、あくまでもダルマの実在性、それだけなのです。
・・四階のフロアは到達点です。到達点でありますが、このフロアに至って完了、ということではなく、このフロアで瞑想のプロセスを実践することが、「般若波羅蜜多の修行」なのです。観自在菩薩はその修行をして見極めたことを、舎利子に伝授したのでした。
・・「心に罫礙なし」とは、心に何の妨げもないという意味ですが、妨げとなるものとは、もろもろのダルマのことにほかなりません。四階のフロアにおいては、いかなるダルマもないのでダルマが妨げになることはないのです。・・結局、四階のフロアにおいては、心を妨げるものもなければ、妨げられるもの(心)もないということになるのです。
・・「般若心経」は「心の大切さ」を説く経などでは全然なくて、むしろその反対に、心というようなものはないのだ、ないということが観察できるレベルのフロアがあるのだ、ということを説いている、そんなそれこそ恐るべき経典なのです。
・・「涅槃」という語には、現代の日本の学者が考えているような「煩悩の」「燃え盛る火の」「吹き消された」「消滅した」といった意味はありません。これは「覆いのない」状態、ただそのことを指す語です。いかなる覆いもない、なんら妨げとなるものもない、もはやそこには心と呼ぶものすらない、自在なる「観」のみの、まったく開放された境地に菩薩はいる、ということが、ここで観自在菩薩によって告げられたのでした。
・・仏が仏であるゆえんは、ひとえに般若波羅蜜多によるものだということを述べていて、同じく「般若波羅蜜多による」という言葉を用いながらも、菩薩の境地をたたえた前の段とは力点の置き所が違っているわけです。
・・マントラとは常に祈りの言葉を指します。それは一種の呪文と言えるでしょう。・・インド人が何の断りもなくマントラについて語るときは、いつでもそれは「ヴェーダ」聖典の中の一節を指しています。「ヴェーダ」こそ、インド人にとって神々から授かった言葉であり、神々に捧げる言葉であり、神々を動かす力のある言葉でもありました。・・仏教のマントラは神々を動かして日常の願望を達成するための、そんな従来の単なる呪文ではありませんでした。自己を探求する高度な修行体系の中で活用され、智慧と慈悲を実践する菩薩の拠り所として尊重され、広く普及していったのでした。・・いかなる儀礼にしても修行にしても、周到な準備をしたうえで始められる、特定の、きわめて緊張した場面で誦られる聖なる音韻が、マントラです。それが何編も、時として何十万遍も繰り返し誦られることによって修行者の人格を調和的に揺さぶり、より高次の体験へと向かわせる「祈りの言葉」なのです。
・・観自在菩薩が「師」の役割を果たして、般若波羅蜜多の修行の成果を、「弟子」たる舎利子にくまなく伝授するというプロセスを経て、最後にマントラ伝授が行われるという、この形でなければ、「般若心経」はマントラを示す経典たりえなかったのです。
・・そもそもマントラは伝達のための言語ではなく、マントラを誦える修行者の体験にのみ深くかかわるものなので、いかなるマントラも、ごくそのものは他愛もなく、時として拍子抜けするほど、いたって単純です。
・・母よ、母よ、般若波羅蜜多なる母よ、どうかさとりをもたらしたまえ---。このマントラの全文の意味はおおそこのようなものでしょう。』

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