エリートの集まった参謀本部作戦課ですらこの程度であったのか、と思い、明治維新を乗り越えて明治の日本を支えた軍人たちとの差の大きさを痛感しました。
『起案当時の参謀本部、陸軍省の全般的空気は、大体において対米英戦争以外に方法はないであろうとの結論に達していた。昭和16年初夏のころまではむしろ、慎重論が大勢を占め、日米交渉の成果に大きな期待をかけた状態であった。その後この交渉が次第に暗礁に乗り上げたため、燃料欠乏の見通しなどの関係から、南方作戦以外に日本の活路は見いだせないという意見に変わっていったのである。しからば作戦の見通し如何ということになったであるが、(1)国力、戦力すなわち物的総合力からみて、米英に対し勝つという確信は持ちえない。(2)日本は支那事変遂行中であり、しかも北方の脅威は絶えず存在する。その上新たに米英を敵にすることには大きな不安がある。(3)南方作戦は即海洋作戦であり、ほとんど海軍に依存することが多く、陸軍独自としてはなんら処置するすべもない。(4)米本土を直接攻撃する手段がない。したがってアメリカを積極的に幸福に導く決め手がない、等の問題があって、到底、勝算ありとの結論は出せなかった。しかし、a ドイツが欧州で優勢であり、世界情勢全般としては、わが方に不利であるとは思えない。ドイツは対ソ作戦終了後は、あるいは英本国を屈服させることができるかもしれない。少なくとも欧州で戦争が続く限り、英国としては、極東方面にさほど大きな関心を払えないであろう。 b 南方物資さえ取得できれば、我が国の自活と戦力の維持は有望であり、大持久戦の遂行は可能である。 c 海軍が真珠湾作戦を発案し、これならばやれるだろうという空気に変わっている。 d 勝利の決め手は見つからないが、大持久戦ともなれば、世界情勢の変転とも関連して、あるいは英国が脱落するかもしれない、頑張った方が勝つのだ。問題は大持久戦に耐え抜くことだ。というようなことで、持久戦略論に落ち着いた。
・・従って、日本としては積極的な勝負の決め手はなくても、大持久圏を堅持し、反攻してくる米英軍を随所に攻撃撃滅して、敵戦力の減耗と、繊維の喪失をはかればよいとの結論に達した。 要するに、座してじり貧を待つより、進んで活路を見出すべきだ。そしてその活路とは南方資源地帯であり、対日封鎖された当時としては武力をもって進路を拓く以外に策案はないという奉答資料である。しかし、既述のように、当初から見通しに甘さがあり、妥当性を欠いた点もあって、遺憾に堪えない次第である。・・最大の見通しの違算は、わが連合艦隊のミッドウェイ海戦の大敗北であった。これによりわが方は太平洋の制海、制空権を喪失して、爾後における大持久参戦計画が根底から覆ってしまったのである。
・・・日本の最も苦慮するところは、アメリカを自主的に屈服させる手段の持ち合わせがなかったことである。作戦手段としても米本国に対する致命的攻略の方策がなかったのである。かかるが故にこの戦争の結末は、米国が継戦意志を意志を喪失することに求めようとした。その第一の方策は、日本が東亜と南西太平洋において長期不敗の態勢を確立し、自存自衛を全うするかたわら、来攻する米軍部隊を随所に攻略撃滅し、その戦力を減耗させることである。次に第二の策案としては、英、支等を各国に屈服脱落せしめ、米の孤立をはかることである。
東條の退陣に対しては、陸軍省、参謀本部を通じ、当然の措置であり、むしろ遅きに失したとの印象を与えた。彼は総理の重責にありながら、陸軍大臣を兼務し、しかも戦局極めて窮迫した事態におよんで自ら望んで参謀総長までも兼務するに至った。その結果一刻を争う大本営命令あるいは参謀総長指示事項等の決裁を受けるため、幕僚がいかに苦慮したか、想像を絶するものがあった。
ドイツの無条件降伏と、大東亜戦局の急迫は、作戦課参謀一同に徹底的衝撃を与えた。無言のうちに全員が等しく感じたことは、戦争に対する勝利の希望は完全に消滅したということである。そして、いかなる形式によって戦争が終結するであろうか、また、日本国および日本人の将来はどうなるであろうかという不安に襲われた。もとより自己一身の生死は問題外である。若手参謀の大部分は、かくなるうえは最後の一兵に至るまで戦い抜くだけだ、日本軍に降伏はない、死中に活を求めるのだとの観念に徹していた。
旧軍時代は、統帥権が独立しており、陸軍参謀総長および海軍軍令部総長は、それぞれ統帥事項に関しては天皇に直接上奏し、決裁を受けていた。また戦時特設される大本営には、総理、外相等は含まれておらず、僅かに連絡会議の形式によって政治と軍事の調整を図っていた。したがって、軍の持つ権限は絶大なものがあり、ややもすると、軍の独善に走る傾向もなしとしなかった。』