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2015年10月

2015年10月26日 (月)

仏陀が教えた「業(カルマ)」の真実 (アルボムッレ・スマナサーラ著 )

これまで知りたかったことの多くについて書いてありました。すべてを理解したわけではなく、これからも何度も読み返してみたいと思います。

『・・業という概念は、そもそも仏教の世界で精密に研究されてきました。仏教の開祖であるお釈迦様(釈迦牟尼仏陀)は、この分野のエキスパートだったといわれています。仏教では、業を「意思を持ってなされた善悪の結果を出す行為」と定義しています。ですから、前世とか過去世とかに限らず、私たちはいまここで意思をもってしている行い、考えること、しゃべること、体を使って何かをすることも、すべて「業(カルマ)」ということになります。
仏教でいう「業(カルマ)」は、キリスト教の流れでは「神」になります。
ブッダは「考えても終わらないもの」、つまり「考えてはいけない四つの古都」を示します。その一つに業が含まれるのです。・・つまり考えてはいけない四つのこととは、「ブッダの境地」「禅定」「業」「世間」なのです。・・「世間」というのは、現在の一般的な「世間」とは少し言葉の意味合いが違っていて、「生命」「宇宙」と同義です。・・考えてもきりがなく、すごく時間が無駄になりますから、お釈迦様は「考えないでください」とおっしゃっているのです。なぜ、お釈迦様は三番目に業について考えてはいけないとおっしゃったのでしょうか?それは簡単です。業というのは、もう過去のことだからです。過去というのは人間には考えきれない項目なのです。
私たちの命は、業で作られているのです。「命の材料は業である」という意味でもあります。・・肉体だけではなくて、我々の心も感情も気持ちも、全身、すべて業で作られています。・・「業は命」に続いてのポイントは、「業は相続するもの」ということです。・・正確に言えば、いわゆる「生かされているエネルギー」「生きるエネルギー」です。
その人が善いものを相続していると、今の生き方はそれほど関係なく、一応幸せで生きていられます。逆に、たいしたものを相続していないと、頑張っても「たいしたことないなあ」という結果になります。この業の相続の兼ね合いがあるため、世の中で悪人がかならず負けくじを引いて、善人がかならず勝ちくじそ引くというふうにはならないのです。・・世間一般で、「運命」「定め」「カルマ」などの概念がよく語られるのは、生まれ持った業のエネルギーに、それなりに気づいているからです。
仏教から言えば、業(カルマ)は起源なのです。起源、つまりorijin(オリジン)です。これは難しいポイントになります。・・生命を創ったのは業です。業が初めて声明を誕生させるのです。・・仏教に言わせれば、神という超越した存在が創造するのではないのです。何より仏教には絶対的な「神」という概念はまったくありません。・・真理を語る仏教は、業という理解しにくいエネルギーがどんどん生命を生み出すといいます。創造者というのは、業のことです。
業は親族です。生まれてきた人は親族によって守られ育てられます。そして、死ぬまで絆は切れません。・・・生まれて・生きて・死ぬ、そのメインプログラム三つを、業がやっているのです。
業は頼りです。「助けてくれ」というならば、業に頼むしかないのです。・・人は、もう本当に業に頼っていて、業から解放されて自由に生きることは不可能です。
業が生命に差をつけます。・・差をつけるのは業です。生命は本来平等ですが、決して同一にはなりません。すべての生命は業が生んで作りますから、生命は平等です。しかし、同一、イコールにはならないのです。
どうやって輪廻転生するのか、そのメカニズムなどの理解はひじょうに難しいのです。とにかく、われわれは無私なる過去から輪廻転生していますから、量的に言えば、皆ほぼ同じ量の悪業も善業も背負っていると推測した方がいいのです。・・きれいな円は描いていない、激しい観覧車のようです。みんなが同じ軌道上でぐるぐる回っているのです。回っている最中に、ふと横を見た時、無智な人に差別意識が生まれるのです。一方業を気にする人は、皆平等だと思って自分を戒めるのです。一般人が世の中を見て差別するのに対し、業を気にする人は声明を差別せず、どんな生命に対しても「ああ、こんにちは」という態度で接します。業の教えは、「一切の生命は平等である。しかし、生命には個性があるので同一にはならない」というメッセージです。
仏教は因縁説です。業説ではありません。お釈迦様は因縁を語られます。そして、因縁の一部が業なのです。ほんのちょっとの一部です。
死なせるプログラムの場合のように、「業が理由の場合、どうしようもない」ということはたしかにあるのですが、業は、絶対的な権力者ではありません。そうとう人生を管理しますが、業自身にも「因果法則に沿って機能しなくてはいけない」という憲法があります。また、有効期限もあって、期限が過ぎたら結果を出せなくなります。業も無常です。因果法則の一部です。
「業(カルマ)は五つの自然法則のうちの一つである」と論じられています。・・「①自然、②種子、③業、④法、⑤心という五つの法則(決定性)がある」という説明です・・・
業ですべてが決まっているわけではないのです。個人が意志という舵を操作しなくてはいけないのです。
業は、業だけではたらくわけではなく、意志も環境も関係します。ですから、私たちは業を気にする必要はないのです。・・私たちが忘れてはいけないのは、行為の業なのです。・・やるべきことは、結果が出たあとの行為に気を付けることです。次に、どのように医師という舵を操作して前に進むのか、ということです。・・いつでも皆さんの頭の中に、「では、どうしましょう」という質問を入れておいてください。過去の業は無視する、放っておくことにするのです。過去ではなく、つねに「今、こうなっちゃったから、どうしましょう」という、たったそれだけに集中します。個人個人がそれをつねに考えて行動すれば、ものごとはものすごくうまくいくのです。
「意思によって新たな行為をすることが業である」というのが、業の正しいとらえ方だと思います。・・微塵も悩んだらだめなのです。なぜなら、悩むことは行為です。美しい行いではありません。悪行為です。人が死んだら悲しむでしょう。あれも行為です。しかし、悪行為です。・・つまり、どんな不幸も我々の意志次第で、幸福の起爆剤にすることができます。もちろん、逆もできます。
幸福か不幸かということを気にすると、人生は暗くなります。世間でいう幸福か不幸化は、人間にとってあまり関係ないのです。「私は幸福です」と思ったら、傲慢になって悪行為になります。「私は不幸だ」と思ったら、怒りで落ち込んで暗くなって悪行為になります。ですから、そうではなくて、「次、どうしましょうか」ということで、次、次、次へと意志をもって良い行為をすることです。人生はそれで結果として幸福になります。
行為とは感覚の変化なのです。私が何か行為をして苦しみの感覚を引き起こしたら、それは悪行為だといいます。なぜなら、悪結果になるからです。
金額で決まるものではなく、寄付した時の気持ちで決まるのです。また、他の生命にどの程度の幸福、楽、喜び、安心感を与えたのかで、結果は設定されます。
私たちの髪の毛一本までが全部業なのです。もう、どうしようもないのです。しかも、私たちは生きるとき、自分で何とかできるのは意志だけなのです。
判断するときには、何か参考にするものが必要です。この参考にするものが、たいていは「感情」なのです。「気持ち」ですね。・・感情と言えば、結局は貪瞋痴(とんじんち)です。貪瞋痴の衝動で起こす行為は、悪結果をもたらす業になります。気持ちに流されるのではなく、気持ちを抑えようと、制御しようとしたことだけが禅行為になります。貪瞋痴を制御するために行う行為のみが善業になります。すごく微妙なポイントです。貪瞋痴に従うのではなく、貪瞋痴をちょっとコントロールしようとすることで善行為になります。
もう怒り、憎しみはさようなら、何があっても怒らない、悩まない、憎まないと決めるのです。いつでもニコッと笑って生きてみることにすると結構悪業が下がっていってしまいます。
「慈」友情という意味で、「仲良くしましょう」とうい気持ちに近い感情です。あらゆる生命の幸せを願う慈しみの感情です。 「悲」見返りを求めず、「困っている人を助けたい」と思う感情です。・・「喜」嫉妬の反対の心で、人の成功をまるでわがことのようにして喜べる感情です。・・「捨」あらゆる事柄をすべて平等に見つめる冷静な感情です。すべての生命は平等であると理解できる能力です。・・慈悲喜捨の念でいきてみると、よほどのものでない限り、過去の悪業が現れるチャンスを失います。悪業には出番がなくなるのです。
悪業の果報から身を守る方法はまだあります。妄想をやめることです。妄想を制御する実践は、最上の善行為です。「妄想する」というのは、感情をかき回すということです。とんでもない悪なのです。そして、妄想をストップさせよう、ストップしようとする力は、ものすごくパワーがあるのです。ですから最上の善行為です。
理性は善です。理性が現れたら、生きる道は悪から離れて善の流れに入るのです。我々は貪瞋痴で生きているから、悪の道を生きているのです。
支持業、生まれた生命の命をサポートして、支えてあげる業です。生まれを司った業をサポートする、別の業です。
妨害業。生きている間、その生命に邪魔をする、妨害をする業のことです。人生は頑張ったからと言ってうまくいくはずがないのです。様々な妨害もあるのです。
業を正しく理解できるのは、正覚者であるお釈迦様だけです。他の人々には、業という法則があるのは発見できても、何業によって何が起きたのかと、明確にいうことはできません。・・一般人は、決しての人の業を判断してはいけません。正しく判断できる、ということはありえないのです。
「生まれてきた人々は、善行為を進んで行うべきだ悪行為を断言的にやめるべきだ」という戒めのために、業の法則が説かれているのです。一般の方々には、その理解で十分です。業についてややこしく考え込まない方が無難です。
人々にできるのは、身を守るために頑張ることです。自分の古都ばかり心配しないで、他の人々の幸福も考えて行動するならば、大変立派な生き方です。
われわれ皆が無量の業を背負っていますが、条件がそろわないので、結果を出さずに種のままでいるのです。結果を出すチャンスに出会うことなく、消える業もあるのです。生きているうえでは、過去の悪業が実る環境を避けて、善業が実る環境を作るようにすればいいのではないかと思います。
身体がちょっとどうにかなっても心には本当は関係ないのですが、心はすごく臆病で、身体にムチャクチャ依存するのです。そんな、ムチャクチャ依存する愚かな心が身体を管理するのですから身体もろくなことがありません。・・ふつうは、肉体がいろいろ壊れたり怪我をしたりしてもだいたいすぐ治ります。肉体は業の法則だけではなくて、種の法則によっても管理されていますから、壊れても何とかなります。肉体の種子の法則にまかせておけば治療しなくても治るのです。・・慣れると「あ、別に驚くことじゃないや」という気分になります。落ち着くのです。そこでやっと回復方向にいく。心と身体はそういう関係なのです。
写真に限らず、その趣味のやり方次第で、善業にも悪業にもなります。趣味を頑張るのは構わないのですがそれで何を表現したい思っているのか、が大事です。
大事なのは、「仕事そのものが人々を助けることである」というところなのです。ですから、皆さま方が真面目に仕事をしないと、世の中は成り立たないのです。・・私たち誰もがするべきことは、この質問に挙げられて様な仕事ではなく、「日々、よりよい人間になること」なのです。我々は生まれてから死ぬまで生きていなければなりません。ですから、なによりもより良い人間になることが一生の仕事なのです。
人生と仕事とは別にあります。良い人間になることは、どんな仕事を選んでもできると思います。
脳科学の研究でも「自我は脳のカラクリで作られる錯覚である」ということははっきりしている。脳が実在しない過去のデータと、現在と、将来の推測をまとめて判断するために、自我という概念をつくっているのです。自我という錯覚がさまざまな恐ろしい問題をつくって脳を破壊するのです。怒り、落ち込み、悲しみ、世界の戦争に至るまで、自我の錯覚が引き起こしているのです。
身体も心も無常だから、刻々と変わり続けるのです。どうせ必ず変わるのだから、計画的に変えましょう、と仏教が言うのです。自分というのはただの言葉で、実在するわけではない。自分という言葉を作ったのは脳の働きなのです。脳にはもともと自我の錯覚があるから、言葉を作る時も「私」というコンセプトが入るのです。「私」という概念がないと言葉が作れないのです。数学言語、科学言語は「私」なしに作れますが、言語の根元にあるのは「私」という錯覚なのです。・・勉強するだけで身体と心が変化します。変わって変わり続けて別のものになる。
輪廻とは、魂が引っ越しをするわけではないのです。すべて滝のように変化するのです。我々は身体と心を使って様々な行為をします。その行為によって次の結果が変わるのです。物質は地球からもらったものだから持っていけない。生命が死ぬとき、心は物質とは別法則で流れます。その心が次に変化すると、以前の肉体とは別の物質を捕まえす。心が物質を取り込んで新しい身体を作るのです。それが転生です。・・人間でいる間は、人間社会の情報で心身を錬成します。死ぬときは、ここで学んだことはすべて捨てて、次の生を送らないといけない。次に生まれる生命次元のことを一から学ぶのです。・・仏教は心だけ成長させる方法を教えているのです。肉体の成長ではなく、心をパワフルにする方法です。
他人の運命について、生き方について、批判的なこと、差別的なことを考えるのは仏教的ではないのです。・・無数の因、無数の縁によって変わり方、方向性が定められるのです。業はその無数の因のなかの一つです。区別できないだろうと思います。
得たもので満足すること。それが業から身を守る方法です。眼耳鼻舌身も業です。生まれつき足が一方短いならそれで一生苦労しないといけない。肉体から感じる感覚についても業が管理しています。身体がそれほど強くない人であっても、身体を良いことに使うことで業が調整されてコンディションが良くなる場合があるのです。効き目がないのは、目と耳です。もらった能力を管理できないのです。・・業論には、「責任をもって生きなさい。たくさん良いことをしなさい」という道徳的な意味がある。』

2015年10月14日 (水)

新聞記事から(【正論】科学の力とノーベル賞ラッシュ 動物行動学研究家、エッセイスト・竹内久美子  27.10.14 産経新聞)

政府の予算編成を、長期的視点から行えなければ、杞憂では終わらないでしょう。文部科学省だけでなく、財務省にも自覚してもらいたいものです。

先ごろ、2015年ノーベル医学・生理学賞に、北里大学特別栄誉教授の大村智氏、同じく物理学賞に、東京大学宇宙線研究所教授の梶田隆章氏の受賞が決定。2日続けての日本人の受賞に誰もが胸躍り、勇気づけられた。

 ノーベル賞の科学部門については1949年の湯川秀樹氏(物理学賞)から始まり、87年の利根川進氏(医学・生理学賞)まで、約40年を要して5人が受賞している。しかしその次の受賞者である白川英樹氏(化学賞)の2000年からは状況が一変。たった15年で16人という怒濤(どとう)の受賞ラッシュが続いている。この件についてもわれわれは大いなる勇気をもらっている。

 そして今回の2人の受賞では、これまでとは違う流れを私は感じ、科学の研究のために本当に必要なものとは、やはりこういうことであったと確信することになったのである。

 ≪好きでたまらないことの大切さ≫

 大村氏は山梨大学、梶田氏は埼玉大学(それに昨年の物理学賞の中村修二氏は徳島大学)と地方の国立大学の出身である。これまでのノーベル賞受賞は、東大や京大などの出身者に独占されていたが、科学の研究をするための能力と大学受験時の学力などというものは、実際にはあまり関係がないということである。

 本当に必要なのは、今自分が身を置いている分野のこれまでの研究の歴史と、今何が問題になっているかを把握すること、これからどんな研究をすべきで、そのためには実験などをどう組み立てるか、といった物事を見極める能力、あるいは勘やセンスのよさのようなものである。

 もちろん共同研究者や他の研究者との議論なども重要であるし、そのための基礎知識が必要だ。英語の論文を読み、書く能力も求められる。しかし、それらは大学に入るための学力とは別物なのである。

 そしてこれらの能力以上に欠くことができないのは、その分野が好きでたまらないということだ。好きであればおのずと努力し、精進することになるだろう(当の本人にとっては、努力でも精進でもなく、好きの延長でしかないのだが)。

 ≪理系は難しいという思い込み≫

 大村氏が、土壌細菌を得るための土を持ち帰るため、チャックつきの小さなポリ袋を常に財布に忍ばせていること、梶田氏が幼少期に「鉄腕アトム」のアトムではなく、お茶の水博士に憧れたというエピソードからは、まさに研究は「好き」から始まり、「好き」が持続し、やがて形のあるものになっていくのだということがよくわかる。

 科学や科学の研究というと何かとんでもなく遠い世界、一部の選ばれし者たちしか踏みこめない、特別な領域と思っている方も多いと思う。

 しかしこのように、科学の研究のために必要な能力を一つ一つ検討していくならば、好きという気持ちさえあれば、どれもこれもクリアするのに、そう特別な力を必要としないことがわかってくる。

 近年、理系離れといわれているが、もしかしたら理系は難しい、理系は特別という思い込みがそうさせているのではないかと思う。何度も言うが、科学の研究に必須なのは「好き」であることであり、数学の難問が解けるとか、難しい英文法を理解し、使いこなせることではないのである。

 ≪基礎研究の大切さの再確認を≫

 理系離れと並んでもう一つ深刻な問題は、科学の基礎研究に対する国家からの予算の少なさである。私が学び、研究した動物行動学、進化論などは、それがいったい何の役に立つのか、と問われると返答に困る分野の典型例だ。

 当然、予算案は通らず、常に資金不足。実験用具はなるべく廃品利用ということで、コーヒーやワンカップの空き瓶を利用していた。国内の学会に参加する際、交通費は出るが、宿泊費は各自の負担。海外の学会では全額自己負担ということもあった。いくら好きでも、好きをくじかれそうになることもある。

 2000年以降のノーベル賞科学部門の受賞ラッシュについては、山中伸弥氏のiPS細胞の研究発表が06年で受賞が12年と、業績の発表から受賞までがかなり短い例もあるが、たいていは20年、30年たってからの受賞である。つまりこれらの研究の多くは1970年代、80年代に行われたものだ。

 では、今後も受賞ラッシュは続くだろうか。それは国が過去10年、20年の間に科学の基礎研究のためにいかに予算を費やしたかどうかにかかっているだろう。

 ラッシュが止まらないことを願うが、少なくとも国が今すぐにでもすべきことは、科学の基礎研究の大切さの再確認と予算の増額である。

 中高生やその親御さんたちにとっては、理系を特別な領域とみなさず、本人が好きなら親はその道をとことん突き進ませるための力になってあげることだろう。』

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