潜入ルポ ヤクザの修羅場 (鈴木智彦著 文春ウェブ文庫)
実際には関わりたくないですが、興味深い書でした。
『暴力団たちにとって、携帯電話はどんなときでも手放せない必須アイテムで、親分や事務所からの連絡を取り逃すことは大きな失態となる。マナーモードとは無縁の人種で、着信音は常に最大音量なのだ。
「取材する側はあくまでも生真面目さと野暮を通し、なにか依頼ごとをされても、できないこと、ジャーナリストとしてやってはならないことは断固断る。変に仲間意識を持てば、彼らはそのジャーナリストを受け入れるどころか、逆にバカにするだろう。仲間視されバカにされたが最後、彼らの暴力にさらされる機会が増えると受け取るべきだ。」(「ジャーナリズムの条件3メディアの権力性」、溝口敦「ヤクザ・暴力団への取材」より抜粋)
犯罪発生率が全国平均の40倍強、凶悪犯罪に限って言えばざっと200倍という新宿・歌舞伎町
空気を読むことに自信があっても、暴力団にとっての地雷は一般人とまったく別の場所にある。さわらぬ神に祟りなし。黙っていれば何もされない。
現在、全ての暴力団は一般人に対して武闘派であっても、同じ暴力団を相手に喧嘩のできる組織は希少種である。その暴力派組織とて、全員が暴力の信奉者というわけではない。
山口組、住吉会、稲川会の三つを合計すると、全暴力団の72.4%をしめる。
・・・歌舞伎町の喧嘩は独特だ。一人を大勢で囲み、袋叩きにする。多勢に無勢だからどれだけ腕に自信があっても勝てない。
暴力団のメンツというものは想像以上に重く、往々にして些細なことから殺人事件に発展してしまう。マスコミは彼らのメンツを軽視しすぎて、どんな事件の背景にも金銭トラブルを探したがるが、対立の構図を突き詰めていくと、ひどく単純な感情論だったということは珍しくない。
現在、警視庁は他都道府県の警察に比べてダントツにまともで、その手の噂をほとんど耳にしない。首都圏では神奈川県警がゆるく、多摩川を渡っただけで暴力団取締はがらりと変わる。
「・・・ヤクザとの付き合いが避けられないなら、うまく距離を取らなきゃ。あの人に限って、あの組長は男気があるから、なんて勘違いしたらまずい。そいつが破門にでもなってみろ。泣き寝入りだ。」(歌舞伎町のバー店主)
紳士と狂犬は、すなわち飴と鞭だ。これは暴力団が一般人を取り込む基本的な戦略だ。
現実社会ではかなり前から殺人の前科は勲章とならず、鉄砲玉は使い捨てが基本だった。無期懲役は文字通り無期の刑だから、仮出所して娑婆にでても刑の執行が終わらない。たとえ交通違反でも刑務所に逆戻りとなるため、無期懲役になったら暴力団生命は終わりなのだ。
縄張りという既得権を持つ在京団体は、専守防衛の際にしか暴力を発動しない。すでに多くの利権を手にしているため、縄張りを暴力によって拡張しようとすることはほとんどないのだ。散発的な殺人事件は起きても、それが抗争に発展する可能性はゼロに近い。
山口組のように”組”を使っているのは、明治以降、政治の主導で土建業への転身がすすめられた時の名残で、古い博徒は”一家”を使うところが多い。広域団体は“会”が一般的だ。
暴力団たちは権威の中で生きており、組織内の序列を重んじる。同じ「副会長」という肩書でも上下関係がはっきりあって、それは名簿にそのまま反映される。
飽きるまで恫喝してもらい、相手が満足するのを待つのがベストだ。反論するなど愚の骨頂である。台風は身を潜めて過ぎ去るのを待つしかない。
マル暴の刑事たちにもときおりおり、自分たちが担当する組織に、似たような感情を持っていると感じる。「我々が取り締まっている組織こそ最強だ。」という気持ちは、自尊心の裏返しに違いない。
暴力団は編集部とライターの関係を、雇主と被雇用者だと見抜いている。媒体を持っている人間が強いと分かっているから、金の使い方を間違えない。
そのうち自宅に呼ばれるようになった。家には必ずカレーが用意されたいた。医食同源の見地から、完全食としてのカレーが常備されているのだ。
どれだけの大幹部であっても、暴力団の生活基盤はもろい。暴力団たちはちょっとした不始末で築き上げてきたすべてを失ってしまう。力を失ったとたん、多くの取り巻きが離れていく。
かつて関西では淡路や明石の漁師に博奕上手が多いと言われた。羅針盤やレーダーのない時代、雲の揺れ、山の影だけを見て自分の位置を正確に把握する漁師は、傷を見つけるのが誰より上手かったのである。
モクに目を落とすと、それを読まれてしまう。一番傷が出やすいのは目だ。かといってサングラスで目を隠すのはルール違反とされる。胴師は張り手にすべてをさらし、正々堂々と勝負しなければならない。
金の置き方によって、安張りやキツ張りもあり、配当も変わってくる。それぞれの張り方や金額に合わせ、合力は一瞬で金をつけ引きする。計算していては追い付かないらしい。数多くのパターンを景色で覚えるそうだ。修練が必要なのはもちろんだが、これは一種の才能で、何年やってもダメなやつはダメらしい。若い衆に「合力をするな」という親分がいるのは、熟練した合力はそれだけで飯が食えるため、どうしても専門技能をもつ職人のようになってしまい、ヤクザとしての器量が育たないからだという。
・・この抗争で博徒の弱みがはっきり分かった。盆中に依存している以上、抗争になると経済活動が停まってしまう。博徒は喧嘩に不利なのだ。
本来、ヤクザの美学は博徒のそれとイコールだった。盆中での経験を通じて、若い衆は修行を積んでいった。自分たちが主催する盆中はもちろん、親分について余所の賭場に行くこともある。博徒一家は持ちつ持たれるで、自分の賭場に来てくれた人間が博奕を開くときには、返礼として遊びに出かけなければならない。こういった機会は若い衆にとって何よりの経験になった。自分の賭場では見えないことが見えるし、何より客の立場になってものを考えられるからだ。
それが「すごい人や。千里眼や」いう評判になり、ますます賭場が繁盛する。せやけど、ほんまは肝心要のとこ、急所だけおさえとんねん。20人も30人も客がおる中で、全部を見渡すことなんて誰もできん。たまたま見てたとこが間違うたからいうてるだけやねん。
とにかく、昔の親分はどこの組であろうがみんな器量の大きい人ばかりやった。喧嘩も強いし、根性も情けもある。とくに代紋頭いう人は、一種特別やったよ。若い衆がさらわれたとき、白い着物着て乗り込んで助け、自分が殺されたなんて親分もいるんやからな。
ようするに昔の賭場いうんは、道徳の上に博奕があった。マナーや気遣いは暗黙の了解やったし、だからこそ相手を思う武士の情けといった美学も生まれた。かっこええ博奕打ちいうんは、なにもようさん銭を張るいうのとちゃうねん。賭場の空気を吸い、そういう道徳を身につけた人のこっちゃ。やせ我慢して相手を立て、いいかっこやって、付き合いで方々の博奕行って、そこを立つように盛り上げ、今度は自分の賭場に来てもらう。その呼吸が見事なわけや。
「不良はある程度の年齢になると、ヤクザになるか、右翼になるか、同和にいくか進路を決めるんですわ」彼のいう右翼も同和も”似非”を意味しており、純粋なそれに所属している人間たちにとっては迷惑な話だろう。しかし、彼の何気ない一言は、関西の暴力社会の基本構造をストレートに現している。暴力団と政治団体と人権団体の三位一体は、裏社会最強のコンビネーションだ。
西成では他人の過去を訊くのはタブーだ。商店街で感じる殺伐とした西成の空気は、他人のプライバシーには一切関わらないという黙約があるためだろう。西成は暴力団のみならず、左翼の足場にもなっている。
俗にいう西成界隈で、飛田新地は抜群に治安がいいエリアである。安心して女遊びしてもらうため、町内会が自警団を作っている。
「斡旋業者いますよ。それをしたらあかんねんけども、それがないとすべての店に女の子が勝手にくることない。スカウトしてくるねん。表の張り紙見てくる女の子・・・・ほとんどいないです。年に一人くらいとちゃいますか。それがばれたらね、警察が来るんです。斡旋は罪が厳しいんです。経営者は売春でやられる。スカウトマンは職安(職業安定法)でやられる」
どれだけ量刑を重くしても、覚せい剤乱用者は減らない。たとえ死刑まで引き上げても、逮捕者はゼロにならない。麻薬・覚せい剤を根絶するためには、建前論だけで対処しても無意味だ。刑事罰より依存症克服のために予算を使うべきである。
大阪の暴力団は、関東や地方都市で積み上げてきたヤクザ経験がまったく通用しなかった。なにもかも露骨で、具体的にはすぐたかられる。・・・ゆすり、たかり、恐喝、脅迫、強要は日常茶飯事で、ときおり襟首を掴まれたりする。ただし殴られたことは一度もない。まがりなりにもプロということだろう。
暴力団はしつこい。怖いというより粘着質なのだ。それが仕事なのだから、真面目というべきかもしれない。
懇親会の大きさは個々の暴力団のカリスマ性や人柄に左右される。地縁ベースだから隣近所の付き合いが希薄な大都市とは違い、圧倒的に地方都市が有利で、しっかり地域に根付いている。西日本に指定暴力団が多いのは、こうした生活基盤が深く地元経済に根を張っているからだ。
暴力団は長い間、被差別階級のよりどころと言われてきた。具体的には同和地区の出身者と在日韓国・朝鮮人で、事実、そうした出自を持つ人間は多い。なかでも在日韓国・朝鮮人たちはヤクザ社会の一大派閥で、かなりの実力者を輩出している。
正確な統計はないが、1998年に週刊誌がアンケートを企画した際、200人余りの暴力団員に協力してもらったところ、12%弱が在日韓国・朝鮮人だった(うち韓国籍が8割。中国籍はゼロ)。地域や組織によって差はあるがヤクザたちに訊くと、「ざっと2割程度」と答える人間がおおい。
本格的な抗争は、4年に一度あるかないかだ。なにしろ暴力団は、抗争抑止に躍起である。これ以上取締が厳しくなってしまうと生きていけない。----暴力団たちは切実にそう考えている。具体的には突発事件が起きても話し合いによって解決できるよう、常日頃から食事会を開いて他団体と交流したり、同盟をつくっている。
・・アクリル板のせいで風景が歪んでいる。防弾ガラスは風景を歪ませる。長時間風景を見ていると、車酔いするのだ。
それでも暴力団たちは、なぜ雑誌のインタビューに応じるのか?理由の一つは彼らの虚栄心にある。暴力団は基本的にミーハーで、目立ちたがりやなのだ。・・彼らは自分たちを一種のヒーローだと考えている。
「我々は悪だが必要悪だ。それにヤクザには一定のモラルとルールがある」 悪はすれども非道はせず---。その思いはすべての暴力団に存在する。
暴力団は法の下の平等も適用されず、人権も与えられない。冤罪事件や強引な法解釈はかなりあって、社会に対する不満がたまっている。ただ、国家と喧嘩しても決して勝てないことが分かっているから、暴力団たちは表だって体制への不満をぶちまけることがないのだ。
ヤクザたちがマスコミに登場する最も大きな理由は、プロパガンダだろう。憎まれ、恐れられながらも、暴力団は市民から慕われなければならない。すべての国民から完全なる社会悪と認識されたら、支援者を失い、生存基盤が消えてしまう。
暴力団の力を利用し、その威光を使っている人間は次第に感覚がずれてくる。列の最前方に暴力という威嚇力を使って割り込んで行っても、それが自分のためなら暴力団を肯定する。・・暴力団との交流にはおのずと限界がある。取り込まれそうになったらきっぱりと拒絶しなくてはならない。
暴力団からのリークには、隠された国や企業の不正がある。それはそれ、これはこれ、として報道できるならいい。しかし、暴力団の目的は、それを材料に金を引き出すことだ。
元幹部がこぼすように、暴力団という職業は斜陽産業である。コンピューターの普及で、大打撃を被った業種のように、社会が整備されてくるにつれ、暴力団の存在価値は薄らいでいる。・・・いまや暴力団は一般的な生活を送るのも困難となった。銀行口座は作れない。新車も売ってもらえない。カメラ店でのプリントさえ拒否される。葬儀会場を貸してくれるところもない。理解しがたいかもしれないが、暴力団は一種の社会的弱者なのだ。
普段は居酒屋のマスターをしていたり、タクシーの運転手をしながらヤクザの構成員となっている兼業暴力団は年々増えている。大きな義理ごとで、不足している組合員を補うため、不良少年たちがアルバイトとなるケースも多い。暴力団の実数は、警察発表の半分いればましではないか。
暴力団が害悪しかまき散らさない完全悪というのは嘘っぱちである。売春、ドラッグ、違法賭博、取り立て、会社整理、様々なトラブル解決等々・・・・・・日本の社会は今のところ暴力団を取り込んだまま、それなりにうまく機能している。汚れ役を切り捨てるなら相応の対価がいる。』
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