力まない (平井正修著 サンマーク出版)
全生庵 平井住職の新著です。これまでに講話で聴いた内容や、いろいろと考えさせられる内容がいろいろとありました。
『坐禅とは何かを得たり足したりするのではなく、手にしていたものを手放す行為です。それまでにないものを身につけることで、「何ものか」になろうとするのではなく、むしろ身につけていたものを捨てて、赤ん坊のような本来の姿へ返る。そこに坐禅の目的があり、禅の本質があるのです。
私たちは押す力には、つい押し返す力で対抗しようとしますが、押す力には引く力で対応した方がうまくいくことも世の中には多いのです。
(山岡鉄舟は)時の流れに大きくあらがうことなく素直自然に身を任せて、しかし、そこにきちんと「私」というものを保持している。これまた逆説的な言い方ですが、私心を捨てることによって私をしっかり保った人---そんな感じがします。
力の入れどころと抜きどころを見分け、使い分けることが大切だということです。緩急や強弱や硬軟のバランスをとることの重要さといっていいでしょう。禅においても、このバランスというものはとても重要視されています。
坐禅を組むとき、目は完全に閉じるのでもなく、完全にあけるのでもない「半眼」という状態を保ちます。これは半分は現実の世界(此岸)を、半分は非現実の世界(彼岸)を眺める目ともいえます。
おぼろけながらわかってきたのは、無心とは一心のこと、心をなくすことではなく、心をある一つのことに集めて脇目も振らず没頭しているときに生じるものであるということです。
「好事不如無(こうじもなきにしかず)」という禅語があります。「よいこともないにこしたことはない」という意味です。・・いい出来事があれば人間は喜びや幸せを感じる一方、それは同時に執着心を呼び起こして煩悩や妄想のもとにもなります。
身の丈以上を望む力を心からのぞいて、得意の時も失意の時も、あせらず、おごらず、恐れず、あるがまま等身大の「ただの人」として生きていく。そのことを一心に心掛けるとき、私たちは知らず知らずのうちに豊かな果実を手にしているのかもしれません。
自分がやるべきことだからか、人任せにせず、自分がする。今やるべきことだから、先送りせず、今やる。禅の真髄も、人生の要諦も、結局のところ、たったそれだけのことにすぎないのかもしれません。しかし、そのそれだけのことが私たちにはなかなかできない。
人生は今、今、今の連続。無数の瞬間、瞬間の積み重ねで出来上がっています。今、このときにしか生はなく、今、このときにすべてが集約されています。
「ネガティブな感情をいつまでも引きずるな」とはよく聞くことでしょうが、これはポジティブな感情についても同じで、怒りや悲しみはもちろん、喜びも楽しみも、その場かぎりのものとして次の瞬間には忘れてしまう。・・そういう「とらわれない」心の用い方がきわめて大事になってきます。
しかし、悟りは最終的なゴールではなく、永遠に不動の精神の頂きでもありません。悟りを開くとは目を覚ます、夢から覚めるといった意味で、放っておけば、開いた目もすぐに曇り、すぐにまた閉じてしまう。・・悟ったと思ったら、次には、その心を捨てて、また悟りを求める。また捨てる。この繰り返しがすなわち修行なのです。
「念を継ぐな」という言い方はしても、「念をなくせ」とはいわない点に注意してください。
ビジネスの世界でも、「完璧主義はナマケモノになる」ということばがあるそうです。どんな仕事にも完璧を目指す人がいる。しかし、完璧な仕事などそうそう可能ではないから、彼はその結果にいつも失望する。その失望が何度か重なると、もう最初から、「無理だ」「できっこない」となって、結局指一本動かせなくなる・・・。それよりも、満点はとれそうになくても、あまり方に力を入れず、とにかくやれることから手を付けていく。そんな「70点主義」のほうが結局、仕事も早いし、できもいい。こういうこともまためずらしくありません。
お前を呼んだその声は、呼んだ人がこの世での最後の一息を振り絞って出したものかもしれない。だから、お前もその呼ぶ声に、いつでも、どこでも誠心誠意を込めた返事でこたえなければならない。師はそんな言い方で、すかさず返事を返すことの大切さを諭されました。
その唱和の時間がたとえ5分きりでも、その5分間は誰もが仏になって功徳を積み、また、その功徳を故人やご先祖にめぐらし向ける(回向する)ことができる・・
回向とは、お経や念仏の功徳を亡き人のために、「回し向ける」こと。広い意味では、自分の積んだ善徳を他人に振り向け与えて、ともに仏果を得ることを意味します。
「正」という字は「一度止まる」と書きます。一度、立ち止まること、立ち止まって足元を見つめなおすこと。すなわち、動きやすく、揺れやすい心をいったん静止させる。その「心を止める」作業が私たちを正しい道に導く、よき指標となってくれるのです。
その目に見えず、形もない心を調えるにはどうしたらいいか。一つの効果的な方法が、掃除です。つまり、掃除という形あるものを調える作業を通じて、心という形のないものも調えるのです。・・掃除は人の心の誠実さや深度を測る、なかなか怖い計測器でもあります。たかが掃除といえども、丁寧に気を配り、心を用いて作業をしないと、その心の状態が仕上がりに正直に表れてしまう。適当に手を抜いて掃除すれば、そのいい加減な心が目に見えて反映してしまうのです。
坐禅は、「調身、調息、調心」の三つが一体となって初めて完成されるものです。身体を調え、呼吸を調え、精神を調えること。この三つの実践によって、坐禅の目的は完遂されるわけです。ただし、この三つは並列ではなく、順番を表している点に留意してください。
坐禅が目指すのは、固定されて動かない心ではありません。動いてもまたすぐに戻ってこられる、柔軟でしなやかな心です。
山岡鉄舟先生は「剣の真髄はわが心にあり」と見抜いたが、剣道にせよ、柔道にせよ、そこに心がともなっていなかったら、武道は単なる暴力に、剣は凶器に堕してしまうでしょう。力を振るい、技を使うのであれば、その根っこには心の用意がなくてはいけない。
・・禅の世界では、「悟った」と思っても、次の瞬間には、それをゼロに返します。悟りに達したら、その悟りを壊す。その繰り返しです。およそ私たちが頭に思い浮かべるあらゆるものを捨て去ること。心にでき上がった既成概念、固定観念を打ち砕くこと。それが禅であり、禅の修行なのです。私も修行時代、百雑砕のごとく粉砕された気持ちを味わったものです。打ち砕かれる対象は自分自身でした。
素直さというのは、人間が伸びていくうえで、きわめて大事なファクターです。自分の型や枠へのこだわりを捨てて、周囲からの助言や忠告に耳を傾ける水のような素直さ、柔軟さをもてるかどうか。それが心の自由さや能力の伸長の大きなカギを握っています。
弟子がいつまでも心に残していたこだわりを、高僧はとっくに過去のものとして背後へおいてきていたのです。あるときある場所で感じた思いは、そのときかぎり、その場所に置き去りにして、念を後へ継がない。心もまた刻々と相を変えて、ひとつことにこだわらない、よどまない。「流れる」がすなわち極意であるということです。
ただ、実生活の上では、それは家や家族、地位やお金など、あらゆる欲望や固執を捨てることにも通じますから、凡人においそれと可能になることでもありません。しかし、心を雲水のごとく広く自由に遊ばせることは、私たちにも可能です。雲のように自在に心の場所を変え、水のようにゆうゆうと移ろっていく。思考や精神の流れを、できるだけスムーズにして、そこに停滞をつくらないよう心掛けることです。
本当の強さというのは、「やわらかさ」を含んでいるものです。「柳に雪折れなし」とか、「疾風に勁草を知る」などというように、外からの負荷に対して、体を硬くして力を込めて耐えるのではなく、柔らかく構え、身をしならせてやりすごす。そんな柳や竹のような強さが、実は本物の強さなのです。
世界からは暴力と戦争が絶えませんが、それがいつも邪悪な心から起こると思うのは間違いです。争いはむしろ「正義」が火種になることが多い。戦争の当事者はいずれも「自分たちのほうが正しい」と思っているからです。その正義と正義の衝突が戦争なのです。つまり、正しさというのもまた相対的なもので、自分が正しいと思っていることも、相手側からみたら、とんでもない悪なのかのしれない。正義さえも、どこに視点を置くかで180度変わってしまうのです。
完全さというものがあるとすれば、それは私たちの内側にあって、外側にはないものだと思います。私が修行をした道場の師は、「明日、がんで死ぬようなことがあっても、人は完全な存在だ。そういうふうに生きられることが禅宗の坊主にとって大事なことなんだ」と言われてきました。・・健康の欠陥が病気なのではありません。健康な人がそのままで完全であるように、病気の人も病気のままで完全なのです。満月の不完全な形が三日月ではなく、三日月は三日月のままで完全であるように、私たちはそれぞれの状態のまま、あるがままで完全なのです。しかしというか、だからというか、その完全さを自分の外に求め始めると、それは砂漠の逃げ水みたいなものになってしまう。「求めるから得られない」という自家撞着に落ち込んでしまうのです。
ことばとは何なのか。ことばの役割はどこにあるか。それは「月をさす指」なのです。「月はどれですか」と聞かれて、「あれです」と空に浮かぶ月をさす。その指がまさにことばの役割で、月のありかがわかれば、その瞬間から指は不要となります。・・すぐれた文章やことばも、それは真理への道しるべであり、目的地までの親切な案内地図みたいなものにすぎません。しかし、おろかな者はその地図を見て、目的地に着いたと思い込んでしまう・・・・。
心ほど意のままにならないものはない半面、時空の制限を受けず、天馬空をかけるがごとく、自由な色遣いで自在な絵模様を描けるものも他にありません。
「一切唯心造(いっさいゆいしんぞう)」という禅語があります。読んで字のごとく、すべては心が作り出したもので、あらゆる存在や現象は心の働きの反映であると考え方です。西洋哲学で言う「唯心論」に近い思想でしょう。
心が怒りや憎しみや不満や嫉妬などの「負」の色で充満したら、そこに即地獄が現出する。心が納得や平穏や安らぎや幸福などの「正」の色で満たされたら、それがそのまま極楽となる。この世が地獄と思うのも極楽と思うのも、みんな心次第なのです。
私の師は、その数息観を「夜、布団に入ってからも、眠りに落ちる寸前までやれ。朝、目が覚めたらすぐに、無意識のうちにも「ひとーつ」と数えるぐらいやれ」といっておられました。また、「道場で四六時中、「結跏趺坐」して座禅を組むだけが修行ではない。生活のありとあらゆる細目、日常でやることなすことの全部、一挙手一投足、一息一息までがすべて修行であり、坐禅なのだ」とも言っておられた。
・・捨てることは「もてるものを失う」ことでなく、次のステージへ進むための脱皮だと思うことが大切です。私たちは新しい何かを得るために、古い上着にさよならを告げるように、なじみのものを捨てるのです。
禅寺で坐禅をするときに尻に敷く座布団を「単布団」といいます。修行中の寺における自分だけの居場所は、「坐って半畳、寝て1畳」という、その一畳分くらいのスペースしかありません。その狭い居場所のことを「単」というのです。
禅宗にはまた、「門より入る者は是家珍(これかちん)にあらず」ということばもあります。外から入ってきたものは本当の宝にはなりえないという意味。お金や知識や技術といった後天的に身に備えるものは、それ自体に価値があるのではなく、それをいかに使って役立てるか。その心にこそ宝が内包されているということです。
「毒坐大雄峰(どくざだいゆうほう)」という禅の言葉があります。今ここに自分が一人で坐っている(ざぜんしている)、そのこと以上にありがたく、大切なことはないという意味です。人間関係で思い悩んだり、周囲のあれこれに気を散らしたりするまえに、まず、自分がなすべきことをなすことが大事。
このように人間の認識には時間的な制限があって、苦しみの経験がのちにどれほど有益な肥料となるかは、その苦しみの渦中にあるときにはわからないものです。つまり、苦い果実の中にひそむ甘味を人間は事後的にしか知ることができない。だから、そのときにはそうすることの意味や価値がわからず、理不尽だと思えることも、そこから逃げず、小手先の解決先に走ることなく、逆に、その苦の中へみずから飛び込んで、その痛苦を体で味わってみることが誰にも一度は必要になってくるのです。
坐禅の場には、「直日(じきじつ)」と呼ばれる人がいて、坐禅行のすべてを取り仕切る役目を担っています。当然、坐禅の始まりと終わりの合図もこの直日がだします。その合図がないと、いくら折れそうなほど痛くても、勝手に足をほどくことはできません。
誤解している人が少なくありませんが、坐禅というのは心身をリラックスさせるために行うものではありません。むしろ、心と体に「正しい緊張」の帆を張るために行うものです。そのため、坐禅において正しい姿勢で、正しい呼吸をすれば、下腹部の丹田におのずと気がみなぎるようになっています。つまり、坐禅によって得られる「自然体」とは、けっして単なる脱力や弛緩を意味しません。
こだわりを一つ捨てる。すると反転して、自在が一つ手に入る。まさに、「放てば手に満てり」の境涯がわずかですが体得できたのです。
つまり、道とは必ず誰かが歩いた跡なのです。・・そうした先人の苦労があって、今、私たちはなだらかな道を歩いていられる。
手に入れようとがんばると、かえって遠ざかってしまう---このあたりが禅問答の面目躍如たるところで、道とは知るとか知らぬとか、めざすとかめざさないとか、頭で考えたり説明したりできるたぐいのものではない。心で感じるものである。悟りとは、理解するものではなく体得するものだというのです。
けれども、夢を見ることには功罪の両面あって、むしろ罪作りの面のほうが大きいように思えます。なぜなら、夢や希望は目標に向けて人を牽引する原動力となる一方、「ふつうや人並みではダメだ。何か特別なことをしないと周囲からも認めてもらえない」という能力以上の無理や背伸びを誘発する面もあるからです。
「掬水月在手(みずをきくすればつきてにあり)」という禅語は、その幸福のハードルをもう少し下げてみなさいという考えです。月夜に水を両手にすくえば、誰の手の中にも月は映る。つまり、幸福(月)はいつもすぐそばにあり、それを手にしてさえいるのに、もっと大きな幸せが別の場所にあるはずだと、私たちは高い場所や遠い場所ばかりに夢を見がちなのです。
一流のスポーツ選手でも、迷ったら「基本に返る」のが鉄則です。スランプに陥った時には、新しい技術を加えるのではなく、基本のフォームを取り戻すことによって不調から抜け出そうとします。このとき、型は迷った時のよりどころの役目を果たします。
禅にはさらに、この守破離を単なる順番ではなく循環としてとらえる考え方があります。すなわち、型を守り、破り、離れ、しかしまた最初の基本形へと何度でも返っていく。そんな守破離の絶え間ないループを実践する者こそ、あるがままの禅的な自然体を身につけた達人というべきかもしれません。
それは師が亡くなった今も同じで、私は何かにつけて師の生前の言葉やふるまい、姿勢や所作を思い出し、それらを一つの指針として答えを導き出すことが少なくないのです。今生において師とお会いでき、その教えをこの身に受けられたのは私の生涯のうちでもっとも幸福なことであったと深い感謝の念を覚えます。
人と信頼関係を結ぶということは、あの人のここはいいが、ここはダメだという理性的な区分けを超えて、いいも悪いもひっくるめた相手のすべてをまるごと認め、受け入れることです。
一般には、言語道断は話にならないほど道に外れたことの意味に用いられる言葉ですが、禅では「言葉によって真理を言い表すことは、ついにできない」という意味で使われます。
生をまっとう(全生)するのに、よけいなことばや考えは不要。生きるべき生を生き、死ぬべき死を死ぬ。それで十分だということです。全生庵の名が、ここからとられたのはいうまでもありません。
誰もがいずれは無に帰る。その点で、人間が生きることには本来意味がないのかもしれません。しかし、その意味のない生も生き方次第で価値あるものにすることはできます。人生に意味はなくても、生きる価値はあるのです。』
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