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2015年8月

2015年8月16日 (日)

(新訳)南洲翁遺訓 西郷隆盛が遺した「敬天愛人」の教え (松浦光修著 PHP研究所)

原書は読んだことがありますが、訳文のほうがやはり私にはすっきり理解できました。満年齢で50歳にも達しないで、このように素晴らしい人間性をもった人物がいたからこそ、日本は列強の植民地にされることがなかったのでしょう。

『自分の心の中に、いつも公正な判断基準を保ち、自分が正しい道を行うとともに、優れた人材を抜擢し、さまざまな仕事をなしとげる能力をもった人たちを引き上げ、その人たちが思うぞんぶん力を振るえるようにしてやること・・・それがつまり、天のご意志だよ。

政治で大切なことは、大きくいって、”文”を興隆させ、”武”を実践し、”農”を振興する・・・という三つに絞られるだろうね。政治では、まずこの三つが優先されなければならない。
そんな具合で、政治はうまいことを言って、なんとか税金を取ろうとし、納税者も、うまいことを言って、なんとか税金を逃れようとする。それで、お互いにウソの言いあいになって、だんだん憎い敵同士のようになる・・・・。そして、最後には政府と納税者の心はバラバラになり、国家が崩れてしまうんだよ
・・・会計や出納というのが、すべての政策の中心にあることなんだから、このことは、慎重の上にも慎重に考えておかなければならないことだね。では・・・・、その会計や出納を取り扱う際の、基本的な心構えとは、どういうものかというと、それは”収入の分しか支出しない”ということ以外にはないよ。
税金を搾り取って、国がどんどん発展しているように見えるとき、その一方で、じつは国の底力は、どんどん消耗していってるんだね。そして、ふと・・・気が付いた時には、もう手の施しようがないほど、国の底力が失われている・・・・、そんなことになるんだよ
やたらと軍備を拡張して、無意味な虚勢をはったりしてはいけないね。普段から軍人の士気を高めておいて、”えりすぐりの精鋭ばかり”というような軍隊にしておけば、たとえ兵隊の数は少なくても構わないんだよ。平時において外国と交際していくうえでも、有事において敵国からの侵略を防ぐうえでも、軍隊というのは、それで充分なんだよ。
国民の上に立って、政治に携わる者は、つねに慎みの心を持って、どこにいても品行正しく、ぜいたくをしないように心掛け、自分の仕事に一生懸命に取り組むような・・・つまり人の手本になるような人でなければならないね。政治家たちが、そういうふうに一生懸命に仕事をしている姿を見て、納税者たちが、「あんなに身を粉にして働いてもらって、お気の毒に・・・・」と思うくらいでなければ、政治の命令に、納税者たちが納得して従う・・・なんてことはないよ。
まずは、我が国の”我が国らしいところ”をしっかりと固め、国民の道徳心を高めて、そのあと、外国のよいところを、静かに取り入れていくことだね。それとは逆に、何の考えもなく、むやみに外国のマネをしていったら、我が国の”我が国らしいところ”は、だんだん消え、国民の道徳心も、だんだん衰えて、その結果、我が国は、どうにもこうにも、救いようのない国になってしまうだろうね。
20世紀の初めになると、なんと地球の陸地の89%が欧米の国々によって支配されている、というありさまでした。
そのことは、左内の死を見て、幕府の高官が、「井伊大老が橋本左内を殺したということ一つで、もう徳川幕府は、滅びるに値する罪を犯したことになる」と語ったことからもうかがえます。
「・・・洋学ばかりに専念して勉強させていると、やがては自然に、その学生の学識が、偏りのあるものになる危険性があるので、将来的には、教授陣がしっかりと人を見極め、儒学の哲学者を、何か一つマスターした学生に、それぞれにふさわしい洋楽の専門科目を学ばせるようにしたいものです。」何という見識の高さか・・・と嘆息するほかありません。しかも、これが、24歳の青年の文章というのですから・・・もう唖然とします。
”文明”というのは、どういうことかわかるかい?それは、道徳心が人々に広くゆきわたって、それが実践している国の様子を、称えて言う言葉なんだ。けっして宮廷が大きくて立派だとか、人々の服装が美しくて綺麗だとか、そういう外から見た、ふわふわした華やかさを言うのではないよ。
節操や道義・・・恥を知る心、こういうものを国民が失ったら、国は、とても持たないね。これは、西洋でも同じことだよ。たとえば、政治家や官僚や公務員などの上に立つ者が、国民から利益を得ることばかりを求めて、社会正義を忘れてしまったならば、どうなる?国民もその真似をしてその心は、どんどん拝金主義に向かい、いやらしい貪欲な心が、日を追うごとに国民の間に広がっていくよ。
吉田松陰にも、こういう和歌があります。「備えとは 艦と砲との 謂(いい)ならず わが敷島の やまと魂」 歌意はこうです。「国防のために備えというのは、根本的には、軍艦や大砲などの装備の問題なのではない。日本人に、断固として自国を護ろうとする精神があるのかどうか、ということが問題なのである」
・・今の世界の国々が、どういう関係になっているのか、これからどう動いていくのか、日本はそれにどう対処していけばいいのか・・・、そういったことも、漢籍の「春秋左氏伝」を熟読して、そこから得た知恵を、さらに同じく漢籍の「孫子」で補えばいいのさ。そうすると、いまの国際情勢の動き方も、それらの古典に書いてある時代の国際情勢の動き方と、ほとんど変わらない・・・ということがわかるはずだよ。
岡田英弘氏は、こんなことを言っています。「われわれが認識している中国人すなわち漢族は、後漢時代の2世紀で消滅してしまっている」(「この厄介な国、中国」ワック)
世の中の多くの人々は、ことが行き詰まったら、その時になって、なりふりかまわず、その場しのぎの策略を用いがちで、「とにかく、いま目の前にある大きな問題さえなんとかすれば、そのあとは、その時その時で、工夫次第・・・・」などと思うものだけれど、あとになって必ず、その策略のひずみが出てきて、その結局のところ、何もかもダメになるのさ。正しい道を選んでそれを実行する・・・・というと、一見すると、まわりくどくて現実的ではないように言えるかもしれないね。けれど、あとになってふりかえってみると、その方が、結局のところは、早く確実に成功する道だった・・・・ということが分かるはずだよ。
どれだけ制度だとか、方法だとかを議論したところで、そこに”人物”がいなければ、ものごとはうまくいかないよ。”人物”がいて、そのあと制度や方法が活きてくるものさ。だから、”人物”というのが一番の宝なんだよ。そういうと、「人物がいなくて…」と、こぼす人がよくいるけれども、そんなグチを言う前に、何よりも、まず自分自身が、そのような”人物”になるよう、心がけなければいけないね。
”正しく生きる”という覚悟を、普段から固めて生きていない人は、何か突発事態が起こると、うろたえ騒いで、事態に正しく対処できないものだよ。
策略を、平和な時の日常生活で使ったりしてはいけないよ。策略でやったことは、あとからその経験を振り返ると、まちがいなく後味の悪いものになるし、それに必ず、あとで弁解ができないような失敗がつきまとうものさ。ただし、戦争という非常事態の時には策略は必要だよ。これは戦略とか戦術などと呼ばれるものだね。
人を言いくるめて、こそこそと陰で事をなそうとするような者は、たとえそれで、さしあたっての懸案を処理できたとしても、ものごとを見抜く力のあるものから見たら、まあ・・・その醜いことといったらないね。人と交渉するときは、私心などにとらわれることなく、公正な心を持って、ひたすら真心で当たっていけばいいのさそうでなければ、世間で英雄と呼ばれるような偉大な人物と、心をかよわせることなど、けっしてできはしないよ。
自分も聖人とか賢人とか・・・・、そう呼ばれる人物になろうという、高い志がなくてはいけないね。ところが、そういう人物のことを聞くと、すぐにこういう人がいるだろ。「いやー、私なんかには、真似をしようと思っても、とてもできませんよ・・・」それはね、戦いに臨んで、すぐに逃げ出すよりも、もっと卑怯なことなんだよ。
吉田松陰は、「松下村塾記」で、「学問というのは私たちが、人としてどう生きるのか、という知恵を学ぶことである」と言っています。
世間の人たちから見たら、単に”運がいい”としか見えない人でも、じつは合理的に考えつくしたあとの行動があったり・・・・、そういう世間の人の目には見えない才能や努力や勇気が背後にあって、成功している人のほうが多いものなんだよ。
天下というものは、誠がなければ動かないし、才能がなければ治まらない。本物の誠があるものは、世のために動くとなると、その行動は早い。多様な才があるものは、世を治めるとなると、その治める範囲は広い。そのような才と誠が合わさって、そのあと、初めて事業は成就する。
文というのは、単に紙筆のことをいうのではない。文は必ず、さまざまな事態に対処する才能とともにあらねばならない。武というのは、単に武具のことをいうのではない。部は必ず、敵の力量を見極める知恵とともにあらねばならない。そのような才能も知恵も、もとをただせば、一つのところへゆきつく
”こういう事態にはこう対応する”ということは、普段の何事もない時に、黙って座り、静かに考える時間をつくって、そういう時に心の中で決めておかなくてはいけない。そういう具合に、ふだんからの心の準備をしておくと、何か突発事態が起こっても、十くらい準備していたことの、九つか八つくらいは、実行できるものだよ。
ちなみに、一斎は、朝起きてまだボンヤリしているときに、心静かに正座して、その夜の胸を思い出して反省することを人々に勧めています。
けれども、人というのは、自分の事業が成功し、世間で名前が知られていくにつれて、いつのまにか、だんだんと”自分にとらわれる”ようになってしまう。そうなると、いろいろなことに対して、畏れる心とか・・・、慎みの心とか・・・、自分を戒める心とか、そういうものを失っていくんだね。
わが屍を山野にさらすことによって、民族の誇りを護り、次の時代の国民を支えることができるならば・・・と、そう信じて散っていった武人たちは、幕末から昭和に限っても、無数にいたことと思います。
自分の心のありようを、根本から”己に克つ”という状態に変えておくことだね。そうすれば、一つ一つの出来事に過敏に反応することもなくなるんだよ。
人の志を、大きなものにしようとするとき、もっとも邪魔になるものは、自分ンが人からもらえるものは、何でも自分のものにしようと思う心・・・・、また自分が人に与えるものは、なんでも惜しもうと思う心・・・。そして、そういう低俗な世界に安住しようとするこころ・・・。それらの心から脱却するための、もっとも良い方法は、立派な先人を尊敬し、自分もそういう人になろうと努めることである。ぶんの
自分の学問の”意味”について何も考えず、ただ細かい事象の詮索に終始している学者というのは、たとえて言えば、ジグソーパズルの小さなピース一つを、一生懸命磨いていながら、いったいそのピースが、パズルのどこに入るべきものか、まったく考えていない人と同じです。
人が正しく生きる道というのは、何も人工的に”つくられたもの”ではなくて、人の上に点があり、人の下に地があるように、ごく自然に、もとからあるものだから、人というのは、素直にそれにしたがっていれば、おのずから正しく生きることができるものなんだよ。だから、生きていくうえでは、ただひたすら、”天を敬する”ということを心がけていればいいのさ。天というのは、他人も自分も、同じように愛してくださるものだkら、私たちも、天の心と自分の心を一致させて、自分を愛するのと同じように、他人を愛することだね。
人を気にせず、天を気にして生きていくことだね。人生というのは、”天だけが本当に自分のことを知っている”と考えながら、今、自分にできる限りのことをしていけば、それでいいものなんだよ。
いろいろと善くないことはあるけれど、いちばん善くないのが、”自分に執着する”ということだね。
仏教でいう「愛」は、「貪り」とか「執着」などの意味で、否定しなければならない「煩悩」の一つです。・・古川哲史という日本倫理思想史の権威は、「日本倫理の究極」は、「克己以外の何物でもなかった」と書いています(『明治の精神』)。
失敗したことを、いつまでもクヨクヨと思い返し、”これからでも、なんとかとりつくろう方法はないだろうか・・・”などと心配するのは、たとえば、茶碗を割ってしまった後、そのカケラを拾い集めて”なんとか元にもどらないだろうか・・・”と、悔やんで眺めているのと同じで、まったく意味のないことだよ。
”正しく生きる”ということを貫こうとすれば、当然のことだけれども、困窮してしまったり、災難にあったりするものだよ。だから、どんなに苦しくつらい場面に直面しても、そんなことで動揺しないことだね。・・・大切なのは、そういう出来事に対して、”自分が正しく生きるといことを貫くことができたかどうか”というところにあるからさ。・・・”生きる”というのは、そういう”技術”のようなものとは、全然ちがうんだよ。もともと人というのは、全て”正しく生きる”ようにつくられているものなんでね・・・・。
朝には主君の寵愛を受けていても、夕方には主君から虐待される・・・・。人生の浮き沈みというものは、まるで夜と昼が、かわるがわるめぐってくるようなものである。しかし、たとえ日光が射して来なくても、ひまわりはつねに日差しの方向に向いている。私も、これからあと、たとえ運が開けることがなかったとしても、ひたすら誠の心を尽くしていこう。
式部は、「楠木正成という武将は、こういうことを言っていた」として、こう書き残しています。「君主を怨むような心がおかったならば、アマテラス大神のお名前を唱えなさい」(「奉公心得書」)
”正しく生きる”ということを決意したなら、世の中の人がすべて自分を貶そうと、そのことで、”自分はダメな人間だ・・・”などと落ち込んだりしてはいけないな。その逆に、世の中の人がすべて自分をほめても、”自分は、素晴らしい人間だ…・”などと舞い上がってもいけないよ。・・・問うの韓愈が書いた「伯夷の頌」という文章を繰り返し読むことだね。そうするおt、いつかきっと君たちも、自分の心の中に、自己肯定感を確立することができると思うよ。
世の中で、のちの世の人からまでも、信じて仰がれ、喜ばれて慕われるものとは、ただ一つ・・・本物の誠の心だけだよ。
西郷さんが亡くなったのは、数え年では51歳ですが、満年齢でいえば49歳です。』

2015年8月11日 (火)

「ドイツ帝国」が世界を破滅させる 日本人への警告 (エマニュエル・トッド著 堀茂樹訳 文芸春秋)

これまで知らなかった、フランスにおける一つのドイツの見方が分かりました。

『ロシアの力は基本的に防衛的なものだ。あの巨大な領土を保全していくだけでも、あれほど限定された人口、ちょうど日本の人口に匹敵する程度の人口では容易なことではない。ロシアは世界がバランスを保つことに役立つ強国なのさ。核兵器とエネルギー自給のおかげで、あの国はアメリカに対する反対側の重しの役目を果たすことができる。

ともあれ、ドイツが反米的にアグレッシブな態度をとるのは新しい現象だ。しっかり考慮しないといけない。ドイツのやり方には凄味がある。ドイツの政治家たちがアメリカ人について語るのを近くで聞いたことがあるが、その様子には深い侮蔑が表れていた。ライン川の向こう側にはかなりの厚みを持った反米感情の蓄積がある。

金融危機のときに証明されたのはドイツの堅固さだけではない。あれでもって、ドイツには債務危機を利用してヨーロッパ大陸全体を牛耳る能力があることも明らかになった。

第二次世界大戦の地政学的教訓があるとすれば、それはまさに、フランスがドイツを制御しえないということである。ドイツが持つ組織力と経済的規律のとてつもない質の高さを、そしてそれにも劣らないくらいにとてつもない政治的非合理性のポテンシャルがドイツには潜んでいることを、われわれは認めなければならない。

「ドイツというシステム」は驚異的なエネルギーを生み出し得るのだということを認める必要がある。歴史家として、また人類学者として、私は同じことを日本についても、スウェーデンについても、あるいはまたユダヤやバスク地方やカタロニア地方の社会文化についてもいいうことができる。

イラクにおける地政学的問題の筆頭であったこのアメリカはすでんい、サウジアラビアから財政的協力を得ているジハード勢力に対抗するために、年来の戦略的敵国であるイランと協力することを余儀なくされている。サウジアラビアはドイツ同様にアメリカの主要な同盟国という地位にあるので、その裏切りはおおっぴらんい確認されるわけにはいかない・・・。

もしロシアが崩れたら、あるいは譲歩をしただけでも、ウクライナまで広がるドイツシステムとアメリカとの間の人口と産業の上での力の不均衡が拡大して、おそらく西洋世界の重心の大きな変更に、そしてアメリカシステムの崩壊に行きつくだろう。アメリカが最もおそれなければいけないのは今日、ロシアの崩壊なのである。

最近のドイツのパワーは、かつて共産主義だった国々の住民を資本主義の中の労働力とすることによって形成された。これはおそらくドイツ人自身も十分に自覚していないことで、その点にもしかすると彼らの真の危うさがあるかもしれない。

ロシアはかつて、人民民主主義諸国を支配することによって却って弱体化したのであった。軍事的なコストを経済的な利益によって埋め合わせることができなかったからだ。アメリカのおかげで、ドイツにとって、軍事的支配のコストはゼロに近い。

ドイツはイタリアで、ギリシャで、またたぶん南ヨーロッパ全域で、ドイツが押し付ける財政規律のゆえにひどく嫌われている。しかし、それらの国々は何もできない。なぜなら、ドイツがその隣接空間とフランスを伴って、一切を支配する能力を有しているからだ。

・・ポーランドやスウェーデンやバルト三国には夢がある。ロシアを破壊させるという夢さ。ドイツ支配圏に進んで参加することでその夢を信じることができるのだ。

ウクライナは当面、お誂え向きのヨーロッパ統合優先主義的な併合とは見えない。むしろ国家的にも産業的にも崩壊しているゾーンの併合だ。その崩壊は、今後さらにEUとの自由貿易協定によって加速するだろう。

・・ロシアにとっての本当の問題は実は、ウクライナだけではなく、ガスパイプラインの到達点がドイツにコントロールされているということなのだ。そしてそれは同時に、南ヨーロッパ諸国の問題でもある。

EU諸国民はトルコの加入を望んでいない。しあしそれよりもはるかに重要なこと、それは、トルコ人がもはやEUを欲していないということだ。

中部ウクライナ人にとって、問題は決着していないと思う。システムは今後、崩壊の度を強めていくだろう。GDPが縮小するだろうし、状況は悪くなっていくだろう。思うにそれこそが理由で、ロシアはあれほど慎重な態度をとっていて、戦争することにあれほど消極的で、一般に言われているのとは逆に、ウクライナのいくつかの部分を併合することを望んでいない。ロシアは西側による制裁を恐れていない。しかし、中部ウクライナで憎まれることを望まない。

・・これからの20年間は、東西の紛争とはまったく異なるものに直面しなければならないのだ。ドイツシステムの抬頭は、アメリカとドイツの間に紛争が起こることを示唆している。これは力と支配の関係に基づく内在的なロジックである。私の考えでは、未来に平和的な協調関係を想像するのは非現実的だ。・・歴史家の観点から見てアメリカとドイツは同じ諸価値を共有していない。大不況の経済的ストレスに直面した時、リベラルな民主主義の国であるアメリカはルーズベルトを登場させた。ところが、権威主義的で不平等な文化の国であるドイツはヒトラーを生み出したのだ。

ドイツの権威主義的文化は、ドイツの指導者たちが支配的立場に立つとき、彼らに固有の精神的不安定性を生み出す。これは第二次大戦以来、起こっていなかったことだ。

ドイツの社会文化は不平等的で、平等な世界を受け入れることを困難にする性質がある。自分たちがいちばん強いと感じるときには、ドイツ人たちは、より弱いものによる服従の拒否を受け入れることが非常に不得意だ。そいう服従拒否を自然でない、常軌を逸していると感じるのである。

現在起こっている衝突が日本のロシアとの接近を停止させている。ところが、エネルギー的、軍事的観点から見て、日本にとってロシアとの接近はまったく論理的なのであって、安倍首相選択した新たな政治方針の重要な要素でもある。ここにアメリカにとってのもう一つのリスクがあり、これもまた、ドイツが最近アグレッシブになったことから派生してきている。

乳児死亡率(1歳未満での死亡率)の再上昇は社会システムの一般的烈火の証拠なのです。私はそこから、ソビエト体制の崩壊が間近だという結論を引き出したのです。・・ところが今日、数か月前から私が観察し、注目しているのは、プーチン氏は以下のロシアでかつてとは逆に、乳児死亡率が目覚ましく低下しつつあるという現象なのです。

CIAにしてからが、もともと持っている偏見に欺かれてしまいました。20世紀の終わりの数十年における人口の激減に目を奪われて、CIAはロシアが早晩消滅するだろうと踏んだのです。EUも同じです。EUはロシアとその隣国との間の新たな力関係の評価を誤りました。

あの国(ロシア)の切り札は二つです。潜在的に富に満ちた1700万平方キロメートルの広大な国土と、80万人のユダヤ人がイスラエルへ去ったとはいえ、それでもなお、大勢のハイレベルの科学者たちを擁する一億四千四百万の人口(2013年)です。

ロシアとベラルーシの特徴は共同体家族構造にあります。つまり、家長と息子たちの家族が同じ屋根の下で暮らすのです。それに対してウクライナは、イギリスや、フランスのパリ盆地でである家族構造に類似した核家族構造を特徴としています。つまり、パパとママと子供たちという構造です。

黒海からバルト海へと長く伸びているこの「中間ヨーロッパ」ではしたがって、少なくとも18世紀以来、国家が機能していない。

ウクライナ危機におけるロシアの外交的観点は文化主義的ではなく、非常にシンプルです。つまり、ロシアの指導層はウクライナにNATOの基地を望まない。そんなところに基地を作られたのでは、バルト三国とポーランドからなる包囲網が一層強化されてしまうというわけです。それだけのことなのです。

ここで私は、意外だと思われそうな仮説を提示します。ヨーロッパは不安定化し、硬直すると同時に冒険的になっています。中国はおそらく経済成長の瓦解と大きな危機の寸前にいます。ロシアは一つの大きな現状維持勢力です。アメリカとロシアの新たなパートナーシップこそ、われわれ人類が「世界的無秩序」の中に沈没するという、現実となる可能性が日々増大している事態を回避するためのカギだろうと思います。

国立行政学院(ENA)をトップクラスの順位で卒業する若者たち--彼らは最も優秀なのではなく、上の者に評価されるようにせっせと頑張る精神的・社会的能力が高いのだ--は歳入監査局や会計院に入り、その後、各省庁の大臣官房に、そしてもちろん、財務省に入っていく。重要閣僚も自分たちの官房長を選ぶ自由を持たず、むしろ官房長たちの監視の下で生きるのだよ。

メルケルよりも、その背後のドイツ経済界こそが、ユーロ圏が吹っ飛んでしまうのを嫌がっている。ドイツ式に組織されたあちらの経営者たちの支持のおかげで、マリオ・ドラギ欧州中央銀行総裁は銀行救済政策をやれるのだよ。

ドイツの社会民主主義は、歴史的にも地理的にも、プロテスタンティズムの、したがってナショナリズムの系譜の中にある。彼らを相手にするのは実は、キリスト教民主同盟と付き合う以上に厄介だと思うよ。

ドイツというのは、計り知れないほどに巨大な文化だが、人間存在の複雑さを視野から失いがちで、アンバランスであるがゆえに恐ろしい文化でもある。

フランス文化の偉大さは普遍的人間という概念を提示し、堅持するところにあるのですが、その大きな弱点は、ほかでもないその普遍主義のゆえに、さまざまに異なる社会を異なるがままに分断する能力に欠けるという点にあります。・・ヨーロッパでは、どの国も戦争をしかけはしません。その一方で新たな経済問題が、諸国民の文化や習俗の違いに大きく起因する経済問題が現れています。

ドイツは、単一通貨の考案者たち--彼らはフランス人でした--の過失により、支配的なポジションに置かれてしまったのです。特にそれを望んでいたわけではないのにね。ドイツはこのポジションから利益を引き出しています。

ドイツに対するフランス側のノイローゼ、すなわち、ドイツをあるがままに見ることのできない精神状態が現実に存在します。ドイツがヨーロッパの連帯といった考えから隔絶した特異な戦略を相当なところまで作り上げているのを直視できなくなっています。

ドイツ人にとっては、文化は国や地域で大きく異なる、そしてそれぞれの経済的適性も異なる、と考えるのが自然なのです。

日本社会とドイツ社会は、元来の家族構成も似ており、経済面でも非常に類似しています。産業力がたくましく、貿易収支が黒字だということですね。差異もあります。日本の文化が他人を傷つけないようにする、遠慮するという願望に取りつかれているのに対し、ドイツ文化はむき出しの率直さを価値づけます。

ドイツに比べ、日本では権威がより分散的で、つねに率直的であるとは限らず、より慇懃でもあります。

世界のすべての先進国社会に共通する特徴の一つは、人口の1パーセントを占める最富裕層が、銀行システムと金融活動に強く結びついたグループとして出現しているということです。

今日われわれはヨーロッパで、国家が通貨を作る能力を失った事態に直面していますね。その一方で、銀行は相変わらず、銀行としての権限を保持しています。ただし、その権限が事実上、ヨーロッパ中央銀行の監督下に置かれていることは見逃せません。

少額預金者の預金を保護するという口実を掲げていますが、市場と呼ばれているのは単に、国家を玩具にする最富裕層のことにほかなりません。金持ちたちは国家を敵に回して戦いはしません。彼らが戦うのは、国家を従来以上によくコントロールするためです。・・昔、モンゴル民族は方々の町を征服しに行くとき、人質を人間の盾のように使っていました。最富裕者たちのグループは正確に同じことをしています。彼らの人質、それはコツコツと貯金する庶民たちです。

寡頭支配の世界は権力と陰謀の世界ですよ。ギリシャの国家が会計をごまかすのを助けたゴールドマン・サックスは高利貸しのような振る舞いをしました。今、人々がギリシャ人を「助ける」といっていますが、それはお金を脅し取られる立場に彼らを留め置くということです。ユーロ圏の危機を作り出しのは基本的に、借り手の呑気さではなく、貸し手の攻撃的な態度です。

思い出しましょう。ドイツはもともとはユーロの話など聞きたくもないというふうだったのです。ユーロが創出されてからも暫くはずっと、ユーロ圏から離脱するぞという脅しを繰り返していたではありませんか。今日では、ドイツの政府と経済界の上層部はすでに、ユーロの終焉があの国にとって決定的な打撃になるであろうことを理解しています。なにしろ、ドイツだけが平価切下げに踏み切れないでしょうから。

アングロサクソンの世界では個人の自由が人々のからだにしみついています。しかし、大陸ヨーロッパには、政治的権威と官僚化の表れが存在します。

ところが、ヨーロッパは今日、今言ったような創設神話とは似ても似つかぬものになっています。・・今あるのは、信じがたいほどの階層序列システム・・。一方には弱小国、そして他方には強国(絶対的強国はドイツ)。弱小国が追い詰められ、自らの民主主義的システムを奪われる一方で、社会を牛耳るべく現れてくる新しいタイプの人間はきまってブリュッセル(ヨーロッパ委員会の所在地)、フランクフルト、ベルリン--支配システムの三つの極--の出身で、彼らが登場するたびに、さくらの役目を引き受ける支社に成り下がったパリが拍手喝采するのです。

あの国は直系家族、これは子供のうちの一人だけを相続者にする権威主義的な家族システムなのですが、直径家族を中心とする一つの特殊な文化に基づいています。そこに、ドイツの産業上の効率性、ヨーロッパにおける支配的なポジション、同時にメンタルな硬直性が起因しています。ドイツは歴史上、支配的なポジションについたときに変調しました。特に第1次世界大戦前、ヴィルヘルム二世の統治下でビスマルク的理性から離れ、ヨーロッパでヘゲモニーを握った時がそうだった。今日の状況は、ナチス勃興の頃よりも、あのヴィルヘルム時代のほうに類似しています。あのような力への陶酔をコントロールするのは難しいことではありません。ただ、それには条件があって、フランスの政策決定者たちが正常に振る舞うことができないといけません。

メディアの掌握から、警察と憲兵隊の合体に至るまで全てです。治安維持の組織が別々に二つあることは共和主義の偉大な伝統ですが、これがデモクラシーの保障の一つであることが分かりますね。

・・この社会では、年齢の中央値が40歳強(フランスで40歳、ドイツで44歳)だからです。

偉大なデモクラシーはすべからく、エリートの一部分が自らの任務を果たすという契約を受け入れ、ときには民衆の側につくという仕組みに基づいて成立するのです。

・・「ドイツと比較される東アジアの国と言えば、なにかについて日本が対象にされ、日本人自身もなんとなく日独両国の間に共通性が多いと思い込んでいる」と指摘する歴史学者の野田宣雄氏は、次のように述べている。「だが、実際には、冷戦の終結を境として、日独両国は決定的に異なる道を歩み始めるようになったと考えたほうがよい。(略)統一後のドイツが明らかに「中欧帝国」形成の道を歩もうとしているのに対し、日本には、東アジアで「帝国」を形成しようとする意思もなければ、そのための地政学的あるいは歴史的な条件も乏しいから出会う。結論を先に言えば、ヨーロッパにおけるドイツと同様に東アジアにおいて「帝国」を志向しているのは、中国であって日本ではない。・・」

しかし、トッド氏は、中国の「実力」について、「中国はおそらく経済成長の瓦解と大きな危機の寸前に居ます」と付け加えることも忘れない。というのも、「中国は、西洋資本主義の利益計算の道具」で、「西洋の企業からしてみれば、目にしたこともないような利潤をもたらしてくれる国」で、「西洋の資本主義にとって、中国を肯定的にいうことには利益がある」が、「共産党の指導者たちは、決して主人ではない」のであって、「彼ら自身も、自分ではコントロールできない力の支配下にある」からだ(「腐敗は頭部から始まっている」(中央公論2014年5月号)したがって、経済面で中国が単独で覇を握ることはないとトッド氏は見る。』

2015年8月10日 (月)

力まない (平井正修著 サンマーク出版)

全生庵 平井住職の新著です。これまでに講話で聴いた内容や、いろいろと考えさせられる内容がいろいろとありました。

『坐禅とは何かを得たり足したりするのではなく、手にしていたものを手放す行為です。それまでにないものを身につけることで、「何ものか」になろうとするのではなく、むしろ身につけていたものを捨てて、赤ん坊のような本来の姿へ返る。そこに坐禅の目的があり、禅の本質があるのです。

私たちは押す力には、つい押し返す力で対抗しようとしますが、押す力には引く力で対応した方がうまくいくことも世の中には多いのです。

(山岡鉄舟は)時の流れに大きくあらがうことなく素直自然に身を任せて、しかし、そこにきちんと「私」というものを保持している。これまた逆説的な言い方ですが、私心を捨てることによって私をしっかり保った人---そんな感じがします。

力の入れどころと抜きどころを見分け、使い分けることが大切だということです。緩急や強弱や硬軟のバランスをとることの重要さといっていいでしょう。禅においても、このバランスというものはとても重要視されています。

坐禅を組むとき、目は完全に閉じるのでもなく、完全にあけるのでもない「半眼」という状態を保ちます。これは半分は現実の世界(此岸)を、半分は非現実の世界(彼岸)を眺める目ともいえます。

おぼろけながらわかってきたのは、無心とは一心のこと、心をなくすことではなく、心をある一つのことに集めて脇目も振らず没頭しているときに生じるものであるということです。

「好事不如無(こうじもなきにしかず)」という禅語があります。「よいこともないにこしたことはない」という意味です。・・いい出来事があれば人間は喜びや幸せを感じる一方、それは同時に執着心を呼び起こして煩悩や妄想のもとにもなります。

身の丈以上を望む力を心からのぞいて、得意の時も失意の時も、あせらず、おごらず、恐れず、あるがまま等身大の「ただの人」として生きていく。そのことを一心に心掛けるとき、私たちは知らず知らずのうちに豊かな果実を手にしているのかもしれません。

自分がやるべきことだからか、人任せにせず、自分がする。今やるべきことだから、先送りせず、今やる。禅の真髄も、人生の要諦も、結局のところ、たったそれだけのことにすぎないのかもしれません。しかし、そのそれだけのことが私たちにはなかなかできない。

人生は今、今、今の連続。無数の瞬間、瞬間の積み重ねで出来上がっています。今、このときにしか生はなく、今、このときにすべてが集約されています。

「ネガティブな感情をいつまでも引きずるな」とはよく聞くことでしょうが、これはポジティブな感情についても同じで、怒りや悲しみはもちろん、喜びも楽しみも、その場かぎりのものとして次の瞬間には忘れてしまう。・・そういう「とらわれない」心の用い方がきわめて大事になってきます。

しかし、悟りは最終的なゴールではなく、永遠に不動の精神の頂きでもありません。悟りを開くとは目を覚ます、夢から覚めるといった意味で、放っておけば、開いた目もすぐに曇り、すぐにまた閉じてしまう。・・悟ったと思ったら、次には、その心を捨てて、また悟りを求める。また捨てる。この繰り返しがすなわち修行なのです。

「念を継ぐな」という言い方はしても、「念をなくせ」とはいわない点に注意してください。

ビジネスの世界でも、「完璧主義はナマケモノになる」ということばがあるそうです。どんな仕事にも完璧を目指す人がいる。しかし、完璧な仕事などそうそう可能ではないから、彼はその結果にいつも失望する。その失望が何度か重なると、もう最初から、「無理だ」「できっこない」となって、結局指一本動かせなくなる・・・。それよりも、満点はとれそうになくても、あまり方に力を入れず、とにかくやれることから手を付けていく。そんな「70点主義」のほうが結局、仕事も早いし、できもいい。こういうこともまためずらしくありません。

お前を呼んだその声は、呼んだ人がこの世での最後の一息を振り絞って出したものかもしれない。だから、お前もその呼ぶ声に、いつでも、どこでも誠心誠意を込めた返事でこたえなければならない。師はそんな言い方で、すかさず返事を返すことの大切さを諭されました。

その唱和の時間がたとえ5分きりでも、その5分間は誰もが仏になって功徳を積み、また、その功徳を故人やご先祖にめぐらし向ける(回向する)ことができる・・

回向とは、お経や念仏の功徳を亡き人のために、「回し向ける」こと。広い意味では、自分の積んだ善徳を他人に振り向け与えて、ともに仏果を得ることを意味します。

「正」という字は「一度止まる」と書きます。一度、立ち止まること、立ち止まって足元を見つめなおすこと。すなわち、動きやすく、揺れやすい心をいったん静止させる。その「心を止める」作業が私たちを正しい道に導く、よき指標となってくれるのです。

その目に見えず、形もない心を調えるにはどうしたらいいか。一つの効果的な方法が、掃除です。つまり、掃除という形あるものを調える作業を通じて、心という形のないものも調えるのです。・・掃除は人の心の誠実さや深度を測る、なかなか怖い計測器でもあります。たかが掃除といえども、丁寧に気を配り、心を用いて作業をしないと、その心の状態が仕上がりに正直に表れてしまう。適当に手を抜いて掃除すれば、そのいい加減な心が目に見えて反映してしまうのです。

坐禅は、「調身、調息、調心」の三つが一体となって初めて完成されるものです。身体を調え、呼吸を調え、精神を調えること。この三つの実践によって、坐禅の目的は完遂されるわけです。ただし、この三つは並列ではなく、順番を表している点に留意してください。

坐禅が目指すのは、固定されて動かない心ではありません。動いてもまたすぐに戻ってこられる、柔軟でしなやかな心です。

山岡鉄舟先生は「剣の真髄はわが心にあり」と見抜いたが、剣道にせよ、柔道にせよ、そこに心がともなっていなかったら、武道は単なる暴力に、剣は凶器に堕してしまうでしょう。力を振るい、技を使うのであれば、その根っこには心の用意がなくてはいけない。

・・禅の世界では、「悟った」と思っても、次の瞬間には、それをゼロに返します。悟りに達したら、その悟りを壊す。その繰り返しです。およそ私たちが頭に思い浮かべるあらゆるものを捨て去ること。心にでき上がった既成概念、固定観念を打ち砕くこと。それが禅であり、禅の修行なのです。私も修行時代、百雑砕のごとく粉砕された気持ちを味わったものです。打ち砕かれる対象は自分自身でした。

素直さというのは、人間が伸びていくうえで、きわめて大事なファクターです。自分の型や枠へのこだわりを捨てて、周囲からの助言や忠告に耳を傾ける水のような素直さ、柔軟さをもてるかどうか。それが心の自由さや能力の伸長の大きなカギを握っています。

弟子がいつまでも心に残していたこだわりを、高僧はとっくに過去のものとして背後へおいてきていたのです。あるときある場所で感じた思いは、そのときかぎり、その場所に置き去りにして、念を後へ継がない。心もまた刻々と相を変えて、ひとつことにこだわらない、よどまない。「流れる」がすなわち極意であるということです。

ただ、実生活の上では、それは家や家族、地位やお金など、あらゆる欲望や固執を捨てることにも通じますから、凡人においそれと可能になることでもありません。しかし、心を雲水のごとく広く自由に遊ばせることは、私たちにも可能です。雲のように自在に心の場所を変え、水のようにゆうゆうと移ろっていく。思考や精神の流れを、できるだけスムーズにして、そこに停滞をつくらないよう心掛けることです。

本当の強さというのは、「やわらかさ」を含んでいるものです。「柳に雪折れなし」とか、「疾風に勁草を知る」などというように、外からの負荷に対して、体を硬くして力を込めて耐えるのではなく、柔らかく構え、身をしならせてやりすごす。そんな柳や竹のような強さが、実は本物の強さなのです。

世界からは暴力と戦争が絶えませんが、それがいつも邪悪な心から起こると思うのは間違いです。争いはむしろ「正義」が火種になることが多い。戦争の当事者はいずれも「自分たちのほうが正しい」と思っているからです。その正義と正義の衝突が戦争なのです。つまり、正しさというのもまた相対的なもので、自分が正しいと思っていることも、相手側からみたら、とんでもない悪なのかのしれない。正義さえも、どこに視点を置くかで180度変わってしまうのです。

完全さというものがあるとすれば、それは私たちの内側にあって、外側にはないものだと思います。私が修行をした道場の師は、「明日、がんで死ぬようなことがあっても、人は完全な存在だ。そういうふうに生きられることが禅宗の坊主にとって大事なことなんだ」と言われてきました。・・健康の欠陥が病気なのではありません。健康な人がそのままで完全であるように、病気の人も病気のままで完全なのです。満月の不完全な形が三日月ではなく、三日月は三日月のままで完全であるように、私たちはそれぞれの状態のまま、あるがままで完全なのです。しかしというか、だからというか、その完全さを自分の外に求め始めると、それは砂漠の逃げ水みたいなものになってしまう。「求めるから得られない」という自家撞着に落ち込んでしまうのです。

ことばとは何なのか。ことばの役割はどこにあるか。それは「月をさす指」なのです。「月はどれですか」と聞かれて、「あれです」と空に浮かぶ月をさす。その指がまさにことばの役割で、月のありかがわかれば、その瞬間から指は不要となります。・・すぐれた文章やことばも、それは真理への道しるべであり、目的地までの親切な案内地図みたいなものにすぎません。しかし、おろかな者はその地図を見て、目的地に着いたと思い込んでしまう・・・・。

心ほど意のままにならないものはない半面、時空の制限を受けず、天馬空をかけるがごとく、自由な色遣いで自在な絵模様を描けるものも他にありません。

「一切唯心造(いっさいゆいしんぞう)」という禅語があります。読んで字のごとく、すべては心が作り出したもので、あらゆる存在や現象は心の働きの反映であると考え方です。西洋哲学で言う「唯心論」に近い思想でしょう。

心が怒りや憎しみや不満や嫉妬などの「負」の色で充満したら、そこに即地獄が現出する。心が納得や平穏や安らぎや幸福などの「正」の色で満たされたら、それがそのまま極楽となる。この世が地獄と思うのも極楽と思うのも、みんな心次第なのです。

私の師は、その数息観を「夜、布団に入ってからも、眠りに落ちる寸前までやれ。朝、目が覚めたらすぐに、無意識のうちにも「ひとーつ」と数えるぐらいやれ」といっておられました。また、「道場で四六時中、「結跏趺坐」して座禅を組むだけが修行ではない。生活のありとあらゆる細目、日常でやることなすことの全部、一挙手一投足、一息一息までがすべて修行であり、坐禅なのだ」とも言っておられた。

・・捨てることは「もてるものを失う」ことでなく、次のステージへ進むための脱皮だと思うことが大切です。私たちは新しい何かを得るために、古い上着にさよならを告げるように、なじみのものを捨てるのです。

禅寺で坐禅をするときに尻に敷く座布団を「単布団」といいます。修行中の寺における自分だけの居場所は、「坐って半畳、寝て1畳」という、その一畳分くらいのスペースしかありません。その狭い居場所のことを「単」というのです。

禅宗にはまた、「門より入る者は是家珍(これかちん)にあらず」ということばもあります。外から入ってきたものは本当の宝にはなりえないという意味。お金や知識や技術といった後天的に身に備えるものは、それ自体に価値があるのではなく、それをいかに使って役立てるか。その心にこそ宝が内包されているということです。

「毒坐大雄峰(どくざだいゆうほう)」という禅の言葉があります。今ここに自分が一人で坐っている(ざぜんしている)、そのこと以上にありがたく、大切なことはないという意味です。人間関係で思い悩んだり、周囲のあれこれに気を散らしたりするまえに、まず、自分がなすべきことをなすことが大事。

このように人間の認識には時間的な制限があって、苦しみの経験がのちにどれほど有益な肥料となるかは、その苦しみの渦中にあるときにはわからないものです。つまり、苦い果実の中にひそむ甘味を人間は事後的にしか知ることができない。だから、そのときにはそうすることの意味や価値がわからず、理不尽だと思えることも、そこから逃げず、小手先の解決先に走ることなく、逆に、その苦の中へみずから飛び込んで、その痛苦を体で味わってみることが誰にも一度は必要になってくるのです。

坐禅の場には、「直日(じきじつ)」と呼ばれる人がいて、坐禅行のすべてを取り仕切る役目を担っています。当然、坐禅の始まりと終わりの合図もこの直日がだします。その合図がないと、いくら折れそうなほど痛くても、勝手に足をほどくことはできません。

誤解している人が少なくありませんが、坐禅というのは心身をリラックスさせるために行うものではありません。むしろ、心と体に「正しい緊張」の帆を張るために行うものです。そのため、坐禅において正しい姿勢で、正しい呼吸をすれば、下腹部の丹田におのずと気がみなぎるようになっています。つまり、坐禅によって得られる「自然体」とは、けっして単なる脱力や弛緩を意味しません。

こだわりを一つ捨てる。すると反転して、自在が一つ手に入る。まさに、「放てば手に満てり」の境涯がわずかですが体得できたのです。

つまり、道とは必ず誰かが歩いた跡なのです。・・そうした先人の苦労があって、今、私たちはなだらかな道を歩いていられる。

手に入れようとがんばると、かえって遠ざかってしまう---このあたりが禅問答の面目躍如たるところで、道とは知るとか知らぬとか、めざすとかめざさないとか、頭で考えたり説明したりできるたぐいのものではない。心で感じるものである。悟りとは、理解するものではなく体得するものだというのです。

けれども、夢を見ることには功罪の両面あって、むしろ罪作りの面のほうが大きいように思えます。なぜなら、夢や希望は目標に向けて人を牽引する原動力となる一方、「ふつうや人並みではダメだ。何か特別なことをしないと周囲からも認めてもらえない」という能力以上の無理や背伸びを誘発する面もあるからです。

「掬水月在手(みずをきくすればつきてにあり)」という禅語は、その幸福のハードルをもう少し下げてみなさいという考えです。月夜に水を両手にすくえば、誰の手の中にも月は映る。つまり、幸福(月)はいつもすぐそばにあり、それを手にしてさえいるのに、もっと大きな幸せが別の場所にあるはずだと、私たちは高い場所や遠い場所ばかりに夢を見がちなのです。

一流のスポーツ選手でも、迷ったら「基本に返る」のが鉄則です。スランプに陥った時には、新しい技術を加えるのではなく、基本のフォームを取り戻すことによって不調から抜け出そうとします。このとき、型は迷った時のよりどころの役目を果たします。

禅にはさらに、この守破離を単なる順番ではなく循環としてとらえる考え方があります。すなわち、型を守り、破り、離れ、しかしまた最初の基本形へと何度でも返っていく。そんな守破離の絶え間ないループを実践する者こそ、あるがままの禅的な自然体を身につけた達人というべきかもしれません。

それは師が亡くなった今も同じで、私は何かにつけて師の生前の言葉やふるまい、姿勢や所作を思い出し、それらを一つの指針として答えを導き出すことが少なくないのです。今生において師とお会いでき、その教えをこの身に受けられたのは私の生涯のうちでもっとも幸福なことであったと深い感謝の念を覚えます。

人と信頼関係を結ぶということは、あの人のここはいいが、ここはダメだという理性的な区分けを超えて、いいも悪いもひっくるめた相手のすべてをまるごと認め、受け入れることです。

一般には、言語道断は話にならないほど道に外れたことの意味に用いられる言葉ですが、禅では「言葉によって真理を言い表すことは、ついにできない」という意味で使われます。

生をまっとう(全生)するのに、よけいなことばや考えは不要。生きるべき生を生き、死ぬべき死を死ぬ。それで十分だということです。全生庵の名が、ここからとられたのはいうまでもありません。

誰もがいずれは無に帰る。その点で、人間が生きることには本来意味がないのかもしれません。しかし、その意味のない生も生き方次第で価値あるものにすることはできます。人生に意味はなくても、生きる価値はあるのです。』

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