« 2015年5月 | トップページ | 2015年7月 »

2015年6月

2015年6月27日 (土)

「アジアインフラ投資銀行」の凄惨な末路 中国の野望はかくて潰える (宮崎正弘著 PHP研究所)

著者の豊富な知識に脱帽です。

『ベトナム沖合の海底油田の油井リグはベトナムがロシア、インドなどとの合弁で進めている現場が多い。他方、ベトナムは米軍との共同軍事訓練も実施している。国交回復20周年として、ダナン港に米海軍の駆逐艦などが入った。そのうえでグエン・フー・チョン共産党書記長は北京を訪問したのだ。

2003年の都知事選挙で東京都が新銀行をつくることを公約とした石原慎太郎知事は、2005年に「新銀行東京」を発足させた。資本金1187億円で、うち1000億円を東京都が出資し、わずか3年後、累積赤字1000億円を出して事実上、破たんした。・・その記憶が鮮明によみがえってくるのである。いうまでもなく「アジアインフラ投資銀行」(AIIB)と、もう一つ、中国が主導する「BRICS銀行」の行く末である。

中国の4大銀行の不良債権率が1%台というのは信じられない。少なくとも、一桁ちがっているのではないか。中国の国有銀行は潜在的な不良債権を隠ぺいしているとしか考えられない低い数字が並び、首をかしげたくなる。いや、米国のアーンスト・アンド・ヤングとの優良な会社監査法人が中国にも信州つぃて詳細を調べ上げているが、あまりのことに公表を差し控えているのである。

周知のように、3億8400億ドルあるとされる中国の外貨準備は空っぽ。虎の子の米ドルは、高級幹部や国有企業の経営者等によって海外へあらかたが持ち出されている。加えて無謀な海外投資、プロジェクトへの出資やら外国企業の買収などで外貨準備が底をついた。かろうじて保有する米国債券は、ドルと人民元交換の担保であり、全国的に引き上げるわけにはいかない。

ビットコインの80%は中国人、庶民は金買いに走り、人民元を手元におかないように心掛けている。猛烈インフレに悩んだアルゼンチンや、崩壊直後のロシア経済と酷似してきた。

世界が幻惑された中国の外貨準備が世界一という数字は、一種のトリック。中国の外貨準備は3兆8430億ドル(2014年末)とされるが、ちょっと待った。CIA系シンクタンクの調査ではすでに「不正に外国へ持ち出された外貨」が少なく見積もっても、1兆800億ドル、最悪のケースでは3兆7800億ドルあるという。つまり、表向き「あることになっている」はずの「外貨準備」がじつは底をついているのである。その証拠に中国は米国債の保有額を減らしており、2015年2月末統計で日本は世界一の座を復活させた。

金融インテリジェンス戦争をけん引しているのは英国のシティである。したがって英国にとってAIIBに加盟を表明しないことには情報が得られない。その高度の情報を同盟国である米国に提供できる。そもそも、世界金融を取引量や指標などで差配しているのはウォール街であり、そのウォール街の論理は規制を徹底的に緩和し国境の壁を取り払うグローバリズムであるが、そのルールを決めているのは絵一国のシティという原則的視点を忘れがちである。英国は、もし中国がシティルールを破壊するような行為に走れば、いつまでも協力的態度を続けるとは考えられない。

・・中国が英国を引き込んだことは、シティルールを呑まないかぎり、AIIBの円滑なスタートはないという陥穽に落ちたのである。

加えて同行の本店ビルは北京の金融街で建設が始まったばかりで、どう最速に見積もっても本店の建物の完成は2017年ごろである。・・多くの誤解があるようだが、資本金は1000億ドル集まろうが、これは使えない原資である。貸し付けは、設立以後に起債されるAIIB債権で集められる資金でなされる。株式会社にたとえると、増資して株主への配当を約束しながら経営するスタイルであり、銀行という特殊法人は不良債権を抑えるためにも自己資本比率が厳しく査定される。AIIBポンドは債権である以上、金利をつけて拠金者(つまり株主)から集めるが、そこで最大の問題は格付けである。S&P社やムーディーズがAAAなどと「信用力最高」のランキングにするとは考えにくく、もしBBB(投資不適格)などという低い格付けになった場合、高い金利をつけなければ市場で消化できない。

さらにややこしい問題は、ロシアが期待する「BRICS銀行」だ。ブラジル、インドよりロシアのGDP成長は遅れており、そもそもロシアとブラJるは原資負担にも追い付けない状況になってしまった。

たしかに貿易では「中国が重要な相手国」と回答したアメリカ人が43%となって対日重要度(36%)を抜いた。しかし、中国を信頼できる国かとの設問には過半が懐疑的で、25%が「まったく中国を信用していない」と答えている。公平かどうか、という調査では「中国が公平」としたのは36%、対比的に日本への信頼度は55%という高い数字だった。

問題は「成長の速度」ではなく、成長の要因が重要である。過去の中国の急激な成長は地方政治の債務による投資に依拠した。国有企業のがむしゃらな設備投資に支えられたが、そのような成長は長続きしない。そしてボールソンはこう続けた。「金融システムの調整が必要だが、習近平は党内に物議を醸しだし、日本との関係を悪化させ、メディアの統制どころかインターネットも監視している。経済が今後も安定的持続を志向するのであれば言論の自由、流通の自由を認める改革が必要であるにもかかわらず習近平は、そのことに背を向けている。」

習近平が唱える「愛国主義による中華民族の復興が中国の夢である」という虚ろなスローガンを無邪気に受け入れ、信奉する人々はもはや存在しない。追従組がいくら宣伝しても、本気で宣伝しているわけではなく、聞く側もまったく白けている。シャンボー教授はこうした状況下の習近平を「裸の王様」と揶揄した。というのもシャンポーは、北京の中央党校校内の書店で山積みになっていた習近平の「大衆路線」を宣伝する無料の冊子を誰も持ち帰らない風景を目撃したからだ。

他方、習が自派閥を持たず、権力基盤を強固としていない段階で、守旧派、最大利権集団の上海派を標的としたことは無謀ともいえる。江沢民に習近平が挑むのは危険を増大させる(シャンボー教授は明言していないが、軍クーデター、暗殺というシナリオがある。)

地政学上もニカラグアは米国の安全保障にとって重大な位置にある。ともかくニカラグアという「米国の中庭」で中国は、米国の大きな権益があるパナマ運河に対抗するため膨大な建設費を投じてニカラグアの東西を貫通させる運河を建設し、数年で完成させると息巻いている。

シャンポーの結論は「いったん、この体制が崩れ始めると中国は長期的かつ複雑に停滞し、より暴力的な社会となるだろう」というものである。その直前にも、対中ハト派の代表格、ジョン・アイケンベリーが「フォーリン・アフェアーズ」に寄稿して「中国に失望した」と書いた。

世界を見渡して、いま中国の味方は誰もいない。中国は四面楚歌の状態である。最後の有報だった北朝鮮ともいまや犬猿の仲であり、中国には援助と引き換えに応援を言うのはラオスとカンボジアだけ。かの華僑国家であるシンガポールも、中国の軍事力に対応するため米空母の寄港を認めている。

・・このうえに無謀な海外投資で流れ出た外資もある。GIF(グローバル・ファイナンシャル・インテクリティはワシントンのシンクタンク)のホームページを見れば、衝撃的な詳細レポートが無料で閲覧できる。

英国は総選挙を控え、経済政策の突破口をキャメロン政権は探していた。しかも英国政権ンは連立であり、保守党と自由党が連立を組んでいるのだから、ちょうど公明党を口説いて自民党の政策決定に影響力を行使しているように、中国は英国自由党にテコ入れして与党連立に亀裂を生じさせ、この隙間をついて中国は英国正解を分断した。そのうえで英国の財務省と外務省との亀裂が生じたすきに、穏健派のオズボーンその財務大臣がキャメロン首相を口説いた。

しかしユドヨノ政権からジョコ政権になると、インフラ建設投資、港湾設備に熱狂的となって、日本と同様な位置づけを中国に対してもとるようになった。貿易相手国も日本を抜いて中国が筆頭となった。

在日華人らの中国語新聞は54種も出そろっているが、最近は日本批判の記事に混ざって自省の色彩を帯びてきた。なかでも「中国のGDPは日本の2倍だが、実質の経済実力で中国は日本に40年遅れている。一人あたりのGDPは中国が7000ドル弱なのに、日本は4万ドルである」(華風新聞 2015年4月10日号)

第一は、為替レートによる通貨競争で中国は負けが込んできた、という意外な事実だ。人民元のドルペック制が裏目にでているのである。

いま、米ドル高にひきつられて人民元も独歩高、1人民元は12円から今や20円から21円である。だから日本に旅行に来ても中国が割安感を感じるという、奇妙な景観が出現したのだ。

・・中国の債務総額はGDPの282%(マッキンゼー報告)で、日本より悪いのだ。

第6にこれほどの金満国家となっているのに社会福祉、生活保護、医療制度は問題だらけ。特権階級のみが社会福祉制度の恩恵にあずかれるが、庶民は蚊帳の外である。したがって民衆の党幹部への恨みは深く、こうした所得格差を少しでも縮小させていかない限り、庶民、農民の一揆、暴力的抗議運動が収まることはないだろう。

中国は新幹線に関して「安全」を最重要視した。その「安全」は運行の安全ではなく、テロリスト対策だった。日本とまるで異なり、乗客サービスや車両の安全はおざなり。日本の新幹線のような乗り心地や乗務員の優しいサービスなど、ソフトに関することは劣悪である。安全性に関して不安で危険な個所は、山とトンネル部が多い区間、とりわけ山間部の数十メートルの高架と、長い河川にかけられた橋梁の強度、耐久度への疑問である。

2014年夏以来、マカオの賭場は暗黒なムードに覆われている。ギャング等の犯罪のせいではなく、肝心の中国大陸からの客が激減したのだ。

共産党では不文律として、引退した幹部は外遊どころか国内でも公の場には登場しないことになっているのだが、江沢民は2014年、上海に現れてプーチンと握手し、夏の北載河では海水浴の様子を意図的に写真を撮らせた。

恨みを買ったことを強く認識した習近平は、せっかくハーバード大学へ留学させていた娘の習明澤を、誘拐や暗殺から守るために急きょ、帰国させる措置をとった。ほかの幹部連中も一斉に子女を一時帰国させた。

・・王外相の発言が中国国内の政治において、どれほどの重みをもつのか。王は党内序列が低く、先輩格の楊潔●前外相(現在国務委員)にはるかに及ばず、しかも次の党大会で国務委員になれないだろうといわれる。つまり、彼がなにを言おうと、報道する価値は低いのである。王発言は党内上位に向けてのゴマすり発言でしかないからだ。

王が日本駐在大使の折、右腕として仕え、日本のマスコミが中国報道をウォッチしていた馬継生は、夫人とともに「重大な規律違反」で拘束された。馬は日本勤務のあと外交部報道副部長からアイスランド大使に転任していたが「スパイ容疑」を問われたという。

福澤諭吉は130年前に警告した。悪友とのつきあいを止めようと提唱した「脱亜論」の動機は、朝鮮独立運動を支援する過程で、背後にいる清の抜きがたい華夷秩序という障害、そのい時代錯誤を目撃し、絶望したからだ。

西村氏によれば、「脱亜論」は日本史の中で4回あった。聖徳太子、菅原道真、荻生徂徠、そして福澤諭吉という列になる。聖徳太子は遣隋使を使わして隋の煬帝へ送った書「日出ところの天使」云々。二番目は菅原道真の遣唐使廃止という英断。そして三番目は江戸国学の台頭と朱子学への訣別、つまり「中世政界からの脱亜」だったという。たしかに歴史をひもとけば、危機に直面すると日本に現れるのが脱亜論である。

しからば征韓論と日清戦争はなぜかと問えば、「征韓論は韓国を独立させるための方法についての日本政府内部の議論であって、韓国を侵略してわが国土に加える目的ではなかった。」「日清戦争も韓国の独立を容認しない清と闘ったもので清国を領有する目的はなかった」と馬渕睦夫・元ウクライナ大使は続ける。

宗族制度とは、一族の中に優秀な子どもがいれば、皆で金を出し合って学校へ送り出し、科挙の試験を受けさせ、一族の名誉とした。科挙選抜の原動力となり、官僚を引退すると「郷紳」と呼ばれ、その土地の統治者でもあった。こうした中国古来の伝統が崩れた。破壊したのは毛沢東の共産主義で、「革命」と称して、農村へ行くと、地主と郷紳を人民裁判にかけて処刑した。これで農村に知識人は不在となった。家族主義を壊したのは密告制度だった。

将来のポーランド支配にこうしたリーダーの卵たちは邪魔だったため、捕虜の扱いを無視した蛮行だった。しかも長くソ連は「ヒトラーがやったこと」などと平然とうそぶいていた。英米は「カチンの森の虐殺」の真犯人を知っていながら、ソ連の主張に加担していた。この構造は「南京大虐殺」と似ている。「南京大虐殺」という政治宣伝は中国がねつ造したフェイクだと英米は知っていながらも、戦後70年、中国の主張を黙認している。

ポーランドはロシアとドイツに挟まれて侵略を繰り返され、その歴史の教訓からEUとNATOに加わったものの「ユーロ」には決して加盟しようとはしなかった。「主権」を棚に上げて金利も債務上限も独自に決められないことに国民はNOをつきつけ、もしユーロに加わるとなると憲法改正が必要という措置をとっている。

日本の伝統的な智恵に解決策がある。戦国武将から豪商、そして名もなき一介の庶民から特攻隊の遺書までを一瞥すると、一貫して底に流れるテーマがあることに気づく。「自己に克ち、国家に忠誠を、人生を有意義に、そして決して浮利を追うな」という訓戒である。』

2015年6月23日 (火)

始めよう。瞑想 15分でできるココロとアタマのストレッチ (宝彩有菜著 光文社)

前回(平成27年(2015年)6月22日に載せたものの前著です。こちらが基本的な著作ですが、やはり参考になりました。

『瞑想は「何かを想像したり、考えたりする」ことではありません。むしろ逆です。「何も考えないようにする」ことです。

瞑想は短くても効果があります。瞑想する時間は、3分でも、5分でも、10分でもOKです。瞑想したら、瞑想した分だけの効果があります。・・毎日決まった時間にする方がより効果があります。

毎回何となく瞑想するのではなく、毎回本気で新たな気持ちで瞑想することが大切です。毎回真剣勝負だというくらいのつもりが良いです。

私のお勧めの「Mマントラ(マントラの音は、赤ちゃんの時の自分の鳴き声と同じ音」参照)を使った場合は、吸うときに「オーン、ナーム」、吐くときに「スパーハー」と心の中で唱えます。

瞑想のポイントは「無」になることだと言ったり、「空」になることだと言ったりしますが、具体的には、何も考えない状態になることです。そのためには、「考え」が勝手に走っているのを見つけて、捕まえて、停止させなければなりません。

マントラは瞑想するときに頭の中で唱えるものです。

頭の中を静かにさせるためには、音や光など五感からの外部刺激を頭に与えないようにすることも大切です。また、頭の内部もなるべく思考作業をさせない方が良いのです。

腹式呼吸は不随意筋でもある横隔膜を使って呼吸するものです。腹式呼吸に切り替えると頭の随意筋作動思考が極めて軽減されるので、瞑想に向いているわけです。

最初はお腹が硬いのでスムーズに膨らみません。慣らすためにはこうします。腹部一杯息を吸ったら、一度そこで息を止めて、5から10秒くらい待ちます。

印を結ぶのは、このように瞑想中に眠らないようにするための工夫です。

マントラを唱える目的は、「雑念の整理促進」です。・・それらの混沌とした雑念を整理するための手段として、マントラを唱えるのです。

良い瞑想のためには、マントラなしで瞑想するより、マントラを唱えていたほうがいいのです。しかもそのマントラはなるべく「退屈」なマントラのほうが良いわけです。頭がマントラに集中していても、すぐに退屈になって集中が途切れてしまいやすいので、その隙間に「雑念」がでてくるという仕組みです。出てきた雑念を次々に片づけていくと、、雑念の在庫がなくなってついに「空」になってしまうというわけです。

瞑想の最初のポイントは、自分の思考が動く様子を観察することです。それを「観照」といいます。簡単な第一歩なのですが、この一歩こそが大切なのです。

・・実際に頭に見えている者は、そこに現実にあるものではなくて、頭が情報処理をしてこれは何々だと認識した映像を見ているのです。

頭はセンテンスを紡ぎ出す機械であって、自分自身とは違います。・・ではどうやって頭に自分勝手なことをさせないか、という具体的な方法論になってくるわけです。その実践的な方法こそが瞑想なのです。瞑想が上達すれば、自分の頭を勝手にきままにやりたい放題にはさせないことができるようになります。頭という強い牛の手綱をつかんだことになるのです。・・本当の自分は、ただ観照しているだけで、「考える」ことはしません。「考える」任務を負っているのは「頭」です。「本当の自分」が何かを考えたいときは、「頭」を使って考えています。「頭」は思考や判断の任務や機能を果たす機械のようなものです。「頭」は「本当の自分」ではないのです。

公開は「変えられない過去を何とか変えたい」と無理なことを考えている心の働きです。堂々巡りの状態になっています。同じ考えに執着して気分転換ができないわけです。

瞑想すれば熟睡できます。また、瞑想を15分すれば睡眠時間が約2時間節約できます。まず、熟睡できる理由を説明します。人間は睡眠中に頭の机上に積みあがった前日分の活動データ類を整理収納しています。瞑想すると、その整理収納作業が瞑想中に進みますので、睡眠中の作業量が少なくて済むことになります。それで熟睡できるわけです。・・眠いというのはほとんどの場合が頭の机上にデータ類が山積みになっている場合です。例えば、海外旅行などで知らないところを物珍しく回っていると、体は疲れていなのに半日で物凄く眠くなってしまった、という経験をお持ちの方も多いと思います。これも、新しいデータが急速に机上に山積みになったからです。

瞑想が上達してくると、このレム睡眠中に行う整理収納作業を、日中の瞑想中に進めることができるようになります。

臨死体験とは、死にそうになって情報が何も来なくなった頭が「今、死にそうになっているけど、死とはいったなんだろう」と必死でなけなしの手持ちの記憶を検索して、それをもとに懸命に思考している状態の途中で、幸運にも目が覚めたということです。

瞑想の実践は、頭の机上(脳の一時記憶域)をきれいにするのが目的です。・・効率を上げるにはポイントが3つあります。① 【元から少ない】机上に載っている物は少ない方が良い。 ②【追加しない】片づけ作業中に新たな物を載せないこと。 ③【素早く片づける】片づけるスピードが速い方が良い。

・・「欲の4要素」である「不満」「強欲」「執着」「比較」の逆のことをして生活すればよいのです。そうすると、瞑想をするときに片づけに手間取る重要データが少なくなります。

「これは今瞑想中だから瞑想が終わってから考えよう」と棚上げすることです。瞑想中に、新たな考えやよいアイディアを得たと思うこともあります。しかし、それも膨らませたり追及したりしてはいけません。とにかく、後で考えようと棚上げしてください。

棚上げのコツは、「後悔」のように堂々巡りの未解決の案件は、「反省」のような完結した言い切った案件にすることです。

「それほど、羨ましいのなら、あの人と肉体も時間も過去も家庭も仕事も全部、人生丸ごととっかえっこしますか?」と自分自身に聞いてみる手があります。・・自分は基本的には自分が一番好きなのです。それで大概すっきりと「うらやましい」が消えます。

思考がなくなっている、消えている状態で、「境地瞑想」といいます。そうなった状態を、「瞑想の状態」になったとか、「ニルヴァーナ」とか「DELIGHT STAGE」とかいうこともあります。

このf瞑想のコツは「いつ瞑想をやめても、OKだ」と思ってすることです。邪魔が入ったとか、ああ、もう少ししたいとか、不満に思わないこと。「しばらくの間、自分は消える」「無になる」「何も考えない」という感じでしょうか。・・このf瞑想をこまめに実践して机上がいつもキレイに片付いていれば、「ふーっ」と深い呼吸ひとつで「f瞑想」から極めて短時間で第2段階の深い境地瞑想に入れるようになります。

肉体的な欲・精神的な欲の両欲について「抑圧我慢方式」が社会常識程度できるようになることを「智恵の成長」と言います。精神的な欲についてさらに「消滅安寧方式」ができるよになることを「智恵の完成」といいます。本当の人間の幸せのためには、「智恵の完成」が必要だといえます。瞑想は「智恵の完成」のための実践的な練習方法です。

日常の「観照」のエクササイズ (1)悪い気分、それはラッキーだと思う練習 (2)批判の心をチェックする練習 (3)人生を素晴らしくする練習と準備

悪い気分は「欲」の未充足のために起こってくる感情なので、「欲」のしっぽを捕まえるのにこれほど好都合な感情はないのです。それを利用します。

「批判」が起きる原因は自分の基準と人の基準が異なることにあります。

決して検討しすぎないことです。特に、未来・過去について検討しすぎない。大方の「不幸感」はこの検討しすぎ~発生していますから、これが消えてなくなれば本当に「人生は素晴らしい」という実感に必ずつながってきます。

人間の目は片目ずつからの二つのずれて異なった平面画像を脳に伝えます。脳は「再構築ソフト」でそれを一つに再構築し立体映像として認識しています。実際に目の前にあるものをそのまま見ているわけではなく再構築されたものをみているので、その際の視点ポジションが「再構築ソフト」内で移動すれば上から見たような映像を構築できます。

暗闇なのに頭の一部か全部がとても明るく(普通は白っぽい感じ)なってくることがあります。これは「境地瞑想」のときにそうなりやすいのですが、理由は資格を取り扱っている脳の部分が活性化されるからで、それもそのままただ放っておけば良いのです。』

2015年6月22日 (月)

楽しもう、瞑想 心に青空が広がる (宝彩有菜著 光文社)

坐禅に通じるところがあり、参考になりました。

『まず、「自分」は、「マインド」を使って思考している、と考えてください。「自分」は手を使ってものを「つかむ」という作業をします。それと同じように、「自分」はマインドを使って、「思考」という作業をしているとイメージしてください。

・・このマインドに、ずっと働き詰めではなくて、「働くべき時」は働いてもらって、「働かなくてもよい時」は休んでもらう。これができるようになるのが、実践瞑想の目的です。

・・「思考」を抑圧してたりして止めるのではなく、思考の種を片づけて、「思考する必要がない状態」にして止めるのです。

この思考の種は、アタマの外に捨てることはできません。でも、思考の種の優先順位を変更することはできます。

・・そして、またマントラに戻る。マントラを「集中」して唱えていると、また次の思考が出てきますから、それに「気づき」、そして「棚上げ」する。つまり「集中」「気づき」「棚上げ」というサイクルを回すわけです。これが、「瞑想の浄化3手順」とよばれるものです。

マントラとは、前述のとおり、瞑想中に出てくる「思考」を際立たせるための、特定の短い思考です。その短い「思考」を一定の場所、つまり「定点」として定めることに意味があります。定点になるものであれば、実は何でもいいのですが、何か意味があったり、長すぎるもんでは、マントラとしての機能が薄れます。したがって、マントラは適当に短くて、意味のない音節がよいのです。

つまり、外部の情報(物音)は、内部の情報(計算)に意識を持っていく、つまり「集中」することによって遮断されました。マインドが気にしなくなりました。・・瞑想中は、まず内部のマントラに集中します。・・瞑想における集中のポイントは、「適度に集中する」ということです。「適当に、いい加減に集中する」ということです。集中しすぎて、「マントラ以外は絶対に考えません」などという状態になってしますと、思考の種を呼び出してくることができません。マントラに集中することは、思考の種を呼び出す方便だと考えてください。

結印(印を結ぶ)とは、膝の上においた手の、親指の先と人差し指の先を軽く合わせて、「輪っか」をつくることです。手のひらは上向きでも下向きでもよいのです。

・・ついには、何も考えることがなくなってしまいます。すると、とても、シーンとした状態になります。巨大な宇宙の中に一人穏やかに浮かんでいるような、今まで経験したこともないほどの静けさになります。

眠くなった場合は、注意してください。瞑想中に眠る癖をつけると、その癖の解消に、数年かかることもあります。瞑想中に眠らないことです。

人間のアタマが懸命に作業を続けられる時間は、およそ15分です。15分を経過したら、一旦瞑想を止めてください。そして少し休憩して、新たに座りなおして、瞑想を始めたほうが良いです。

瞑想の時間は15分と言っても、目覚まし時計のアラームか何かで瞑想を終了させるのはよくありません。・・瞑想を終了するときは、なるべく穏やかに、静かに、終了させてください。

「記憶を思い出す作業」というのは、このように、過去の記憶を保持している膨大な量の細胞を刺激することになりますので、とてもよい脳の活性化になります。

しかし、瞑想でエクスタシーを得られる状態というのは、マインドがとても暇で、自ら超リラックスして、休んでいる状態です。その時に、他の頭脳の部分も「マインド様が休んでいる」ので解放されて、エクスタシーの状態になるわけです。

なるべく早くマントラに戻ることが、早く棚上げすることにつながりますから、私は「マントラに素早く戻ってください」という指導をします。これ自体、間違いではありませんが、「マントラに素早く戻るということは、マントラをいつも唱えていることだ。何か別の思考をしても、すぐにマントラに戻れば、それで自動的に棚上げになっているのだ。だから、いつもマントラを唱えていると、思考の種は、どんどん片付くのだ。つまり、マントラを唱え続ければいいのだ」などと理解してしまった場合、これをいつまでも、第2段階にいけない弊害になります。

これを改める方法はいろいろありますが、マントラを唱えるスピードを極端にゆっくりにする方法もあります。そうすると、意識が確かにマントラにいきますので、BGMではなくなります。

第2段階に行くときには、呼吸は呼吸に任せて、気にならない、意識しないということが大切です。

恐いものや恐い感情は、大方は自分を守ろうとするプログラムが反応して生じているのです。ですから、そのプログラムの抜去の時期が近付いてきている、抜去の前触れの場合もあります。「恐い」という感覚は瞑想では歓迎だ、と思っておいてください。

「片付け作業」の目的は、「もうここには仕事がないよ」ということをマインドに納得させて、瞑想を第2段階に進ませようということです。

・・やがて、「本来の自分」はほとんど出番がなくなって、マインドとプログラムの働きだけで日常が進むようになります。すると、「本来の自分」は、「自分とはマインドである」と錯覚してしまいます。そして、ほぼすべてのことをマインドが取り仕切るようになってきます。

・・良くない「思考」が始まると、すぐにそれに応じた「勘定」がつき従い、それが自分でもわかるほどの「苦しい気持ち」「不幸な気分」になってしまうわけです。

・・「get」「hold」「copare」「more」のどれか一つを止めれば、「思考のエンジン」の回転は止まってしまうわけです。その具体的な止め方は、まず4つの要素のうち、どれかに的を絞ります。

このように、なんでもその「欲」の反対にすれば、すぐにその思考の回転が変わり、欲の向きが変わり、つまり陽が消えて、欲の呪縛から逃れられます。

このように、心の傾きを変えて「欲」を「愛」に転化するので、これを「愛転化法」と呼んでいるわけです。

そして「欲」がなくなれば、すぐに「愛」があふれます。なぜなら欲と愛は、月の満ち欠けのような関係だからです。「欲」が暗い部分、「愛」が明るい部分です。

修養は、「幸せを求めて」することに違いはありませんが、「幸せを求める」のではなく、実は「不幸と思っている」という、その思い方を取り除くだけのことです。人は誰でも、もともと「大幸福」で、「大満足」な存在なのですが、それを忘れているだけなのです。

毎年、桜の花は咲きますが、去年と同じ花ではないのです。そして、たとえ満開の花でも気前よく散らせてしまうからこそ、また新しい花を咲かせることができるのです。

修養も同じです。ある程度進むと、かなラス一旦崩れて基盤拡大が起こります。その時にあわてない、焦らない、めげないことです。「今、私は基盤拡大の状況になっているのだ。だから、あがけばあがくほど、崩れて低くなっていく。でもそれは基盤を大きくしているわけだ」と理解して、その状況を楽しむことです。積極的にその「スランプ」を楽しむことです。』

2015年6月21日 (日)

小さく始めて 農業で利益を出し続ける7つのルール (澤浦彰治著 ダイヤモンド社)

最近農業が盛り上がりかけてきているように感じます。ということで何冊か読んでみました。

『その中で、成功している人に共通することの一つに「仕事に対する志と健全な価値観があり、未来投資費である”利益”を出し、経営として成り立たせている」という当たり前のことがあります。

経営は「志」「健全な価値観」と適正な「利益」があって継続できます。そして農業の現場には「利益」とそれを生み出す「成長の宝」があるのです。・・「問題や課題は宝」という考え方を持って、組織の中の風通しを良くし、それらの問題や課題を積極的にポジティブに改善できる風土にすることが、組織の価値を高めることになるのです。そのような組織ができれば、取引先からさまざまな要望を開くことができるようになるのです。

・・このように農業では、農産加工を当たり前のようにしていたのです。しかし、時がたつにつれ、農業の分業化が進み、漬物は漬物屋さん、味噌は味噌屋さん、しょうゆもこんにゃくもすべて専門の業者がつくるようになり、農業はいつの間にか原料生産業になってしまったのです。こうかんがえたときに、農家が生産したものを自ら加工して販売することは、経営上とても重要なことです。

成功しているところに共通するのは、どの農場も通常のメーカーが出している商品よりも、確かな品質と特徴と強みをもっていて、高い価格でも売れていることと、農業生産から離れていないことです。しっかりした価値競争力のある商品を生産しているのです。

時代が変わっても、初期投資は低く抑えることが大切ですし、加工するものにもよりますが、最初は手作業で始めて、商品についてお客様の意見を聞き、売れる手ごたえを持った後に、徐々に必要な投資をしていくことが大切だと思います。

「変えなかったこと」は非効率でも品質を追求したことです。そして、衛生管理ができる施設にすることや洗浄性のよい、機械の導入など、変えるところは大胆に変えました。

農家が食品加工を始める強みは、なんといっても「畑」とその地域資源にあります。畑で栽培されたものをその場で加工し、栽培から加工、販売まで行うことで、付加価値が高まります。

しかし、日本には、そのようなお客様のいる農家はあまりありません。「私のところは小さい経営だから・・・」最初からあきらめて、お客様を作ろうとしないのです。

農産物のままだと価格は市場(いちば)での相場になってしまいますが、加工することで食品になり、価格は製造者が決められることを初めて体験したのです。

こんにゃくの加工を始めたことで、相場から、安定した価格での販売になりました。・・私の経営が大きく変わることができたのは、こんにゃく芋の不安定な価格を、製品化することで安定化させたことと、多くの仲間に支えられて販売ができたことの二点だと思っています。

田舎の人は農業にネガティブな感情を持っていましたが、驚いたことに、都会の若者にはまったくそのようなことはなく、農業という職業を素直に受け入れていたのです。

私たちは物量は不足していましたが、価格交渉をしなかったので、結果的に取引先から大きな信頼を頂けたのです。

本来、その食品や流通業界と農業界は「食」でつながっているはずなのに、現実は水と油の関係ではなかったでしょうか。農家は再生産できる価格を明示せず、相場をねらって高く売ることだけを考えていましたし、業者はいかに安くたたいて買うかということだけに関心を寄せてきました。狐と狸の化かし合いのようなことをしていて、お互いに信頼関係を築こうともしませんでした。

個人で農業参入するときの一番の強みは、独立する人がすべての決裁権や責任を持っていることです。つまり、その人自身がかけがえのない100%の資本なのです。

農地は生産設備でありながら、減価償却できない資産なのです。・・この点が他産業との大きな違いです。・・農業の場合、生産設備である農地が減価償却できないという経営的デメリットを抱えているのです。

お金を持っている人が借金をせずに全部自己資本金で農地を買ったとしても、総資本回転率が下がり、経営的には非効率になります。

農業技術はその土地に合ったやり方にアレンジされて初めて生きます。土壌学や肥料額、作物生理など、普遍的な農業技術はありますが、必ずしもそれがその土地にそのまま合うとは限りません。

どんなに素晴らしい農業の知識や農業技術を持っていても、その土地の気候風土がわからなければ活かすことができないということです。

成功している農家は、「できない」「無理だ」「天候が悪かったから」というようなことは言いません。常に肯定的に物事を考えて実践しています。「今回うまくいかなかった原因は何だろう?」と原因を常に自分の中で追及し、「できない」という言い訳をいません。そして、いろいろな人に素直に聞いて、解決の糸口を見つけ、常に可能性を模索し、工夫しているのです。

現在、農業を立派に行っている農家は、やはり素晴らしい技術を持ってそれを磨いています。その技術をしっかり活かし、採算価格で販売ができれば、わざわざ経営分析をしなくても農業経営は成り立つようになっているのです。あくまでも現場の技術に支えられて経営を語れるのです。農業技術は大きく二つに分けられると思います。一つは、畑の耕転や播種、接ぎ木などを雄行う作業技術、機械の操作などです。もう一つは、作物の生育状況によって水を与えるとか与えないとかいった栽培管理技術で、土壌分析や肥料設計、病害虫に関する予防措置などがあります。

日本が多雨で高湿度など環境変化がめがぐるしいため、定性的・定量的な栽培管理よりも、その場にあった臨機応変な技術が求められること、地形が複雑で分業化するほどの規模がないこと、やはり他産業と同じく在庫が増え、生産性が低くなることなどの問題です。

これから農業を始める人が、自分の代だけで良いと思っていたら、永続的に取り組もうとしているよい取引先には恵まれず、常に目先の価格だけが評価の対象になり、安定した農業経営にならないのです。

野菜は種をまいたら待ったなしです。つまり、種をまく前にお客さまを見つけて、納品時期と単価と量を決めることが農業では大切です。

野菜は工業製品のように途中で仕掛品として在庫をしたり、製品にして倉庫に積んでおくことができません。出荷適期も短いので、種まきををする時期が、収穫時期と販売の時期を決めます。

私は個人で農業をする場合、前に書いてように、一人で栽培と営業のすべてを行おうとするのではなく、希望する地域で共感できる販売組織に入って農業を始めることをお勧めします。それが成功するための近道なのです。

二つ目の栽培方法を変えることで商品になるというのは、同じものでも、そのコンセプトは生産工程を変えて、安心感を担保することで、価値が生まれるということです。目に見えるのは、どちらも同じ大根やチンゲンサイですが、目に見えないところに価値が生まれ、商品になってくるのです。

農協や市場はお客様ではありません。お客様は最終的には買って食べてくれる人です。農協や市場を含め、中間流通業者はお客様によりよい食生活をしていただくためのパートナーだと考えて取り組んでいくことが大切です。

このように、自分が栽培しようとしている農作物を買ってくれる人が誰なのかをはっきりさせることで、栽培方法や野菜の種類が決まってきます。

農作物には幾つもの価値があります。とくに、その中で「そのものが持つ機能価値」「届け方が生み出す価値」「栽培方法による価値」「生産者の価値」「加工する価値」「注木の価値」の六つが大きな項目として考えられます。

機能価値とは、作物として一番ベースになる価値ですが、これにどれだけ付加価値をつけられるかが国内で農業をするうえで大切になります。

農作物を加工することは、それを食べる人や使用する人にメリットがなければなりません。利便性を高める。家庭ではできない加工を代行する。おいしさを高めるそこでしかか国できない希少性を高める。ゴミを都会に持ち込まないようにするなどが考えられます。

「問題や課題は宝」という考え方を持って、組織の中の風通しをよくし、それらの問題や課題を積極的にポジティブに改善する風土にすることが、組織の価値を高めることになるのです。そのような組織ができれば、取引先からさまざまな要望を聞くことができるようになるのです。

農協や市場はお客様ではありません。本当の意味でのお客様とは生産した農産物を再生産可能な価格で購入し、消費・使用してくれる人だと、私は定義しています。・・経営規模の最小ではありません。その規模に合わせたお客様を作っていくことが永続的な農業経営をしていくためには重要です。

・・私は売り込むことが得意ではなく、飛び込み営業はできませんでした。ですから、販売を始めたころは、購入していただいたお客様からいろいろなことを聞き、その人が課題にしていることを改善して形にしてきました。この方法は、思った以上に効果がありました。そのような形で開発した商品やサービスはお客様から感謝され、値切られることがないのです。逆に値切られるのは、、他人が成功した商品やサービスを真似て同じようのものを売り込もうとしたときです。・・価格競争に入ったら、輸入農産物には勝てないので、独自の商品やサービスを作り出すことが価格競争に巻き込まれない唯一の方法だと思っています。

クレームを出すことは決して良いことではありませんが、出てしまったクレームを課題に変えて改善していくことで、それは会社成長の種になるのです。別の言い方をすれば、クレームは無料のコンサルタントとも言えます。・・クレームを起こさないように最善を尽くすことは当たり前ですが、起きたクレームに対して徹底的な改善と対応をすることで、お客様は信頼してくれるのです。

販売は大切ですが、農業では農作物が一番の営業マンです。作物の栽培で手を抜いて、販売に力を入れたら、このように徐々にお客様はいなくなっていくのです。

米や果樹のような作物は別ですが、野菜のような作物の場合、生産時期と販売時期が一緒なので、農場管理と販売管理を一人で行うのはそもそも不可能に近いのです。・・農業では、生産物がよいことが一番の顧客満足になり、それを追求していくことが最高の営業活動です。

日誌をつけ始めてから数年経過して、かつては同じ失敗を繰り返していた問題の生産者の成績が伸び始めました。驚いたことに、現在では、その生産者の品質は野菜クラブの中でも高いレベルになり、お客様からも高い評価を得られるようになったのです。このような経験から、「農業で成功する一番のコツは日記をつけることだ」と私は常に言っています。

コマツナは、一番成長するときには、一日5センチも伸びることがあるのです。

このように、農業では、種まきから出荷までの間は、手元資金が出ていくばかりで入ってくるお金はないのです。ですから、農業を始めるときはもちろんですが、新しい作物を栽培したり新しい事業を始めたりするときは、相応の自己資金を持たなければ、運営はできないのです。

農業が現金商売である他産業のように急成長していないのは、この仕組みの違いがあるからで、農家の経営能力や経営感覚がないからではありません。この資金の流れの違いを無視して人材育成もしないで、規模拡大することは、農業をしている人でもとても危険なことです。

農業は資金の回転が他産業と違うこともあって、国の制度の中に低金利で長期資金を借りられる仕組みがあります。

農業は現金商売ではないので、運転資金が目に見えないところに消えていくのです。目に見えないからと言って、計画に入れなかったりすると、設備は素晴らしいものになったけれど、運営面で設備の改善や維持ができず、本来の計画したオペレーションのできません。そのため、力を100%発揮することができず、黒字化に時間がかかるのです。

利益を出している農場に行くと、必ず古い機械をしっかり整備して使いこなしています。

いまの農業ブームの中では、技術を抜きにして、設備投資に頼って利益を出すことばかりが目に移りますが、それでは償却費ばかりがかかってしまい利益は出ないのです。農業技術は目に見えない最大の資産とも言えます。そして、この技術は人に宿りますから、よい人がどれだけ働いているかという、人の能力が重要な資産になってくるのです。』

2015年6月14日 (日)

ITビジネスの原理 (尾原和啓著 NHK出版)

しばらく更新を怠けていました。失礼しました。「ITビジネス関連の教科書的な本」との書評を読み購入しました。なかなか勉強になりました。

『私はネットワークやITは、「自己実現を加速するもの」であり、「人を幸せにするもの」だと思っていますが、現在のIT環境は進化が早すぎるゆえの歪みも抱えている一つの踊り場に入りつつあるのではないかとも感じています。

・・同じものでも場所によってその価値が全く違ってきます。この「場所によって違う価値の差」をお金に換える、これが商売の原点です。

インターネットの最大の特徴は、空間<距離>的、時間的な制約なしに世界中を結ぶ、ということです。つまり、二つの場所が空間的にどんなに距離が離れていようが、相手の事情が手に取るようにわかってしまうのです。

インターネットは「価値の違いを金に換える」ビジネスをやりにくくしてしまいましたが、それでもまったくできなくなったわけではありません。やや様相を変えながらではありますが、インターネットのビジネスとしても残っています。

・・この「点在する情報を一か所に集める」という作業は、インターネットが非常得意とするところでもあります。これが、インターネット上のビジネスでは基本的なスタイルの一つになっています。

・・インターネットのビジネスというのは「ユーザを安く仕入れて高く売る」ものと言えるのです。

世界中に散在しているユーザを一か所に集めて、そのユーザを金を出してもほしいと思っている企業や人と結びつける、マッチングするのが、インターネットのビジネスなのです。

「あるキーワードについて、それを重要としているページからリンクされているページは重要である」

このページランク理論のベースになっているのは実は学術論文なんですね。学術論文というのは、他人の論文にたくさん引用されたものがいいのだという不思議な世界です。そこで他の論文から引用されるものを探すために使っていた論文検索の方法を、インターネットに応用したわけです。

・・言い換えると、ユーザのインテンションを読み取れる空間があれば、そればそのままビジネスの場になるというわけです。グーグルよりフェイスブックの換金化が比較的難しいのは、ユーザのインテンションが読み取りにくいことに起因しています。

1 ユーザのインテンションを先鋭化させて正しく把握する  2 そしてそのインテンションに基づいて最適なものを提示する という二つの仕組みがきちんとまわることが、インターネットのビジネスでは重要なことなのです。

こうした何のヒントや手がかりもなく、ブランド名などを思い浮かべることを純粋想起といいますが、この純粋想起をとってしまうのが最強なんです。まず頭に思い浮かんだ場所に行く、だから純粋想起をとったサイトに人は集まるのです。純粋勝機をとるために重要な要素の一つに、最初にブランドを確立することがあります。多くの人は、最初にブランドを構築した人を評価する傾向にあると思うのです。

収穫逓増とは聞きなれない言葉だと思いますが、これは生産規模が大きくなると生産がより効率的になって、収穫は規模の増大分よりも大きくなるというものです。・・この強いところがますます強くなっていくのが、収穫逓増の法則と呼ばれるものです。

課金ビジネスが成立するかどうかを左右する問題は、この探索コスト、支払いにかかるコストなどを含めたトータルコストが見合ったものになるかどうか、です。そして現状では支払いのためのコストが高すぎる。だからユーザはお金を払ってくれないのです。

・・日本の携帯電話は各キャリアが4桁の暗証番号を入れるだけで換金できるという体制を作ったおかげで、世界一のコンテンツ市場を生み出しています。

・・仕事を細切れにすることで、売れるもの、価値のあるものにできるのです。細かくした仕事の一つ一つは、0.1、0.01であっても、それをたくさん集めることで100の力、1000の力にすることができる。

このようにITやインターネットは仕事を細切れにすることで価値を生み出すだけではなく、その細切れを集めることによって新しい価値を生み出し、普段使われていない部分を有効活用することができる。

インターネットの特徴の一つが、こうしたタスクの細分化が起きやすいということです。これまでだったら全部をひっくるめてやらなければならなかったことが、プロセス単位に分解されるのです。

・・ブログでは、トラックバックにせよコメントにせよ、非常に簡単に、かつ手軽につけることができます。そのコメントに対する返事を書くのも簡単です。こうしてブログはコミュニケーションツールになったのです。・・ブログに似たメディアとして、CGM(Consumer Generated Media)というものがあります。ブログが個人のページであるのに対して、CGMはその名の通り不特定多数のユーザが作るメディアです。

フェイスブックやツイッターに代表されるSNSには、二つの軸があります。一つは友人関係を強化するためのプラットフォームという側面であり、そのひとつは情報取得ツールとしての側面です。

自分からツイーとするのはハードルが高いと感じる人でも、RTだけなら気軽にできる。ツイーとしなくても、勝間和代やホリエモンをフォローしておけば、いろいろ情報が手に入る。発信するにしても、いいものをリツイートするだけであれば、発信コストがものすごく低いわけです。ワンクリックでリツイートできる、そして、その情報面白いね、と承認される。そういう情報取得メディアとして、ツイッターは爆発したのです。

リーンフォワードのツールでは、目的を持って使っていますから、目的外のものは邪魔になります。だから排除することになります。しかしリーンバックのメディアにおいては、目的性が低く、何となく見ていることも少なくありません。その状態では、対して意味のない情報が垂れ流されていても、さほど気にならないのです。受け取る側が気にしないので、発信する側もまあいいかと垂れ流す、つまり情報のフロー性が高まるのです。・・ツイッターやフェースブックのようなソーシャルメディアの出現によって情報のフロー化が進んだので、そのフロー化した情報をまとめてストックするためのキュレーションサイトが次々にできてきたということになります。

・・・情報を探す単位がサイトからページに変わったことになります。より小さな単位で、私はこれを「情報の粒度」と呼んでいますけれど、情報の粒度が小さくなった。小さくなることで、これまでは拾いきれなかったような情報も拾えるようになった。これは一つの革命です。

・・なぜ、人は情報を発信するのでしょう。その理由の一つは、情報発信コストです。情報を発信しようとするときに必要な経済コスト、心理的コスト、そして物理的なコストを、インターネットは大きく軽減しました。

メールのようなメディアを、非同期的なメディアと言います。共時性はない。参加者は自分に都合がいい時だけ参加すればいいから、発信者、受信者ともにコストが低い。だから参加者が増えるのです。

不正をしている者、していそうな者は、誰もが監視できて、不正が見つかればだれもがタレこむことができる。ネット社会とは、そういう社会です。

・・アメリカというのはローコンテクストの国なので、外資系企業ではミーティングでも自分の前提条件や背景を言葉にして説明しようとします。前提条件プラス自分の主張を述べて相手を説得させようとします。ところが日本人は、その前提条件をしゃべらないですね。・・日本人はハイコンテクストだから、言わなくても分かるんです。言葉にして説明するのが苦手というよりはむしろ、言葉にする必要がないのです。

私はインターネットというのは、ハイコンテクストなものとハイコンテクストなものをダイレクトに結びつけることができるものだと考えています。本来そういう性格を持っていたものなのだけれど、それは不幸なことに、ローコンテクストの国、アメリカで生まれてしまった。

・・現実には、英語は世界で最大の人口をもっている言語ではありません。文部科学省がまとめた「世界の言語別使用人口」のデータでは、世界でもっとも使う人の多い言語は中国語だということです。2番目が英語で、その次がヒンディー語、スペイン語、ロシア語、アラビア語と続きます。・・グローバル社会は英語だ、これからは英語が重要だということを言う人がおおけれども、本当にいけてるグローバル企業は英語よりも非言語化を重要視しているのではないか、というのです。その証拠にナイキやスタバのロゴからは英語表記が消えた。英語という言語ではなく、アイコンだけで非言語のコミュニケーションを志向しているのではないか、という話です。

これから起きるインターネットの革命、それはギガビット・インターネットとウェアラブルである、と私は考えています。

・・グーグルグラスはユーザの視線の先にあるものを認識して、そこからインテンションを読み取る。そして、そのときどきに必要な情報を表示してくれるんです。

・・いま目の前にある情報から新しい情報を引き出す時に、たぶんこの情報が必要であると的確に判断するのが必須で、これをアンディしべーしょん・コンピューティングというのんですが、この技術はかなり進んできています。

もともとインターネットは、こういったハイコンテクストな快楽を補強するものでした。が、テクノロジーの進化するスピードが追い付いておらず、現在、必ずしもこれが実現しているとは言えません。』

« 2015年5月 | トップページ | 2015年7月 »