鍋島甲斐守 (吉川英治著 青空文庫)
短編の、勧善懲悪っぽい話でした。重いテーマを取り扱っているのでしょうが、いま一つ踏み込みが浅い感がありました。
『彦兵衛のたった一つの道楽はこれだった。自分の心に咎めるようなことをした後では、きっとそこへ入って念仏を云う。念仏さえ云えば、どんな業もたちどころに消滅するもののように考えているらしいのである。』
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短編の、勧善懲悪っぽい話でした。重いテーマを取り扱っているのでしょうが、いま一つ踏み込みが浅い感がありました。
『彦兵衛のたった一つの道楽はこれだった。自分の心に咎めるようなことをした後では、きっとそこへ入って念仏を云う。念仏さえ云えば、どんな業もたちどころに消滅するもののように考えているらしいのである。』
主人公棟方与右衛門の生き方が見事でした。また、重機のない時代の先人たちの労苦がしみじみと感じられました。
『穀つぶしという名称は、穀物の極端に尊ばれている時勢にあって、最大な侮辱であった。--米喰い虫の与右衛門と呼ばれながら与右衛門は何年も飯を噛む間はなおさら考えた。(何か奉公したい)
「交友は水の如く淡々たるをよしとする---と誰やら云った。そのうちにまた、この地方へ来たら寄ろう」』
小さなころに大河ドラマで見たことを少し思い出した箇所もありました。この前は太平記を読んだのですが歴史の流れを感じました。
『・・その中枢の信仰者である王朝貴族たちは、自らの政治や私的生活の中に、その仏教を急激に腐敗堕落させる経路ばかりを追ってきた。藤原閥のここ一世紀余りにわたる栄華と専横は、その歴史でもある。
・・王朝の華奢に彩られた当時の貴族たちが、常日頃には、物の祟りだの、生霊だの死霊だののというものの実存を信じて、ほとんどが、神経質的な性格を帯び、中には、狂疾にすら見える者が生じたのは、栄華の独占が、必ずしも、幸福のみではなかった事の一証といっていい。
人皇第60代、醍醐帝の皇紀1590年という時代の日本のうちでは、畿内のそとはもう、”外国”といったものである。東国といい坂東といえば、まるで未開人種の国としか扱っていなかった。
泣くことに、そう、人前をはばからなかったのは、この時代---平安朝期の日本人のすべてであった・・
だが、考えてみると、あまりにも、吉事吉事のかさなりを思い上がって、人の世の中を、自らの意のままに、あまく見すぎていた結果の禍であったとも、貞盛は反省せずにはいられなかった。
・・この時代の曠野の人間は--いや、たしなみのある都人の間でも、喜怒哀楽の感情を正直にあらわすことは、すこしもその人間の価値をさまたげなかった。将門の部下は、むしろ、将門がだらしのないほど、哭いたり狂ったりするのを見て、心を打たれた。
全ての場合、人間が他の陥穽に落ち入る一歩前というものは、たいがい得意に満ちているものである。』
ついに読了しました。この巻はこれまでの物に比べると物語の進みがあっさりして、急速でしたが、それでも心に残るものでした。
『日本の分裂症時代、”南北朝”とよばれる畸形な国家へ突入していった年を、この春とすれば、以後、その大患はじつに、57年間もつづいたのである。
一国の和が困難なように、小さい”家”にすら、人間の集合するところ複雑な何かをみな心の襞にもっていた。
「じたい、禅家では、怨霊などというものは、嬰児の熱病ほどにも見ておらん。愚昧迷妄な沙汰とわらっておる。ゆえに怨霊鎮めの寺院の建立なら、怨霊信仰を大事にしおる天台や真言の祈祷宗教家のもとへいってお頼みあるがよろしい」と、今朝もひどくニベのない国師なのだった。
ふしぎな宇宙の識別というしかない。不壊(ふえ)の権力とみえる物も、時の怒涛の一波のあとには、あとかたもなくなり、反古に貼られた一法師の徒然な筆でも、残るいのちのある物は、いつの世までも持ちささえてゆく。
葬儀は、衣笠山の等持院でいとなまれた。勅使の差遣、五山の僧列、兵仗の堵列、すべて、葬式の供華や香煙のさかんだったことはいうまでもない。尊氏は、54歳であった。
「・・・源平、鎌倉、北条と長い世々を経てここまで来たこの国の政治、経済、宗教、地方の事情、庶民の生業、武家のありかた、朝廷のお考え---までをふくんだ歴史の行きづまりというものが、どうしてもいちど火を噴いて、社会(よのなか)の容(かたち)をあらためなければ、にっちもさっちも動きがとれない、そして次の新しい世代も迎えることができない、いわば国の進歩に伴う苦悶が何よりな因(もと)かと思われまする。」
問「なるほど、そんな浮浪もいるにはいますな。けれど戦争の元凶はは、やはり権力の中に住む人間どもにありとしか思われぬ」 答「・・・・・・・権力。そうです。権力欲とは何なのか。摩訶不思議な魅力をもって人間どもを操り世を動かす恐ろしいものに相違ございません」
答「長い時の流れからみれば、わたくしどもが見た半生の巷など一瞬の間に過ぎませぬ。大地とはそれ自体、刻々と易(かわ)ってゆく生き物ですから、易るなといっても易らずにおりません。そして易ってゆく地上には、時にしがたって時代の使命を担った新しい人物が出現してくる」 問「そして次の時代を耕すというわけですか」 答「そうです。・・・」
答「いや誉めはしません。ただ宇宙は人間それぞれの性をよく公平に”時の役割”に使っていると言いたいのです。彼が道楽に創めた立花(生け花)、闘茶(茶道)なども、やがて観世清次どのの舞能のごとく、案外、ゆくすえ世の文化に大きな開花を見せるやも知れません。なべて人に役立つものは亡びない。けれどどんな英傑の夢も武力の業はあとかたもなくなる。ですから、もののふとは、憐れなのです。とくに尊氏さまのご一生などは、無残極まるものでしかない」 』
ついに楠木正成が戦死しました。
『しかし人のあるなしもうち忘れて仮面を彫りにかかっている一老翁のすがたと呼吸をじっとみているうちに、正成もいつかしら共にのみを持って一刀一刀に精魂をうちこめているような境地にひきこまれるのがつねだった。---そして、いいしれぬ忘我のこころよさを内にさそわれてくる。「・・・翁は幸福な」と、うらやまれずにいられなかった。ただに幸福なばかりでなく、彼の仕事はのこる--- 卯木の良人も言っていた。「赤鶴一阿弥は近頃の稀な名人です」と。しかも賃金は、一作の仮面も、なお一俵の玄米にもならぬほどだそうである。でも不足顔ではない。充ちきっている。しかもこの芸魂の物はあとにのこり、世々の人を愉しませるにちがいない。
「命を惜しむことがなぜ悪い。畜生のように惜しめと正成が言ったわけではあるまいが」「・・・・・・・・」「死ぬであろう戦場へおもむくのも、じつは命を愛しむわが命がさせていると、この心のあやしさ、正成もまた観きわめておる。----いま、そちたち夫婦に、武門の外へ返れというのも、むなしく生きろというのではない。そちたちには二度とえられぬ命を大事につかってゆく別な道があったはずだ」
「いや、おことばですが、戦ってみねば勝敗の分からぬようでは、兵家ともいえませぬ」
いつ、どんなばあいでも、策を積極的にとることの方が、強く、たのもしく、また正しくも聞こえがちなものである。
「・・・しかし、正行よ。死ぬだけがもののふのみちではない。いやもののふが一番に大事とせねばならぬのは、二つとない生命だ。いかなる道を世に志そうと、いのちを待たで出来ようか。されば、さむらいの、もっとも恥は犬死ということだ。次には、死に下手というものか。とまれ人と生まれたからには、享けた一命をその人がどう生涯に使い切るか、それでその人の値打ちもきまる」
「・・・易学のいうように、時々刻々、かわって行く。ゆえにどんな眼前の悪状態にも、絶望するにはあたらぬ」
死の価値だけが彼には大事なのであって、感情上のこと、生還のこと、すべてさらさら胸のすみにもない。で自然、義貞へも、心の小細工などは持つ要もなかったのだ。
が、ただ楠木勢のひとりひとりは何物も求めていない。正成の姿と菊水の象徴とに一死を託しきっていた。いわば非力の勇というしかなく、たとえば無名の一歩兵までが、名だたる敵将の鞍にしがみついて、それを馬上から引き落とすなど、ふつうの戦場常識ではありえないことが随所に起っていたのである。それが足利勢をして魔魅か鬼神のような恐れを覚えさせ、逃げ足立てたことだった。
--この世は夢。ただ道心を給(た)び給え--。と、祈る彼も本心なら、ここの床几で、軍事を聞くときの彼も本心だった。・・・つまり彼は、極限の本心から極限の別の本心へと、変わっていた。その振幅にうその意識はないのである。両面、どちらも一つ尊氏だった。
「だがの、直義。いくさの我慢は何のためにする。よいしおに和をつかむためではあるまいか。いまは最もそのよいしおと尊氏は思う」
「法は、なるべく単純がいい。そして法の要は、人の嘆きがなくなることだ。天下よく治まり、怨敵も不安をなくし、みな嘆きのない人の世となることを、立法の骨子、政治の主眼として、起草してくれい」と、とくに言ったという。』