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2014年10月

2014年10月27日 (月)

新聞記事から (【視線】編集長・井口文彦 警視総監と新聞記者 産経新聞(26.10.27)朝刊

土田氏のことは個人的にも知っていますが、改めて素晴らしい方だと思いました。自分が同じ立場にいた時にどのようにふるまうか、考えさせられました。

『情報は、得ることよりも、実際に紙面で記事化するほうが難しい。「知る」ことと、「書く」ことは次元がまるで違う。

 例えば重大事件の逮捕が近いと報じるのは「知る権利」にこたえる重要なニュースだが、犯人を利する恐れもはらむ。書かれる側と書く側は衝突する。それでも意義あるスクープが登場するのは、書かれる側に報道への理解があるからこそだと思う。

 5日、帝京大の福井惇(あつし)名誉教授(84)が逝去した。産経新聞記者時代、昭和50年5月19日付朝刊1面トップで「連続企業爆破犯グループきょう一斉逮捕」をスクープした取材班代表、警視庁キャップである。

 昭和49~50年、東京・丸の内の三菱重工ビルなど11カ所を爆破、多くの犠牲者を出した連続企業爆破事件。極左過激派のテロが頻発する中で、群を抜き悪質な重大事件だった。その後の日本の治安のありようは、この事件で警察が犯人を逮捕できるか否かにかかっていたといってもいい。

 50年5月半ば。福井率いる取材班は文字通り地を這(は)うような取材で、警視庁が追う犯人グループを割り出し、一斉逮捕が19日朝の予定であるとつかむ。書くなら「きょう逮捕」。超一級のスクープだ。じりじりとした思いで取材班は確認を続けた。

 出稿する18日夜、福井は警視総監の土田国保(くにやす)(故人)を公舎に訪ねる。明日逮捕が間違いないかを確認するため。そして、不慮の事態が起きぬよう、「明日朝刊に載せる」と通告し対処を促すためである。

 この4年前、土田は爆弾入り小包を自宅に送られ、夫人を亡くした。テロへの憎しみは強い。表情が豹変(ひょうへん)した。「相手はテロだ。爆弾が手元にあるとの情報もある。自爆し、一般人や捜査官を巻き添えにするかもしれん。輪転機を止めてください」

 土田の必死の説得に、福井は揺れる。

 …確かに産経が書いたために爆破が起きる可能性はある。だがこのニュースを見逃すのは新聞の自殺行為だ。社長や編集局長に人命を理由に待ったをかけられれば、新聞は屈服せざるを得ないだろう。「2人とも欧州に出張中です」。嘘(うそ)をついた。

 後に福井はこう書いている。

 《この日私は2つの嘘をついた。『出稿した』と過去形にしたこと、『出張中である』ということだ。良心がうずいた》

 編集局長だった青木彰(故人)は、犯人らが住む地域への遅配を決断した。犯人に記事を読ませないためだ。「報道の使命」と「社会的責任」を両立させるための、ぎりぎりの判断であった。スクープは実現し、犯人グループは無事に逮捕された。

 後日、警察幹部から土田批判が噴出した。「総監は産経に『明日の逮捕はない』と嘘をつくべきだった」。伝え聞いた福井は「確かに、総監から完全否定されれば、報道できなかったと思う」と吐露した。

 《私の2つの嘘を見抜きながら、土田氏はあえて情報操作、情報統制をしなかった。戦争を体験したこの人には、言論の大切さというものを、官僚でありながら新聞人以上に自覚されていたように思う》

 青木も後に書いている。《あの夜、総監は社長にも私にも一切連絡してこなかった。もし電話があったらどう答えようか、考えなかったといえば嘘になる。スクープでは完勝したが、土田総監には完敗したという思いがいまだに強く残っている》

 報道の自由は、土田が示したような「無言の理解」に支えられてきたのだろう。「理解」は新聞の努力なしに続くまい。

 福井名誉教授逝去の報に接し、39年前のあの夜に産経へ電話してこなかった警視総監の胸中を察すると、新聞人として、襟を正される思いになる。』

2014年10月 6日 (月)

フォークランド紛争 (山崎雅弘著 六角堂出版)

 若干物足りなさを感じましたが、概要を知るには便利な本でした。

『・・1976年の南チュール島へのアルゼンチン軍上陸に対するイギリス政府の反応の鈍さは、「マルビナス諸島で大規模な武力紛争が発生しても、イギリスにはもはや本格的に対応する国力はない」との認識をアルゼンチン側に与えても不思議ではないものだった。

4月30日、ヘイグはついに調停工作を断念し、イギリスはフォークランド諸島から200海里の封鎖を「海空封鎖領域(TEZ)」に再指定、該当空域を飛行するアルゼンチン航空機を攻撃対象に加えた。

イギリス側の航空兵力の主力は、小型空母にも搭載可能な垂直離着陸(VTOL)機のシーハリアーで、ハーミーズに12機(第800飛行隊)、インヴィンシブルに8機(第801飛行隊)が搭載されており、VTOL機の実戦投入はこれが史上初めての出来事だった。一方アルゼンチン側の保有する全航空兵力は、空軍(FAA)のミラージュⅢEA戦闘爆撃機20機とその改良型であるダガー戦闘爆撃機(イスラエル製)30機、A4Pスカイホーク攻撃機60機、IA58ブカラ攻撃機(アルゼンチン製)60機、B62キャンベラ軽攻撃機9機、℃130ハーキュリーズ輸送機7機、KC130空中給油機2機に加え、海軍航空隊(CANA)のA4Qスカイホーク攻撃機10機、シュベール・エタンダール戦闘爆撃機5機、対潜攻撃機S2Eトラッカー5機、P2ネプチューン哨戒機2機、アエロマッキMB339練習機(攻撃機として使用)10機の計220機であり、前線で活動可能な戦闘機の数だけでを比較しても優に10倍近い兵力差が生じていた。

この兵力差は、アルゼンチン本土の基地から主戦場までの距離が1000キロ前後も離れていたことで大幅に軽減されていたものの、アルゼンチン海軍が保有する唯一の航空母艦ヴェインチシンコ・デ・マヨ(英コロッサス級の軽空母)がマルビナス諸島の近海にまで進出すれば、現実の脅威としてイギリス軍機動部隊を窮地に陥れる筈だった。

・・単艦で長期間隠密行動を継続できる原潜との対決は、対潜能力の限られたアルゼンチン海軍にとっては目隠しでのボクシングにも等しい無謀な行為だった。

5月18日、アッセンション島からの長い航行を終えた徴用貨物船アトランティック・コンベアが機動部隊に合流し、搭載してきたシーハリアー4機をインヴィンシブルに、シーハリアー4機と空軍所属のハリアーGR・Mk3 6機をハーミーズにそれぞれ引き渡した。

・・アルゼンチン側守備隊の総兵力は約11,000人だった。

・・総兵力はこの時点で約5000人だったが、月末にはクィーンエリザベスⅡ世号で輸送中の第5歩兵旅団(M・J・A ウィルソン准将)の3000人が島に到着する予定となっていた。

6月1日、イギリス政府はアルゼンチン政府に対し、フォークランド諸島からの撤兵を要求する最後通告を行った。しかし、アルゼンチン側はこれを黙殺、東フォークランド島の戦闘は最終局面へと進展した。

73日間続いたフォークランド紛争は、事実上イギリスの勝利によってその幕を閉じた。

・・紛争後に海兵隊をフォークランド諸島へと駐留させるための、年間1億ポンド(約430億円)に達する維持費は、もし紛争の回避に成功していたならば、支払う必要のなかった出費なのである。

もし、フォークランド諸島の主権を放棄して、アルゼンチンへの併合を認めてしまえば、国民世論の反発はもちろん、香港やジブラルタルの主権問題へと発展する可能性があったからである。

・・イギリス側の戦死者は256人、負傷者777人、戦闘艦5隻、貨物船1隻、ハリアー7機、軍用ヘリ11機、アルゼンチン側の戦死者は746人、負傷者1336人、巡洋艦1隻、戦術機83機。』

2014年10月 5日 (日)

私本太平記 5 世の辻の帖 (吉川英治著 青空文庫)

『ああ、魚に河は見えない。無知でそして憐れなもの、それは魚とおなじ人間という名の生き物か。と、憐れに観たことにちがいなかった。

どんな急でも、官旅の人馬には、拒めないのが掟であった。』

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