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2014年4月29日 (火)

みるみる心が晴れる 坐禅のすすめ (平井正修著 幻冬舎)

いろいろと気づかされるところがありました。自分でも参禅してみたいと思います。

『・・坐禅は何かを身につけるのではなく、逆にどんどん捨てていくものだからです。「放下着(ほうげじゃく)」、何もかも捨てなさい、という禅語がありますが、まさしくそれが坐禅の本分なのです。

捨てられるものは捨てる、捨てきれないものは抱えていく。解決しないまま抱えていけばいいのです。

同じことに出逢っても、怒りを爆発させる人と、おさめられる人、その違いは、じつは「呼吸」にあるのです。長くひと息「ふ~っ」と吐く。すると、心はスッと鎮まり、怒りの感情を包み込んでくれます。長く吐く呼吸。それはまさしく坐禅の呼吸です。

・・ほめられたからといって自分の価値が高まるわけではないし、けなされたからといって価値が下がるものでもないのです。周囲の声に対しては、開き直ってしまえばいい。

「至誠神の如し」。これは全生庵を建立した山岡鉄舟先生が好んだ言葉だといわれていますが、とことん誠を尽くすことが生きていくうえでもっとも大事なのだ、という意味でしょう。「誠」は誰かに尽くすのではない。自分自身に、その心に、尽くすのだ、と私は理解しています。そのとき、その場で、自分がやるべきことを一所懸命つとめる。それが誠を尽くすことです。

身体、つま「姿勢」は、いつでも自分の意思で整えることができます。姿勢が整えば、深く長い呼吸ができるようになる。呼吸が調っていくのです。そして、呼吸が調ってくると、心が調ってくる。

「平常心是道(びょうどうしんこれどう)」という禅語があります。ふだんどおりの心でいることが、道、すなわち悟りだという意味です。・・感情によって、さまざまに振れはする。しかし、おさまるべき場所がわかっていて、すみやかにそこに立ち返ることができる。それが「平常心」ということです。

精一杯にオンもオフもない。もちろん、緊張を強いられるとか、余裕を持って臨めるとか、心が弾むとか、心が塞ぐとか、場面や局面の違い、やることによる違いはあるでしょう。しかし、どんな場面でも、いかなる局面でも、一所懸命、精一杯やることはできます。

「天上天下唯我独尊」という言葉をそのまま解釈すれば、この大宇宙の中で自分が一番尊い、ということになります。しかし、お釈迦様がみずからの尊さを自慢げに語るということがあるでしょうか。この「我」は人間すべてのこと、つまり、人間一人ひとりはすべてかけがえのない存在であって、命をいただいたというそのことだけで尊いのだ、ということです。

禅宗でも臨済宗と曹洞宗では坐禅のしかたが違います。臨済宗は二人が向き合って坐禅をしますが、曹洞はそれぞれが壁に向かって坐る。着衣も、臨済は絡子(らくす)とういう略式の袈裟でおこないますが、曹洞では通常の袈裟です。一番大きな違いは、「公案」をもちいるかどうかです。曹洞は、「黙照禅」といって、「只管打坐」、文字どおり、ただ、ひたすら坐りますが、「看話禅(かんなぜん)」と呼ばれる臨済では公案をもちいます。

アスリートは誰でもスランプに陥ります。そのとき、そこから抜け出すためにおこなうのは、新たな技術を身につけることではありません。自分の原点、、自分にとっての基本に立ち返ることです。崩れたバッティングフォームも、なえたしまった闘争心も、基本に立ち返ることなしには、修正できない、蘇ることがない、のです。

不動心とは、心を動かさないで行動することではありません。どんな行動をしているときも、そこに一体となっている心があることです。

なくなられたのは翌日でした。その報に接したとき、私が思い出したのは師と最後に交わしたこんな会話でした。 「いつでもいてくださるのでありがたいです」 「お前はいくつになった」  「40歳になりました」 「いつまでも頼るな」 遺言だと思っています。

・・念は、一度出ると、つながっていくのです。禅では「念を継ぐな」という言い方をしますが、その念がつながってしまうのをなんとかしなければなりません。 ここでも呼吸です。わいてきた念を、呼吸とともに吐き出してしまう。吐き出してしまえば、念にとらわれることはなくなります。

瞑想するときには目を閉じますが、坐禅では「半眼」といって、目をなかば開けている。完全に閉じることはありません。

・・坐禅では何かを”思い浮かべる”ということはしません。坐禅をしている「いま」に、心と体をひとつにする。

坐禅というかたちの中に身体も心も一緒にある、というのが坐禅の本来の姿です。

「身心一如」といいますが、本来、身体と心は一体のものなのです。しかし、ばらばら、ちぐはぐになってしまっていることがとても多い。だから、坐禅を通して、その本来の身体と心の在り様に立ち返ろうとするのです。

禅問答のようになりますが、坐禅をしているときだけが坐禅ではないのです。そのときの心を持って、すべてのことにあたる、すべてのことをなしていく。それを禅では、行住坐臥は修行である、というのです。

・・苦しさも、哀しさも、自分が考え出したものにすぎないのです。だから、その考えを捨ててしまえば、スパッと断ち切ってしまえば、そこから離れてしまえば、何のことはないのだが、そうはいかないのが人間です。そこで、公案や法話で心の泥を落としやすくする。

心や身体を全体的に治療するホリスティック医学の名医、帯津良一先生は、「一日100回、呼吸に気を使えば、とても健康になります。」とおっしゃっています。坐らなくても、坐禅の呼吸はできます。しかも、いつでも、どこでも、できる。』

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