山岡鉄舟 (一) (南條範夫著 文春ウェブ文庫)
幕末に幕府側に属していた偉人たちの話を読みたくて、選びました。
『--陣屋の若様 みんなが、そう言って大事にしてくれる。増長はしない。おいそが厳しく戒めているからだ。 --みんなが大切にして下さるのは、お父上の地位に対してのこと、お前が偉いわけではありませぬ。そこをよく弁えておくがよい。と言う。
「いや、ここで別れたほうがいい。健勝を祈る」 さっと身を翻すと、恐ろしく速い足でさっさと遠ざかってゆく。鉄太郎は、ひどく飽気ない思いで、その後姿を見送っていた。離れがたい別れには、こうした唐突の別れ方が一番良いのだと言うことを悟ったのは、ずっと後になってからのことである。
静山のすぐれた点は、これほど酷烈な修業をして、二十二歳の頃には早くも、--都下第一 --海内無双 とまで言われたにも拘らず、人物穏和で恭謙、父母に仕えて至孝であったことだ。
門人に教えて言う。 --およそ人に勝とうと思えば、まず自分の徳を修めねばならぬ。徳が勝てば、敵は自然に屈する。これが真の勝である。 --人間の行いは、道によってなせば勇気が出るが、少しでも我が策をめぐらすと、何となく気力脱けるものだ。 年に似合わぬできた人物だったのだろう。惜しいことに、その若い肉体を早くから病魔が蝕んでいた。鉄太郎が入門したときには、すでに静山のからだは常態ではなかったと思われる。にも拘らず、静山はその苛酷とも言うべき鍛錬を一日も廃していない。
--なあに人間は二日や三日食わなくたって死にゃしない、食えなければ食わずにいるまでのことさ。 鉄太郎は後年そんなことをいっているが、それはこの当時の体験から来たのだろう。
鉄太郎の実弟飛馬吉が、後になって話している。 --鷹匠町の兄貴の家にゆくと、あばらや同然なものだから、昼間から鼠が出てくる。夜になっても灯りをともず油がないので、鼠が自由にあばれ廻るという状態だった。ところが、兄貴が坐禅を始めてからしばらく経つと、鼠がいつの間にかそこらを走り廻らなくなった。梁の上にちょろっと姿をみせた鼠を兄貴がぐっと睨むと、、鼠がぱたりと落ちてきたことがある。おれが坐禅をやっていくら睨みつけても、平気で走り廻っているのに、全く不思議だったよ。
厳しく叱責したならば、或いは利いたかも知れぬ。だが、男谷の忠告はいつも、春風駘蕩として、柔らかく、たしなめるだけなのだ。鉄太郎は、男谷を煙たがった。一面において推服しながら、他面において敬遠するようになった。人と人の出会いが、ちょうど良い時機に行われる事は少ないのであろう。
彼らがこの復古的な思想を受け入れた基盤は、その内容において種々であったが、結局において、---現状に対する不満、であったことは疑いない。
「しかし、先生、そこがあの人の尊敬すべき点なのじゃありませんか」 「いや、人として立派だというだけでは、天下の大事はなしとげられない。殊に国家の政治というものは複雑怪奇だ。これを動かすためには、あの手この手と考えて、時には権謀術策によって人を動かさねばならぬこともある。至誠とか熱意とか言ったものだけでは、大きく人を動かし世を変えることは出来ないものだ」 鉄太郎は、どうしても、そうした思考方法にはついてゆけない。
鉄太郎が、小声で、「斬るな、脅せば充分だ」と、注意する。この無類の剣法気違いは、生涯にただ一人の人間も斬っていない。むやみに人を斬ることは、結局、自分を殺すことになると知っているからだ。
「切腹申しつけると言うのなら、武士らしく腹を切る。だが討手を差し向けると言うのなら、闘って死ぬほかないな」 高橋、山岡両家の者が、すべて精一の前に集められた。
鉄太郎自身の手記によれば、 --爾来修業怠らずといえども、浅利に勝つべきほうほうあらざるなり。これより後、昼は諸人と試合をなし、夜は独り坐してその呼吸を精考す。眼を閉じて専念呼吸をこらし、想を漁浅利に対するの念に至れば、彼たちまち我が剣の前に現れ、あたかも山に対するが如し、真に当たるべからざるものとす、と言う状態だったのである。
「・・・男女と言う差別の観念を言うのだ。これが根こそぎになくならければ、ほんものではない」 と戒めたことがある。鉄太郎が必死になって克服し、解脱しようとした対象は、情欲ではない。一切の事物の根元にある男女相対の念である。男女の性を分かつ不可思議な一線である。
鉄太郎は、自分を説き伏せた。--どんな精鋭な武器を持っていても、それを操る人間が駄目なら、効果はないだろう。最後は人間なのだ。その人間をつくるためにおれは剣の道に専念しているのではないか。剣を揮って人を斬るために剣を学んでいるのではない。
「今後も、商売の暇があったら、この道場にやってきて、竹刀を揮ってみるがよい。町人が剣を習っても一向に差し支えない剣は人を傷つけるためのものではなく、己の心を鍛えるためのものなのだ」』
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