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2014年2月

2014年2月23日 (日)

山岡鉄舟 (一) (南條範夫著 文春ウェブ文庫)

幕末に幕府側に属していた偉人たちの話を読みたくて、選びました。

『--陣屋の若様 みんなが、そう言って大事にしてくれる。増長はしない。おいそが厳しく戒めているからだ。 --みんなが大切にして下さるのは、お父上の地位に対してのこと、お前が偉いわけではありませぬ。そこをよく弁えておくがよい。と言う。

「いや、ここで別れたほうがいい。健勝を祈る」 さっと身を翻すと、恐ろしく速い足でさっさと遠ざかってゆく。鉄太郎は、ひどく飽気ない思いで、その後姿を見送っていた。離れがたい別れには、こうした唐突の別れ方が一番良いのだと言うことを悟ったのは、ずっと後になってからのことである。

静山のすぐれた点は、これほど酷烈な修業をして、二十二歳の頃には早くも、--都下第一  --海内無双 とまで言われたにも拘らず、人物穏和で恭謙、父母に仕えて至孝であったことだ。

門人に教えて言う。 --およそ人に勝とうと思えば、まず自分の徳を修めねばならぬ。徳が勝てば、敵は自然に屈する。これが真の勝である。 --人間の行いは、道によってなせば勇気が出るが、少しでも我が策をめぐらすと、何となく気力脱けるものだ。 年に似合わぬできた人物だったのだろう。惜しいことに、その若い肉体を早くから病魔が蝕んでいた。鉄太郎が入門したときには、すでに静山のからだは常態ではなかったと思われる。にも拘らず、静山はその苛酷とも言うべき鍛錬を一日も廃していない。

--なあに人間は二日や三日食わなくたって死にゃしない、食えなければ食わずにいるまでのことさ。 鉄太郎は後年そんなことをいっているが、それはこの当時の体験から来たのだろう。

鉄太郎の実弟飛馬吉が、後になって話している。 --鷹匠町の兄貴の家にゆくと、あばらや同然なものだから、昼間から鼠が出てくる。夜になっても灯りをともず油がないので、鼠が自由にあばれ廻るという状態だった。ところが、兄貴が坐禅を始めてからしばらく経つと、鼠がいつの間にかそこらを走り廻らなくなった。梁の上にちょろっと姿をみせた鼠を兄貴がぐっと睨むと、、鼠がぱたりと落ちてきたことがある。おれが坐禅をやっていくら睨みつけても、平気で走り廻っているのに、全く不思議だったよ。

厳しく叱責したならば、或いは利いたかも知れぬ。だが、男谷の忠告はいつも、春風駘蕩として、柔らかく、たしなめるだけなのだ。鉄太郎は、男谷を煙たがった。一面において推服しながら、他面において敬遠するようになった。人と人の出会いが、ちょうど良い時機に行われる事は少ないのであろう。

彼らがこの復古的な思想を受け入れた基盤は、その内容において種々であったが、結局において、---現状に対する不満、であったことは疑いない。

「しかし、先生、そこがあの人の尊敬すべき点なのじゃありませんか」 「いや、人として立派だというだけでは、天下の大事はなしとげられない。殊に国家の政治というものは複雑怪奇だ。これを動かすためには、あの手この手と考えて、時には権謀術策によって人を動かさねばならぬこともある。至誠とか熱意とか言ったものだけでは、大きく人を動かし世を変えることは出来ないものだ」 鉄太郎は、どうしても、そうした思考方法にはついてゆけない。

鉄太郎が、小声で、「斬るな、脅せば充分だ」と、注意する。この無類の剣法気違いは、生涯にただ一人の人間も斬っていない。むやみに人を斬ることは、結局、自分を殺すことになると知っているからだ。

「切腹申しつけると言うのなら、武士らしく腹を切る。だが討手を差し向けると言うのなら、闘って死ぬほかないな」 高橋、山岡両家の者が、すべて精一の前に集められた。

鉄太郎自身の手記によれば、 --爾来修業怠らずといえども、浅利に勝つべきほうほうあらざるなり。これより後、昼は諸人と試合をなし、夜は独り坐してその呼吸を精考す。眼を閉じて専念呼吸をこらし、想を漁浅利に対するの念に至れば、彼たちまち我が剣の前に現れ、あたかも山に対するが如し、真に当たるべからざるものとす、と言う状態だったのである。

「・・・男女と言う差別の観念を言うのだ。これが根こそぎになくならければ、ほんものではない」 と戒めたことがある。鉄太郎が必死になって克服し、解脱しようとした対象は、情欲ではない。一切の事物の根元にある男女相対の念である。男女の性を分かつ不可思議な一線である。

鉄太郎は、自分を説き伏せた。--どんな精鋭な武器を持っていても、それを操る人間が駄目なら、効果はないだろう。最後は人間なのだ。その人間をつくるためにおれは剣の道に専念しているのではないか。剣を揮って人を斬るために剣を学んでいるのではない。

「今後も、商売の暇があったら、この道場にやってきて、竹刀を揮ってみるがよい。町人が剣を習っても一向に差し支えない剣は人を傷つけるためのものではなく、己の心を鍛えるためのものなのだ」』

2014年2月19日 (水)

蟹工船 (小林多喜二著 青空文庫)

特に書き残したい部分はありませんでした。非人道的な扱いをする監督には、読んでいて怒りを覚えましたが、この行為は資本主義とは関係なく、彼の個人的な資質と、当時の民度にかかわるものにすぎないと思います。著者が、それを資本主義のためだと考えたのは大いなる勘違いです。おそらくこの本における残虐行為よりもひどいことが、今でも、資本主義国ではない北朝鮮や中国で行われています。小林多喜二やそのシンパのおおいなる勘違いに憐れみを感じます。

2014年2月11日 (火)

武士(おとこ)の紋章 (池波正太郎著 新潮社)

この本にも真田太平記にあった出来事などが書かれていましたが、内容が微妙に異なっていました。それでも、やはり面白いものでした。

『「如水というは、おそろしい奴じゃ。わしは今までに、何度も何度も、大小いくつかの戦いにのぞみ、その中には息も乱れ、作戦の立て方もわからなくなり、どうしてよいかと青息吐息をついたことも数えきれない。なれど、こうしたときに、あのちんばに相談をもちかけるとな、ちんばめ、たちどころに妙案を降し、即断決してあやまたず的に当てたものじゃ」 その心、剛捷にして、よく人に任ず。宏度深遠天下匹(たぐい)なし。ひとり世にあるといえども、もし取らんと(天下を)欲せば、すなわち之を得べし-と、秀吉は如水を評している。

福岡のみか、博多にも小さな隠居所をもうけ、わずかな侍臣と共にいったりきたりして茶の湯や歌道に興じたり、城下の子供達に菓子を与えたり、悠々と日を送った。老人が果たせなかった夢を追い続けて残念がるということもなく、昔の働きを自慢にして老後の身が鬱憤をはらすなどというみっともないまねはみじんもしなかった。

家来の直言を重んじ、媚びへつらうものは遠去け、孤弱をいつくしみ貧財をあわれみ、賢を親しみ、佞奸を疎んぜよ----と、こんこんと遺言をし、大往生をとげた。法名は円清竜光院。行年五十九歳であった。

薬湯によって恢復するつもりは毛頭ない。むろん恢復するようなわしの体ではないのじゃが、なれど、薬湯は、わしの心身のはたらきをさわやかにしてくれる。あと幾日・・・・わずかに残されたこのおだやかな毎日を、わしは、心さわやかに送って死にたい。なればこそ薬湯をのむ。いかぬかな」

おそるべき政治力によって着々と、来るべき日を待ちつつ力を温存している家康の老練きわまるやり口が、どうも肌に合わない。ここのところが、幸村と信之の相違点なのであろう。むろん戦術家としての活躍をほしいままにした幸村は愛すべき人物だが、一国の大名としての幅は、兄・信之に及ぶべくもない。

家来たちばかりか、世上にも、信之の名君ぶりは評判となって、いろいろ褒めたたえられたが、そんなうわさをきくと、信之は苦笑して、こういったものである。 「何をいうのか。大名たるものは名君で当たり前ではないか。大工が木を切り、百姓が鍬を握ることと同じに当たり前のことよ」

・・五百年ものむかし、戦国の武士として生きた人びとには戦争が人生であり、その心と肉体を駆使して行う戦闘の場は、いやでも彼らの[技能]と[修練]とを発揮せざるを得ぬ場所となったのである。

戦闘というものは退いているばかりでは用をなさぬ。出撃するからこそ退却にも意義が生ずるので、出ては引き、引いては出る。そこに自在の駆け引きがうまれることは、父と共に上田城へこもり、徳川の大軍を相手にしたとき、幸村はその効果を身をもって会得している。

このとき、真田隊にいた稲垣与衛門が後に語ったところによると、「・・・・大助殿は断じて城へは帰らぬといいつのり、父君の申しようをききいれなかったが、そのうちに、幸村公が大助殿の肩を抱くようにして何事かささやくと、ようやくにうなずき、何度も父君を振り返って見ながら、城内へ去った」そうである。

「けだものになりかけた間一髪、人間の立派さを取り戻したおぬしに、いささかながら御報謝する」 呆然と見上げる安兵衛の手をとって金包みを握らせ、「けだものと人間の境は紙一重じゃ。一度この世に生を受けたからには、いずれ死ぬ身じゃ。武士たるものは、けだものに成り下がって死にたくないの」 老武士は風采も立派だし、品格もあり、また毅然たる風貌の中にも暖かい心情が滲み出していて、安兵衛に対する態度にも慈愛に満ちている。

人間というものは、生まれたときから、”死”に向かって進みはじめる。この行程が人生というものである以上、世の中へ出て、自分の力で飯を食べている人間なら、苦しみのない者はない筈である。

力士の人柄と日常の生活というものが、その体と顔と、相撲ぶりに、ハッキリと現れるので(恐ろしい職業だな)と、しみじみ、島一は思うことがある。

「おまえにとてはな、この休場はいいことなんだ。どうして怪我をしたか、それをお前は身に沁みて考えるだろう。それがいいんだ。・・・

「今度の休場について、お前、いろいろと考えてみろよ。いいな。おれはな、この休場は、将来、きっと、お前の為になると確信している」 力強くいってやり、肩を軽く叩いてやってから、島一は部屋を辞去した。

「他の人と同じことをやってたんでは絶対に上へは昇れないよ。稽古の量と、自分の工夫と、日常生活のあらゆる面を、良い相撲をとるということに結びつけるんだ。辛いことだけど、力士になった以上、偉くならなくちゃ嘘だものな。強くなり出世しなくては、この社会へ入って理由が成り立たないわけだからな。これは誰の為でもない。自分の為なんだよ」

「・・・兄弟子というもんはな、稽古をつけるときばかりが兄弟子じゃないんだぜ、まだ人間が出来てない若い者の毎日の生活ってものにまで、責任を持って指導してやるのが本当なんだ。責めるなら自分を責めろ」

何時の世にも男が立派な仕事と幸福を得た蔭に、必ず女性の愛情がひそんでいる・・・』

2014年2月 9日 (日)

真田騒動 -恩田木工- (池波正太郎著 新潮社)

真田家に関する小話集でした。真田太平記で書かれた内容とは少し異なる部分もありましたが、興味深いものばかりでした。

『おもい迷って行動へ踏み出す前と、踏み出した後とでは人間の精神の変化にはかり知れないものが出てくるものだし、決心すると同時に強い自信がわきあがったのは、過去に見てきた執政の座というものに対する経験と乱れた藩治への内面の苦悩とが、一つの力となって木工の勇気を奮いたたせた。

「ですが、御家老のように私心を捨て去り、他人のことを、国の事を専一に考えるということが私などから見て、まことに、御立派なことだと・・・・・」 「いや、味気ないことだよ。だがな、主米。これを我慢し通せば、執政という仕事も、かなり生きがいのある面白いものになってくることはたしかなのだよ。他人のことのために私心を捨てるということはな、いまのおれにとっては、一つの快楽だといってよかろう」 木工は嬉しそうに笑った。

木工は、かるく馬の首を叩き、濠に沿って歩ませながら、主米を見返り、明るく生き生きとした笑顔になり、「おれ達の一生が、おれ達の後につづく人々の一生を幸福(しあわせ)にもするし、不幸にもする。主米、はたらこうな」

[留守居役]というのは、江戸屋敷に勤務する藩士が世襲で務める外交官・・・・というよりも、大名の家にとっての外務大臣に匹敵する役目だといってよい。絶えず、幕府や他の大名の動きに目を配り、いろいろと秘密情報をあつめたり、他の大名家や幕臣たちとの交際などっも一手に引き受けねばならない。

「あのように、来る日も来る日も、にこやかな笑いを絶やさぬ男というものは、わしの眼から見れば油断ならぬ男であった・・・・わしはの、市兵衛。血みどろの権謀術数の海を泳ぎ抜いて、しかも生き残った大名じゃからの」

「治世するもののつとめはなあ、治助。領民家来の幸福を願うこと、これ一つよりないのじゃ。そのために、おのれが進んで背負う苦痛を忍ぶことの出来ぬものは、人の上に立つことを止(や)めねばならぬ・・・」

「・・・良き治政とは、名君があり、そして名臣がなくては成り立たぬものなのじゃ、そのどちらが欠けても駄目なものよ」

・・木工は、環境に押し流され過去と未来との間に立つ自分を忘れきってしまう人間というものの不思議さが、つくづく恐ろしくなることがあったものだ。』

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