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2014年1月18日 (土)

真田太平記 (九) 二条城 (池波正太郎著 新潮社)

『このとき、山手殿が、「呆気もないこと・・・・」微かに呟いたのが幸村の耳へ聞こえた。真田安房守昌幸は、こうして六十五年の生涯を終えた。

もはや、吐く血も体内に残っていなかったろう。そのまま、ついに、意識はもどらなかった。そして、翌二十四日の丑の刻(午前2時)に、息絶えた。時に清正は五十歳。かねてから、加藤清正は家臣の殉死をゆるさなかった。

翌々年、すなわち慶長十八年の八月二十五日、浅野幸長が急死した。三十八歳の若さであった。このとき、毒殺のうわさが世上にながれたが、真偽はわからぬ。

そのころの真田信之について、つぎのようなはなしが残っている。沼田城下の了源寺の和尚・源誉が、ある年の冬の最中に沼田城内へ入り、信之に対面をしたとき、「待たせて相すまぬ」と、入って来た伊豆守信之は足袋をはいておらず、その素足の皸(あかぎれ)が血をにじませているのを見て、源誉和尚は、(かほどまでに、御質素におくらしあるとは・・・・・)おどろいて、自分の足袋を脱いだが、「なにをなさることか」信之は笑って、和尚に足袋をつけさせてから、「大名は、いずれも同じでござる」と、いったそうな。

いや、そのほうが自分にはよいのだ と、信之はいった。つまりは、京都なら京都において、だれの目、だれの耳へもはいってくるほどの事を知らせてくれればよいというのだ。父・昌幸や弟の幸村が、秀抜の忍びの組織を持っていたため、関ヶ原の折にはかえって判断をあやまったと、信之はおもっている。』

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