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2014年1月17日 (金)

竜馬がゆく (八) (司馬遼太郎著 文春ウェブ文庫)

やっと読み終えました。高校生時代以来で30年近くたっていますが、当時も心に残っていた部分を見つけると懐かしく感じたり、当時はそれほど関心をもたなかったことにしみじみ感じるところがあったり、つくづく読んでよかったと思いました。この小説を読み直して、三吉慎蔵と小松帯刀のことがまた好きになりました。

『京都藩邸は、どの雄藩もそうだが、藩外交の主務機関である。いわば現今(こんにち)の大使館に相当するであろう。

容堂は殿様としては変わっている。「友人の悪口をいうようなやつは男としてしんようできぬ。福岡藤次は友と死を契ることができぬ男だ」この言葉に警抜な人物眼の持ち主である容堂のするどさが出ており、同時に容堂の青年官僚育成の方針もそういうあたりにあったのであろう。

竜馬は、「藩としての友情だ。お前のような会計掛にはなにもわからぬ。会計掛は金庫のふたをあけるだけでいいのだ」とつい暴言を吐き、・・

のち、この浜に竜馬の像が立つ。「スエズ以東最大の銅像」といわれるこの像の建設は、大正十五年、数人の青年によって運動が起こされた。当時早稲田大学の学生だった。入交好保し、京都大学在学中の信清浩男、土居清美、朝田盛の諸氏である。

・・竜馬の呟きを文語として書くほうがいっそう自然であろう。 大樹公(将軍)、今日の心中さこそと察し奉る。よくも断じ給えるかな、よくも断じ給えるかな。予、誓ってこの公のために一命を捨てん。 と声をふるわせつついった。竜馬は自分の体内に動く感激のために、ついには姿勢をささえていられぬ様子であった。

「新官制を作らねばならぬ」竜馬はいった。その主眼は、議会制度と富国強兵にあり、思想としては人民平等というところにあるが、・・

竜馬はこの間の自分の心境を、「おれは日本を生まれかわらせたかっただけで、生まれかわった日本で栄達するつもりはない」といった。さらに、「こういう心境でなければ大事業というものはできない。おれが平素そういう心境でいたからこそ、一回の処士にすぎぬおれの意見を世の人びとも傾聴してきてくれた。大事をなしとげえたのも、そのおかげである」

「坂本さァ」と、西郷は猪首を竜馬にねじまげた。縁側にいた竜馬は、それに応じて西郷のほうへ上体をまげた。「え?」という顔を竜馬はしている。西郷はいった。「この表を拝見すると、当然土州から出る尊兄の名が見当たらんが、どぎゃンしもしたかの」 「わしの名が?」竜馬はいった。陸奥が竜馬の顔を観察すると、近視の目をひどく細めている。意外なことをきくといった表情である。「わしァ、出ませんぜ」といきなりいった。「あれは、きらいでな」なにが、と西郷が問いかけると、竜馬は、「窮屈な役人がさ」といった。 「窮屈な役人にならずに、お前(まん)さァは何バしなはる」「左様さ」竜馬はやおら身を起こした。このさきが、陸奥が将来忘れ得ぬせりふになった。 「世界の海援隊でもやりましょうかな」 ・・さすがの西郷も、これには荷の句もなかった。横の小松帯刀は、竜馬の顔を食い入るようにみつめている。古来、革命の功労者で新国家の元勲にならなかった者はいないであろう。それが常例であるのに竜馬はみずから避けた。小松は竜馬を愛慕しつづけてきた男だけに、この一言がよほどうれしかったのであろう。「竜馬は、もはや世界が相手なんじゃろ」と、おだやかに微笑した。

竜馬は、三岡の人物を語った。もともと橋本左内に兄事し、のち横井小楠の合理主義の洗礼をうけた。平素、藩財政が米国経済を主にしていることの誤りを説き、貿易、殖産を財政の中心におく議論をもち、藩命によって長崎貿易の実態を調査したり、・・

「このところ、幕人はみな朝廷をおうらみし奉っております」と、近藤はいった。これは事実であった。「朝廷をうらむことはあるまい。大樹(慶喜)がみずからの意思で政権を奉還したのだ。朝廷は迷惑ながらも受けた、というのが実情である」「それはわかっております。しかし薩の奸謀によって長州の罪をお許しなされたではござりませぬか」それが、近藤ら幕人の問題点のひとつだった。

「われ死するときは命を天にかえし、髙き官にのぼると思いさだめて死をおそるるなかれ」と、竜馬はその語録を手帳に書き留め、自戒の言葉にしている。「世に生を得るは、事をなすにあり」と、竜馬は人生の意義をそのように截断(せつだん)しきっていた。どうせは死ぬ。死生のことを考えず事業のみを考え、たまたまその途中で死がやってくれば事業推進の姿勢のままで死ぬというのが、竜馬の持論であった。

その直後、三岡は風の中にいた。一陣の突風が土手を襲い、三岡の髪、袂、袴をひるがえし、若党のもつ提灯を消した。三岡は突風に堪えようとしてつま先に力を入れた。草履の緒が切れ、土手際によろめいた。風は、去った。去ってみると、うそのような静かさで月が天心にある。しかし三岡の体にえたいの知れぬ戦慄だけが残った。・・・三岡は、帰宅した。それから二日後、竜馬が中岡慎太郎とともに京の宿で死んだ旨の報が、三岡のもとに入った。あの夜、ほぼ同時刻に、竜馬の霊は天に駆け昇ったのである。

竜馬に忠告し、その忠告が的中して竜馬がこの世を去ったことをあとで伊東がきいたとき、「だからあれほど言ってやったのだ」と人にこぼしたが、その伊東甲子太郎自身も、数日後の11月18日、今日の油小路で新選組の集団に襲われ、乱刃の中で落命した。忠告者の伊東甲子太郎も数日後にやってくる自分の運命に気づかなかったのであろう。

この暗殺の直前、二条城にいる徳川慶喜が、たれの口からきいたか、竜馬の名を知った。その竜馬が大政奉還の立案者であり、かつ反幕志士のなかで唯一の非戦論者であることも知った。むしろ慶喜は竜馬において同志を見出した思いがあったのであろう。「土州の坂本竜馬には手をつけぬよう、見回組、新撰組の管掌者にはよく注意しておくように」と永井尚志に言い含めた。永井はむろん竜馬を知っている。当然と思い、翌朝、慶喜の言葉を管掌者に伝えるべく出仕したところ、机の上に紙片がおかれている。紙片には、昨夜、竜馬を暗殺した旨、踊るような書体で大書されていた。---遅かった。 と、永井は思ったであろう。事実、竜馬が生きていれば、鳥羽伏見の戦いは起らなかったかもしれない。暗殺はつねにこのようなものである。』

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