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2013年12月21日 (土)

関東大震災 (吉村昭著 文春ウェブ文庫)

関東大震災について、犠牲者の大半が震災後の大火災によるものであることなど、よく知ることが出来ました。ただし、朝鮮人虐殺の件についての記述については、一方的で少し検証不足の感がありました。

『自身が突然起こったとき、人々は激烈な振動に狼狽して竈等の火を消す精神的ゆとりを持つ者は少なかった。殊に倒壊した家では、圧死からのがれるだけが精一杯で竈や七輪におこっていた火の上に材木や家財がのしかかり、たちまち火災が起こった。

風も火災発生と同時に激しさを増し、日没頃から夜の十一時頃までには風速も二十六,七メートルという烈風と化し、市内一面に猛火が轟々と逆巻いた。さらに水道はいたるところではかいされ、浄水場の電力も絶えて水路は完全に断絶してしまった。

大火災は、九月一日正午に始まり九月三日午前六時まで続いたが、東京市の四十三・五パーセントに達する千四十八万五千四百七十四坪という広大な地域が焼き払われた。

また延焼を促した最大の原因は、避難者の携行する荷物であった。人々は、家財を荷馬車や大八車に乗せたり背に負うたりして逃げまどい、路上はそれらの人と物によってあふれたが、迫った火は荷物に次々と引火していった。

私は、そのうちに外部から来た人たちが知人を探している者だけでないことに気づきました。かれらは、死体には目も向けずしきりに物品のみをあさってあるいているのです。・・私には、しれらの盗みをはたらいている人たちが悪鬼のように思えました。

被服廠跡の惨事は、突然起こった大旋風と敷地内にぎっしり運び込まれた荷物の延焼によって起った大災害によるものであった。

被服廠跡で焼死した者の中には、一酸化炭素による窒息死が多かった。助かった者たちの大半は、使者の山の下方に自然にもぐりこんでいた者だが、上方の死体の脂が体をおい、眼も脂で閉ざされてしまったという例もかなりあった。

江戸時代にくらべて大正時代の方がはるかに消防能力は優れていたのだが、地震による水道管の破裂によって消防力はほとんど無に帰していた。それに家屋の密集度も増していたこともあって、火災は自由に四方八方へのびたのである。

東京市の川は、死体におおわれた。殊に隅田川には、火に追われ川の中に飛び込んだ者たちの溺死体が無数に浮遊していた。

東京市(郡部を除く)の死者数の最大のものは焼死者で五万二千七十八名、それにつぐ死者数は溺死によるもの五千三百五十八名で、圧死者七百二十七名の七・四倍弱にも達している。つまり河川は、避難者を炎から救うと同時にかれらの生命をも奪ったのである。

道路、橋梁が家財で充満したために、人々は逃げ場を失い、消防隊もその活動をさまたげられた。関東大震災の東京市における悲劇は、避難者の持ち出した家財によるものであったと断言していい。

・・家屋等を倒す破壊消防によって延焼を防いだ地域もあった。その代表的な場所として、浅草観音附近があげられる。

住民たちは、ポンプ注水すると同時に家屋を破壊し、また数百名の住民は二列縦隊をつくって七個の井戸からくみ上げた水をバケツで手送りし、全力をあげて消火につとめた。人の戦いは八時間にも及び、その夜の午後十一時頃火勢を完全に食い止めることに成功した。

強烈な余震は、九月一日に午後零時から一時までの間に三回おこり、午後二時二十二分四十九秒にも相模灘を震源地とする地震が発生した。また翌二日にも六回にわたって余震に見舞われ、人々は圧死を恐れて家に入らず夜も屋外で過ごさねばならなかった。

通信機関の杜絶は、すべての連絡を不可能にした。警察、官庁も情報の入手方法を絶たれて、指令をうけることも報告することもできず右往左往するばかりであった。

・・大震災の発生と同時に東京の十六社に及ぶ新聞社の新聞発行機能は完全に崩壊してしまったという。・・いずれにしても、九月一日から五日の夕方まで一切の新聞は発行されず、東京市民は報道による情報の入手ができなかったのである。

大地震が発生した直後、東京市では軽微な盗難が随所に見られたが、横浜市では大規模な強盗事件が起こった。しかも、それは組織だった集団的なもので、災害に乗じたきわめて悪質な性格をもっていた。その代表的なものは、立憲労働党総理山口正憲を首謀者とする集団強盗事件であった。・・山口は、物資の調達が結局掠奪以外にないことをさとり、団員の中から体力に恵まれたものを選び出して決死隊と称させた。・・いくつかの決死隊が編成され、山口は彼らに赤い布を左腕に巻きつけさせ赤い布を竿にしばりつけさせて物資の掠奪を指令した。・・この山口正憲を首謀者とする強盗団の横行は、自然に他の不良分子に影響を与えた。

またそれを追って内務省警保局長後藤文夫から呉鎮守府、地方長官あての電報が伝騎によってとどけられた。その電文は、「東京附近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於いて爆弾を所持し、石油を注ぎて放火する者あり。既に東京府下には一部戒厳令を施行したるがゆえに、各地において充分周密なる視察を加え、鮮人の行動に対しては厳密なる取り締まりを加えられたし」という内容であった。この電文は、内務省が朝鮮人に関する流言を流言としてではなく、事実と断定したことを示している。そして、それを公式の電報として各地方に発信したため、朝鮮人による暴動説は、現実に起っている大事件として全国にまたたく間にひろがっていったのである。

かれ(吉野)は、たまたま良心的な出版社として知られる改造社が企画した「大正大震火災誌」の編集部から原稿依頼を受けていたので、「朝鮮人虐殺事件」と題する一文を「労働運動者及社会主義者圧迫事件」とともに執筆した。そして、前者の文中に殺害された朝鮮人0の数を二千六百十三名と記し、虐殺現場の地名も克明に書きとめた。

各地の警察では、多くの朝鮮人を逮捕し、厳重に尋問したが、かれらからは何の不審な点も発見できなかった。一般民衆が井戸に投入する毒薬を朝鮮人が持っていると訴えて取り調べてみると、それは七味唐辛子であったり、爆弾と思われるものも単なる食料缶詰にすぎない。放火の事実も皆無で、強盗、殺人等の証拠もつかむことは出来なかった。しかし、民衆は朝鮮人の発見に努め、凶器によって殺傷をつづけている。暴徒はむしろ自警団員らであった。

・・警視庁と東京市は、死体を露天で焼却させる以外に処理の方法はないと断定した。・・すでに死体は腐敗のきざしを見せ始めていて、作業は腐敗の進行と競い合うように進められた。

区役所では、第一日目の作業について検討した結果、死体を集積することをやめて現状のまま焼却することに決定した。

水上警察署では、舟を出して死体の収容につとめたが、隅田川を除く河川では、焼け落ちた橋や漂流物におおわれ航行できぬ状態だった。そのため作業は進まず、寺阪署長は河川の障害物を取り除くことが先決であるとさとり、陸軍工兵隊にsの作業を依頼した。工兵隊は、積極的に作業を進め、九月九日夕刻にいたって漸く河川の航行も可能になった。

災害地の衛生状態は最悪だったが、その具体的なあらわれとして、伝染病の流行が見られた。震災直後には、東京府一帯に赤痢が大流行して二千六百十九名の患者を出し、それが衰えたのち、腸チフスが猖獗を極めた。・・その他、パラチフス、猩紅熱、ジフテリア、流行性脳膜炎、天然痘がそれぞれ流行し、伝染病患者は総計一万四千三百六十四名という平年の二倍以上の数に達し、死者千八百二十七名を数えた。

警視庁では、暴利の根源が豊かな資力をもつ卸売商にあることを知り、九月十三日取り締まりを卸売商に集中すべきであるという指示を各警察署長に発した。また政府も、それら投機的な卸売商の得た不当利益の没収を発表した。取り締まりは、きわめて厳しく、暴利をむさぼる卸売商の検挙が続いた。その検挙数は、九月七日から十月末まで四百二十二件にも達した。これらの取締りによって、ようやく物価の安定をみることが出来るようになった。

しかし、東京の復興は着実な成果をあげた。土地買収が最も困難だったが、激しく土地収用に反対した市民も都市を災害から守らねばならぬという意識を抱き、政府の提示した安い価格で自己所有の土地を提供した。その結果、狭い道路は拡張され、新しい道路も創設されて、その数は幹線道路五十二、補助道路百二十二に及んだ。』

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