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2013年12月

2013年12月31日 (火)

竜馬がゆく (七) (司馬遼太郎著 文春ウェブ文庫)

『さらに小栗はいう。「長州をつぶしたあと、その仏国の兵力、資力を以て逐次、薩摩、土佐、越前など幕府に反抗的な諸侯を討ち、武力で制圧してしまってから一挙に三百大名を排し、郡県制度を布き、徳川家の威権を神祖家康公のむかしに戻すつもりでござる」・・・もっともこの小栗の大構想はすでに幕閣の公然たる秘密になっており、その内容は、「亡ぼされる」はずの越前、薩摩、長州、土州あたりの諸侯にことごとく漏れてしまっている。幕末これらの諸侯や志士が幕府を見限るにいたった契機の最大のひとつは、この小栗構想にあったといっていい。

慶喜はいそぎ作戦方式を変えた。いままでは幕軍が従で諸藩の兵士が主になって戦っていたが、それを逆にし、幕軍を主力にすることにした。この噂が江戸につたわり、江戸の旗本は徴兵されることを怖れ、あわてて隠居届を出す者が多くなった。このため二十代の若い当主が隠居し、五,六歳の幼童が天下の御直参になる、という事例が続出した。

勝は生来、英雄譚(ばなし)のすきな人物で、古英雄の逸話や事歴をよく知っている。(外交には羽柴筑前守当時の秀吉のやりかたがもっともよい)とおもっていた。秀吉という男は、つねに素っ裸で相手のふところのなかに飛びこむ、というやりかたであった。「赤心を推して他人の腹中におく」ということであろう。

薩英戦争のときに、五代は鹿児島湾に乗っていたため汽船ごと捕われ、その捕虜生活を通して英人との接触がいよいよ深くなり、帰藩後は、藩の外国掛になった。

仕事というものは騎手と馬との関係だ、と竜馬は、ときに物哀しくもそう思う。いかに馬術の名人でもおいぼれ馬に乗ってはどうにもならない。少々へたな騎手でも駿馬にまたがれば千里も征けるのだ。・・(男の不幸は、馬を得るか得ぬかにある)竜馬にも、藩はない。

「長州人にいわせると、高杉の秘術のタネは一つだそうですよ。それは、困った、ということを金輪際いわない、ということだそうです。かれの自戒だそうです」

「それは四書五経の輪講の座ででも喋れ。世の動きというものはな」と、竜馬はいった。「筒井順慶できまるものだぞ。時勢も歴史もそうだ。新旧はげしく勝負をする。いずれか勝つ。勝ったほうに、おおぜいの筒井順慶がなだれを打って加盟し、世の勢いというものが滔々として出来上がっていくのだ。筒井順慶は馬鹿にならん」

歌にある。京・長崎・江戸・大坂の四都の花街の特色をよみこんだ歌だ。 京の女郎に長崎衣装 江戸の意気地のはればれと 大阪の揚屋で遊びたい なんと通ではないかいな

溝渕広之丞は、他国でいういっこく者、土佐でいういごっそう(異骨相)という人物である。いったん我意を立てれば、雷が落ちようと槍が降ろうとあとへはひかない。

竜馬は無愛想にはねかえしている。剣術の他流試合に似ている。相手の剣の質、壁、弱点を見きわめた上で仕掛けるのが、他流試合の骨法であった。

「ありがとう。しかし私は自分で洗う方が好きだ」 これは中岡の性分であった。なにしろおのれの身のまわりのことはつくろいものまで自分でする男だ。

「代々、百石、二百石などという厚禄に飽いた者とは、共に事を談じることはできない」 と、竜馬もいったことがある。 「俸禄は鳥の餌とおなじだ。先祖代々餌で飼われてきた駕籠の鳥になにができるか」 といったこともある。

「負けるいくさはせぬことだ。やるからには紀州藩を潰してやる覚悟で、しかも打つ手は確実にやらねばならぬ」

武家の伝統的なやり方としてそういう型がある。たとえばのっぴきならぬ決闘を決意したときなど、家へちょっと帰ってきて女房をよび出し、「いいか、あとのことはこれこれだ」と手みじかに言って出かけてしまう。長居をしてくどくど話すと、愁嘆場を演ずるはめになるからだ。

革命というのは、ある意味ではもっとも巨大な陰謀といっていい。それをやる側にとっては神のごとき陰謀の才が必要だった。

この幕末においては東本願寺は佐幕派に属し、西本願寺は勤王派に属した。このため西本願寺は幕府からにらまれつつも、志士たちに資金を提供したり、こういう密会所を提供したりした。

「断ずる前に」と、退助はいった。 「解決しておかねばならぬことがある。でなければ胸襟をひらくわけにはいかない」 「胸襟を」 「そう。今年のはじめのことだ。わしが京にあったとき、ぬしゃ、わしを斬ろうと企てていたな」 「いや、左様なことは」 と中岡は顔色を変えずにいうと、退助は大喝一声して、「中岡慎太郎は男児ではないか」 といった。中岡は退助の気魄にうたれ、参った、そのとおりである。といった。退助はうなずき、されば天下の事を談じようとはじめて微笑した。

容堂には、持病がある。高血圧と歯痛であった。とくに歯痛は数カ月に一度、すさまじい症状をもっておとずれてくる。

高杉は病い革(あらた)まるや、幼子の東一のあたまをなで、「父の顔をよくおぼえておけ」と言い、やがて筆をとり、「面白き、こともなき世を、おもしろく」 辞世の上の句をよんだ。下の句に苦吟していると、看病をしていた野村望東尼(もとに)が、「住みなすものは心なりけり」と詠んだ。高杉はうなずき、・・・・・・・面白いのう。と言ってしずかに眠った。それが、高杉の最期であった。

「ものには時機がある。この案を数か月前に投ずれば世の嘲笑を買うだけだろうし、また数か月後に提(ひっさ)げて出ればもはやそこは砲煙のなかでなにもかも後の祭りになる。いまだけが、この案の光るときだ」』

2013年12月27日 (金)

真田太平記 (六) 家康東下 (池波正太郎著 新潮社)

『豊臣秀吉亡き後の天下を治めるものは、「自分をおいて、他にはない」と、家康はおもいきわめている。その自分に抵抗するものは、一つ一つ、これを屈従させなくてはならぬ。

呼吸をととのえる・・・・・すなわち、忍びの者の整息の方法であって、吸う息、吐く息を極端に切りつめる。人間は、呼吸することによって気配を生じ、体臭をただよわせる。ために、呼吸を止める一歩前まで整息をすることによって、「姿がありながら、姿を消す・・・・・」ことになるのである。これは、忍びの者の修業の第一歩であり、整息の術技をおのれの肉体に滲透させてしまわぬかぎり、忍びの者としてのはたらきは不可能なことになる。

長年にわたり、秀吉のすることを見習ってきたわけだから、自分の両国の治政や、築城、土木工事などについては、(福島)正則も他の大名に後れをとらぬ。ところが、いまは、それだけではすまなくなった。戦乱が絶えれば、当然、武人たちは政治の世界に身を投じなくてはならぬ。政治には、豊富な情報網が不可欠であった。

徳川家康には、この鳥居元忠のような譜代の家臣が多い。それが何よりも家康の[宝]であった。伏見を発する前夜、家康は元忠と二人きりで、黙然と酒を酌み交わしたが、夜がふけて、家康の前から引き下がろうとするとき、六十二歳の鳥居元忠は、何ともいえぬ表情で、家康に笑いかけ、「殿、これが、殿の御顔の見おさめにござる」 ささやくがごとくいった。家康は、こたえぬ。うなずきもしなかった。ただ、凝(じっ)とうなだれたままであった。

つまり、夫を殺した敵の寵愛を受けることになったわけだが、戦国のころの女は、これしきのことで自殺をしたり、病みついたりはしない。「我が身の、生きてねうちのある間はいきぬく」のである。

これまた、悪事や悪漢の場合とは異なるが、たとえば、豊臣秀吉を見るがよい。徳川家康を見るがよい。大望を抱いた彼らは、おのれの実力をそなえるために、また、人心をわが身へあつめるために、あくまでも微笑を絶やさず、へり下るところはへり下って、いささかも倦まなかった。

安国時恵瓊は、安芸の国の守護だった武田氏の出自である。幼少のころに、武田氏がほろびたので、仏門に入り、京都の南禅寺で修行をし、のちに、安芸の国の安国寺の住職となった。禅僧としても、当代一流の人物だ。

徳川家康は、信幸に対して、「人質を差し出すように」とはいわなかったが、それだけに、こちらから早く手をうたねばならない。こうした場合には、何事にも、懈怠はゆるされない。

これからはじまる戦しだいで、(おのれの身も、どうなるかしれたものではない・・・・)おもう一方では、(あの折、高遠で死ぬところを、これまで生きて来られたのだ。何も、いうことはない) その一念が、向井佐平次をささえているらしい。 (三十七で死ぬるも、六十をこえて死ぬるも、同じことなのだ) このことであった。

このころの武士というものは、一命を賭して生きる覚悟があるのと同時に、世に埋もれた身になっても、その一命を養う用意もおこたらなかった。

・・・ついに稲葉山城を、わがものとしのである。そのとき、信長は、「周の文王、岐山(きさん)より起りて天下を治む」の故事にちなみ、その岐山と、孔子の生地の曲阜の一字をとって岐阜の名を城につけた。

三成が、すぐれた政治家であったとしても、すぐれた戦将ではなかった。これは、福島正則と正反対の性格であり、両人の長短が、この戦陣にはっきりと浮き上がっている。』

2013年12月25日 (水)

真田太平記 〈五〉 秀頼誕生 (池波正太郎著 新潮社)

『昌幸は、真面目顔に、「獣と人とは、扱い方が、まるで違うのじゃ。また、同じ獣にしても、猿と馬とではまたちがう。牛とも違う。わしの目からみると、人よりも獣のほうが大分に利口のようにおもえてならぬわ」 そういったものである。

人間という生きものは、悲しみにも弱いが、よろこびにも弱いものなのだ。

現代の四十七歳ではない。およそ四百年も前の、そのころの人びとの精神の成長は、現代人とはくらべものにならぬほど早い。身分の上下、男女の性別なく、年少のころより[大人の世界]へ入って行き、立ち働かねばならなかったからだ。

しかし、人の言葉というものも、まことにたよりないものなのだ。なまじ、言葉に出してしまったがために、その自分の言葉に責任(せめ)を感じ、おもわぬ方向へ自分が歩き出してしまうことさえある。また、おのれが吐いた言葉の消滅を願うあまり、知らず知らず、わが身を破滅させてしまうこともある。また、そのために、かえって栄達や幸福をつかむこともある。

便利な世の中になったことはいうまでもないのだが、それだけにまた、世の中の仕組みも複雑となってきた。 「このような世になると、人のこころまで変わるぞよ」 こういったのは、ほかならぬ真田昌幸である。

・・幸隆は、「疑うて失敗(しくじり)をいたすより、信を置いてなお、破れるほうがよい。疑うて破れたときはなかなかに立ち直れぬものじゃが、信ずるがゆえに過ちを見るときは、かならず立ち直ることができる。なれど源五郎、これは男のことよ」 いいさしてから、 「女は別じゃ。女は男の場合と、何事にも逆様(さかしま)になるのじゃ」 にんまりと笑った。その父の顔を、今も昌幸は忘れることができない。

数人の敵の刃や槍に囲まれ、(もうこれまで・・・・)死ぬる覚悟をさだめたとき、与七は、「まず、笑うてみよ」と、いうのである。笑えるわけのものではないが、ともかく、むりにも笑ってみる。すると、その笑いが、おもわぬちからをよび起してくれる。むりに笑った笑いが、「なんの。ここで殪(たお)れてなるものか」という不適の笑いに変わってくる。ともかくも、まず、些細な動作を肉体に起こしてみて、そのことによって、わが精神を操作せよというのだ。

この、いわゆる[お歯黒]は、もともと女子の化粧の一種であったが、白河上皇の時代から男子にもおよび、宮中や公家の風俗ともなっていた。』

2013年12月23日 (月)

大空のサムライ (坂井三郎著 光文社)

かなり前から知っていた書でしたが、今回初めて読みました。実際の戦闘の様相がよくわかりました。また、坂井氏は艦載機の搭乗員と勝手に思い込んでいましたが、そうでないことを知ることもできました。

『・・零戦を操縦して戦う私たちには、さらにもう一つの意地がありました。それは、みずから先進国と豪語する敵の飛行機と操縦者、とくに敵の戦闘機には、絶対に負けてはならない、たとえ総合力で日本が敗れることがあっても、われわれ戦闘機隊は負けてはならないという考えでした。これが日本海軍戦闘機のりの心意気だったのです。

「まず事故(ピンチ)に直面したとき、第一になにをなすべきか。それは何をさておいても、落ち着くことである。〈しまった、しまった〉と、過去を恨み、自分の不運を嘆き、心を乱す考えを起こすことは、この時点においては、マイナス以外のなにものでもない。まず落ち着いて処置方法を考え、もっともよいと思った方法を、迷わず断行することである。その間、一秒のムダがあってもならないのだ。何度もいうが、まず落ち着くことが、その場合の最大のポイントである」 ここまで聞いて、私は、不時着法は、技術よりその心構えがどんなに大切であるかということを、心に強く感じさせられた。

私はその落ち着く方法として、いろいろ考えたが、危機に直面したらまず深呼吸を三回せよ。三回する時間がなければ、二回、いや一回でもよい。一回も出来ないときは、深呼吸をするんだということを考えよ!これでまず心は落ち着くと考え、つねにそれを実行してきたし、また後輩たちにもこれを教えてきた。

その瞬間、こと飛行機を本当に狙い撃ってもよいのであろうか、というような疑問が、私の脳裏をかすめた。悪いことに手を出しかけた自分を、自分の良心が制止するひらめきである。これはふつうの人間としての良心ばかりではなく、はじめて戦場にのぞむ、はじめて実的を狙い撃つときに初心者が感ずる、戦闘機パイロットとしての良心なのだ。

大編隊飛行による燃料消費試験が行われた。隊形を整えるのに、少数機のときより余分の燃料がいるからである。

われわれが行った燃料消費節約に対する努力と研究は、空戦以上のものがあったといえる。そして、この試験の結果に得られた好成績は、基地航空部隊(第十一航空艦隊)司令長官塚原二四二中将をはじめとして、全部隊に大きな自信を抱かせた。もはやわれわれにとって、空母は不要であった。

米軍はただちに全部のB-17に尾砲をつけ、さらには機内にゴム板をはりめぐらせて、被弾した場合には、自動的に弾丸の穴をふさいで火災を防止する方法を講じた。このあたりは、アメリカらしい決断のよさで、日本側が劣勢になってからでもぐずぐずしていて、航空機の改良を怠っていたのといい対照である。

・・戦闘機乗りとしての節制にひたすら務めた。(いまでも私が酒をのまないのはそのためである)。

・・飛行機乗りの常識として、積乱雲の中に巻き込まれた飛行機は絶対に助からない筈である。私自身も、かつてその中にちょっと飛び込んで、ひどい目に遭った経験を持っている。なにしろ上昇気流と下降気流とが、ものすごい力で渦巻いていて、その力は、ときに一式陸攻やダグラスのような機さえ揉みくちゃにして、、完全にバラバラに分解させるだけの力を持っている。

生も死も、戦場ではほんの紙一重の差である。運命とはなんと不思議なものだろうか。

飛行機乗りの運命は、誰の胸の底にも、わかりすぎるほどわかっている。今日の本田の運命が、あすの自分の運命でないと誰が言えようか。こう割り切っているわれわれは、何事にもくよくよしない癖がいつのまにか養われていた。

これは戦闘機乗りに共通した心理とは思うが、われわれ戦闘機乗りは、敵の爆撃機と戦闘機とを同時に見た場合には、不思議に敵愾心は戦闘機のほうにだけはたらき、どうしても戦闘機のほうに挑みかかりたくなるのである。

だが、だからといって、そのころの毎日がいかに不幸の連続であっても、われわれはその不幸な事実に慣れることも、怖れることもまた特別の不安も、特別の苦悩も抱かなかった。いや、苦悩どころか、戦友の屍を乗り越えてわれわれは戦うので、死ぬことは初めから覚悟している。ただそれが早いか遅いかだ。それだけに毎日毎日の空戦に全力をかけた。

きわめてわずかな健康上の狂いが、空戦においてはただちにその人の生命を左右する。そういうことだから、わが海軍においては、優秀な搭乗員の多くは、平時戦時を問わず自己のコンディションをいつでも最良の状態におくために、あらゆる誘惑に打ち勝って節制に努めたのだ。

人間ひけ目になるとそういう言葉までが癪にさわってくる。なにも俺の前でそんな言葉を使わなくてもよさそうなものだとひがんだ気持ちになる。

私たちと同じ人間であるはずの一人の人間が、指揮官という立場に立つと、まるで将棋の駒を動かすように、他の人間の生命を無造作に死に投げ込むことができる--そういった軍隊の組織が持つ不条理が、慣れきった日常の通念を突き破って、いまさらのように心を疼かせる。

昔から、武術やスポーツにおいて、危機一髪とか、太刀先三寸にして身をかわすとか、いわゆる美技(ファインプレー)を名人芸のように考える人が多いが、きわどい技で敵をたおす場合には、きわどいということ自体が、すでに自分もきわどい危険に身をさらしていることであって、ちょっとのミスが命取りになるものなのである。

どんなに困難の状態にあっても飛行機乗りは、空中において一つのことにきをとられてしまっては駄目なのである。人間は同時に二つ以上のことは考えられないと言われているが、私は〇・何秒かずつずらしていけば、いくつものことを、ほとんど同時の考えることができると思っている。そこで私は、地上、空中を問わず、いろいろのことを訓練した。その結果、文章を確実に読みながら数学の計算をし、同時にラジオを聴き、その上、、人の会話の内容を聞き取り、それを頭の中で整理することさえ可能になった。・・止まっているトンボ、飛んでいるトンボを素手でつかむ練習、ハエも同様で、この訓練を重ねた蹴った、しまいには止まっているハエなどはほとんど百発百中でつかまえられるようになった。・・また、息を止める稽古もした。普通は四、五十秒だが、私は二分三十秒の記録を持っている。一番つらいのは一分目ぐらい、こんなことをしていては心臓がとまりはしないか、このまま死んでしまいはしないかと思うが、それを我慢すると、一分十五秒あたりからずっと楽になってくる。なんでもこれと同じで、辛いと思ったとき、そこを踏み越えなければ勝てない。生理的にも精神的にも、そういう訓練をやって、非常につらいときに、まだまだ余裕があるということを発見した。

人間のもって生まれた先天的性能というものは、何万分の一と言われるような天才や奇人は別として、私たちのような普通の人間は、ほとんど同じだと私は考えている。しかし、人間の後天的な性能というものは、その人の環境や職業、生命の危機に遭遇する危険率、その他いろいろ自己にかかってくる外力と戦う必要にせまられた場合には、自分で考えてもいなかったような力が出るものである。その力も、日ごろから考えて、その必要に応ずるための訓練を、たゆまず行った場合には、さらにその力を向上させることができるものである。』

2013年12月22日 (日)

一夢庵風流記 (隆慶一郎著 新潮社)

紙の本を愛読していましたが、電子版が出たので買い直し、改めて読んでみました。やはり読後感爽やかな書でした。

『助右衛門は多くをしゃべらない。大方はうなるだけで藩士を進めてゆくという特技を持っている。およそ言葉というものを信用していない。対話とはお互いの心と心が理解し合うことだ。そして言葉は多くのばあい、心を隠す役しかしない。かたくなにそう信じている。

源右衛門は歴戦の戦国武士である。いかに主君の命令でも、没義道だと思えば断乎として拒否する骨の硬さをもつ。おそらく一言の下に拒否したに違いない。浪人はもとより、討ち果たされてもかまわぬ。一瞬にそれだけの決意をしただろう。

あっという間に眠り込んだ。これは慶次郎だけの特技ではない。戦場往来の『いくさ人』たちは、すべて、何時、どこでも眠ろうと思えば即座に眠れる。

戦士の屍を狼や山犬の餌食にすることは出来ない。深く掘って埋めてやることだけが自分も何時野たれ死にするか判らない『いくさ人』にとっての最低の作法だった。

「生きて都の花をみるのは、これが最後かもしれないよ。心ゆくまで味わっておいてくれ」 別段格別のことが起こる予感があったわけではない。慶次郎にしてみれば、これは戦士としての普通の覚悟にすぎない。それに明日はないと思うからこそ、今日が楽しいのではないか。

自分だけ愉しんでも面白いわけがない。一座の全員が愉しまなければ真の意味で愉しいとは云えなのを、慶次郎はよく知っている。だから一座に気を使い、気分を盛り立てようとする。

何故誰にもできないか。一切の欲を切り棄てなければならないからだ。あらゆる欲とあらゆる見栄を棄て去り、己の生きざまだけに忠実にならなければ慶次郎のようには生きられない。それだけではなかった。慶次郎のように生きるには天賦の才能が必要だった。

「それにしても治部は心が狭いな。茶人の一人や二人のさばっていても天下に変わりはないだろうに」 「それができないんですね、あのお人には。すべてがすっきり割り切れないと気がすまない。たとえ考えていることは正しくても、そのために逆に歪んでしまうことさえある。少なくとも、ひとにそうみられる。気の毒なお人です」・・慶次郎には石田三成の成り行く先が大方見えている。この手の男が運に乗れるのは、平和の中でだけだ。つまりは強権の庇護がある時だけだ。その庇護がなくなれば、ひとたまりもなく衰運に向かう。

「この博多の津はな、・・町の中に武士が住むことを禁じて完全な町人町にしたそうだ」

「その男に伝えろ。鉄弓をひくぐらいのことで偉そうな顔をするな、とな。実際の戦では鉄弓より並の半弓のほうが役に立つんだ。戦場では速さが勝負だ。・・」

悟洞は一瞬の躊躇いもなく『遠町筒』の引金をしぼった。こういう胸のすくような決断は殺し屋に特有のものである。

誰一人訪う人もないこの奥山に、たった一人きりで夏を凌ぎ、秋を迎え、冬の寒冷に耐えてきた剛毅な樹である。折々の淋しさも辛さも少しも色に出さず、この一時だけ狂ったように楽しく己を花咲かせる異能のものである。一年にたった一日とはいえ、共に酒を酌み、共に琴を弾ずる友がいてもいいではないか。

「それは違うな」 慶次郎は云うのである。 「悲しい奴は肩を寄せ合ってはいけないんだよ。みじめになるばかりだ。それにそんなことが出来ないのが悲しさじゃないか。みんな独り。それがいいのさ」

「何もとりたてて騒ぐとこではないのだ。父は子を愛し、また子に愛されると信ずるほうがおかしいのだよ。誰もが一匹の男だ。一匹の獣だ。それぞれの理由で牙をむくのが本来のさがだ。それをおそれて子の牙を抜けば、その子は他の獣の牙にかかるだけだ。親に叛く牙も持たぬ男に、何が出来る」

・・秀吉は病に倒れ、八月十八日、六十二歳で死んだ。 露とおち露と消えにし我が身哉 難波のことも夢のまた夢  それが秀吉の辞世と伝えられている。

「主馬に徳川殿が討てると思うか。人間の格が違う。たとえ枕許に立ったとしても、あやつには殺すことは出来ぬ」 これは正確な判断だった。一代の武将の中で忍びに殺された人物が一人もいないのはこの為である。

「ふとくたびれて、道端に坐る。ごろんと横になる。眠りこんでそのまま目覚めない。俺はそんな風に死にたい。お前のは手が込みすぎている。そういうのをじたばたすると云う」

・・おまつが云ったという言葉が・・現代語にすれば次のようなものだ。 「侍は家を立てるのが第一。母を思って家を潰すことはならぬ。つまるところは我を捨てよ」 我をすてよ、と云う凛呼たる言葉に、利長は負けた。

汚いやり口だと、秀康は吐き捨てるように云った。 「合戦に汚いも綺麗もないんだよ」 慶次郎は云った。 「勝つか負けるか、生きるか死ぬか、それだけのことさ。勝って生きのびれば、それでいいのさ。恥も外聞もない。ぎりぎりの決着のところがいくさなのだ。内府殿はそれをよく知っていられる。戦機と見ればなりふり構わず強引に仕掛けるのだ。さすがというべきだろう」 そうでしょうか、と秀康は不満そうに呟いた。 『直江状』は凛然として爽やかであろう。だがまさしくその爽やかさ故に、慶次郎は敗北を予感した。もっともそんなことはどうでもよかった。

再び眼を開けた時、慶次郎の顔が一変していた。既に『いくさ人』の顔になり切っている。死を決した、と云うようなものではない。『いくさ人』がそんな一見悲壮なようで実は馬鹿馬鹿しい覚悟をするわけがない。ただ生死の境に入ると覚悟するだけである。生死は天に任せると云うことだ。力の続く限り殺してくれようと思う。修羅に入るのである。

「で、では敵味方と云うことに・・・・・」 当たり前のことである。今更口に出す必要のないことだった。秀康の若さである。 「戦陣の慣(なら)い」 ずばりと切って捨てた。 「戦場でお目にかかるのを楽しみにしておる。遠慮は御無用」 ぶるっと秀康が震えた。武者震いである。異様なまでに気持ちが高揚してきた。

本来大名が転封される時には、何よりも先に先祖の墓を新領地に持ってゆくものである。大方が新しい寺を立てて菩提寺とし、ここに墓をおさめる。

地方の寺の住職は、その地方きっての文化人である。大方は若く京に学び、漢詩及び和歌の素養を受けている。たまに都ぶりの文人墨客に逢えば喜んで迎えるのはそのためだ。

直江兼続は三千の兵を率いて、自ら殿軍(しんがり)を務めた。味方を無事に退却させるために、殿軍は全力を挙げて戦い、全滅するか、それに近い状態に追い込められるのが常である。その役を総大将自ら引き受けたところに、武人直江兼続の誇りと廉潔さた歴歴として示されていると云えようか。』

2013年12月21日 (土)

関東大震災 (吉村昭著 文春ウェブ文庫)

関東大震災について、犠牲者の大半が震災後の大火災によるものであることなど、よく知ることが出来ました。ただし、朝鮮人虐殺の件についての記述については、一方的で少し検証不足の感がありました。

『自身が突然起こったとき、人々は激烈な振動に狼狽して竈等の火を消す精神的ゆとりを持つ者は少なかった。殊に倒壊した家では、圧死からのがれるだけが精一杯で竈や七輪におこっていた火の上に材木や家財がのしかかり、たちまち火災が起こった。

風も火災発生と同時に激しさを増し、日没頃から夜の十一時頃までには風速も二十六,七メートルという烈風と化し、市内一面に猛火が轟々と逆巻いた。さらに水道はいたるところではかいされ、浄水場の電力も絶えて水路は完全に断絶してしまった。

大火災は、九月一日正午に始まり九月三日午前六時まで続いたが、東京市の四十三・五パーセントに達する千四十八万五千四百七十四坪という広大な地域が焼き払われた。

また延焼を促した最大の原因は、避難者の携行する荷物であった。人々は、家財を荷馬車や大八車に乗せたり背に負うたりして逃げまどい、路上はそれらの人と物によってあふれたが、迫った火は荷物に次々と引火していった。

私は、そのうちに外部から来た人たちが知人を探している者だけでないことに気づきました。かれらは、死体には目も向けずしきりに物品のみをあさってあるいているのです。・・私には、しれらの盗みをはたらいている人たちが悪鬼のように思えました。

被服廠跡の惨事は、突然起こった大旋風と敷地内にぎっしり運び込まれた荷物の延焼によって起った大災害によるものであった。

被服廠跡で焼死した者の中には、一酸化炭素による窒息死が多かった。助かった者たちの大半は、使者の山の下方に自然にもぐりこんでいた者だが、上方の死体の脂が体をおい、眼も脂で閉ざされてしまったという例もかなりあった。

江戸時代にくらべて大正時代の方がはるかに消防能力は優れていたのだが、地震による水道管の破裂によって消防力はほとんど無に帰していた。それに家屋の密集度も増していたこともあって、火災は自由に四方八方へのびたのである。

東京市の川は、死体におおわれた。殊に隅田川には、火に追われ川の中に飛び込んだ者たちの溺死体が無数に浮遊していた。

東京市(郡部を除く)の死者数の最大のものは焼死者で五万二千七十八名、それにつぐ死者数は溺死によるもの五千三百五十八名で、圧死者七百二十七名の七・四倍弱にも達している。つまり河川は、避難者を炎から救うと同時にかれらの生命をも奪ったのである。

道路、橋梁が家財で充満したために、人々は逃げ場を失い、消防隊もその活動をさまたげられた。関東大震災の東京市における悲劇は、避難者の持ち出した家財によるものであったと断言していい。

・・家屋等を倒す破壊消防によって延焼を防いだ地域もあった。その代表的な場所として、浅草観音附近があげられる。

住民たちは、ポンプ注水すると同時に家屋を破壊し、また数百名の住民は二列縦隊をつくって七個の井戸からくみ上げた水をバケツで手送りし、全力をあげて消火につとめた。人の戦いは八時間にも及び、その夜の午後十一時頃火勢を完全に食い止めることに成功した。

強烈な余震は、九月一日に午後零時から一時までの間に三回おこり、午後二時二十二分四十九秒にも相模灘を震源地とする地震が発生した。また翌二日にも六回にわたって余震に見舞われ、人々は圧死を恐れて家に入らず夜も屋外で過ごさねばならなかった。

通信機関の杜絶は、すべての連絡を不可能にした。警察、官庁も情報の入手方法を絶たれて、指令をうけることも報告することもできず右往左往するばかりであった。

・・大震災の発生と同時に東京の十六社に及ぶ新聞社の新聞発行機能は完全に崩壊してしまったという。・・いずれにしても、九月一日から五日の夕方まで一切の新聞は発行されず、東京市民は報道による情報の入手ができなかったのである。

大地震が発生した直後、東京市では軽微な盗難が随所に見られたが、横浜市では大規模な強盗事件が起こった。しかも、それは組織だった集団的なもので、災害に乗じたきわめて悪質な性格をもっていた。その代表的なものは、立憲労働党総理山口正憲を首謀者とする集団強盗事件であった。・・山口は、物資の調達が結局掠奪以外にないことをさとり、団員の中から体力に恵まれたものを選び出して決死隊と称させた。・・いくつかの決死隊が編成され、山口は彼らに赤い布を左腕に巻きつけさせ赤い布を竿にしばりつけさせて物資の掠奪を指令した。・・この山口正憲を首謀者とする強盗団の横行は、自然に他の不良分子に影響を与えた。

またそれを追って内務省警保局長後藤文夫から呉鎮守府、地方長官あての電報が伝騎によってとどけられた。その電文は、「東京附近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於いて爆弾を所持し、石油を注ぎて放火する者あり。既に東京府下には一部戒厳令を施行したるがゆえに、各地において充分周密なる視察を加え、鮮人の行動に対しては厳密なる取り締まりを加えられたし」という内容であった。この電文は、内務省が朝鮮人に関する流言を流言としてではなく、事実と断定したことを示している。そして、それを公式の電報として各地方に発信したため、朝鮮人による暴動説は、現実に起っている大事件として全国にまたたく間にひろがっていったのである。

かれ(吉野)は、たまたま良心的な出版社として知られる改造社が企画した「大正大震火災誌」の編集部から原稿依頼を受けていたので、「朝鮮人虐殺事件」と題する一文を「労働運動者及社会主義者圧迫事件」とともに執筆した。そして、前者の文中に殺害された朝鮮人0の数を二千六百十三名と記し、虐殺現場の地名も克明に書きとめた。

各地の警察では、多くの朝鮮人を逮捕し、厳重に尋問したが、かれらからは何の不審な点も発見できなかった。一般民衆が井戸に投入する毒薬を朝鮮人が持っていると訴えて取り調べてみると、それは七味唐辛子であったり、爆弾と思われるものも単なる食料缶詰にすぎない。放火の事実も皆無で、強盗、殺人等の証拠もつかむことは出来なかった。しかし、民衆は朝鮮人の発見に努め、凶器によって殺傷をつづけている。暴徒はむしろ自警団員らであった。

・・警視庁と東京市は、死体を露天で焼却させる以外に処理の方法はないと断定した。・・すでに死体は腐敗のきざしを見せ始めていて、作業は腐敗の進行と競い合うように進められた。

区役所では、第一日目の作業について検討した結果、死体を集積することをやめて現状のまま焼却することに決定した。

水上警察署では、舟を出して死体の収容につとめたが、隅田川を除く河川では、焼け落ちた橋や漂流物におおわれ航行できぬ状態だった。そのため作業は進まず、寺阪署長は河川の障害物を取り除くことが先決であるとさとり、陸軍工兵隊にsの作業を依頼した。工兵隊は、積極的に作業を進め、九月九日夕刻にいたって漸く河川の航行も可能になった。

災害地の衛生状態は最悪だったが、その具体的なあらわれとして、伝染病の流行が見られた。震災直後には、東京府一帯に赤痢が大流行して二千六百十九名の患者を出し、それが衰えたのち、腸チフスが猖獗を極めた。・・その他、パラチフス、猩紅熱、ジフテリア、流行性脳膜炎、天然痘がそれぞれ流行し、伝染病患者は総計一万四千三百六十四名という平年の二倍以上の数に達し、死者千八百二十七名を数えた。

警視庁では、暴利の根源が豊かな資力をもつ卸売商にあることを知り、九月十三日取り締まりを卸売商に集中すべきであるという指示を各警察署長に発した。また政府も、それら投機的な卸売商の得た不当利益の没収を発表した。取り締まりは、きわめて厳しく、暴利をむさぼる卸売商の検挙が続いた。その検挙数は、九月七日から十月末まで四百二十二件にも達した。これらの取締りによって、ようやく物価の安定をみることが出来るようになった。

しかし、東京の復興は着実な成果をあげた。土地買収が最も困難だったが、激しく土地収用に反対した市民も都市を災害から守らねばならぬという意識を抱き、政府の提示した安い価格で自己所有の土地を提供した。その結果、狭い道路は拡張され、新しい道路も創設されて、その数は幹線道路五十二、補助道路百二十二に及んだ。』

竜馬がゆく (六) (司馬遼太郎著 文春ウェブ文庫)

『西郷のすきな人物は、先君島津斉彬は別格として、楠木正成、石田三成、ナポレオン、ワシントンであった。

古来、薩摩藩は一種の秘密国家で、他国人をいっさい入れない。江戸初期の幕威のさかんなころでさえ、幕府の隠密でこの藩に入国できた者はまずない。追いかえされたり、関所役人にひそかに斬殺されたりした。そのため、江戸では、行って帰らぬことを「薩摩飛脚」といったほどであった。

西郷にいわせれば、こういう複雑な問題はあたら愚人どもに相談したりするとかえって事が複雑化し成る話もならぬことがある、というのである。

攘夷というのはもはや、初期の単なる外国人嫌いから複雑化し、そのような幕府の貿易独占態度への反発、それに幕府いじめや討幕の単なる口実としての攘夷といったようないわば経済・政治的意味をもつまでになっている。

余談だが高杉の暗殺を計画していたのは、維新後、兵部大輔大村益次郎を京都の宿にふみこんで斬った長州人神代直人であった。

下関は、話題が多い。西日本きっての海港だから、天下の情勢を知るにはこれほどいい場所はすくない。長州藩士が時代に敏感になったのは、ひとつには海上交通の要衝である下関を領内にもっているからだろう。

余談だが、土佐人は山岳型と海洋型にわかれているといわれる。普通、山岳型の代表的人物を中岡慎太郎とし、海洋型のそれを坂本竜馬としている。きちょうめんで計画性にとんでいるが、輪郭が明瞭すぎてひろがりがなく、融通がきかない、というのが山岳型。

「人の運命はわかりませんな」「それはちがう。人の運命は九割は自分の不明による罪だ。なににせよ、藤堂平助などは、いまとなっては道をひきかえすわけにはいくまい」

このことについて、桂に随行している長州の品川弥二郎は、維新後、こう語っている。「木戸(桂)の言い分と態度は、そばで聞いていたわれわれ長州人でさえずいぶんと非の打ちどころがあると思った。薩州側に立って言い分をつくるつもりなら、いくらも反駁できたに違いない。しかるに、洵(まこと)に御尤も、と一語を発しただけで頭をさげていた西郷は、さすがに大人物といわざるをえない」

・・竜馬は、「図に乗って淫談戯論をするうちに、どうしてもその語中に見下げられるところが出て来る。年配者は、おもしろがりながらも心中、軽侮する」 猥談の節度がかんじんだ、その節度の感覚のある男ならなにをやっても大事を成せる男だ、わしのみるところ西郷は達人だな、と妙なことで西郷を褒めた。

「幕兵がもし押し寄せてくれば、島津七十七万石の実力と名誉にかけて一歩たりともいれるな」と厳命した。島津七十七万石の実力にかけて、と言うが、藩邸で居残って幕兵をふせぐべき人数は、一人であった。一人にこれほどの「大命」を凛凛とあたえるところが、薩摩の家風をほうふつさせておもしろい。

彦八は、西郷と同町内の鹿児島城下加治屋町に屋敷をもっている。この一角七十余軒の貧乏武家町から、西郷隆盛、同従道、大久保利通、黒木為楨、東郷平八郎、大山巌などがでている・・

西郷のいう「傷にきく温泉」とは、霧島山の山ふところにかもまれた塩浸(しおひたし)温泉のことで、「薩摩者で傷をしたものは、医者どんにはかかり申さん。塩浸に行もさ」といった。

「おりょうよ、世間のすべてはこうだ、遠きに居るときは神秘めかしく見えるが、近づいてみればこのたぐいだ。将軍、大名のたぐいもこれとかわらない」

武士の道徳は、煮詰めてしまえばたった一つの徳目に落ちつくであろう。潔さ、ということだ。

「五平太はどのくらいあるかね」人の名前ではない。石炭のことだ。北九州で初めて石炭を掘りだした男の名がこんな新規な燃料の名になってしまった・・

薩人の酒宴というのはおのおの酒量に応じて泰然と飲む、というやりかたである。土州人のやりかたは、唄をうたってたがいに鼓舞しながら騒がしく飲み、たがいに強制しあい、箸拳などをして飲み比べをし、ついには動けなくなるまでやりあう。酒宴を闘争の場と心得ている。おなじ南国人でも薩摩と土佐とは、その点がちがっているようであった

古来、英雄豪傑とは、老獪と純情のつかいわけのうまい男をいうのだ 』

2013年12月 1日 (日)

真田太平記(四) 甲賀問答 (池波正太郎著 新潮社)

『「笑ってみるのがよいのだ」と、お江は亡父の馬杉市蔵から教えられたことがある。つまり、悲嘆や絶望に直面したときは、それにふさわしい情緒へ落ち込んではならぬというのだ。「笑いたくなくとも、先ず、笑ってみるのがよいのだ」 市蔵は、そういった。

むりにも笑う・・・・・・すると、その笑ったという行為が、不思議に人のこころへ反応してくる。(もういかぬ。ここで死ぬよりほかはない)と、あきらめてしまうよりも、(ならば、死ぬ前に何か仕てのけてみるのがよいではないか・・・・・)

「われら、忍びの者にかぎらず、人という人は、自分(おのれ)のためのみに生くるのではないぞ。おのれの無事を願い、おのれのためにつくしてくれる他の人びとのために生きねばならぬ。生き抜かねばならぬ。これが人というものじゃ」

ものしずかで、おだやかで、おちつきはらい、あれほどにすばらしい兵法者でありながら、どこまでも謙虚な態度で旅を続ける五郎右衛門をみているだけでも、右近は感動した。たとえば、せまい道で、人に行き合ったとする。そうしたとき、柳生五郎右衛門は、かならず自分から身をよけて、相手に道をゆずった。相手が武士であろうと、旅商人であろうと、農民であろうと、男女の区別もなく、われから道を譲る。これは一事が万事なのであって(ああ・・・・・まことに強い人というものは、こうしたものなのか・・・・・・)と、右近は、そうした五郎右衛門の側にいるだけでも、いまの自分が昨日の自分ではないような思いがしている。

女の躰は、耳裏のにおいによって、その健康の度合いが押しはかられると、忍びたちの間ではいわれている。たとえば、病気が重くなって、死が近くまで忍び寄ったとき、女の耳裏は無臭となってしまうのだそうな。

「自負と慢心とは紙一重である」という、甲が忍びのいましめ・・』

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