竜馬がゆく (七) (司馬遼太郎著 文春ウェブ文庫)
『さらに小栗はいう。「長州をつぶしたあと、その仏国の兵力、資力を以て逐次、薩摩、土佐、越前など幕府に反抗的な諸侯を討ち、武力で制圧してしまってから一挙に三百大名を排し、郡県制度を布き、徳川家の威権を神祖家康公のむかしに戻すつもりでござる」・・・もっともこの小栗の大構想はすでに幕閣の公然たる秘密になっており、その内容は、「亡ぼされる」はずの越前、薩摩、長州、土州あたりの諸侯にことごとく漏れてしまっている。幕末これらの諸侯や志士が幕府を見限るにいたった契機の最大のひとつは、この小栗構想にあったといっていい。
慶喜はいそぎ作戦方式を変えた。いままでは幕軍が従で諸藩の兵士が主になって戦っていたが、それを逆にし、幕軍を主力にすることにした。この噂が江戸につたわり、江戸の旗本は徴兵されることを怖れ、あわてて隠居届を出す者が多くなった。このため二十代の若い当主が隠居し、五,六歳の幼童が天下の御直参になる、という事例が続出した。
勝は生来、英雄譚(ばなし)のすきな人物で、古英雄の逸話や事歴をよく知っている。(外交には羽柴筑前守当時の秀吉のやりかたがもっともよい)とおもっていた。秀吉という男は、つねに素っ裸で相手のふところのなかに飛びこむ、というやりかたであった。「赤心を推して他人の腹中におく」ということであろう。
薩英戦争のときに、五代は鹿児島湾に乗っていたため汽船ごと捕われ、その捕虜生活を通して英人との接触がいよいよ深くなり、帰藩後は、藩の外国掛になった。
仕事というものは騎手と馬との関係だ、と竜馬は、ときに物哀しくもそう思う。いかに馬術の名人でもおいぼれ馬に乗ってはどうにもならない。少々へたな騎手でも駿馬にまたがれば千里も征けるのだ。・・(男の不幸は、馬を得るか得ぬかにある)竜馬にも、藩はない。
「長州人にいわせると、高杉の秘術のタネは一つだそうですよ。それは、困った、ということを金輪際いわない、ということだそうです。かれの自戒だそうです」
「それは四書五経の輪講の座ででも喋れ。世の動きというものはな」と、竜馬はいった。「筒井順慶できまるものだぞ。時勢も歴史もそうだ。新旧はげしく勝負をする。いずれか勝つ。勝ったほうに、おおぜいの筒井順慶がなだれを打って加盟し、世の勢いというものが滔々として出来上がっていくのだ。筒井順慶は馬鹿にならん」
歌にある。京・長崎・江戸・大坂の四都の花街の特色をよみこんだ歌だ。 京の女郎に長崎衣装 江戸の意気地のはればれと 大阪の揚屋で遊びたい なんと通ではないかいな
溝渕広之丞は、他国でいういっこく者、土佐でいういごっそう(異骨相)という人物である。いったん我意を立てれば、雷が落ちようと槍が降ろうとあとへはひかない。
竜馬は無愛想にはねかえしている。剣術の他流試合に似ている。相手の剣の質、壁、弱点を見きわめた上で仕掛けるのが、他流試合の骨法であった。
「ありがとう。しかし私は自分で洗う方が好きだ」 これは中岡の性分であった。なにしろおのれの身のまわりのことはつくろいものまで自分でする男だ。
「代々、百石、二百石などという厚禄に飽いた者とは、共に事を談じることはできない」 と、竜馬もいったことがある。 「俸禄は鳥の餌とおなじだ。先祖代々餌で飼われてきた駕籠の鳥になにができるか」 といったこともある。
「負けるいくさはせぬことだ。やるからには紀州藩を潰してやる覚悟で、しかも打つ手は確実にやらねばならぬ」
武家の伝統的なやり方としてそういう型がある。たとえばのっぴきならぬ決闘を決意したときなど、家へちょっと帰ってきて女房をよび出し、「いいか、あとのことはこれこれだ」と手みじかに言って出かけてしまう。長居をしてくどくど話すと、愁嘆場を演ずるはめになるからだ。
革命というのは、ある意味ではもっとも巨大な陰謀といっていい。それをやる側にとっては神のごとき陰謀の才が必要だった。
この幕末においては東本願寺は佐幕派に属し、西本願寺は勤王派に属した。このため西本願寺は幕府からにらまれつつも、志士たちに資金を提供したり、こういう密会所を提供したりした。
「断ずる前に」と、退助はいった。 「解決しておかねばならぬことがある。でなければ胸襟をひらくわけにはいかない」 「胸襟を」 「そう。今年のはじめのことだ。わしが京にあったとき、ぬしゃ、わしを斬ろうと企てていたな」 「いや、左様なことは」 と中岡は顔色を変えずにいうと、退助は大喝一声して、「中岡慎太郎は男児ではないか」 といった。中岡は退助の気魄にうたれ、参った、そのとおりである。といった。退助はうなずき、されば天下の事を談じようとはじめて微笑した。
容堂には、持病がある。高血圧と歯痛であった。とくに歯痛は数カ月に一度、すさまじい症状をもっておとずれてくる。
高杉は病い革(あらた)まるや、幼子の東一のあたまをなで、「父の顔をよくおぼえておけ」と言い、やがて筆をとり、「面白き、こともなき世を、おもしろく」 辞世の上の句をよんだ。下の句に苦吟していると、看病をしていた野村望東尼(もとに)が、「住みなすものは心なりけり」と詠んだ。高杉はうなずき、・・・・・・・面白いのう。と言ってしずかに眠った。それが、高杉の最期であった。
「ものには時機がある。この案を数か月前に投ずれば世の嘲笑を買うだけだろうし、また数か月後に提(ひっさ)げて出ればもはやそこは砲煙のなかでなにもかも後の祭りになる。いまだけが、この案の光るときだ」』