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2013年11月14日 (木)

真田太平記(三) 上田攻め (池波正太郎著 新潮社)

『その城跡に、豊臣秀吉が、「三國無双の城」を築きあげたのである。[三国]とは、日本・中国・インドをさす。

度量が広いというよりも、このときの上杉景勝と直江兼続が、昌幸に見せた態度は、爽快を極めていたのである。昌幸の苦悩と、その苦悩が行きついた末に生まれた覚悟とを、二人は何の疑惑もなく汲みとってくれた。

「・・・そなたが身をもってつたえねばならぬ。口先でつたえよともうしているのではないぞ。そのいのちをもってつたえよ」となれば稲姫も、一種の人質として豊臣秀吉の手許へ引き取られた真田源二郎幸村と同様の使命を担ったことになる。まだ少女といってもよい年齢の稲姫が、この父の言葉にちから強くうなずいたというのだから、現代人の感覚をもってしては、当時の武家の女を計りきれまい。

徳川家の、こうした老臣たちは主家を自分の家と考え、領国を自分の国とも思って、家来であっても、主人の家族のひとりだという意識が強い。ゆえに形のうえでの出世をしてもしなくとも、同じことなのである。「自分の所領を増大させてくれなくともよい。その分を他の大名へまわし、徳川家のためにはたらかせるがよい」と、いうわけなのだ。

引き返して来て、名胡桃城が完全に落ちたことを知ったとき、たちまちに、主水は決意をした。武将として、(これほどの恥辱はない)と、おもいきわめたのである。北条方の卑怯を憎むよりも、主水は、あまりにもやすやすと敵の謀略に乗せられた自分を、「何たることじゃ」責めずにはいられなkたっか。(おめおめと、このまま生きて、上田の殿へ合わせる顔があろうか・・・)

関白・豊臣秀吉は御所へ参内し、後陽成天皇より節刀を賜った。節刀とは、中国の制度にならったもので、将軍が出征に際し、天皇より賜る刀だ。

渡辺勘兵衛は、まさに、典型的な戦国の武士であって、自分の力量をみとめてくれる相手でなくては、いのちがけのはたらきをしなかった。みとめるというのは、むろん、第一に自分の立身出世である。第二には、そうした報酬がなくとも、自分のはたらきに感謝してくれる相手でなくては、はたらきたくない。

・・大納言秀長は五十一歳の生涯を終えてしまった。秀長は、病患のため、小田原攻めに参加していなかった。

[太閤]とは、摂政または太政大臣の尊称だ。

若いと云っても、当時の二十四歳は、現代の三十四歳にも四十歳にも匹敵する。

自決したときの千利休は七十歳であったが、背丈も高く、がっしりとした、まるで壮年の男の体格で、青々と剃りあげた頭を、「天へ突き上げるようにして・・・・・」歩む姿などは、その辺の小大名などに比べて、はるかに威風堂々としている。

千利休の茶道は、およそ、次のことばにつきている。 「・・・家は雨が漏らぬほどに、食事は飢えぬほどでよい。これこそ御仏の教えであり、茶道の本義というものである」 』

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