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2013年11月

2013年11月24日 (日)

韓国反日感情の正体 (黒田勝弘著 角川oneテーマ21)

著者は韓国を非難していますが、韓国に対する愛情も感じられる著作でした。私自身は、韓国を好きではありませんが、著者の所見には勉強させられる部分も多々あります。

『端的に言って、韓国について日本ではこれまで知識人は親韓だったのに対し、大衆は反韓だったと言っていい。・・ところが逆に韓国では、日本について知識人は反日で大衆は親日だった。だから知識人(メディア)は大衆に対し「過去を忘れてはならない、日本は警戒すべき」とお説教を続けてきた。多くの大衆が本当に反日であれば、あらためてそんなことを繰返し言う必要はないではないか。韓国の反日にはそういう実態がある。

・・韓国社会では日常的には反日を感じさせられることは実はほとんどないということだ。メディアにあふれる不愉快な反日さえ知らなければ、日常的には反日はない(?)に等しいのだ。

・・知識人やメディアは、韓国社会(大衆)が日本に対する拒否感を後退させ、あるべき反日を風化させていることにイラ立ちをつのらせているのだ。だから、いわば意地になって反日をやっているというべきかもしれない。

韓国社会を支配してきたのは李朝時代以来、伝統的には「知的エリート」たちである。李朝時代内ら科挙に合格した本読みで書斎型の知的エリート「士大夫」だが、韓国の伝統では支配rエリートの「士」とは文人(知識人)であった、日本のような武人(武士)ではなかった。

韓国ではメディアは言論界といわれ、そこに従事する記者(知識人!)たちは言論人といわれる。だからメディアは単に情報を伝達する報道機関ではなく、それ以上に物事を「論」じる媒体なのだ。論とは「こうあるべき」ということを主張することである。

この海上支配ライン(李承晩ライン)によって日本漁船二百三十三隻が拿捕され、漁船員二千七百九十一人が抑留され五人が韓国で死亡した。これは戦後の日本人の対韓感情悪化の大きな背景になった。

反日問題ではなくても、日常生活をはじめあらゆる局面で、家族-血縁を中心にした人脈がモノをいう「人脈社会」というのもそうである。なぜそうなのかここでは触れないが、韓国との付き合いでは必ず頭に入れておかなければならない。

警備の警察官は大使館(外国公館)を守っているはずなのに、実は無許可不法施設の慰安婦記念像のほ方を守っているのである。

筆者の見立てによると、韓国人の歴史観というのは歴史を「あった歴史」より「あるべき歴史」で考えるということだ。

元慰安婦たち日本統治時代の協力者・被害者は抵抗者として復権、変身し今、反日運動の先頭に立たされている。彼女たちのいわば「独立有功者」へのドラマチック(?)ともいうべき変身は、韓国人の「あった歴史」より「あるべき歴史」が重要という特異な歴史観の典型的な産物である。

元慰安婦の老女たちを押し立てた日本大使館へのデモをはじめ、あの執拗な反日運動は、過去やれなかった「見果てぬ夢」である対日独立戦争を今、仮の姿でやっているということなのだ。

一九七〇年代までの日韓関係には、端的にいって「独島」も「慰安婦」も「靖国神社」も「教科書」も存在しなかった。これらはすべて八〇年代以降の産物と言っていい。

・・戦後の日本では南朝鮮つまり「韓国」の影は薄く、その存在は北朝鮮に比べはるかに小さく弱かった。韓国という名前自体、日本人の間で一般化するのは七〇年代以降である。理由は明らかだ。戦後日本はジャーナリズムや知識人世界を中心に長く「社会主義」幻想に侵されていた。

戦後日本社会では北朝鮮の政治工作と韓国の反政府勢力によって、韓国については否定的情報ばかりが流通していたのだ。したがって一九五九年に始まった「在日朝鮮人祖国帰還運動」にも疑問や批判はほとんどなく歓迎された。

・・しかし解禁は段階的に進められ、二〇一三年の現段階でもテレビ(地上波)での日本歌謡や日本の映画、ドラマはまだ解禁されていない。

韓国における日本大衆文化輸入禁止の理由は「国民感情が許さない」だった。韓国政府はいつもそう説明し、世論(メディア)も納得し支持してきた。反日感情があるからだめだというのだ。しかし”真相”はこれではない。表向きの話に過ぎない。よく考えてみればすぐわかる。そんなに反日感情があるなら、政府が禁止するまでもなく国民が拒否するはずではないか。禁止しなくても誰も見ないし、聞かないのならやらなくなる。嫌いならわざわざ禁止などしなくてもいいのだ。・・端的にいえば、韓国では禁止しないと国民が日本のモノをつい好んでしまうから禁止したと言った方がいい。

解放は突然やってきたため、日本人化していた韓国人にとってまず必要だったのは、新生・韓国にふさわしい「本当の韓国人」になることだった。そこで行われたのが反日教育だった。「われわれはもう日本人ではない、韓国人だ」という「本当の韓国人」になるためにはまず日本統治時代の過酷を否定しなければならなかった。・・・誤解を恐れずにいえば、韓国の反日は解放後、国家、民族としての必要性のゆえに教育によって過剰に作られ、広がったのである。

李承晩政権は反日で知られるが新生・韓国における「北の脅威」に対抗する反共体制つくりでは、日本統治時代の行政組織や人材を多く活用せざるを得なかった。その結果、親北・左派勢力からは「親日派温存」で反民族的と非難され続けた。

・・「日帝が我々の民族精気を抹殺するために打ち込んだ鉄の杭が見つかりました」というのだ。・・韓国で過去の日本支配の歴史に関連し昔からよく登場する「日本謀略説」のひとつである。・・結論を先にいえば、そうした山の岩場の鉄杭は三角点や測量、登山など何らかの施設のためのもので、それが「民族精気の抹殺のため」に日本人によって意図的に打ち込まれたなどという証拠など全くない。ところが「歴史の正しい立て直し」を政権のスローガンにした金泳三政権(一九九三-九八)は、その鉄杭を抜く運動を政府予算を使い軍まで動員し全国的に展開した。

・・しかも韓国は日本と戦った戦勝国ではなく、連合国の一員でもなかった。つまり韓国はこの裁判には直接関係はなく、処刑されたいわゆるA級戦犯とも韓国とは関係ないのである。なのになぜ靖国問題で日本を非難し騒ぐのか。韓国は日本の軍国主義の被害を受けたからという。たしかに日韓併合で日本に組み込まれ、戦時中には日本人と同じく徴兵や軍需動員の対象となった。しかし東京裁判ではそういうものは戦争犯罪にはなっていない。韓国は結局、戦前の日本による支配・当地の被害者ということで、民族感情として裁判の結果に身を寄せたにすぎないのだ。そして実態とは別に、心情として自らを対日戦勝国である連合国と同列に置いたということに過ぎないのだ。

技術サイドの支援・協力にあたった日本の「鉄道建設公団(鉄建公団)」の担当者から聞いた話がある。彼らは現地に長期滞在し韓国初の地下鉄建設に情熱を傾けた。したがって待ちに待ったその完成は技術者集団である彼らにとっても、韓国側に劣らず大きな喜びだった。八月一五日の開通式には当然、招かれ共に完成を祝えると思っていた。ところが彼等には正体がなく、開通式には参加できなかったというのだ。いかに残念だったかそのときの心情を語ってくれた

日本と韓国との関係において、韓国にとってあれだけ批判、非難し続けている日本に、手助けされたりお世話になったということは実に我慢ならないことだ。これは誰でもそうだろう。その心情はよく理解できる。そこで日本に対する、あるいは自らに対する我慢ならない感情をなだめるために二つの心理操作が行われてきた。一つは日本の協力や支援を『当然』「あたり前のこと」として心理的負担にならないようにすること。もう一つは支援、協力の事実をできるだけ隠し広く知られないようにすることだ。

この問題は本来は簡単なことだ。過去にかかわる「補償」は韓国政府が代表し日本から一括して受け取ったわけだから、個人には韓国政府が対応すれば済む話である。したがって要求は韓国政府に行えば解決する。

「・・・私はこれまで異なった見解を認める韓国のメディアの記事を見たことがない。そのいつものやり方は『異論は無視しろ』『韓国の主張を繰り返せ』である・・・・・・」これは筆者が書いたものではない。韓国空財の米国人記者(アンドルー・サーモン)が韓国の英字紙「コリア・タイムズ」(二〇一二年四月三〇日付)に寄稿したものである。

それまでソ連圏という大きな敵を前に日韓の対立やケンカはタブーだったが、冷戦構造のタガが緩むことで安心(?)してケンカを始めたのだ。

自らの主張とそれに同調する人々を「良心的」として普遍性を装うのが韓国人の歴史観である。

・・韓国ではマスコミの影響はことのほか大きい。理由は言論、言論界、言論人というようにメディアが”論”の媒体だからだ。つまり論じ、主張することを目的としているためきわめて主観的なのだ。その結果、よくいえば教育的、啓蒙的だが、悪く云えば情緒的、煽動的になる。

・・鄭大均・首都大学東京教授は・・・・次のように説明している(『韓国が「反日」をやめる日は来るのか』二〇一二年、新人物往来社刊)「韓国社会の同質性という条件は格好の環境にある。(略)韓国は文字通りの民族国家(エスニック・ステート)に近い国であり、一体感の誇示にはほぼ理想的な条件を備えている。『漢民族の優秀性』の神話であれ、『日帝強占期』の神話であれ、なぜかくも急速に韓国人の心や身体に刷り込まれたかの根本的理由はここにある・・・」

・・中国の場合、暴動ということで明らかなように、あれは不特定多数の群衆による暴力を伴った無秩序な反日だった。しかし韓国の場合は、風景としては限定された場所での特定少数による秩序ある反日パフォーマンスにすぎないということだ

韓国での暴動的な反日は一回だけあった。もう四十年も前のことだが、・・一九七四年の大統領夫人が銃弾で倒れた文世光事件の時である。最大の反日事件に発展し、抗議デモが日本大使館に乱入し、日本の国旗を引き下ろすという事態になった。この事件がなぜ反日事件になったかというと、テロの班員が在日韓国青年で日本人名の日本のパスポートで入国していたからだ。事件の第一報は「日本人の犯行」だった。犯行に使われた拳銃は日本の派出所から盗んだもので、犯行の背後に北朝鮮系の在日朝鮮総連の存在が明らかになったからだ。韓国世論はこの事件について日本の政府当局者(外務省)が「日本に責任はない」と発言したため激高した。

中国で激発している反日風景を見た韓国人の感想が面白かった。・・多くは「あれはひどい・・・」と批判的だった。そして「われわれはあれとは違う」「われわれだったらあんなことはしない」というのだ。つまり中国の暴徒化した激しい反日風景を批判し、中国を「遅れている国」として一段下に見るという優越感を語るのだった。

韓国には「ヌンチ(目先、目ざとさ)」という言葉があるが、周囲の様子をうかがいながら態度を決めるという時によく使う。韓国は「ヌンチが早い」つまり「目先が利き、臨機応変、機転を利かせるのが早くて、うまい」のだ。歴史的にも国際関係においてこの才能を発揮し生き延びてきた。

中国に対し彼等は決して親近感は持っていないように見える。端的にって好きではない、場合によっては嫌いなように見える。

・・筆者には日韓にとって「中国は富士山」という持論がある。中国は日本からは遠いので、日本がはるかにながめる中国は時に富士山のように美しいが、中国をすぐそばに見てきた韓国にとっては、中国は近くで見る富士山の山肌のように決して美しくはないというわけだ。

近年の韓国では政治・外交、メディア、識者の反日と、必ずしもそうではない一般大衆の対日観(感)の間に乖離現象が目立つ。ところが、中国については、一般大衆はきわめて冷めているが政治・外交、メディア、識者たちは中国傾斜になっている。これもある種の乖離現象である。

創価学会にもどれば、当初は在日韓国人によって日本から韓国に持ち込まれたという。そして日本と近い南部の釜山あたりから広がった。もちろん一九六五年の日韓国交正常化以降のことである。しかし長い間、韓国社会の反日感情のため「倭色宗教」といわれ排斥された。

反日のタテマエも親日のホンネも両方が韓国であり、韓国人なのだ。一方だけを見て怒ったり安心したりは意味がない。いいことがあってもイヤなことがあっても、いつも一歩引いた姿勢で距離を置いて冷静に対応することだ。良きにつけ悪しきにつけ執着して引く込まれ、動きが取れなくなるのが最もまずい。』

2013年11月22日 (金)

竜馬がゆく (五) (司馬遼太郎著 文春ウェブ文庫)

『当時、水戸藩と云えば党派の複雑な藩で、天狗党のように極端な勤王攘夷派がいるかと思えば、極端な佐幕派もおり、その中間派もあり、たがいに仇敵のように憎み合っている。それだけに各派の情報もはいりやすい。

吉田稔麿は、亡き吉田松陰がもっともその人柄、才質を愛した高弟で高杉晋作、久坂玄瑞とともに松陰門下の三才といわれている人物である。年二十四.

「松陰先生の門下生ではたれが傑出していたか」ときくと、品川翁は言下に「吉田稔麿だ」といった。「いまいきておれば据え置きの総理大臣だろう。次が杉山松助でこれは大蔵大臣、久坂玄瑞は万能に通じ、高杉晋作は奇知に長け、佐世八十郎(前原一誠)には勇気がある。このほか、入江九一、寺島忠三郎。結局この七人が傑出している」

稔麿は、どう斬りぬけたか池田屋をとびだし、路上の会津兵を阿修羅のように追い散らしつつ長州藩邸に帰り、「杉山、援軍を頼む」と、ひと声どなり、ふたたび駆け出して池田屋の現場にもどったときは、新撰組の人数が数倍にふえていた。・・稔麿は、斬られては戦い、駆けては斬られつつ死に物狂いに狂いまわったが、ついに新選組沖田総司の一刀で絶命した。

池田屋の変報が、瀬戸内海の舟便によって長州にもたらされたのは、数日後であった。長州藩は、激怒した。もはや自重論は影をひそめ、来島又兵衛流の武力陳情論が、勢いをしめ、いそぎ京にむかって軍勢を進発させることになった。幕末騒乱の引金がひかれた。ひいたのは、新撰組であるといっていい。

若者が、酒宴をする。一座の中央に、天井からひもを垂らして、鉄砲を水平にぶらさげておく。銃口は、各自の胸にあたっている。やがて宴たけなわになると、鉄砲の火縄に火をつけ、ぐるぐるまわす。火縄が燃え、やがて火皿にうつると、ぐわぁん、と銃は轟発して、自動的に弾がとびだすようになっている。たれに当たるかもわからない。それでも平然と酒を飲み、うろたえる者をいやしむという試胆会であった。

元来、戦国このかた、薩摩人には捕虜を優遇する風習があり、その風習によるものかもしれないが、ひとつには、この藩人の外交能力から出たものといっていい。

実のところ、毛利氏は関ヶ原では一発の弾もうっていないのである。しかもその支族の吉川広家が東軍に内応しているから、所領没収は苛酷であった。ところが毛利氏は昨日までの同僚であった徳川氏に発砲陳謝し、かろうじて所領を四分の一に減らされ、城を広島から日本海岸の萩へうつされるという悪条件のもとで家名は残された。この拙劣さ、平身低頭一点張りの外交のわざわいであろう。

竜馬は、にやにや笑った。「人間、不人気ではなにも出来ませんな。いかに正義を行おうと、ことごとく悪意にとられ、ついにはみずから事を捨てざるをえなくなります」

氏(竜馬)いわく、「われはじめて西郷を見る。その人物、茫漠としてとらえどころなし。ちょうど大鐘のごとし。小さく叩けば小さく鳴り、大きく叩けば大きく鳴る」と。知言なり、と勝は大いに感嘆し、「評するも人、評せらるるも人」と、その日記に書きとめた。

小松は竜馬と同じ天保6年の生まれである。・・西郷は藩外交の上でこの小松を補佐している、というかっこうだった。西郷という男も、家老小松帯刀という理解者がいなければ、その仕事の半分もやれなかったであろう。

余談だが、小松は維新後多病でほとんど活動できぬままに明治三年七月、年三十六で死んでいる。

幕府はこのとき、すかさず長州を処分し、その領土を奪うか、国替えでもしてしまえばことが済んだのだ、と福地源一郎は云うのである。幕府は、この絶好の機会をのがしてしまった。なぜのがしたか。強力な宰相がいなかったからである。

西郷という人は、武力こそ外交を好転させる無言の力だという思想の信奉者で、これは終生かわらなかった。余談の余談になるが、晩年にこういっている。「世でおいをユッサ(戦さ)好きじゃというちょるが、誰がユッサを好くものか。ユッサは人を殺し、金を使うもので、めったにユッサばしてはならんもんでごあす。しかし機会が来ればユッサもせねばなりもはンど。欧米の文明も、ユッサをしてできたもんでごあす」

日本人の家系の集約的中心は天皇家で、これに次ぐ神聖血族は公卿であるとされてきた。』

2013年11月14日 (木)

真田太平記(三) 上田攻め (池波正太郎著 新潮社)

『その城跡に、豊臣秀吉が、「三國無双の城」を築きあげたのである。[三国]とは、日本・中国・インドをさす。

度量が広いというよりも、このときの上杉景勝と直江兼続が、昌幸に見せた態度は、爽快を極めていたのである。昌幸の苦悩と、その苦悩が行きついた末に生まれた覚悟とを、二人は何の疑惑もなく汲みとってくれた。

「・・・そなたが身をもってつたえねばならぬ。口先でつたえよともうしているのではないぞ。そのいのちをもってつたえよ」となれば稲姫も、一種の人質として豊臣秀吉の手許へ引き取られた真田源二郎幸村と同様の使命を担ったことになる。まだ少女といってもよい年齢の稲姫が、この父の言葉にちから強くうなずいたというのだから、現代人の感覚をもってしては、当時の武家の女を計りきれまい。

徳川家の、こうした老臣たちは主家を自分の家と考え、領国を自分の国とも思って、家来であっても、主人の家族のひとりだという意識が強い。ゆえに形のうえでの出世をしてもしなくとも、同じことなのである。「自分の所領を増大させてくれなくともよい。その分を他の大名へまわし、徳川家のためにはたらかせるがよい」と、いうわけなのだ。

引き返して来て、名胡桃城が完全に落ちたことを知ったとき、たちまちに、主水は決意をした。武将として、(これほどの恥辱はない)と、おもいきわめたのである。北条方の卑怯を憎むよりも、主水は、あまりにもやすやすと敵の謀略に乗せられた自分を、「何たることじゃ」責めずにはいられなkたっか。(おめおめと、このまま生きて、上田の殿へ合わせる顔があろうか・・・)

関白・豊臣秀吉は御所へ参内し、後陽成天皇より節刀を賜った。節刀とは、中国の制度にならったもので、将軍が出征に際し、天皇より賜る刀だ。

渡辺勘兵衛は、まさに、典型的な戦国の武士であって、自分の力量をみとめてくれる相手でなくては、いのちがけのはたらきをしなかった。みとめるというのは、むろん、第一に自分の立身出世である。第二には、そうした報酬がなくとも、自分のはたらきに感謝してくれる相手でなくては、はたらきたくない。

・・大納言秀長は五十一歳の生涯を終えてしまった。秀長は、病患のため、小田原攻めに参加していなかった。

[太閤]とは、摂政または太政大臣の尊称だ。

若いと云っても、当時の二十四歳は、現代の三十四歳にも四十歳にも匹敵する。

自決したときの千利休は七十歳であったが、背丈も高く、がっしりとした、まるで壮年の男の体格で、青々と剃りあげた頭を、「天へ突き上げるようにして・・・・・」歩む姿などは、その辺の小大名などに比べて、はるかに威風堂々としている。

千利休の茶道は、およそ、次のことばにつきている。 「・・・家は雨が漏らぬほどに、食事は飢えぬほどでよい。これこそ御仏の教えであり、茶道の本義というものである」 』

2013年11月 2日 (土)

人斬り半次郎 幕末編 (池波正太郎著 角川e文庫)

幕末から明治維新のドラマに再び興味がわいてきました。

『だが、薩摩男の夜這いは女の部屋で朝を迎えてはならぬという掟がある。

人物も立派なのだが、何しろ、見るからに偉人の風貌をそなえているから、することなすこと、すべてに信頼をもたれる。もしも、西郷隆盛が、[きりぎりす]のようにやせた男であったら、西郷は、あれだけの仕事をなしとげられなかったであろうし、上野の山に銅像もたたなかったであろう。この点、大久保市蔵は大分に損をしていると言えそうだ。人間というもの、姿かたちも大切なものなのである。

偉さにもいろいろあろうが、西郷吉之助という人物は、この動乱期を切り抜け、最後まで生き残って出世しようとか、名誉を得ようとか、そんな気持ちがみじんもないのだ。事に当たって計算をしない。自分が死んでも、これをやるべきことだと思ったら、いささかのためらいもなく死地に飛び込んでしまう。

悠々と腰をおろし、菓子をつまみ、うす茶を味わっていると、(ふむ。俺も、これで、やっと一人前の侍になれた) 何となく出世をしたような実感もわいてくる。

青蓮院は、比叡山・延暦寺の別院である。寺格も高く、天台宗の門跡寺だ。門跡寺というのは--むかし、宇多天皇が住居せられた仁和寺の御所を天皇崩御の跡に[跡門]とよん、これが、その起こりであると言われている。以来、法王、王子、皇族が住職となられる寺を定めて、門跡寺と呼んだ。

字は[六月火雲飛白雪]というのだ。六月の火雲(かうん)白雪(はくせつ)を飛ばす、とよむのである。つまり、夏の雲が雪を降らせるというわけであった。・・つまり、世の中の常識というものにとらわえてはいけない。夏に雪をふらせるというほどの自由自在な機能をもつということが人間にとっては大切である。言い換えれば、常識というものの中にある馬鹿馬鹿しい考え方からはなれて事にのぞむことも、ときには必要なのだという意味をこの言葉は語っているのだと、法秀尼は教えてくれた。

「ま、手本もええが、折あるごとに、他人の書いた手紙やら、書やら、上手やと感じたものをようお見やして、その書体やら読み方やらを、納得のいくまでおぼえこむことや。・・

・・もしも革命成功となれば、どんな出世がまちうけているか知れたものではない。いや、そのことよりも、腕力をふるってあばれまわり、大名でも将軍でも震え上がらせるという痛快さは筆にも口にもつくしがたいものがあったに違いない。日本の危機のためにはたらこうと叫ぶ、その裏側に、こうした人間の本能が強烈にうごいていることはいつの時代でも同じことだ。これだから無益の血が流れる。これだから人間の集団は、おそろしい動きをするものなのである。

中川宮邸にいたころ、つとめて長州藩士に近づき、彼らの言動にふれようとしたのも、長州藩の動きを少しでも感じたかったからだ。

(いまの一年は、おいどんが島流しにおうたころの十年にもあたっている。世は、今や変わろうとしつつあるのじゃ。その変りかける頂にあるのじゃ。このときに、中央におらなんだら、何も出来ぬ)

「人間な、いつかは死ぬものごわす」・・「早いか、おそいか、それだけのことじゃ」・・「そのことな、忘れちゃいかぬ」・・「そのことな忘れずにおれば、つまらぬ、小(ちっ)ぽけな、欲張りな、厭な人間にならずにすみもす」

ああでもない、こうでもないと、戦力もなくなったくせに、幕府の閣内は蜂の巣をつついたようにやかましくなる。実行がともなわず、口だけがやかましくなるのは、すでに衰亡のきざしが見えたのも同然であった。』

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