竜馬がゆく (四) (司馬遼太郎著 文春ウェブ文庫)
『神戸という地名は、慶應三年十二月七日の開港まで、ほとんど世に知られなかった。わずかに、平家物語などに出ている、「生田の森」の付近といえば、そうかと想像の付く程度の海辺で、普通は、その西方の宿場の兵庫をもって代表される村名であった。
江戸の町は、当時世界最大の都会のひとつで、人口は百万、ニューヨーク、ロンドンと肩を並べていた。が、この都会が世界の各都市と変わっているところは、その人口の半分の五十万が、武士であったことである。旗本、諸藩の定府、勤番侍などがその五十万で、かれらはすべて生産者ではない。国もとから送られてくる金で、消費専一の生活を営んでいる。
竜馬は、新選組巡察隊の先頭と、あと五,六間とまできて、ひょいと首を左へねじむけた。そこに、子猫がいる。・・竜馬は、隊の前をゆうゆう横切ってその子猫を抱き上げたのである。隊列の前を横切る者は切ってもいいというのが、当時の常法である。一瞬、新選組の面々に怒気が走ったが、当の大男の浪人は、顔の前まで子猫をだきあげ、「ちゅっ、ちゅっ、ちゅっ」とねずみ鳴きをして猫をからかいながら、なんと隊の中央を横切り始めた。みな、気を呑まれた。ぼう然としているまに、竜馬は子猫を頬ずりしながら、悠々通りぬけてしまった。
・・竜馬がいった。「ああいう場合によくないのは、気と気でぶつかることだ。闘る(やる)・闘る、と双方同じ気を発すれば気がついたときには斬りあっているさ」 「では、逃げればどうなるんです」 「同じことだ。闘る・逃げる、と積極、消極の差こそあれ、同じ気だ。・・」
・・百姓、町人という階級は、徳川の政策で、自分の階級に矜り(ほこり)をもてないように訓練されてきている。それに、欲望があって教養がない。・・日本人の人口のうち、九割が百姓、町人で、一割が侍なのである。一割だけが自分に矜りを持つことができる「市民」であるといっていい。
「・・・志士ハ溝壑(こうがく)ニ在ルヲ忘レズ、勇士ハソノ元(くび)ヲ喪(うしな)フヲワスレズ」 「どういう意味です」 「志を持って天下に働きかけようとするほどの者は、自分の死骸が溝っぷちに捨てられている情景を常に覚悟せよ、勇気ある者は自分の首が無くなっている情景をつねに忘れるな、ということです。それでなければ、男子の自由はえられん」 』
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