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2013年10月

2013年10月22日 (火)

回天の門 (藤沢周平著 文春ウェブ文庫)

必ずしも評判のよくない清河八郎が主人公の、藤沢周平氏による作品です。清河は、私と共通点が多いことに気づきました。

『畑田は人の運命にかかわることのこわさを知っていた。江戸へ出て、それが元司のしあわせになるかどうかはわからないことだった。

・・・あっというような学才を誇示して周囲が驚くのを楽しんだ。その気持ちの動きが、あまり上質のものでないことに八郎は気づいていたが、今夜もそれがでたのだ、と思った。---底に、田舎者のひけ目があるのだ。 と、八郎はそういう自分の気持ちを分析することがあった。意表に出て相手の鼻をあかす、という気持ちの動きには、田舎者の劣等感を裏返した気持ちと、生得の人に負けたくない性格がまじりあっていると、薄うす気づいている。

・・世の中が大きな変わり目にきている。男はそういうありさまをしっかり見据えていなkればならん。そのときがきてあわてるようでは醜態というものだ

だがほかならぬ自分の手でそれをやる不安が、時々堀田の心をかすめるようだった。堀田は条約の調印を一日でも先に延ばしたいと思った。

それは阿部老中が種子をまき、自分が育てた怪物かも知れなかった。あるいはその力をあたえたものは、阿部でも自分でもなく、時勢というものかも知れなかった。いずれにしろ、京都に隠然として幕政に拮抗する政治権力が存在することは、疑いえない事実だった。

「だがな。もとはといえば、おれがあの男を斬ったのが間違いだ。大望を抱く者なら、辛抱すべきだった。辛抱してあの場を切り抜けていたら、たとえわれわれを怪しんだところで、幕府もそう簡単に手をつけられるもんじゃない。」「・・・・・」「おれの軽率さが大事を招いた。そう思うとやりきれんな。この暑いときに、みんなは牢内で苦しんでいるだろう」

「肥後の議論倒れと申しましてな、いったん起てば強いが、そこまで行くのが、容易ではない」 平野が、火桶のそばにきちんと坐ったまま言った。 「肥前、肥後を通じての通弊です。よく議論するが、はかばかしく実行には踏み込まんのです」

「さようです。時どき思い出されますな」 平野は驚くほど率直に言ったが、すぐに軽い笑い声を立てた。 「しかし国のために働く身には、妻子のことはぜひもないことでござる」

人に優れた先見の明と、状況の鋭い読み。その上に立ってすばやく行動を組み立てる能力、そこに人を引っぱって行く雄弁と胆力。これらは本来一党をまとめる頭領の条件なのだが、何の背景も持たない孤士の八郎がそういう熱弁を展開すると、弁舌に覇気があって巧みであるほど、どことなくある種の煽動家に似てくる。そのあたりが八郎の悲劇だった。

だが八郎は、何の背景も持たない孤士だった。正論だけ吐いていても人がついて来ないのだ。人を動かすためには、可能なかぎり論旨を派手に飾り、重みをも付け加える必要があった。そこを安積が理解せず、いたずらに策を弄するとみるなら、それも仕方ないことだと八郎は思った。

八郎は、自分より立場の弱い人間や、慕ってあつまって来る者に対しては、とことんまで尽くすたちである。婦女子のごとく気を使って面倒をみる。しかしおのれを押しつぶしにかかってくる者に対しては、それが何者であれ、才と胆力にものを言わせて完膚なきまでやり込めてしまう性向があった。

魁がけて またさきがけん 死出の山 迷ひはせまじ すめろぎの道

くだけても またくだけても 寄る波は 岩かどをしも うちくだくらん 』

2013年10月 6日 (日)

竜馬がゆく (四) (司馬遼太郎著 文春ウェブ文庫)

『神戸という地名は、慶應三年十二月七日の開港まで、ほとんど世に知られなかった。わずかに、平家物語などに出ている、「生田の森」の付近といえば、そうかと想像の付く程度の海辺で、普通は、その西方の宿場の兵庫をもって代表される村名であった。

江戸の町は、当時世界最大の都会のひとつで、人口は百万、ニューヨーク、ロンドンと肩を並べていた。が、この都会が世界の各都市と変わっているところは、その人口の半分の五十万が、武士であったことである。旗本、諸藩の定府、勤番侍などがその五十万で、かれらはすべて生産者ではない。国もとから送られてくる金で、消費専一の生活を営んでいる。

竜馬は、新選組巡察隊の先頭と、あと五,六間とまできて、ひょいと首を左へねじむけた。そこに、子猫がいる。・・竜馬は、隊の前をゆうゆう横切ってその子猫を抱き上げたのである。隊列の前を横切る者は切ってもいいというのが、当時の常法である。一瞬、新選組の面々に怒気が走ったが、当の大男の浪人は、顔の前まで子猫をだきあげ、「ちゅっ、ちゅっ、ちゅっ」とねずみ鳴きをして猫をからかいながら、なんと隊の中央を横切り始めた。みな、気を呑まれた。ぼう然としているまに、竜馬は子猫を頬ずりしながら、悠々通りぬけてしまった。

・・竜馬がいった。「ああいう場合によくないのは、気と気でぶつかることだ。闘る(やる)・闘る、と双方同じ気を発すれば気がついたときには斬りあっているさ」 「では、逃げればどうなるんです」 「同じことだ。闘る・逃げる、と積極、消極の差こそあれ、同じ気だ。・・」

・・百姓、町人という階級は、徳川の政策で、自分の階級に矜り(ほこり)をもてないように訓練されてきている。それに、欲望があって教養がない。・・日本人の人口のうち、九割が百姓、町人で、一割が侍なのである。一割だけが自分に矜りを持つことができる「市民」であるといっていい。

「・・・志士ハ溝壑(こうがく)ニ在ルヲ忘レズ、勇士ハソノ元(くび)ヲ喪(うしな)フヲワスレズ」 「どういう意味です」 「志を持って天下に働きかけようとするほどの者は、自分の死骸が溝っぷちに捨てられている情景を常に覚悟せよ、勇気ある者は自分の首が無くなっている情景をつねに忘れるな、ということです。それでなければ、男子の自由はえられん」 』

2013年10月 5日 (土)

真田太平記(二)秘密  (池波正太郎著 新潮社)

『今度の徳川家康の、迅速果敢な行動と、あざやかな戦闘ぶりは、たしかに羽柴秀吉を圧倒した。秀吉が大分に、家康への認識をあらためたことは事実だ。(うかつなことはできぬ。何をされるか知れたものではない) 織田信長に仕えていたころの秀吉は、数度家康を見ているし、語り合ってもいる。そのときの温厚質実で、口数も少なく、自分にもへり下った態度で接してきた家康を、才気煥発の秀吉は、いささか、あまく看ていたようなところがあった。それだけに、秀吉がうけた衝撃はするどかったといってよい。

安房守昌幸は、寝所へ入っており、泥のようなねむりに落ち込んでいたけれども、「草の者が馳せつけてまいったときは、いかなるときでも、すぐさま会わねばならぬ」かねがね、昌幸から申しつけられているので、侍臣が昌幸の寝間へおもむいた。』

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