死ぬことと見つけたり 上巻 (隆慶一郎著 新潮社)
私の最も好きな作家の絶筆となった小説です。電子版が出たので早速購入し読み返しました。葉隠を題材にしたものですが、登場人物の言動に、感動と勇気をもらいます。
『・・一日また一日と新しい死にざまを考え、その死を死んでみる。新しいのが見つからなければ、今までに経験ずみの死を繰返し思念すればいい。不思議なことに、朝これをやっておくと、身も心もすっと軽くなって、一日がひどく楽になる。
求馬は出世がしたかったのである。是が非でもいわゆる出頭人になりたかった。出来れば父と同じ加判家老に列したいと思っている。求馬がひとと変わっている点は、それが己れの欲のためではなかったことだ。己れの欲のためだったら、そんな厄介な企てはとっくの昔に放棄していただろう。・・求馬の欲は父の遺言から来ていた。求馬の父の死は完全に誣告によるものだった。本人の思いがよらぬことを公の席で云ったと訴えられ、一言のいい開きもせずに、腹を切ったのである。・・求馬の父は生涯、勝茂相手に苦いことばかり云い続けてきた。勝茂を持ち上げるようなこと、耳に快いようなことは一言も云ったことがない。耳の痛いことばかり、それも徹底的に執拗に言い立てたのである。父は自分が勝茂に嫌われていることを、よく知っていた。それでいいのだ、とうそぶいていた。「殿に愛される家老など無用のものだ」それが持論であり、口癖だった。
「お前は間違っている。そんな眼をしていてはいけない」 父は悲しそうにいった。お前は父が汚辱にまみれ、恥に包まれて、無念のうちに死んでゆくと思っているのだろう。それが根本的に違っている。自分は誇らかに、栄光に包まれて、心楽しく腹を切るのだ。誣告されるほど殿に憎まれるとは正しく武士の本懐である。
「武士の本分とは・・・・・」 父が云った。奇妙にもどこか楽しそうだった。「殿にご意見申し上げて死を賜ることだ」 そんな馬鹿な。第一、そんなものが武士の本分だったら、大方の武士は本分を果たさないことになるではないか。殿に意見するなんてことは、普通の武士には出来ることではないからだ。意見するには意見出来る立場にいなければならない。加判家老・仕置家老・年寄・近習。藩の中でもほんの一握りの武士にだけ許された特権ではないか。「その通りだ」 父は平然と云った。 「だから武士たるものは、全力を尽くしてその地位に登るために励まねばならぬ」
「私の欲のためにするなら、確かにその通りだ。だがわしの云うのは違うぞ。武士たるものの本分を尽くすために、何事にも耐え、悪口にも蔑みにも耐え、ひたすら殿に取り入り、死にたくなるような恥辱にも耐えて、その地位を掴めというのだ」 みっともない、だの、武士の面汚しだ、などと軽軽しく云うな。そんなことをほざいている奴こそ、私のために楽をしているではないか。苦労するのがいやだから、そんなことを云っているだけじゃないか。
鉄砲の名手には間々あることだと云う。獲物を殺すことに異常な恍惚感を味わうようになるのだ。 「そうなったら、人間は終わりだ。気をつけろ」 そう父が戒めたのを思い出した。
彼らは悉くまるちるの栄光の死を選んだのである。一人残らずまるちりすとしてぱらいぞへ行ったのである。杢之助には羨ましいという思いはない。ただ、やったない、と思った。この戦いに参加して以来初めて、何ともいい気分だった。
「奉公人の打留めは浪人と切腹に極まると、かねがね父用之助が申しておりました」 杢之助が淡々と云った。
登城の際の老中の駕籠は常に駆け足で矢のようにはしる。これは大事のあった時だけ早く走ると、世人が何事が起きたかと不安に思うのは必定なので、それを防ぐために、していることだった。
・・大久保彦左衛門忠教は、信綱の厳罰説に強硬に反対した。 「大体城攻めは茶の湯と違って、期日を定めて行うべきものではない。戦機が熟したら即刻、乗っ取るべきだ。これはいくさに慣れた者でなければ、わからないものだ。鍋島は武功の家だからこそ、好機とみて、後日の咎めも省みず一番乗りをしたのである。・・
闇夜の鉄砲は当たらないというが、あれは嘘である。狩猟人である杢之助はそのことをよく知っている。杢之助自身が山中の真の闇の中で、勘一つを頼りに、十間の距離で大狐を撃ちとめたことがある。
人間のすることに理屈はどうにでも付く。だがすべて嘘である。何を考えるかではなく、何をするか或いはしないかで男の評価はきまる。杢之助はそう云っているのだ。
いわゆる介者剣術だった。狭い道場でなく戦場の荒野だったら、こうするのが当然なのである。つなり突撃の形だった。戦場では全員重く頑丈な鎧を着ている。小手先の剣は一切通用しない。鎧が跳ね返してくれる。だから防備は鎧に委せ、ひたすら攻撃に専念すればいい。疾走で勢いをつけ、出来る限りの速さで剣を振う。なるべく鎧におおわれていない部分に打ちおろす。切り損じても体当たりで相手をはねとばせばいい。そのために、疾走するのである。術とも法とも呼べないような、粗雑な剣法である。近世のあらゆる剣法は、本来こうした荒っぽい剣法の否定の上に成り立っている。精緻な計算されつくした動きと剣さばきが、介者けんっ術の粗さを見抜き、冷静に後の先をとって一瞬に鎧武者を斬る。
戦場では意外の剣が夥しい剣法の達者を殺している。所詮は運だが、その運を呼ぶのは気力である。口にこそ出さないが杢之助はそう云いたかったのだ。
自分だったら、人に云われる前にさりげなく妻を去らせていただろう、と思った。それがけじめというものである。人を使う立場にある者は、常に身辺を清潔に保たねばならぬ、と五郎兵衛は信じている。決して「我が身よかるべき」という保身のためではない。だが同時にその点が自分の小ささであることも、五郎兵衛は感じていた。
生者は危うければやめる。それが分別と云うものである。だが死人に分別は要らない。だから絶対に諦めることをしないのだった。
五郎兵衛に云わせれば、求馬は去年一杯手柄を立てすぎた。だからこそ一躍近習頭に抜擢されたわけだが、あまりに急速な出頭は家中の反感を買うおそれが大である。この一年は、鳴かず飛ばずの状態で抑えた方が後々のために宜しい、というのが五郎兵衛の意見だった。勝茂もこの意見に賛成し、その結果が江戸残留となったわけだ。
不意に求馬は奇妙なことに気付いた。この無言の宴席が意外に悪くないのだ。わっと浮かれる楽しさこそないが、これはこれで何となく気持ちが安らいで、結構酒がうまいのだった。何一つ語り合うことなく、それぞれひとかどの男たちが集まり、己の思念をひたすら追いながら酒を酌んでいる。それがよかった。絶対に独りきり、という感じはない。この連中が一人欠けても淋しくてたまらないのではないか、という気がする。皆がいるからこそ、気楽に己の思念を追っていられるのだ。許しあった男たちの酒盛りとは正にこんなものなのではないか。
人に慣れた飼熊が、突然飼い主に重傷を与えることがある。時に殺してしまうことさえあった。熊に殺意はない。突然兇暴になったわけでもないのだ。熊はいつもの通り、じゃれただけなのに、力が強すぎて、あるいは相手の人間が弱すぎて、けがをしたり死んだりしてしまうのである。人間側はそうはとらず、慌てふためいて、鉄砲や槍やら持ち出して、よってたかって殺してしまう。悲しくも哀れな話である。』
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