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2013年9月

2013年9月21日 (土)

死ぬことと見つけたり 下巻 (隆慶一郎著 新潮社)

絶筆のため、突然終了しますが、それでも爽やかな読後感の得られる著作でした。

『ぞくり。杢之助の肌に虫唾が走った。耐えがたいほどの嫌悪感だった。〈餓鬼なんだ〉 子供の残酷さを無知を今尚保っているのだった。だが主水は二十歳である。他の九人はもっと齢がいっている。この齢で餓鬼だということは、一生餓鬼であり続けるということだろう。それはまた一生無智で残忍だということになる。〈殺ろう〉 杢之助は迷いを振り切るように首を振った。

その合戦の中で肚を据えて突っ込んでゆく鍋島武士の姿は、二人にとって眩しいばかりに見えた。とてもそんな真似はできなかった。日頃の覚悟と鍛錬が足りないのだ。それを痛感した。

鍋島の主君たる者は酒について厳しい戒律をもっていた。いくら飲んでも酔うことは禁じられていたのだ。勝茂公は酒が好きで毎夜飲んだが、酔って寝床に入ることがなかった。必ず完全に醒ましてから寝所に入る。そして必ず、普段差しの刀を抜き、眉毛を斬って切れ味を確かめてから、その刀を脇において寝た。これを一日も怠ることはなかったという。

主君たる者は決して人を愛してはいけないのだろうか。子も孫も他人のように突き放して考えなくてはいけなかったのだろうか。夭折した倅の子というものは、格別に可愛いものだ。倅への愛惜がその子の上にかぶさるからである。曾てどの倅にもしなかったほど可愛がり甘やかした。その結果がこれだった。悲しみの風が勝茂の顔を吹き抜けていった。悔恨どころではなかった。人として、一人の男として、どうにも仕方のない成り行きだった。

「佐賀は又、この土地で生き、この土地で死んだ死人(しびと)たちのものでもある」 ようやく話の核心に達したことを勝茂は感じた。 「今現在生きている者たちが勝手にしていい土地ではない」 そんなことも百も承知だ。だが、・・・・・・。 「でも死人たちは口を利けない。利けなくはないが、生きている連中には聞こえない」 「杢之助には聞こえると云うのか」 勝茂が皮肉に訊いた。思い上がりではないかと云っているのだ。 「聞こえます。鍋島藩なんか糞くらえと云ってますよ。懐かしいのは佐賀の風土だけだ。人間なんていらないんだ。そう云ってます」

所詮失うもののある方が負けなのである。失うべき何物も持たない死人の方には負けはないのだ。彼等は勝つことさえ望んではいない。勝っても負けても、やるべきことはやる。それだけのことだった。

大猿に死なれた淋しさは骨身にこたえたが、だからと云って悲しげな顔など見せては、男がすたると云うものだ。だから恐ろしく陽気だった。

島原の乱の際、阿蘭陀(おらんだ)船の船長に圧力をかけ、海上から原城を砲撃させたことも、敵味方双方からこっぴどく非難されている。つまりは効率的ではあるが、肝心の背骨が一本通っていない感じがするのだ。いくさは勝てばいいと云うのは真実には違いないが、使ってはならぬ手段というものも厳然とある。信綱にはそのけじめがつかなかったようだ。

当時の庶民の戸籍はすべて寺社が扱うのである。だから寺社奉行は今日の法務省ということになる。

小太刀の技は攻撃の術である。相手が長刀の場合、その間合いの中で闘っては得物の短い分、小太刀側が不利にきまっている。逆に相手の間合いの内側に入り込めば、長いほうが不利になる。だから果敢でしかも俊敏な入り身が小太刀には不可欠になる。

勘助の目から見れば、剣術使いという人種はひどく傲慢だった。戦いとは剣と剣を握って、向かい合い、礼をしてから始まるものだと硬く信じている。礼もせずに始めるのは無礼であり、剣の届かぬ遠くから攻撃するのは卑怯だと云う。 〈いくさに卑怯もくそもなか〉 勘助はそう信じている。祖父から聞かされた嘗ての『いくさ人』はそんな阿呆ではなかった。どんな得物、どんな距離からの攻撃も十分に予想していたし、それに備えていたと云う。剣術使いは所詮『いくさ人』からは遠い生き物だった。そんな相手なら、間合いされとれば忍びが勝つにきまっている。

嘘つきは自分をかばうために嘘をつくわけではない。相手を失望させたくないばかりに嘘を云う。相手の心が傷つくのが見ていられなくて嘘をつくのだその心は優しさに溢れていると云っていい。それに較べて正直者の心はむごい。相手の傷みより、自分が嘘をつく痛みのほうを避けようとするのだから当然である。

日吉山王大権現社は太田道灌が江戸の鎮守とするため、川越の仙波から江戸城内に勧請した社である。慶長年間に場外の麹町に移されたが、その祭礼は天下祭を呼ばれ、神田明神の祭と並び称されるものだった。』

2013年9月15日 (日)

真田太平記 (一)天魔の夏 (池波正太郎著 新潮社)

武田家の滅亡について読んでいて、その家臣真田昌幸に興味がわき、読んでみることにしました。

『・・[看経ノ間]というのがあり、信玄はこの仏間に先祖の位牌をまつり、経文をよむ。看経ノ間の奥に、信玄専用の厠がある。この便所は六坪であった。畳敷きにして十二畳ものひろさをもつ便所に信玄は朝と夜の二回、かならずといってよいほど入る。入って数時間は出てこない。領国の政治から、戦陣の研究、他国への外交など、いっさいの思案が便所の中でおこなわれる。

穴の中に飛び込んだ者が、飛び込みざまに板についた縄を引くと、板が穴の口をふさぎ、その上へ腐葉土がくずれてきて、穴を隠してしまうのだ。これは尾行者の目を晦ますためのものであって、忍び小屋の近くには、かならずもうけてあるものなのだ。

「ああ・・・」と、いまは隠居の身となった北条氏康がふとい溜息をもらし、箸を置いて、「・・・北条の家も、わしの代で終わってしまうのか」つぶやいた。 父の傍で食事をしていた氏政が愕然となり、「父上、それは、何のことでござる?」 「おぬしのことよ」 「何と、おおせられます」 「いま、おぬしが飯を食べているのを見ると、おぬしは一膳の飯に汁を二度もかけているではないか」 「はあ・・・・それが、何故・・・・」 「まだ、わからぬのか。人は毎日、飯を食べる」 「いかにも」 「なればよ。ばかものでないかぎり、食事については何百回、何千回もの稽古をしているわけじゃ。それなるに、おぬしは、一膳の飯へかける汁の分量もまだわからぬのか。一度かけて足らぬので、また汁をかける。まことに、おろかなことじゃ」 「・・・・・?」 「わしの申すことが、まだわからぬか。よいか、よく聞け。朝夕におこなうことを計り知ることができぬようでは、一皮へだてた他人の肚の内にひそむ考えをしることなど、とうていかなわぬことだわ。他人のこころがわからなくては、よい家来もついてきてはくれぬ。まして、敵と戦って勝てる道理がないではないか。なればこそ、北条の家も、わしの代で終わると申したのじゃ」 わが子を、厳しくいましめたという。

忍びの者には、それぞれの分担があって、それが忍びの[本道]なのである。闘争の技術に長じていなくとも、頭脳的な探索に携わっている者も多いし、武技にすぐれている者が、たとえば町民や漁師、僧侶などになりきり、長年にわたって敵中に潜入し、種々の情報を送るということは、「なるべく、避けなくてはならぬ…」のである。武技に鍛えられた肉体は、町民や僧侶にふさわしくないからだ。・・・戦場に出てはたらく忍びの者を、「戦忍び(いくさしのび)」とよぶ・・

なんといっても、整息の訓練は、忍びの術の[基本]である。おのれの呼吸を、それこそ、「自由自在に・・・・」あやつれるようにならねば、何事も為し得ぬ。忍ぶことも、走ることも、闘うことも・・・・・すべてが呼吸一つによって左右される。敵中へ侵入するとき、呼吸は最小限にとどめておかねばならぬ。おもいきり呼吸をすると、「躰から匂いが発し、気配が起こる」と、馬杉市蔵は、お江に教えている。それは、事実である。』

2013年9月14日 (土)

竜馬がゆく (三) (司馬遼太郎著 文春ウェブ文庫)

『これが京のいいところだ。紹介のないいちげん客はにべもなくことわるが、一度でも来れば何年でも覚えてくれて、ちゃんとそれなりに待遇してくれる。

・・薩摩隼人の奇妙さは、いかなる場合でも、自分の押し殺しての名誉をまもる、ということにあった。七百年、日本列島の西南端で心胆を練り続けてきた、この国の異風である。殺気は、カラリと乾燥している。

原則として、一年は江戸、一年は国もと、というぐあいにすみわけさせる制度である。諸大名は多勢の家来をつれて、江戸、国もとのあいだを往来するために、莫大な経費がかかった。かれらはしだいに疲弊し、幕府に反抗できるような財力も武力も持てなくなった。

剣は、詰まるところ、技術ではない。所詮は、境地である。技術という点では、貞吉は、古今の名人にすこしも劣らない、と自分で思っている。劣るのは境地である。それが、この齢になって、やっとわかり、わかった瞬間から、貞吉の剣がかわった。

・・聖フランシスコ・ザビエルが、同じ観察をしている。上陸後、すぐ耶蘇会に報告書を送り、「非キリスト教国のうちいまだ日本人に勝る国民を見ない。行儀よく温良である。が、十四歳より双刀を帯び、侮辱、軽蔑に対しては一切容赦せぬ」とかき、また日本制服の野望のあったスペイン王に忠告し、「かれらはどんな強大な艦隊でも辟易せぬ。スペイン人を塵(みなごろし)にせねばやめないだろう」 幕末にきた外国勢力も、おなじ実感をもったわけである。

「蘭学は小唄や三味線をならうようにはいかない」と箕作(阮甫)はいったというし、また、「私の塾の連中の勉強ぶりをみていると、将来国家をになうのは田舎者で、旗本八万旗の子弟ではないような気がする」ともいったという。

攘夷論者の中には、そういう宗教色をもたない一群があった。長州の桂小五郎、薩摩の大久保一蔵(利通)、西郷吉之助、そして坂本竜馬である。宗教的攘夷論者は、桜田門外で井伊大老を殺すなど、維新のエネルギーにはなったが、維新政権はついにかれらの手ににぎることはできなかった。

世の中の 人は何とも云はばいへ わがなすことは われのみぞ知る とは、父親の八平にさえ「ついに廃れ者になるか」と嘆ぜしめた竜馬の十代のころにつくった歌である。

竜馬をはじめ、動物にちなむ名が多いのは当時の土佐の風習で、動物の精気をうけて子供が丈夫にそだつように、という土俗信仰から出ている。

竜馬は、議論しない。議論などは、よほど重大なときでないかぎり、してはならぬ、と自分にいいきかせている。もし議論に勝ったとせよ。相手の名誉を奪うだけのことである。通常、人間は議論に負けても自分の所論や生き方は変えぬ生きものだし、負けたあと、持つのは、負けた恨みだけである。

所詮は、武市のやることは手品であり、あとですぐ尻の割れる「奇策」である。真の奇策とは、もっと現実的なものだ。

竜馬は、「人生は一場の芝居だというが」と、かつていったことがある。「芝居とちがう点が、大きくある。芝居の役者のばあいは、舞台は他人が作ってくれる。なまの人生は、自分で、自分のがらに適う舞台をこつこつ作って、そのうえで芝居をするのだ。他人が舞台を作ってくれやせぬ」

藩の同志たちも、いや武市半平太でさえもときに、「足軽」といった眼で以蔵を見る。以蔵にはそれが敏感にわかるのだ。(ところが、坂本さんだけはしなさらん。あのひとはかってわしにいったことがある。--人間に本来、上下はない。浮世の位階というのは泰平の世の飾り物である。天下が乱れてくれば、ぺこぺこ剥げるものだ。事をなさんとすれば、智と勇と仁を蓄えねばならぬ)

・・「人斬り三人男」といわれた土佐の岡田以蔵、薩摩の田中新兵衛、肥後の河上彦斎(げんさい)といった連中で、

ちなみに、竜という字は、正しい漢音はリョウであり、ちなみにリュウは俗音である。江戸時代、江戸ではリュウとよみ、京から西の諸国ではリュウとよみならわした。

竜馬自身がひそかに書きとどめた語録では、「世に生を得るは事を成すにある」ということばになっている。「人の跡(事績)を慕ったり人の真似をしたりするな。釈迦も孔子も、、シナ歴朝の創業の帝王も、みな先例のない独創の道をあるいた」「人の一生というのは、たかが五十年そこそこである。いったん志を抱けば、この志にむかって事が進捗するような手段のみをとり、いやしくも弱気を発してはいけない。たとえその目的が成就できなくても、その目的への道中で死ぬべきだ。生死は自然現象だからこれを計算にいれてはいけない」

2013年9月 8日 (日)

死ぬことと見つけたり 上巻 (隆慶一郎著 新潮社)

私の最も好きな作家の絶筆となった小説です。電子版が出たので早速購入し読み返しました。葉隠を題材にしたものですが、登場人物の言動に、感動と勇気をもらいます。

『・・一日また一日と新しい死にざまを考え、その死を死んでみる。新しいのが見つからなければ、今までに経験ずみの死を繰返し思念すればいい。不思議なことに、朝これをやっておくと、身も心もすっと軽くなって、一日がひどく楽になる。

求馬は出世がしたかったのである。是が非でもいわゆる出頭人になりたかった。出来れば父と同じ加判家老に列したいと思っている。求馬がひとと変わっている点は、それが己れの欲のためではなかったことだ。己れの欲のためだったら、そんな厄介な企てはとっくの昔に放棄していただろう。・・求馬の欲は父の遺言から来ていた。求馬の父の死は完全に誣告によるものだった。本人の思いがよらぬことを公の席で云ったと訴えられ、一言のいい開きもせずに、腹を切ったのである。・・求馬の父は生涯、勝茂相手に苦いことばかり云い続けてきた。勝茂を持ち上げるようなこと、耳に快いようなことは一言も云ったことがない。耳の痛いことばかり、それも徹底的に執拗に言い立てたのである。父は自分が勝茂に嫌われていることを、よく知っていた。それでいいのだ、とうそぶいていた。「殿に愛される家老など無用のものだ」それが持論であり、口癖だった。

「お前は間違っている。そんな眼をしていてはいけない」 父は悲しそうにいった。お前は父が汚辱にまみれ、恥に包まれて、無念のうちに死んでゆくと思っているのだろう。それが根本的に違っている。自分は誇らかに、栄光に包まれて、心楽しく腹を切るのだ。誣告されるほど殿に憎まれるとは正しく武士の本懐である。

「武士の本分とは・・・・・」 父が云った。奇妙にもどこか楽しそうだった。「殿にご意見申し上げて死を賜ることだ」 そんな馬鹿な。第一、そんなものが武士の本分だったら、大方の武士は本分を果たさないことになるではないか。殿に意見するなんてことは、普通の武士には出来ることではないからだ。意見するには意見出来る立場にいなければならない。加判家老・仕置家老・年寄・近習。藩の中でもほんの一握りの武士にだけ許された特権ではないか。「その通りだ」 父は平然と云った。 「だから武士たるものは、全力を尽くしてその地位に登るために励まねばならぬ」

「私の欲のためにするなら、確かにその通りだ。だがわしの云うのは違うぞ。武士たるものの本分を尽くすために、何事にも耐え、悪口にも蔑みにも耐え、ひたすら殿に取り入り、死にたくなるような恥辱にも耐えて、その地位を掴めというのだ」 みっともない、だの、武士の面汚しだ、などと軽軽しく云うな。そんなことをほざいている奴こそ、私のために楽をしているではないか。苦労するのがいやだから、そんなことを云っているだけじゃないか。 

鉄砲の名手には間々あることだと云う。獲物を殺すことに異常な恍惚感を味わうようになるのだ。 「そうなったら、人間は終わりだ。気をつけろ」 そう父が戒めたのを思い出した。

彼らは悉くまるちるの栄光の死を選んだのである。一人残らずまるちりすとしてぱらいぞへ行ったのである。杢之助には羨ましいという思いはない。ただ、やったない、と思った。この戦いに参加して以来初めて、何ともいい気分だった。

「奉公人の打留めは浪人と切腹に極まると、かねがね父用之助が申しておりました」 杢之助が淡々と云った。

登城の際の老中の駕籠は常に駆け足で矢のようにはしる。これは大事のあった時だけ早く走ると、世人が何事が起きたかと不安に思うのは必定なので、それを防ぐために、していることだった。

・・大久保彦左衛門忠教は、信綱の厳罰説に強硬に反対した。 「大体城攻めは茶の湯と違って、期日を定めて行うべきものではない。戦機が熟したら即刻、乗っ取るべきだ。これはいくさに慣れた者でなければ、わからないものだ。鍋島は武功の家だからこそ、好機とみて、後日の咎めも省みず一番乗りをしたのである。・・

闇夜の鉄砲は当たらないというが、あれは嘘である。狩猟人である杢之助はそのことをよく知っている。杢之助自身が山中の真の闇の中で、勘一つを頼りに、十間の距離で大狐を撃ちとめたことがある。

人間のすることに理屈はどうにでも付く。だがすべて嘘である。何を考えるかではなく、何をするか或いはしないかで男の評価はきまる。杢之助はそう云っているのだ。

いわゆる介者剣術だった。狭い道場でなく戦場の荒野だったら、こうするのが当然なのである。つなり突撃の形だった。戦場では全員重く頑丈な鎧を着ている。小手先の剣は一切通用しない。鎧が跳ね返してくれる。だから防備は鎧に委せ、ひたすら攻撃に専念すればいい。疾走で勢いをつけ、出来る限りの速さで剣を振う。なるべく鎧におおわれていない部分に打ちおろす。切り損じても体当たりで相手をはねとばせばいい。そのために、疾走するのである。術とも法とも呼べないような、粗雑な剣法である。近世のあらゆる剣法は、本来こうした荒っぽい剣法の否定の上に成り立っている。精緻な計算されつくした動きと剣さばきが、介者けんっ術の粗さを見抜き、冷静に後の先をとって一瞬に鎧武者を斬る。

戦場では意外の剣が夥しい剣法の達者を殺している。所詮は運だが、その運を呼ぶのは気力である。口にこそ出さないが杢之助はそう云いたかったのだ。

自分だったら、人に云われる前にさりげなく妻を去らせていただろう、と思った。それがけじめというものである。人を使う立場にある者は、常に身辺を清潔に保たねばならぬ、と五郎兵衛は信じている。決して「我が身よかるべき」という保身のためではない。だが同時にその点が自分の小ささであることも、五郎兵衛は感じていた。

生者は危うければやめる。それが分別と云うものである。だが死人に分別は要らない。だから絶対に諦めることをしないのだった。

五郎兵衛に云わせれば、求馬は去年一杯手柄を立てすぎた。だからこそ一躍近習頭に抜擢されたわけだが、あまりに急速な出頭は家中の反感を買うおそれが大である。この一年は、鳴かず飛ばずの状態で抑えた方が後々のために宜しい、というのが五郎兵衛の意見だった。勝茂もこの意見に賛成し、その結果が江戸残留となったわけだ。

不意に求馬は奇妙なことに気付いた。この無言の宴席が意外に悪くないのだ。わっと浮かれる楽しさこそないが、これはこれで何となく気持ちが安らいで、結構酒がうまいのだった。何一つ語り合うことなく、それぞれひとかどの男たちが集まり、己の思念をひたすら追いながら酒を酌んでいる。それがよかった。絶対に独りきり、という感じはない。この連中が一人欠けても淋しくてたまらないのではないか、という気がする。皆がいるからこそ、気楽に己の思念を追っていられるのだ。許しあった男たちの酒盛りとは正にこんなものなのではないか。

人に慣れた飼熊が、突然飼い主に重傷を与えることがある。時に殺してしまうことさえあった。熊に殺意はない。突然兇暴になったわけでもないのだ。熊はいつもの通り、じゃれただけなのに、力が強すぎて、あるいは相手の人間が弱すぎて、けがをしたり死んだりしてしまうのである。人間側はそうはとらず、慌てふためいて、鉄砲や槍やら持ち出して、よってたかって殺してしまう。悲しくも哀れな話である。』

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