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2013年8月

2013年8月17日 (土)

竜馬がゆく(二) (司馬遼太郎著 文春ウェブ文庫)

『神田お玉ヶ池・桶町の千葉道場(塾頭坂本竜馬) 麹町の神道無念流の斎藤弥九郎道場(塾頭桂小五郎) 京橋アサリ河岸の桃井春蔵道場(塾頭武市半平太) この三道場はそれぞれ千数百人ずつの若い剣術諸生を収容している。今日でいえば、さしずめ、東京大学、早稲田大学、慶應義塾大学というところだろうか。

この斉昭の子分というべき大名が三人あり、その筆頭は、越前侯松平慶永(のちの春嶽)、薩摩侯島津斉彬、それと、竜馬らの藩主の山内豊信である。それぞれ、秘書役的な名臣がいる。越前は橋本佐内、中根雪江、薩摩は西郷隆盛、土佐はなし。

「武士の剣は別だ。武士の剣には、千年のあいだ、剣というものについて考え考え抜いてきた義と理と法が背景にある。つまり武士道というものだ。これだけが世界に誇るべき精神の巨嶽だとおもえ。武士はそれによって人を斬り、ときにはおのれを斬る。盗賊の殺人とはおのずからちがう」

これが土佐の悪風である。遠来の客が酔いつぶれて血反吐を吐きそうになったところを見とどけてから、---本夕の接待はうまくいった。 と安堵するのだ。

あるとき門下の連中があつまり、たまたま武市家に子のないことが話題になった。これは当時の武家の家庭では重大なことで、子がなければ(養子でも迎えぬかぎり)改易になる。つまり、家名断絶、家禄没収ということになるのだ。そういう理由だけでなく、先祖の祭祀が絶えるというのは最大の道徳悪の一つとされた。当然なことである。武士の家というのは先祖の功名によって子々孫々家禄を頂戴できる。その報恩の行事が祭祀である。自然、祭祀をひきつぐべき子がないというのは、父祖への不幸になる。

古来、武士の誓約の作法である。自分の佩刀の鍔元をカチリと打ちあわせて、二言はない、というしるしにする。

「讃岐男に阿波女、伊予の学者に、土佐の高知はおにざむらい、でしょう?」・・・四国四州の人間の特徴をうたったもので、讃岐男は商人としての甲斐性があり、阿波女には一種の性的魅力がある。伊予の国は人の気風がなだらかで武よりも文に長け、それらにひきくらべると、土佐は人種がちがうかと思うほど、気性があらあらしい。

土佐方言は、江戸や上方弁のように抑揚で意味を通じさせたりする言葉ではなく、一語一語、語尾に至るまで明確に発音する特徴がある。イとヰ、ジとヂまで、入念に区別して発音する。

日数をひどくかけたのは、萩までの道中、この土地の人情気風を知ろうがためであった。その藩の士庶の性質、物の考え方、一般の財力、などを見抜いておかなければ、他日、長州人と提携して仕事をする上で不自由であろうとおもった。こういうことは竜馬だけではなく、当時の遊説型の尊王攘夷家の心得ごとであった。

領土は削られたが、毛利家では家臣の数を整理しなかった。三十七万石をもって膨大な家臣団を養うために、江戸初期にすでに「産業国家」にきりかえている。つまり幕府の諸大名も米穀経済にたよっているときに、製紙、製蝋という軽工業方式にきりかえ、かつ新田を開発し、このため幕末ではゆうに百万石の富力をもつにいたった。幕末、他藩が農業国家として窮乏にあえいでいるとき、長州藩には十分な金があった。富で洋式軍隊にきりかえおなじく軽工業藩である薩摩藩とともに、幕府に対抗する二大軍事勢力になったのである。』

2013年8月16日 (金)

武田勝頼(三) 空の巻 (新田次郎著 講談社電子文庫)

終に武田家が亡びました。直接的な原因は、穴山信君でしょうが、元をたどっていけば、武田信玄にあるような気がします。戦上手で、最高といえる武将の一人で、私も尊敬していますが、子孫、家を存続させるという観点からは、色々と抜けがあったような気がします。

『家康は、忍耐する以外に生き方はなかった。心の中では、何時の日にかという思いがあったにしても、今は怒りを、こらえるより仕方がなかった。家康が高天神城奪還作戦に力を入れるようになったのは、信康の処刑が確定的になって以来であった。悲しみを忘れるための出陣だった。

「・・武田はわが北条氏の盾でもあるのです。武田は痛めてやっても、決して滅ぼしてはなりません」 憲秀は氏政に決断を求めるような視線を向けた。

先方衆はいざというときは本隊が来て助けてくれるから戦うのであった。武田家の御都合次第で見殺しにされると分かっていたら、戦う気持ちなど起きよう筈がない。

「・・城ができても、民心が城から離れた場合は、城を持ちこたえることはできない。民心の離反こそもっともおそろしいことだ」昌幸は民心という言葉に力を入れて云った。

「・・そこもとは木曽家の老職であるからなにかとむずかしいこともあるだろう。家老は主家の生命を握っている医師のようなものだ。目先の小康に心を奪われることなく主家の将来まで考えてことを運ばれよ」 良利は、その言葉を聞いて平伏した。穴山梅雪の利に誘われてはならない。木曽義仲以来の名誉ある家に疵をつけてはならないと昌幸は云っているのだと良利は理解していた。

「・・拙者は今、城を作ることだけを考えている。しっかりした城を作れば、そこに入った人間の心もしっかりするし、それを遠くから眺める人の心も変わるということだ。拙者は鎮の城を一日も早く作り上げたいのだ」 昌幸は、そう云いながら絵図面を片づけ、・・・

信玄の時代にもっとも活躍した諸国御使者衆と呼ばれていた武田諜報機関も、すべてこの金によって賄われていた。他国の情報を探って通報する仕事には金がかかった。信玄はこれに惜しみなく金を使った。信玄一代で、強大な国を形成したのは、黒川金山から算出する金の力によるものが多かった。武田は黒川金山のほか、富士金山や安倍金山などをもっていたが、これらの金山は勝頼の時代になると、ほとんど掘り尽くされてしまった。

「お前たちを集めて、この書状を見せ、いかにすべきか答えを出せと申しつけたとすれば、なんだかんだと意見が分かれ、答えが出るのに、二日か三日はかかるであろう。そして得られた答えは、およそつまらないものと決まっている。人がおおくなればなるほど結果はよくない。こんなことで、余はいちいち人を呼んで意見を訊こうとは思わない。即刻返事を書く」 信長は半ばひとりごとのように云った。

・・武田家臣団というのは、その体質は信玄個人の統率と、その権力構造のなかでは、いきいきと活躍できたが、本来の気質や性格は、現実主義にとらわれやすい。非常に脆弱な武士団気質のあつまりであったとしか云いようがない』

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